仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

お地蔵さんへの語りかけ

2006-03-27 07:10:28 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
環境/文化研究会(仮)の合宿については、まだまだ書きたいことがたくさんあります。しかし、閑話休題もいろいろ挿入してしまっていますので、同会関係の話題を集めたカテゴリーを作りました。根城の会でもありますので、『六韜』類別とは異質になりますがご了承ください。

さて今回は、清水町の信仰に関する素描の二つめ。蘇理さんにご案内いただいて散策しているあいだ、何度か初午のお祝いの場に出くわしました。
いちばん大規模(?)だったのは、松葉の観音堂で行われていた祭礼で、これから餅まきなども始まる気配でした。私の住んでいる鎌倉の郊外でも、上棟祭などでは普通サイズのお餅が撒かれますが、ここのお餅は、なんと直系30センチ以上はあろうかという巨大なもの。かつてはその倍の大きさがあり、櫓から投げ落とされるそれを拾おうとして、とうぜん怪我をする人もあったとか。以前は受け取り方の技術も〈娯楽〉として伝承されていたのでしょうし、怪我人が出ること自体も重要だったのでしょうが、現在は危険だということで小型化。それでも30センチ強なのですから、地域の皆さんの思い入れの強さが感じられます。
写真は、宿からあらぎ島へ歩く途中で出会った、ご自宅の巨木の仏像・五輪塔に、初午のお供えをする方々。よく確かめられませんでしたが、お地蔵さんみたいにみえるのは、もしかしたら馬頭観音かも分かりません。五輪塔の火輪=笠にも赤い前かけが付けられているのが、なんとも微笑ましいですね。民俗畑の蘇理さんや藤井さんが気楽に声をかけ、お話をされるのに、こういうとき、歴史学者は一歩ひいてしまいます。巨木との関係が何かあるのか知りたかったのですが、「なぜここにお詣りするのか分からない。子供の頃からずっとやってるから」とのこと。代々この家に暮らしてこられた方々は、お地蔵さんに何を語りかけてきたのでしょう。知られざるたくさんの物語りが聞こえてくるようでした。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水田礼賛・米礼賛

2006-03-23 06:01:47 | 書物の文韜
NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 03月号 [雑誌]

日経BP出版センター

このアイテムの詳細を見る

今日は、豊田地区センターでの生涯学習の講義の日。徹夜で準備したため、夕飯を食べたらそのままダウンしてしまいました。原稿の締切も近いのに、作業がうまくはかどりません。困ったものです。

さて、上の写真は、いわずと知れた『NATIONAL GEOGRAPHIC』日本版の最新号。何で紹介するのかというと、富山和子さんの文章「日本列島との対話―風景は文化なり―」が、美しい田園風景とともに掲載されているからです。富山さんの日本風景論は、簡単にいってしまうと、「山も森も池も河も、日本の美しい景観はすべて米作りの所産。稲作が衰退して、その景観も滅びようとしている」というもの。仰っていることの意味は分かるのですが、そこには、日本人と自然環境との関係を批判的に捉えようとする視線はありません。まさに、水田礼賛・米礼賛です。
例えば富山さんは、「日本列島(の景観)は、2度にわたる大改造の結果である」と書かれています。すなわち、稲作開始から条里制敷設に至る水田開発の大土木事業が行われた時期と、室町末期から江戸中期にかけての大河川治水・新田開発の時期です。そこでは「先祖たち」の苦労が偲ばれ、偉大な功績が讃えられます。また、稲作を守ることが植林を生んだと解釈され、「日本人は太古から、荒れ地を見れば木を植え、喜びのときも悲しみのときも、祈りにも、目印にも、記念にも、当然のようにして木を植えてきた民族でした」「古代から日本には、森林保護の法制度が敷かれていたのでした」「私は日本を『木を植える文化の国』と名付け、繰り返し繰り返しこう書いてきたものです。『これは世界の奇跡である』と」といった文章が紡がれます。「民衆と共に歩む」マルクス主義の開発肯定史観をみなおし、歴史のなかの環境問題に光をあててきた近年の歴史学の成果とは、まったく相容れない歴史認識です。さらに、「畑と水田がどう違うか、あなたは考えたことがありますか」との呼びかけとともに両者の差異が固定化され、以前に櫟庵さんやsorioさんが指摘してくださったような転換可能性も、まるっきり無視されてしまうのでした。

