仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

しばらくお待ちください。

2009-06-30 12:45:33 | ※ 告知/参加予定
いつもご覧いただいている皆さまへ。

大変申し訳ないのですが、現在公私ともに繁忙なため、ブログを書ける状態ではありません。1~2週間後には何とか復活したいと思っておりますので、それまでどうかお待ちください。

ちなみに、今週土曜(7月4日)には、古代文学会の連続シンポジウムで報告します。教え子の卒業生が聞きに来るというので、無様な話はできないと思っていますが、現時点ではとても無様な内容です…。
よろしければ批判にいらしてください。
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ホタルの穴

2009-06-22 05:54:45 | 生きる犬韜
書き忘れていたが、先週の日曜日に妻と蛍を観にいった。2年ぶりである。…こう書くと、何やら遠くまで足を伸ばしたようだが、何のことはない、自宅から20分ほど歩けば蛍の自生地を訪れることができるのだ。真っ暗闇の森のなかに、ぽつりぽつりと儚げな光が浮かぶ。幻想的な光景だが、以前観たときよりずいぶん数が少ないようだった。時期が早かったのか、それとも逆に遅かったのだろうか? 関西の蛍が北上してきているため、本来交尾のために行われる光の点滅信号が混乱し(関東と関西では違うらしい)、産卵が行われなくなっているという話も聞く。環境への適応の過程で、信号が変化することもありうるのではないかと思うのだが、どうだろう。いろいろな意味で〈儚さ〉を感じた。

それにしても、現代の日本列島は何と明るいことか。都市から遠く離れればそうもいくまいが、横浜周辺なら、たとえ街灯ひとつない森のなかでも、空に反射する町の明かりで木々の姿がうっすらとみえる。本当は、月明かりの方が風情があったのだが、梅雨の曇り空のもとではそれも望めまい。次回に期待しよう。

左は、梨木香歩の新作。猪股さんから教えていただき購入。名作『家守綺譚』の香りが漂う。この人の作品は、最初の一行から夢のなかに入り込んでゆくようだ。焦点はやはり穴であるが、植物や動物に対するこだわり方に、『パンズ・ラビリンス』冒頭のナナフシ登場シーンと同じ肌触りを感じた。圧倒的に異質な存在への好奇心と愛情。それは、安易な共感や同一化ではなく、異質であることを認めるからこそ芽生えるものだ。大人に隠れて王蟲を飼っていた、子供時代のナウシカにも通じる。
道教では人間の身体も穴として扱うが、そういえば、昆虫の身体は人間のそれ以上に空洞だ。脊椎動物の身体構造がまったく反転しているのが、外骨格を持つ昆虫という存在なのだ。虫の持つ妖しさは、そうしたところに起因するのかも知れない。
そういえば、時折映画などで、無数のホタルが舞い飛ぶ幻想的なシーンを目にすることがある。しかしあれは、黒い虫がわらわらと集まっているわけで、昼間だったら結構大変な風景なのではないか。羽音だって、それなりにうるさそうである。
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始まらなかった〈物語〉

2009-06-19 20:20:46 | 生きる犬韜
少し更新が滞ってしまったので、今週末は幾つかエントリーを増やしておこう。まずは先週の話。13日(土)は勤務校で地域懇談会が開催されたので、休日にもかかわらず出勤した。この催しは、学生の保護者の皆さんが大学を訪れ、教育の現状や将来について様々な説明を受けるもので、学科集会や個人面談も行われる。近年は、参加してくださる父母の皆さんが多く、懇親会も大盛況である。ぼくのゼミは個人面談の希望もなく、さしたる仕事はなかったのだが、何やら気疲れした。

