5~7日と上南戦の50回大会が行われるとかで、完全文系?の私は、昨日の4日(木)から思いがけず連休に入っている。このあいだに、滞っていることを動かし、激務の予想される7月への布石を打っておきたいと思っているが、まずはモモと一緒に阿修羅展と映画『
GOEMON』を観にいった(何で?)。
阿修羅展は、異常な混み方であるのが分かっていたので、できることなら行きたくなかったのだが(だって興福寺で何度もみたし)、そこはそれ立場上やむをえず。午前中の時点で列が出来ているとかでお昼どきを狙って行ったら、それでも110分待ちだというので、急いで有楽町にとって返して『GOEMON』を先に鑑賞した。第1作目の『CASSHARN』が大層お金をかけた自主映画だったので、あれからどれくらいの成長があったのか、期待と不安の入り交じる心境で画面に見入った。しかし、やはり紀里谷和明の精神は子供のままで、今回も贅沢な自主映画という印象を拭えない。つまり、現実としっかり向き合わずに青臭い思い込みだけを貫いてきた学生が、誰からのアドバイスや批判も受け付けずに作り上げた作品のニオイがするのだ。自分がそういう時期をくぐり抜けてきただけに(いや、ひょっとすると今だってそうか)、非常な居心地の悪さを感じてしまう(ぼくは悪しき現実主義には怒りすら覚える質だし、根っからの理想主義者なわけだが)。一瀬隆重には、ちゃんとプロデューサーの仕事を果たしてもらいたい。せめて脚本は他の人間にやらせるべきだろう。相変わらずの不自然な展開と陳腐な台詞(冒頭の「豊臣政権を制定した」というテロップはどうにかならなかったのか?)。石川五右衛門譚をモチーフにしているという意味ではなく、様々なアニメや映画、物語を繋ぎ合わせた2次的創作であるという印象も強かった。
それにしても、紀里谷作品のヒロインは活躍しない。前回の麻生久美子も、今回の広末涼子も、とくに後半「?」な扱い方だった。女性に対しては非常に古風なイメージを持っている人なのかも知れない(そこが誰かとは合わなかったのか?)。
映画を観終わってから上野へ戻ると、行列はなんとか80分待ちまで減っていた。仕方ないので並んで観てきたが、やはりとくに感慨はなかった。展示の内容としては今ひとつで、それでこれほどの人が集まるのは宣伝の力だろう。今回ほど、博報堂やら電通やらの意志を強く感じたことはない。東博としてはホクホクだろうし、歴史や文化財に対する一般の意識が高まるのはいいことだが、何か腑に落ちないものも残る。
動線に沿って、少し高いところから阿修羅像を見おろしたとき、彼を中心にうねる人の渦が、なんとなく混沌とした阿修羅道そのものをイメージさせた(諸星大二郎っぽいというか)。人々の絡みつくような視線に曝されたかの像は、非常に所在なげにみえた。
しかし、この日はくたくたに疲れた。モモが「もう若者のようには動けない」と云っていたが、本当にそうだ。
ここ1ヶ月ほどの読書から。千田稔さんの『平城京遷都』は、まずその人物造型の偏りにびっくりした。藤原不比等を権勢欲の塊とするなど、首を傾げる記述が目立つ。四神相応についても、鈴木一馨さんらの最新の研究が反映されていない。かつて、千田さんの斬新な宮都論に触発された世代としては、ちょっと寂しい本である。
湯浅邦弘さんの『諸子百家』は、研究著しい漢以前の出土文献を活かした内容。重複する文章が多く、編集者はもっと気を遣うべきであったと思うが、いい本である。『中国研究集刊』で見落としていた上博楚簡「鬼神之明」の存在を思い出し、早速内容を確認した。一部欠損している現行『墨子』明鬼篇に関わる内容で、現実の善悪に対する鬼神の賞罰の明/隠を説いている。神は、本当に善なるものを褒賞し、悪なるものを滅ぼすのか。祟咎論への哲学的省察の深まりとしても面白い。
宮城谷昌光氏の『孟嘗君と戦国時代』は、読みやすいが内容は浅い。彼の小説は文学として読むと深いが、学術書として読むと物足りない。当然といえば当然で、中公新書に加える編集者の方に問題があるのだろう。