このような言説が、いかなる政治的立場から発せられ、何を根拠として成り立っているか、慎重に分析してゆかなければなりません。以前、環境/文化研究会(仮)の例会でも報告したように、それが日本的自然観のあり方と結びついている可能性があるからです。「世界の奇跡」といった評価など、エコ・ナショナリズムに転化しやすい性質も認められます。田園風景を「美しい」と感じてしまう私たちの心性自体、どのように構築されてきたのかを問う必要がありますね。
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内田百間/金井田英津子『冥途』

2006-03-20 23:58:03 | 書物の文韜
冥途

パロル舎

このアイテムの詳細を見る

「仮定された有機交流電燈」ってどういう意味?……とよく訊かれるのですが、近代文学好きの方には、ああ、これ書いている人は宮澤賢治マニアなのね、と分かっていただけるかと思います。
確かに、私は賢治ミーハーです。筑摩の全集も3種類揃えてあります。しかし、日本一の幻想文学作家だと考えているのは、実は内田百間なんですよね。昔、彼の代表的短編「冥途」を読んだときは本当に驚かされました。

夜の底にたたずむ一件の一膳飯屋で、〈私〉は、「人のなつかしさが身に沁むような心持」で、ただぼんやりと座っている。そこは、夢ともうつつともつかない夢幻の世界。ふと気づくと、隣の腰掛けで談笑する一団の話し声が、とぎれとぎれ耳に入ってくる。

 するとその内に、私はふと腹がたって来た。私のことを云ったのらしい。振り向いてその男の方を見ようとしたけれども、どれが云ったのだかぼんやりしていて解らない。その時に、外の声がまたこう云った。大きな、響きのない声であった。
まあ仕方がない。あんなになるのも、こちらの所為だ
 その声を聞いてから、また暫らくぼんやりしていた。すると私は、俄にほろりとして来て、涙が流れた。何という事もなく、ただ、今の自分が悲しくて堪らない。けれども私はつい思い出せそうな気がしながら、その悲しみの源を忘れている。


ラスト、真っ暗な土手を歩いてゆくその男に、〈私〉は泣きながら呼びかけることになるわけですが、上の引用の部分で本当に涙が滲んできたことを覚えています。大切なひとを喪ったことのある人間には、よけいに心に響いてくるものがあるはずです。もう届かない、追いつけない絶対的な価値が、常に自分を遠くからみつめている。その瞳が湛えているのは喜びなのか、それとも憐れみなのか……。後者であれば、これほど辛いことはありません。しかも、「こちらの所為だ」といわれては。誰かの死を背負いながら生きてゆかねばならない人間の哀しさを、この作品は本当に鋭く捉えています。

写真で紹介しているのは、その「冥途」が収められている絵本。金井田英津子の幻想的な版画が、百間の独特の孤独感を際立たせています。ほかに、「花火」「尽頭子」「烏」「件」「柳藻」の名作群を収録(そういえば百間は岡山出身でした。だから「件」か、とあらためて納得)。宝物のような、お気に入りの1冊です。金井田さんの近代文学シリーズには、漱石『夢十夜』、朔太郎『猫町』もありますが、いずれも傑作(作品選択自体が玄人好み。また機会があったら書きますが、「こんな晩」には震えがきますよね)。どうぞお試しあれ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川本喜八郎『蓮如とその母』