会が一段落した夕方、19:30から行われるという「世間話研究会」に参加するため、清澄白河へ。初めての会だが、土居浩さんのお誘いで参加した。大学教員はほとんどおらず、院生や高校までの教員、博物館の学芸員の方々が主要なメンバーという。夕方まで仕事をされていた方々が夜遅くに集まってこられるわけで、非常に意義ある場だと感動した。
報告は、飯倉義之さんの「「実話怪談」は猜疑する-「語りをよそおう文芸」の意味-」。確かに、ぼくのハートを直撃するテーマである。飯倉さんの話は少々くどいが、実話怪談と呼ばれるジャンルの生成過程と現状、一括りにされてしまうその語り手たちの目的・意識・作法の相違などを丁寧に腑分けしてゆく、実り多いものであった。ただし、扱っている内容がナマモノだけに、それを現象として捉えるのは困難を極める(このあたり、歴史学と比較すると逆説的なのだが)。生成過程にしても、そのジャンルが準備されてくる段階を、時代・空間双方でどこまで捉えるのか。それこそ、個々の作家にインタビューして、「誰のどの作品、どんなジャンルに影響を受けましたか」と訊いてみなければ、分からないことも多かろう。しかもそうした〈回答〉についても、きちんと言説分析を行わなければならない(歴史学の史料批判の曖昧さが際立つなー)。お見受けしたところ、まだ個々の作品の内容や方法の分析も充分ではなかったようで、課題山積といったところだろう。歴史学者としては、やはりこうした怪談を愛好するメンタリティーがどこから来るのか、何を契機に、何を糧として流行してきたのかという点に関心がある。時代情況的なものでも、より普遍的な問題としても、深く論じていただきたいものである。
会場では、昨年のモノケン・シンポ以来の、一柳廣孝さんにお会いした。相変わらずの論客ぶりであった。

この日はかなり疲れていたので、飲み会には参加せずに帰宅。清澄白河―(半蔵門線)―三越前―(銀座線)―神田というルートで京浜東北線に乗り換えようと思っていたら、三越前で横須賀線に乗れるという。地下道の案内に従ってすたすた歩いていると、今度は「神田駅至近」との出口の文字が。じゃあ、やっぱり京浜東北線で…と地上に出てみたが、地図もなく、夜のオフィス街は見通しがきかないので自分の位置も確認できない。「神田駅は高架の線路があるはず」と当たりをつけて歩いていると、何やらまったくわけの分からない場所に出てしまった。人通りもほとんどない。どこからか、ティラリラティラリラと『トワイライト・ゾーン』のメイン・テーマが聞こえてくるようだ。「このまま行けば、物語が始まってしまう」と思い直し引き返したところ、ほどなく神田駅周辺の見覚えある風景にぶつかった。

世間話研究会の帰りに、自ら都市伝説になっていたのではシャレにならない。しかし、「始まらなかった物語」に、一抹の寂しさを覚えた日でもあった。

※ 写真は、研究会の会場となった江東区森下文化センターにゆく途中の西深川橋の橋詰めにある、意味不明のシーラカンスのオブジェ。とりあえず、ヤマト・パースで。
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穴をめぐるシンクロニシティ

2009-06-10 20:33:27 | 議論の豹韜
8日(月)、7月に行われる古代文学会のシンポ「トポスの引力」でタッグを組む安藤礼二さんと、打ち合わせのために初めてお会いした。

夕方、普段なら首都大のオープン・ユニバーシティのため飯田橋へ向かうところを、この日は新宿へ。司会・コーディネーター役の津田博幸さん、山田純さんと待ち合わせ、近くの喫茶店で待っていると、ほどなくして安藤さんが現れた。安藤さんはぼくとさほど年齢は違わないはずだが、出版社勤務を経て研究者・文芸評論家の道に進まれ、現在は多摩美術大学美術学部芸術学科准教授、芸術人類学研究所所員の肩書きをお持ちである。極めてコアな作風にもかかわらず、すでに芸術選奨文部科学大臣新人賞、大江健三郎賞、伊藤整文学賞などを受賞され、斯界のヒーロー的存在になられている。…などと書くと舌鋒鋭く威圧的な人を想像してしまうが、ご本人はいたって柔らかな物腰の優しい人であった。私としてはほっと胸をなで下ろした次第である。
そこで、シンポで報告する内容なのだが、驚いたのが、安藤さんと私の考えているテーマがぴったり同じであったことだ。一言で云ってしまうと、〈穴〉をめぐる想像力のオハナシである。ぼくの方の報告の要旨は、以下に引用しておこう。
近年、考古学において最も注目されてきた祭祀遺構に、水の祭祀のそれがある。地域を潤す水源での神意を問う湧水点祭祀、湧水を居館に浄化して引き入れ、外からの視線を遮断して行う導水祭祀……それらは在地首長や大王家によって担われ、一方で氏神社や産霊社の原型となり、もう一方では宮廷祭祀の核を形成していった。かかる聖地に窺える清水・山の基本要素は、伝統的な宮都の占地条件としても重視され、飛鳥諸宮をはじめ、難波宮・大津宮・藤原宮はすべて水に囲まれた空間として構想・建設されてゆく(かかる聖地創造が、〈天皇〉なるものの誕生へと結びつくことはいうまでもなかろう)。しかし、このような聖地の形式は列島固有のものではなく、インドから西域、中国・朝鮮に至る文化的広がりを持っていた。杭州を中心とする中国の各地には、山・水源・洞窟を基本要素とする聖地が点在しているし、『大唐西域記』などに紹介された〈阿修羅窟〉は、バラモン教と仏教の狭間に生まれたものながら、洞天福地と見紛うような様相をまとっている。これらに共通する〈穴〉は、神話や歴史、宗教の原初に位置する空間であり、列島の聖地を考えるうえでも重要なキーワードとなりうる。本報告では、アジア各地の文化的要素が錯綜する七~八世紀を対象に、〈穴〉を求心力とする〈聖地のスタイル〉の構築過程を明らかにしたい。
こうしてみてみると、まだ文章がこなれていないし、不正確な記述もあるが、大体のねらいは分かってもらえるだろう。院ゼミに参加してくれている院生の早藤さん、松浦さん、大妻の深澤さんが開いてくれた領域でもある。人間は、「穴があったら入りたい生き物」なのだ。残念ながら、安藤さんの報告内容をここに書くことはできないが、ご専門の中上健次や折口信夫を通じて〈穴〉へアプローチされるそうだ。