2006-03-18 18:15:23 | 劇場の虎韜
閑話休題。17日(金)は1日かけて、博物館展示2つと映画1本を観てまわりました。

まずは昼過ぎ、横浜市歴史博物館の特別展『「諸岡五十戸」木簡と横浜―大宝律令以前の支配システムを探る―』から。「諸岡」とは、後の武蔵国久良郡諸岡郷、現在の横浜市港北区師岡町・鶴見区駒岡町に当たる地域。「五十戸」とは、浄御原令制下で「里」に編成される行政単位で、近年各地からその存在を裏づける資料が発見されています。飛鳥の石神遺跡から出土したこの小さな木簡によって、古代の横浜にも、「五十戸」のシステムが機能していたことが確認されたわけです。小規模な展示ながら、国造制・屯倉制から評―五十戸制、評―里制、そして郡―里制に至る地方行政機構の変遷が具体的に説明されていました。私の住む栄区の笠間中央公園遺跡も、五十戸・里制の導入に伴う実態的な集落の変化を示す、貴重な遺構であるとか。言葉/現実の関係、制度/実態の関係を考えさせるいい企画でした(でも、かなり学界に近い興味を持っている人じゃないと、面白がってみてくれないんじゃないでしょうか。少なくとも、子供は興味を持てないでしょうね)。私の恩師は戸籍や郷里制の研究をしていたのですが、第一論文の執筆に際し、「郷里制の導入に伴う集落の動揺と、行基の活動とを関連づけて考えてみたら」というアドバイスをいただいたことを想い出しました。

次は、神奈川県歴史博物館の『神々と逢う―神奈川の神道美術―』。同県神社庁の設立60周年記念特別展だそうです。5月までは開催しているとのこと、今回は時間もなかったのでざっと拝見するにとどめましたが、なかなかどうして堂々たる神像群が来臨しています。とくに、箱根神社の万巻上人像(初期神仏習合の担い手です!)は、何度みても圧倒的な雰囲気がありますね。高来神社の男・女・僧形の三神像、走湯権現の男神像なども荘厳ですばらしい出来でした。今度は〈鑑賞〉するのではなく、ちゃんと〈考察〉するために来たいと思います。

さて、最後は本日のメイン・イベント。渋谷のユーロスペースで開催されていた〈RESPECT 川本喜八郎〉の最終日、特別プログラム『蓮如とその母』を観てきました。
原作は、同和問題から蓮如のあり方を捉えた平井清隆の小説。脚本は新藤兼人、音楽は武満徹。大門正明、渡辺美佐子、池上季実子、泉ピン子、高松英郎、黒柳徹子、岸田今日子、小沢昭一、三国連太郎らが声をあてた堂々たる大作です。しかしながら、権利関係の問題からかソフト化されていないいわば〈幻の名作〉で、今回もレイトショーのみの2日間限定上映。川本ファンとしても、真宗の僧侶としても、ぜひ観ておかなくてはならない作品だったのです。
物語は、6才のときに生き別れた母との再会、妻蓮祐との深い絆を縦軸に、大谷本願寺焼き討ちから吉崎御坊成立に至る蓮如の壮年期を、堅田の民衆との交流のなかに描いたもの。同和問題に関する切り込みはあまり鋭くはないものの、笑いと涙に溢れたエンターテイメントとして一級の出来です。1981年公開といいますから今から四半世紀前、川本監督の年齢を反映してか人形たちの動きも若々しく、ライブの動きかと見まごうほどリアルさが追求されていました。母おれんや蓮祐の憂いを帯びた目線の美しさ、堅田法住の豪快な笑顔。数十体の人形が入り乱れる、堅田大攻めの合戦シーンも圧巻です。僧侶としては、蓮如の説教に魅力を感じない憾みも残りましたが、充分満足できました。それどころか、さらなる僥倖。最終日とあって期待はしていたのですが、川本監督自らが劇場に来られていたのでした。
早速、写真の本を購入してサインをお願い。もはやいかなる学会報告でも緊張しなくなってしまったのに、このときばかりは心臓がバクバク。メモ帳に(監督に書いてもらう)自分の名前を書くのですが、手が強ばってしまってうまく動かない始末でした。これがファン心理というものでしょう。それでも二言三言お話をさせていただき、「『死者の書』と『蓮如』では、同じ宗教を扱っていてもまったく違うでしょう。でも、『蓮如』をやっていたからこそ『死者の書』を作れたんですよ」とのコメントをいただきました。私自身、真宗の寺に生まれたからこそ、宗教史を研究するいまの視点があるわけです。勝手ながら、自らの沈思すべき言葉として聞かせていただきました。
サインは家宝、いや私宝といたします!
Comment (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水町から〈自然〉を考えてみる

2006-03-15 18:35:03 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
まだまだ続く、環境/文化研究会合同合宿のレポートです。
清水町を散策していると、杉の整然と並ぶ山々が本当に美しい。しかしこれは、当然のごとく、植林によって創られた〈人工的〉空間なわけです。加藤さんや蘇理さんのお話によれば、同地で林業が開始されたのは近代になってから。もちろん、日常生活レベルでの木材の利用は行われていたものの、近世以前はそれが産業になることはなかったそうです。上の写真は、植林の杉山と雑木山(清水では「浅木」というそうです)が直線的に仕切られた風景。〈人工性〉が際立ちます。

しかし、そもそも〈自然〉を語り考えるとき、戦略以外の目的で〈人工性〉を強調する必要があるのかどうか、再検討してみなければなりません。昨日の三都の会の河原井彩さんのご報告「現代日本の葬送の変容と死生観」でも、ジネン/nature/里山という〈自然〉概念の3要素がとりあげられていましたが、近年はnatureを核に他の2要素が包括されている印象があります。とくに都市的な表象としては、〈文化〉との二項対立図式でしか〈自然〉を捉えられなくなっており、〈人間の手が加わっていないもの〉という意味づけが強く働いている気がします。しかし、先に櫟庵さんやsorioさんと議論したなかでも述べたように、〈自然〉に本来の姿などないわけで、人間も含めた様々なファクターとの影響関係のなかで、常に変転してきたのが生態系のあり方でしょう。歴史的にも地球上における〈原生林〉の存在が疑われていますが(〈極相〉はありますけど、もちろん〈原生林〉とイコールではありません)、人間の影響力が全地球規模に拡大している昨今、〈手つかずのもの〉など実体的にもありえない状態になっていると思います。以前、『環境と心性の文化史』の総論で、〈環境〉を「主体によって対象構成される関係態」と定義したことがありますが、自然/文化ももはやまなざし(五感の総合としての主観という意味)の問題でしかないのかも知れません。「誰もいない森のなかで木が倒れたとき、音はしたのだろうか」というテーゼ(フレドリック・ブラウン「叫べ、沈黙よ」)のように、主体が人間の介入を認知している景観は〈文化〉的となり、認知していない景観が〈自然〉的となる、ということでしょうか。雑駁な思考ですので、さらなる検討が必要ですね。

ところで、上の写真は4月からの環境史の講義に使うつもりです。学生がどういう反応を示すか、どのようなことを考えてくれるか、いまから楽しみです。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は死に信仰は生きる

2006-03-15 04:03:24 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
11日(土)、12日(日)と、大学院の後輩の結婚式(お幸せに!)、恩師の退職記念の食事会などがあって、なかなかブログの更新ができませんでした。二件とも母校J大学の関係。懐かしい方々とも、久しぶりにお会いできて良かったです。今日14日(火)は午前中は法務、午後からJ大学に研究室の下見にゆき(4月から勤務します。改修工事を控え閑散とした室内をみて、ここを後にされた先生はどんなお気持ちだったかと想像してしまいました)、夕方、親鸞仏教センターでの日本仏教@三都の会に出席してきました。仏教と現代との関わりを模索する若手研究者のミニ・シンポ。あるドイツ宗教学者の視点でみた仏教、仏教民俗学の方法、葬儀の現代的傾向などに関する報告がありました(詳しくはmonodoiさんのブログ参照)。宗教ホスピスやスピリチュアリティなど、近年のキーワードも頻出。試みは素晴らしく賛同しますが、もう少し突っ込んだ議論がしたいところです。

さて、環境/文化の合宿の続きです。
写真は、辻々の祠などに供えられた、死者の杖と草鞋。清水町を散策中、蘇理さんが説明してくださったものです。藁包みのなかには握り飯が入っており、五円玉の〈六文銭〉も付けられています。まさに、〈死出の旅路セット〉ですね。高野山への信仰が篤い同地では、亡くなった人があると、遺骨の一部を金剛峰寺へ納めにゆくとか。その際、辻や橋詰め、祠などの宗教的(境界的)スポットにこれらを供え、死者の速やかな成仏を願うそうです。六文銭は、みつけて持ち帰ると福を呼び込むといわれ(新谷尚紀さんの、〈ケガレからカミへ〉というテーゼを想い出しますね)、上のスポットでもひとつしか発見できませんでした。
日本列島の葬送儀礼というのは本当に多様で、こういった近世や中世へ遡れる慣習のほか、現代的葬儀の場に立ち現れてくるものも多いですね。職業柄収骨に立ち会うこともままありますが、お骨を一粒ももらさずに壺へ納める関東に比べ、関西では大半を廃棄してしまうと知ったときは驚きました。それこそ、斎壇の飾り方は宗派によって異なりますし(実際は同じ宗派でも、住職の法務に対する姿勢、檀家さんとの関係によってかなり相違がある)、読経の仕方や説教の有無、納棺の仕方から何から、細かい相違を挙げれば数え切れないでしょう。写真のセットも10個程度あり、最近、同地で10人以上の方が亡くなったと分かります。日々、それに相応するだけの儀式と場が営まれていて、それぞれが厳密には1回限りの固有性を持つものなわけです(ご遺族にとってはなおさら)。研究の対象としてみたとき、それを一般化するのはかなり難しいし、危うい気がします。