このシンクロニシティは、けっこう幸福である。自分の努力次第だが、シンポも刺激的で面白くなりそうだ。果たして、聖地の持つ引力の実体を捉えることができるか。がんばらねばなるまい(それにしても、『交通』の原稿といいこのシンポといい、今年は熊野が付いて回るなあ)。

※ 写真は、去年存在論からのリミナリティー研究として刺激を受けた加地大介『穴と境界』、そして刊行されたばかりの安藤さんの新作『霊獣』。空海の即身成仏を描いた折口の「死者の書 続篇」を扱っている。観相行の観点からいっても、神仏習合の観点からいっても、重要な問題提起なんだよなー。11月の上代文学会シンポにも繋がりそう。天眷を感じるなあ。
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異なるものへのまなざし

2009-06-06 08:32:58 | 議論の豹韜
2日(火)のNHK「爆笑問題のニッポンの教養」に、ぼくの最も尊敬する研究者のひとりである川田順造氏が登場した。冒頭、氏は自分の研究の根源を「異なるものに対する好奇心」と述べ、名著『無文字社会の歴史』を軸に話は進められた。太田光氏の言葉に対するこだわりも窺え、番組としては面白かったのだが、最後に川田氏が、「言葉は顔と顔をつきあわせて語らなければならない。メールでは感情は伝わらない。家の中に閉じこもってゲームばかりしている日本の子供には、アフリカの子供たちのような笑顔はない」と結んだのには納得がゆかなかった。氏はここで、アフリカの人々と自己とを同一化し、日本の子供たちを〈異質なもの〉〈理解できないもの〉と捉え拒絶している。他者を了解することから世界の多様性を明らかにしようとする、文化人類学の面目とは正反対の態度であろう。そのことが少し残念であった。「じゃあ君はどうなの?」といわれると、とても川田御大を批判できるような人間ではないのだが…。

ふと思い出して、HDレコーダーに録画したまま途中で観なくなっていた、山田太一氏の『ありふれた奇跡』を再生してみた。加瀬亮演じる主人公のひとりが、仲間由紀恵演じる恋人の身体のことで、その家族から誤解され激しい非難を受ける。以前働いていた会社で人間性を否定され、鬱病になって自殺未遂までしたことを責められ、「娘に相応しい相手ではない」と拒絶される。このあたりで辛くなって、観続けられなくなっていたのだ。人に誤解されるのは切ない。自分の正当性を主張できない理由があって、ぼろぼろにされても中傷を受け続けなければならないのはもっと切ない。ぼくのなかに、「一括りにされること」への高校生的な抵抗がまだ燃えさかっているのか、こういうシチュエーションには敏感に反応してしまう。
ところでこのドラマは、登場人物それぞれへの目線が繊細で素晴らしい。主人公ふたりのメールでのやり取りも丁寧に描かれているが、75歳になろうという山田氏(今日、6月6日が誕生日らしい)にそれができるのは、今を生きる人々へ愛情と関心を持ち続けているからだろう。川田氏への尊敬の念は揺るがないし、両者を単純に比較できるわけではないが、今回限りは、あらためて観た山田氏のドラマの方に「異なるものへのまなざし」の温かさと深さを感じた。

歴史学も、異なるものを捉えようとする学問である。分からない相手だからこそ、注意深いまなざしを向けなければならない。理解できなくても、了解しようと努力しなければならない。学問的な興奮も学問を超えた喜びも、きっとその向こう側にあるのだ。
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修羅な一日

2009-06-06 02:27:08 | 議論の豹韜
5~7日と上南戦の50回大会が行われるとかで、完全文系?の私は、昨日の4日(木)から思いがけず連休に入っている。このあいだに、滞っていることを動かし、激務の予想される7月への布石を打っておきたいと思っているが、まずはモモと一緒に阿修羅展と映画『GOEMON』を観にいった(何で?)。

阿修羅展は、異常な混み方であるのが分かっていたので、できることなら行きたくなかったのだが(だって興福寺で何度もみたし)、そこはそれ立場上やむをえず。午前中の時点で列が出来ているとかでお昼どきを狙って行ったら、それでも110分待ちだというので、急いで有楽町にとって返して『GOEMON』を先に鑑賞した。第1作目の『CASSHARN』が大層お金をかけた自主映画だったので、あれからどれくらいの成長があったのか、期待と不安の入り交じる心境で画面に見入った。しかし、やはり紀里谷和明の精神は子供のままで、今回も贅沢な自主映画という印象を拭えない。つまり、現実としっかり向き合わずに青臭い思い込みだけを貫いてきた学生が、誰からのアドバイスや批判も受け付けずに作り上げた作品のニオイがするのだ。自分がそういう時期をくぐり抜けてきただけに(いや、ひょっとすると今だってそうか)、非常な居心地の悪さを感じてしまう(ぼくは悪しき現実主義には怒りすら覚える質だし、根っからの理想主義者なわけだが)。一瀬隆重には、ちゃんとプロデューサーの仕事を果たしてもらいたい。せめて脚本は他の人間にやらせるべきだろう。相変わらずの不自然な展開と陳腐な台詞(冒頭の「豊臣政権を制定した」というテロップはどうにかならなかったのか?)。石川五右衛門譚をモチーフにしているという意味ではなく、様々なアニメや映画、物語を繋ぎ合わせた2次的創作であるという印象も強かった。
それにしても、紀里谷作品のヒロインは活躍しない。前回の麻生久美子も、今回の広末涼子も、とくに後半「?」な扱い方だった。女性に対しては非常に古風なイメージを持っている人なのかも知れない(そこが誰かとは合わなかったのか?)。

映画を観終わってから上野へ戻ると、行列はなんとか80分待ちまで減っていた。仕方ないので並んで観てきたが、やはりとくに感慨はなかった。展示の内容としては今ひとつで、それでこれほどの人が集まるのは宣伝の力だろう。今回ほど、博報堂やら電通やらの意志を強く感じたことはない。東博としてはホクホクだろうし、歴史や文化財に対する一般の意識が高まるのはいいことだが、何か腑に落ちないものも残る。
動線に沿って、少し高いところから阿修羅像を見おろしたとき、彼を中心にうねる人の渦が、なんとなく混沌とした阿修羅道そのものをイメージさせた(諸星大二郎っぽいというか)。人々の絡みつくような視線に曝されたかの像は、非常に所在なげにみえた。

しかし、この日はくたくたに疲れた。モモが「もう若者のようには動けない」と云っていたが、本当にそうだ。

ここ1ヶ月ほどの読書から。千田稔さんの『平城京遷都』は、まずその人物造型の偏りにびっくりした。藤原不比等を権勢欲の塊とするなど、首を傾げる記述が目立つ。四神相応についても、鈴木一馨さんらの最新の研究が反映されていない。かつて、千田さんの斬新な宮都論に触発された世代としては、ちょっと寂しい本である。
湯浅邦弘さんの『諸子百家』は、研究著しい漢以前の出土文献を活かした内容。重複する文章が多く、編集者はもっと気を遣うべきであったと思うが、いい本である。『中国研究集刊』で見落としていた上博楚簡「鬼神之明」の存在を思い出し、早速内容を確認した。一部欠損している現行『墨子』明鬼篇に関わる内容で、現実の善悪に対する鬼神の賞罰の明/隠を説いている。神は、本当に善なるものを褒賞し、悪なるものを滅ぼすのか。祟咎論への哲学的省察の深まりとしても面白い。
宮城谷昌光氏の『孟嘗君と戦国時代』は、読みやすいが内容は浅い。彼の小説は文学として読むと深いが、学術書として読むと物足りない。当然といえば当然で、中公新書に加える編集者の方に問題があるのだろう。
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四十路目前

2009-06-01 01:45:35 | 生きる犬韜
27日(水)、今年も誕生日を迎え、ついに30代最後の年齢となった。「ついに」と書いたが、実はそれほどの感慨があるわけではない。ただ、上の方々に「若い若い」といわれるにもかかわらず、最近確実に身体の衰えを感じるようになった気がする。昔のような無茶はなかなかできないし、気力も体力も続かない。あと40年は生きることができないような気がするし、学問に限らず、一日一日、やるべきことをしっかり見据えて取り組んでゆかねばならないだろう。

年中行事のようになってしまって大変恐縮なのだが、前日の火曜日には、プレゼミの時間とゼミの時間に、それぞれの授業に出ている学生たちが誕生日を祝ってくれた。プレゼミ生は「先生の喜びそうなものを買ってきました」とプレゼントをくれるので、何かと思ったらトトロのぬいぐるみであった。「こういうものを喜ぶ大人とみられているのか…」とちょっと複雑な心境であったが、確かに自宅にはネコバス、リラッくま、たれパンダのぬいぐるみなどがある。しかしみんなもらいもので、自分で買ったものはひとつもない。一体、自分の何が周囲に「ぬいぐるみ好き」と思わせるのか、今度真剣に考えてみなくてはなるまい。ま、確かに子供の頃は、カルピスが「カルピス名作劇場(後にハウス世界名作劇場)」との関連でプレゼントしていた景品、ヨーゼフやアメディオやラスカルのぬいぐるみが欲しくて、せっせとラベルを集めて送っていたものだが。親に話を聞いてみると、上の兄2人は車や飛行機など乗り物のおもちゃを喜んだのに対し、ぼくはそれにはほとんど興味を示さず、ヒーローやロボットなどの人形を好んだので(断っておくがリカちゃんではない。ミクロマンとか変身サイボーグ、超合金などである)、「この子は人間が好きなんだな」と思ったという。確かに、画を描いていた頃も風景画より人物画の方が楽しかったし、今でも道行く人々ひとりひとりに目が惹き付けられる。学問の傾向にもそれは明らかに表れているので、まさに「三つ子の魂百まで」というしかない。
ゼミ生たちは、苺と生クリームのたっぷり載ったコージーコーナーのデコレーションケーキと、寄せ書きでお祝いしてくれた。ぼくはへそ曲がりなので、彼らの書いてくれたことのすべてを素直に信用する人間ではないのだが、そのためだけに、少しでも忙しい時間を割いてくれたことは非常にありがたい。そういう気持ちには、ちゃんと応えなければならないと考えている。
帰宅すると、京都へ行った卒業生のT君からデビュー論文と阿闍梨餅がお祝いの言葉とともに届いており、ずっとゼミ長を務めてくれていたN君からもお祝いメールが着いていた。卒業生の活躍は、本当に心から嬉しく思う。T君には、ちゃんと御礼状を書かねばいけない。N君は金曜の夜に研究室へ寄ってくれたので、2ヶ月ぶりに話をすることができた。配属間もない忙しい時間を縫って、会計士の資格を取るべく勉強もしているという。まったく頭が下がるばかりだ。こちらも衰えたなどといっていられない。頑張らねば。
そうそう、自主ゼミに参加している1年生たちが、どこから聞きつけたのか、お祝いの言葉をかけてくれたことにも感謝しておきたい。皆さん、私などのことを気にかけてくださってありがとうございます。

さて、毎週楽しみにしている金曜の院ゼミは、無理をいって発表者にもなっていただいている深澤瞳さんの報告。水と洞窟からなるアジア的聖地感覚の広がりを再認識させていただき、また、今までちゃんと読んだことのなかった『うつほ物語』の国際性?にも目を開かされた。そろそろ要旨の〆切にもかかわらず一向にイメージを結ばない古代文学会シンポ、そして11月に控えた上代文学会シンポに、何となく光がみえてきたようだ。
土曜日・日曜日は、授業の準備と事務作業、『歴史評論』連載の原稿執筆で暮れた(というか明けた)。新発売の『真・三国無双5Empires』も、ちょっとやってみたけれども。
そうそう、これも楽しみにしている『東のエデン』に、京都の賀茂川べりのアパートに引き籠もっている「パンツ」なるキャラクターが出てきた。以前触れたように、今年の初め、モリミー氏が上京して神山健治氏に会ったらしい。すわ森見作品のアニメ化かと思ったら、こんなところに影響があったとは…。しかし、パンツの部屋は四畳半より大きそうだったぞ。
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