マクロ/ミクロ、一般抽象化/個別具体化の問題は、あらゆる学問に共通する課題で、とうぜん自分の研究にも当てはまってくることですが、注意せねばなりません。……あれ、合宿の話をしているつもりが、妙に今日の三都の会に関係する感想になってしまいました(参加していない方には話がみえないでしょう、ごめんなさい)。しかし、スピリチュアリティをめぐる最近の議論も、宗教的心性を一般抽象化して客観的に扱おうとする傾向に対し、そこからふるい落とされてしまう個々の主観、超越的なものとの個人的な繋がりを対象化するために提起されてきたのではないでしょうか。
ちなみに〈霊性〉という言葉、カトリック的環境で研究してきた人間には馴染みがあるんですよね。私が入学した当時、J大学で西洋中世史を担当されていたS先生の専門は、〈中世ドイツ神秘霊性史〉でした。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棚田は何のために……?

2006-03-07 11:41:36 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
環境/文化研究会(仮)関西・関東合同合宿の続きです。
スケジュール的には話が前後しますが、今回は現地見学の目玉、至るところに見受けられる棚田について書きたいと思います。

合宿の日程でいうと主に5日(日)、蘇理さんの案内で清水町周辺を散策、住民の皆さんの日常生活を垣間みさせていただきました。山の斜面を階段状に開発してゆく棚田は、そのなかでも特徴的。世界遺産にも登録された中国雲南の棚田が有名ですが、日本各地にも「千枚田」と呼ばれる多様な棚田が残っています。ここ清水町にも至るところにみられるわけですが、なかでも有名なのが「あらぎ島」。有田川に突き出た島状のなだらかな棚田で、その美しい景観は同町最大の観光資源にもなっています(あまりに有名なので写真は掲載しませんでしたが、同田の耕作農家である西林輝昌さんのフォト・ギャラリーが、ネット上に開設されていますのでご覧ください。西林さんは同町で「赤玉」という食堂も経営されており、この日の昼食はそこでいただきました。しかしこのあらぎ島、「扇を伏せたような形」と形容されますが、私にはUSSエンタープライズかギャラクティカの艦首にしかみえません……)。すでに高木さんのhpや土居さんのブログでも言及されていますが、蘇理さんによればこの景観は、昭和28年(1953)の有田川大洪水で対岸の崖が崩落した結果〈発見〉されたとのこと。正面から望むと中央遠景に大塔山がおさまり、まさに絶好のパースとなる。photogenic!です。『日本災害史』の原稿を書き終えたばかりですが、こういった景観との関係は完全な盲点でしたね。しかも、それが地域復興の活力にもなるという……これは大阪八尾の〈島畠〉などと同じ、まさに〈災害文化〉ですね。あまり関係ないかも知れませんが、昔観た映画『カリオストロの城』で、城の濠を形成する湖が崩壊した後、湖底から古代ローマ人の都市遺構が出現するという場面を想い出しました。
また、一緒にあらぎ島を遠望していた森田さんとも話したのですが、稲の植わっていない冬の棚田って、やっぱりどこか異様なんですよね。これは一体何のために存在しているのかという……。行程の終わり、高木さんが〈発見〉したという旧野上町の千枚田!(写真)をみせていただいたのですが、山のかなり高い部分まで広範囲に開発したその景観をみて、人々の尋常ではない努力に感嘆する一方(段を形成する石組みの石は、どうやら山から掘り出したものでも削り取ったものでもなく、河原から拾ってきたもののようにみえます。これを運ぶだけでも重労働。一体どれだけの年月がかかり、どれだけの人々が関わったのか……)、稲を税として設定し続けてきたこの国の権力のあり方を思わずにはいられませんでした。庶民の農耕における効率のよさだけでは、稲作へのこのような執着は生まれません。ただ暮らしてゆくだけなら、現在主力になっている山椒など、もっと環境に即した作物を想定できるわけですから。人々の努力の背後に、無意識に作用する大きな力を感じてしまいます(合宿中にはやった言葉でいえば、「大量資本」ですかね)。

ちなみに、「あらぎ」の由来アララギとはイチイの方名とのこと。蘇理さんは海老澤衷さんのノビル畑説に、高木さんはなだらかなあらぎ島を棚田と呼ぶことに、それぞれ疑問を投げかけていました。
Comments (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師堂の後戸に立つものは

2006-03-07 03:56:11 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
4・5日(土・日)、和歌山にて環境/文化研究会(仮)の関西・関東合同合宿が行われました。島根県古代文化センターの森田喜久男さん、紀伊風土記の丘歴史民俗資料館の加藤幸治さんが個人報告、総合研究大学院大学博士課程の蘇理剛志さん、和歌山県立博物館の高木徳郎さんが見学地の関連報告。全体のお膳立ては、加藤さん、蘇理さん、高木さんがしてくださいました。
私は3日に前泊して参加。いろいろなことを片付けてから慌てて出て来たので、和歌山中心部に以前論文で触れた日前国懸神宮、やや離れて伊太祁曾神社、宮井川用水などがあることに後から気づきました。もっと早く計画的に動けば、ちゃんと観られたのに……!と大後悔。しかし合宿の内容は、その残念さを補って余りあるものでした。これから何回かに分けて、合宿の報告と感想を書いてゆきたいと思います(すでに土居さん加藤さんのブログ、高木さんのhpにも紹介されていますのでご参照ください)。

正午、和歌山駅東口のバス・ターミナルに集合。参加者は、関西から稲城正己さん、加藤さん、蘇理さん、高木さん、藤井弘章さん、森田さん、関東から亀谷弘明さん、工藤健一さん、土居浩さん、宮瀧交二さん、私の11名。工藤さんは寝過ごしてしまったらしく、遅れるとの連絡あり。先に10名で3台の車に分乗、出発することにしました(ここで、分野別にまとまりができてしまうところが面白かったですね)。

阪和道を経て最初に立ち寄ったのは、清水町粟生の吉祥寺薬師堂(写真)。応永34年(1427)建立のいわゆる村堂で、ご覧のとおり茅葺きの美しい建築です。屋根の高さと急勾配は、ランドマークとしてもなかなかのもの。かつては同地域の信仰の中心だったのでしょう。その結びつきは、現在も「主講(おもこう:主立った家々による講組織)」として機能しているそうです。
個人的に気になったのは、向拝に掲げられた題額に「天竺伝来薬師如来」とあったことと、堂の背に後戸が作られていたこと。ちょうどここに向かう車内で、稲城さんや高木さんと三国伝来について雑談をしていたところで、あまりのタイミングの良さにビックリ。果たして、どのような将来伝承をもつ仏像なのでしょう。現在は本寺吉祥寺の宝霊殿に収蔵されているらしいのですが、時間もなく観ることができませんでした。周辺の畠や山裾に植林されている特徴的な植物、「棕櫚」(シュロ:中世では寺院を象徴する記号のひとつでした。毛状の繊維をたわしや縄に使い、幹は梵鐘を打つ撞木に適しているといわれます。ちなみに、ウチの寺でも境内に棕櫚があり、撞木にも使っています)などと関係があるとすれば面白いのですが、どうなんでしょうね。お堂が川に近いことからすると、広隆寺の薬師如来のように、洪水を防ぐ霊験が期待されたのかも知れません。この像が、薬師堂創建と近い応永21年(1414)の『法輪寺縁起』によってよく知られるようになったこと、この像を広隆寺に安置し霊験を発揮させた別当道昌が、清水町の仏教の根幹をなす高野山の開祖・空海の高弟であることからしても、可能性はありそうです。後戸は、中世的な宗教建築では神の出現する場所のひとつ。一体どのような法要儀式が行われていたのでしょう? 興味は尽きません……。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする