仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

とり・みき『パシパエーの宴』

2006-02-28 03:33:20 | 書物の文韜
パシパエーの宴

チクマ秀版社

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とり・みきは本来ギャグマンガ家なのですが、時折、シリアスな伝奇ものを書いたりします。活劇的で分かりやすい星野之宣に比べれば、諸星大二郎的なニュアンスのものが多いのですが、その根底には東宝特撮作品への深い愛情(執着?)が流れていて、ちょっと異質な印象があります。絵はさほど巧いわけではなく、一時期は多分に大友克洋的になったりしていましたが、最近では太い面線を主体にかなり単純化され(これも江口寿かなにかの影響かも知れませんが)、なかなか独特の味わいが出るようになってきました。

さて、上記の最新単行本は「シリアス系伝奇・怪奇・SF作品集」と銘打っていますので、ギャグ色は控えめですね。初出で読んだことのあるのは、『SF Japan』2000年秋号に掲載されていた「甕」だけです。縄文時代、突然の八ヶ岳の噴火によって、完了できないままに埋没してしまった土偶による再生の呪術。甕に葬られた死産児が、現代の恋人たちの身体を通じて蘇ろうとする……という内容。水野正好氏の土偶祭式論に基づき、独自の解釈を加えたものです。古代史研究者としては分かりやすいうえに、ホラーというより、割合に爽やかなラストになっているので好きな作品です。
作品集のタイトルにもなっている「パシパエーの宴」は、現在も西日本に都市伝説として残る、人面牛身の妖怪「件」を題材にしたもの(昨年の映画『妖怪大戦争』でも、冒頭に登場していました。私にとっては、内田百間の小説の方が印象深いですね。『新耳袋』などに収録されている兵庫あたりの噂も、なかなかに面白いです)。「甕」と同じく、南方熊楠の「十二支考」を絡めるなど、民俗学的な道具立てがなされています。しかし、国家が危機管理のために件を飼育しているという設定は、諸星大二郎「詔命」(『失楽園』収録)の焼き直しといった感もあります。
ところで、「シリアス」といっておきながら、この作品集には幾つかのナンセンス・ショートも収められていて、こちらの方こそ著者の本領が発揮されている気がします。例えば、あるとき主人公の女性がふと気づくと、彼氏の部屋で冷蔵庫になって立っているという「冷蔵(庫)人間第1号」。相当に奇妙な発想で、カフカも驚くでしょう。なかには、ここでは書けないような内容のものもあり、未だにエッジの尖ったさまをみせてもらった気がします。

そうそう、書き下ろしの新録として、乱歩の「鏡地獄」がマンガ化されているのも見逃せません。出来はあまりよくないのですが、明智小五郎が明らかに「岸田森」であるところに、マニア的な共感を懐いてしまうのでした。
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地球温暖化から考える環境史のあり方

2006-02-27 16:33:35 | 議論の豹韜
17・18(土・日)、NHKで『気候大異変』というドキュメンタリーが放送されていました。日本の主宰する国家プロジェクト、スーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を通じ、温暖化のもたらす100年後の世界を予想し警告する内容です。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書に基づく構成ですが、
 ・全世界が京都議定書を守りより効率的にエネルギー消費
  を行った場合でも、100年後には全地球の平均気温は
  最大4.2度上昇する。
 ・2070年夏には北極圏の氷が消滅し、2100年、ア
  マゾンにはアラビア半島の面積を超える規模の砂漠が出
  現する。海面は最大88センチも上昇、多くの陸地が水
  没する。
 ・ヨーロッパや中国北部は旱魃で農耕が壊滅、中国南部で
  は洪水が頻発、アメリカではレベル5級の台風がより頻
  繁に襲来する。
 ・日本の九州南部やアメリカ南部を含む北半球南部に、デ
  ング熱などの危険な熱帯性感染症が広がる。
 ・東京は現在の奄美大島付近の気温となり、冬らしい冬は
  なく、1年の真夏日も100日を超える。農作物の生産
  地図も大きく変わり、やはりレベル5の台風が本を襲う。
……などなど、とにかく不安要素が目白押しです。実際は、京都議定書の二酸化炭素削減量が確実に守られるということもないでしょうし、より複雑な要因、政治・経済・社会的な問題まで絡んでくることになりますから、さらに深刻な情況が想定されます。現在、世界各地で起きている異常気象がすべて温暖化によるものともいいきれませんし、上記の予想を全面的に信用できるとも断言できないのですが、最悪の事態を考えて対応することは重要です。人間の枠組みを固守して〈循環型社会・経済〉を目指すか、全生態系への責任論を展開するか。あるいは、すべてを放棄して「長い地球の歴史の一コマにすぎない」と諦観を装うか。いずれにしても、人間活動の結果によって、現生態系が危機的情況に瀕していることは確かです(ま、デング熱の立場になれば好適未来かも知れず、この発言もあくまで人間の立ち位置から発せられたものに過ぎませんが)。

ところで、歴史学でも最近流行の〈環境〉ですが、飯沼賢司さんの提唱する環境歴史学など、荘園研究を起点とした文化財学の一環であることはいうまでもありません。高畑勲『おもひでぽろぽろ』によって、里山が「人間と自然の共同作業」であることを喧伝し、環境問題への対応を文化財保護の枠組みのなかに組みこんでいるわけです。私もとうぜん、自然/文化の二項対立論ではなく、相互作用を重視していますが、里山を「共生の理想型」とは考えていません。現時点では、もちろん保護すべき大切な景観ですが、あくまで、人間が自然を「生かさぬように殺さぬように」作った収奪システムであるという認識です。稲作がこれほど独占的に保持されてきた国も稀ですが、田は稲のみを排他的に生育させる、ある意味で極めて〈差別的〉な場です。「人間が関わることで自然も豊かになる」という言説も結果論的正当化であって、政治的には、「日本が東南アジアに拡大したからこそ多くの植民地が独立できた」という言説と同じ種類のものでしょう。ただ誤解のないように書いておきますと、私は農耕その他をまったく否定するわけではありません。むしろ、自然環境と直接的交渉を行う、大変重要で尊い仕事と考えています。ただ、「そうせざるをえない」と自覚するか、「理想的な関係」と認識するかによって、今後の人間活動に大きな相違が生じてくると思います。文化財保護の観点に立つと、環境に対する視野が人間の価値観の側のみに固定され、結局はマルクス主義的社会経済史と変わらぬものになってしまいます。支配的権力のみならず、人間の日常生活全般を相対化するという意味で、環境史は民衆史などをも批判する視野を持つ必要があるでしょう。
最近、所属する「出雲古代史研究会」から、「風力発電装置建設計画について」と題する文書が送られてきました。行政と株式会社ユーラス・エナジー・ジャパンが推進する、出雲市平田地区への風力発電施設建設計画について、島根半島の歴史的・文化的景観を保護する立場から反対、変更を求める運動をしているとのことです。同じような問題は各地で起きていて、例えばやはり風土記の里であるつくば市でも、小中学校に設置した小型風力発電機がまったく機能せず、かえって電力的・財政的負担となっている様子。これは行政側の怠慢と無計画のせいらしいですが、風車が野鳥の渡りルートを侵害するなどの事例は、岐阜県御嶽山をはじめとして多くあるようです。化石燃料から他のクリーン・エネルギーへの転換の必要は、誰もが認めるところでしょうし、太陽光発電や風力発電施設の設置も無根拠に反対する人はいないと思います。問題は設置場所で、出雲の場合もその点が議論を呼んでいるわけです(ゴミ処理場や火葬場の建設問題と同じですね)。しかし、今後温暖化が加速度的に進行してゆくとすれば、「歴史的・文化的景観の保存」が正当な理由となりうるかどうか、考えてみなくてはなりません。文化財学的環境史からすればとうぜん反対となるでしょうが、環境倫理・環境思想を根底においた立場からすれば、判断は非常に難しくなります。文化財学と環境史的視野との対立点が浮き彫りになり、文化財学的環境史は成り立たなくなる可能性も出てきます。歴史的・文化的景観とは何か、保存/改変を分ける価値の基準とは何かなど、根本的な問題についても話し合わなければならないと思います。

今週の土・日には、和歌山で環境/文化研究会(仮)の、第1回関西・関東合同合宿が開かれます。上記のような問題についても、いろいろ議論できるといいですね。
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川本喜八郎『死者の書』

2006-02-26 17:34:13 | 劇場の虎韜
いつも、1週間ほど遅れて書くことになるのですが、21日(火)、『三宝絵』研究会に出席するついでに、神田の岩波ホールで川本喜八郎『死者の書』を観てきました。

映画好きを自認していながら、恥ずかしいことに、岩波ホールに入ったのは今回が初めて。「箱」自体には別に特別なものを感じませんでしたが、客層が普通の劇場とは違う……!と思いましたね。60歳前後の品のいい女性が主流で、生涯学習の講座で出会う方々と共通する雰囲気。岩波の本を読んで、市民正義を支えてきた方々なのだろうなあ……と勝手な感想を持ちました。
映画の方も、さすが期待に違わぬ出来。原作の古代文化に関する深い造詣(当たり前ですが)、求道の強さと清々しさ/世俗のおかしみとほがらかさ、性的葛藤の妖しさ・怪異/宗教的浄化の世界……様々な相反する要素が簡明に表現され、あの独特のテンポを持ったセリフもそのままに語られています(郎女役の宮沢りえ、大津皇子役の観世銕之丞、語りの岸田今日子による微細な声調の変化、抑揚……。文字どおり人形に命を吹き込む名演でした)。無駄な説明を排して抽象的な映像の力に訴え、観る側の想像力を喚起する演出もいいですね。人形アニメでは、とうぜん生身の人間のような細やかな動き、表情の微妙な変化などは(情報量の多さという意味で)表現できませんが、そのぶん感情や想いがデフォルメされて、ストレートに伝わってきます。旧作『鬼』『道成寺』『火宅』にみるように、執心と解脱は、川本監督自身が追求し続けてきたテーマでもありますし、お互いに絶好の方法、題材を得たというところでしょうか。また、髪の一本一本が風に揺れるさまをアニメートする名人芸、今回は衣のゆらめきたなびく映像が非常に美しかったですね。
それにしても、折口古代学の集大成が、ある意味では「神身離脱」思想を核とすることについては、大いに共感するところです。私のやってきた宗教史研究や環境史研究も、すべてそれを中心に回っていますので。ただ私の場合、祟り神が神仏に昇華されること自体に、もう少し多様な葛藤を読みとりたいと考えています。

ということで、映画には大変満足したわけですが、ただ一点、上映開始後間もなく、高いびきをかき始めた男性客がいたのが残念でしたね。前半、なかなか映画に集中できませんでした。さすがに品のいい観客方もこらえきれず、立ち上がって文句をいいにゆく人も出てくる始末。終了後、「あんたのおかげでいい映画が台無しよ!」と罵る女性もいて、劇場内はピリピリムード(宗教的浄化どころの騒ぎではありません)。当の男性客だって、単館上映にわざわざ出かけてくるわけですから、眠りたいとは思っていなかったはず。わりと身体の大きな若者でしたが、ひょっとしたら睡眠時無呼吸症候群かも知れないですね。高いお金を払って残念だったでしょう。彼の立場に立ってみると、切ない話ではあります。
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東京国立博物館「書の至宝―中国と日本―」展

2006-02-20 14:49:49 | 議論の豹韜
19日(日)、午前中に法事をひとつ勤めてから、東博「書の至宝」展を観てきました。体調を崩したりしていたのでなかなか時間がとれず、混雑を覚悟で最終日の入場となったわけです。「建物の外まで列が伸び、整理券を配っている」、などという前情報も聞いていたので不安でしたが、なんとか普通に(といっても混雑していて、落ち着いて眺めることはできませんでしたが)見学することができました。

それにしても、中国の書の歴史は凄いものです。以前、石川九楊『筆蝕の構造』などを手がかりに、〈書く〉という行為にはいかなる意味があるのか考えてみたことがあるのですが、人間の精神や思考、身体が、文字の出現とともにまったく異なったものに変容したのは確かです。〈書く〉行為を記録、〈書かれたもの〉を情報の保管と等価に扱ってしまうのは、いうまでもないことですが大きな間違いですね。〈説話の可能態〉に関する議論でも触れましたが、単純に〈書かれたもの〉の意味を読みとるだけでなく、書体や筆致からテクストの生成過程に至るまで、〈いかに書かれたのか〉という実践の面より多角的に考えてみる必要があるでしょう。原本が存在しない場合は、様々な抽象化と想定を繰り返さねばならない困難な作業ですが、そこにこそ、他者の心性に近付いてゆく醍醐味も存在します。ま、実際はいろいろな問題があって理想どおりにはいかないわけですが、だからこそこうした展示会は貴重な機会となります。

さて、実際の展示は殷代の甲骨文や周代の青銅器銘文に始まり、篆書・隷書・草書・行書・楷書など様々な書法の展開、日本における受容とかなの発生へと続きます。甲骨文と青銅器銘文に、史官と卜官との関係をあらためて考え、王陽明の闊達な行書に息を呑み、藤原行成の優美さに和み、池大雅の迫力に圧倒され……とにかく満腹状態でした。上記の問題意識からいうと、もう少し〈書く〉情況や環境が分かるようにしてくれた方が、私のような歴史学的関心を持つ人間には面白かったと思いますね。以前、稲本さんがブログで書かれていましたが、やはり現在の博物館展示の主流は〈鑑賞〉であり、歴史的コンテクストを剥奪された作品は〈標本〉に過ぎない気がします。

ところで、天武天皇15年(686)の国宝「金剛場陀羅尼経」。卒論などで扱って以来、実物を初めてみましたよ。最古の知識経ですが、やはりかなり完成度の高い筆致ですね。教化僧宝林とはいかなる人物であったか、想像が膨らみます(「教化僧」と冠してしまうところが中国っぽい)。隣には「法華義疏」があり黒山の人だかりができていましたが、それもそのはず、「聖徳太子筆」と堂々と掲示してありました。法隆寺献納宝物を管理する東博としては、やっぱり「伝」とは書けないんでしょうかね。
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マシスン的逆転

2006-02-18 01:37:27 | 書物の文韜
13のショック

早川書房

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日本テレビの木曜深夜に放送している、『ナイトビジョン』が面白い。昔よくみた上質のSFミステリー、『ミステリーゾーン(原題:Twilight Zone)』を彷彿とさせます。
毎回、1話完結30分のショート・ストーリーが2話ずつという形式で、昨日の放送は「異次元への窓」と「お静かに」。前者は、愛息の事故死をきっかけに妻との関係も冷えてしまった陸軍少佐が、砂漠で発見された異次元への窓を調査するうち、向こう側で生活する平和な家族の姿、とくに愁いに満ちた未亡人に共感し魅せられる。普段は物質を通さない窓が開く瞬間を計算し、異次元の家族のもとへ飛び込んだ少佐が経験したものは……という内容。後者は、被害者の舌を切り取るという猟奇殺人が頻発する都会の喧噪を逃れ、郊外の森林公園で静かな週末を過ごそうとした主人公に、怪しげな老人がつきまとう。果たして彼は、噂の殺人鬼なのか……といった物語ですね。2話とも、ラストのどんでん返しが効いているわけですが、私はこのような展開を、勝手に〈マシスン的逆転〉と呼んでいます。

リチャード・マシスンは、私の大好きな作家・脚本家のひとり。『ミステリーゾーン』や『事件記者コルチャック』のメイン・ライターだったわけですが、映画『激突!』『ヘルハウス』の作者といった方が有名かも分かりません。中学か高校の頃、モダン・ホラーの短編小説集『闇の展覧会』(最近再刊されたようです)で彼の作品「精神一到」(息子リチャード・クリスチャン・マシスンとの共作)を読んだときの衝撃は、今でも忘れられません。
ある男が、真っ暗闇のなかで突然目覚め、自分が罠にはめられて生きたまま埋葬されたことに気づきます。誰が自分を陥れたのか考え、その人間への復讐を誓いながら、彼は必死の思いで棺桶を破り、湿った土を掘り除けて地上に復帰します。勝利を確信し、近くの公衆電話から自宅へ無事を知らせようとした彼は、逆に自分が「何ヶ月も前に死んでいる」ことを知らされるのです。鏡に映る朽ち果てた己の姿をみつめながら、彼は、もうどこにも帰る場所のないことを悟るのでした……。異常な事態から逃れようとする主人公の克明な描写と、彼に訪れる皮肉な運命。その鮮やかな転換の技には、「巧い!」とただ唸らざるをえません。現代のショッキング・ホラー世代には物足りないかも知れませんが、そこには、ストーリー・テリングの妙が光っています。
その短編集は、キング、ブロック、スタージョンなどが競作するかなり豪華な代物だったのですが、マシスンの作品がいちばん印象に残っています。『ナイトビジョン』も、こうしたマシスン的逆転の正統な後継者といえるでしょう。

先日書店を眺めていると、マシスンの短編集『13のショック』が新装カバーで再刊されていました。早速購入、移動中の電車のなかなどで楽しんでいます。
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遠征

2006-02-13 17:27:12 | 議論の豹韜
10日(金)、身体の調子をみて、午後から歴博の共同研究「神仏信仰の通史的研究I」集会に参加。できるだけ身体に負担のかからないよう、大船から総武線で船橋へ出て京成に乗り換え、佐倉へ至るルートで、4時過ぎには歴博へ到着。

新谷尚紀さんの報告「神社と古伝承―民俗学の視点から―」は聞き逃しましたが、和田萃さんの報告「古代史からみたカミ祭り」にはなんとか間に合いました。いわゆる湧水点祭祀・導水祭祀の問題から、吉野の水分の意味を問う内容で、古代日本における水の祭祀の中核には変若水への信仰があり、それは近代の民俗にも繋がっているというもの。私は、湧水点祭祀云々というと開発との関係を考えてしまうので、吉野とはいまひとつ繋がってきません(でも、開発/神聖化の反比例という捉え方をすれば、同じということになりますか……)。水辺の祭祀遺跡も、遺構・遺物とも、必ずしも一括できる内容を持つわけではない。そのあたりちゃんと伺ってみたかったのですが、時間も元気もなかったので黙っていました。
その日は懇親会をパスしてホテルへ直行、iBookを持ち込んで、遅れている『災害史』の作業を行いました。

翌11日(土)は、9時半から三橋健さんの報告「古代における神社数の一考察―『八百万神』という用語を中心として―」。古代の諸史料にみえる神の数え方の意味を問い、『出雲国風土記』冒頭に載せる同国の神社数をもとに、奈良期の全国の神社の実数を推算しようとしたもの(単純計算では24,072社ですが、出雲国の情況を一般化することはできないので、あくまでこれは上限)。実数の有効性はともかく、「八百万」でも「八十万」でもない「百八十」の成り立ちが気になるところ。例えば『書紀』崇仏論争記事にみえる「百八十神」は、『梁高僧伝』竺仏図澄伝の「百神」を翻訳したものとみられているけれども、なぜ「百八十」に転換されているのか。『出雲国風土記』の官社数が184であることからすると、官社設定の際に何らかの意味を持ったのかも知れません。報告終了後の井上寛司さんとの議論でも、神社研究では、漢籍の受容を念頭に置いた言説の研究/考古遺物・遺構から判明する実態の研究/言説と実態との関係の研究、という3つのレベルが明確かつ自覚的に推進される必要のあることを痛感しました。
最後は、最終年度である来年度の打ち合わせ。なぜかまた仕事を増やされてしまう。けっこうキツくなっています。

終了後、ようやく普通に食事が摂れるようになったので、井上智勝さんと昼食。彼が昨年10月に怪異学会で報告した、祟りの問題などについて情報交換。
その後は、ひとりで新収の収蔵品を見学。桃が明らかに女陰を象って描かれている江戸期の『桃太郎画伝絵巻』、下駄の鼻緒が切れたために取り落としてしまった槌と釘を、頭の蝋燭を外して探しているやや滑稽な歌川豊広『丑の刻参り』など、なかなか面白いものがありました。

それから京成で八幡へ出、都営新宿線に乗り換えて神保町へ。内山書店と東方書店をみて中国図書を物色。岩波ホールでは、川本喜八郎の人形アニメーション『死者の書』の初日。絶対観に来なければ。

5時、新宿を経由して、大江戸線で光が丘に到着。毎年この日に行われる、IMAホールでの野村萬斎狂言会を鑑賞しました。近くに住んでいる、妻の友人の中世史研究者Nさん(私たちの結婚式の司会をしていただきました)とお姉さんが、ありがたいことに、いつもチケットをとっておいてくださるのです。
今回の演目は、「墨塗」と「寝音曲」。前者は、訴訟が無事解決して所領へ戻ることになった武士が、都の女に別れを告げる際に起きる滑稽な騒動。後者は、主人に謡を所望された太郎冠者が、いろいろと条件を付けた挙げ句、主人の膝枕で音曲を披露するに至るやりとり。とくに後者は、落語の『掛取萬歳』よろしく、演者の謡い舞う芸がみどころのひとつ。太郎冠者役の萬斎の美声が冴えますが、節はまだ未完成なのかなあ……。お酒をあおる仕草にもややブレがあって、声は涸れてしまったけれども、父親万作の練られた〈形〉には及ばないところもみえます。『花伝』のいう、年齢と芸の関係が想い出されるところ(お経のあげ方にも通じるところがありますしね)。
妻は、一昨年論文で扱った『志度寺縁起』の謡曲化『海士』の一節が謡われたので、非常に感慨深かった様子。

それから4人でお蕎麦を食べ、あれこれ話して解散。どうやら妻は、匿名でブログを始めたらしいですよ。
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体力枯渇

2006-02-10 00:58:46 | 生きる犬韜
インフルエンザと思っていた39度の高熱、どうやら悪性の風邪らしい……と安心したのも束の間、熱が下がり始めた隙をついて、今度は胃腸系を直撃されました。

火曜、突然亡くなった自坊の総代さんのお通夜を勤めて帰ると、再び38度の熱と吐き下し。食欲もなく、今に至るまで胃腸は回復していません。もはや体力は枯渇状態。10日〆切の原稿(災害史のリライト)も遅らせざるをえず、10~11日の歴博共同研究出席にも影響が出そうです。

今朝方、数日ぶりにPCをたちあげてメールをみると、高校時代からの友人で、いまだに創作活動を続けている葉山洋介君から「ホームページ再開」の嬉しいメールが。早速アクセスしてみると、う~ん、かっこいい……。今度、想い出も含めて感想書きますね。興味のある方はアクセスしてみてください。私が10年以上前に撮った、未完成フィルムの短縮版もダウンロードできます(恥ずかしい……)。この作品は撮影終了までに4年を費やし、周囲に迷惑をかけまくった挙げ句、未だに完成をみていない。ちょうど、研究者の道を選ぶ端境期に作っていたもので、画面にも何かもやもやしたものが漂っています。数年前も、洋介君との間に新しいフィルムの企画が持ち上がり、コンテ作成を引き受けたものの、本業の〆切さえ守れない人間に容易に完成できるはずがなく、いまだに手渡せていない状態。でも、こちらとしては諦めたわけではないので、洋介の方もどうか気長に待っていてください。

では、皆さんもお身体にはお気を付けて。
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インフルエンザに至る日々

2006-02-06 00:06:48 | 生きる犬韜
1月の第4週~2月の第1週は、研究会と講演、その準備であっちへ行ったりこっちへ行ったり。挙げ句の果てに、インフルエンザ?で倒れてしまいました。いま、ようやく微熱状態になったところです。柔な自分が愛おしい。ずっとブログも更新していなかったので、箇条書き程度にまとめておくことにします。

『三宝絵』研究会の翌日、1月25日は、栄区豊田地区センターでの「楽しい日本史の会」講義。お正月は特別編ということで、『家伝』講読はお休みし、昨年論文を書いた崇仏論争述作の問題を語りました。専門の人に喋る場合は1時間余でも可能なのですが、いろいろ枝葉を付けているうちに2時間でも終わらず。ラストは次回に持ち越しとなりました。

27日は、まずお昼から中野区立歴史民俗資料館で「あけぼの会」の講演。こちらも歴史研究の市民サークルで、すでに10年にも及ぶお付き合い。歴博の先生方をはじめとして、古代史の錚々たる研究者が毎月講義を担当。私もその末席に加えていただいているというわけで、院生時代より「育てていただいてきた」という印象の強い場です。こちらでは、常にその年の最新のテーマについてお話しすることにしているので、今年は「鎌足像の構築と中国的言説」。難解な話ですが、皆さん大変喜んでくださいました。易の実践もすればよかったかな。
この日の夜は、立教大学でケガレ研の1月例会。報告は門馬幸夫さんで、「田中雅一編『暴力の文化人類学』を読む」。多様な論考を手際よくまとめ、問題点を指摘してくださいましたが、〈暴力〉を表象すること、叙述することの難しさをあらためて確認。この言葉で括ってしまった時点で、近代的な価値判断が含まれてしまいますからね。しかし、大越愛子さんの指摘する、性暴力的主体の形成の問題は結構厄介。生態的事実(と括った時点で文化となってしまうけれども)が文化となる、意味化される始原に性暴力への方向づけが行われるなら、それはどのような形で相対化しうるのか。ジェンダー/セクシュアリティ概念の再検討の必要性も痛感。
その後の飲み会は、新年会と、メンバー全員がお世話になっている森話社の10周年記念(1995年創立。今年は11年目)のお祝いを兼ねて行われました。妻のアイディアに従い、1995年のワインとミキモトのワイングラスを調達してプレゼント。社長の大石さんは、出版業界の厳しい現実のなかで、良質の研究書を美しい装丁で刊行し続ける希有な人。メンバーの誰かが迷惑をかけ、潰してしまうことのないようにしましょうね。

28日は、早稲田大学で「あたらしい古代史の会」の例会。報告は、宮永廣美さんの「和珥部氏系図について」と勝浦令子さんの「七、八世紀将来中国医書の道教系産穢認識とその影響」。勉強になりました。とくに勝浦さんの報告は、神祇に偏りがちなケガレの発生論を再検討させる、大きな打撃力を持つもの(ケガレ研でこそ発表していただきたい)。私も前に書いた論文で、卜部の行う祓も中国起源である可能性に触れましたが、「すなわち八世紀には、神祇信仰による祓の対象となる穢悪認識と共に、このような雑多な渡来系の穢悪認識が、少なくとも畿内を中心に影響していた可能性は極めて高い」との見解には大いに共感。勝浦さんの試みは、それを『千金方』『小品方』などの医書、『斎戒ロク』『四十四方経』などの道教経典から、具体的に明らかにしているところが凄い。

2月1日。午前中は檀家さん回りで、午後からW大に成績表を提出するため上京。帰りに妻と待ち合わせし、横浜で映画『THE 有頂天ホテル』を観ようとしましたが、ちょうど映画の日のため混雑してチケットをとれず。みなとみらいで食事だけして帰宅する途中、地震によりJRがストップ。電車に閉じ込められて散々な一日でした。

2日、夕方に横浜へ出て『THE 有頂天ホテル』を鑑賞。昨日とは打って変わって、とっても空いていました。映画の方は、芸達者が大勢出ていて笑えはしたものの、あとには何も残らない感じでした。三谷幸喜は忙しすぎるせいか、書くものが浅薄かつ類型的になっている気がします。以前は笑いのなかにも、心に響く何か、哀しさのようなものがあったのになあ。それとも、私の感受性の方が鈍くなっているのでしょうか?

4日、朝からなんとなく調子が悪く、風邪を引いたような感じ。妻は前日から妹の家に泊まっており、お昼に明大前で待ち合わせて食事。味覚が悪くなっているのか、あまりおいしく感じられません。その後、2人で古代文学会の1月例会に出席しました。
報告は、増尾伸一郎さんの「『藤氏家伝』の成立と『懐風藻』」。近江朝の文芸・学問の隆盛、壬申の乱による衰滅からの復興を謳う『懐風藻』は、実は藤原南家への批判の書であり、長屋王の変や光明立后などの記事を一切欠き、文芸・学問の復興・奨励における功績、近江の詳細な記述に大半を割く「武智麻呂伝」は、同書への反駁を意図したものと位置づける果敢な内容。3年前に一度伺って感銘を受け、今回は光栄にも司会を仰せつかりました。常にエッジの尖っている「古代文学会」メンバーとのあいだで、奈良朝の歴史認識をめぐる〈表象の闘争〉について、刺激的な議論が展開されました。しかし、増尾さんはついにドクターストップがかかって、365日飲み続けていたお酒を諦めざるをえなくなったとのこと。10年以上お世話になって、居酒屋でグレープフルーツ・ジュースを飲む増尾さんの姿を初めて拝見しました。

さて、帰りの電車のなかから寒気を感じていた私は、その日のうちに39度の高熱でインフルエンザ?を発症。翌日の日曜は何もせずに休み、妻の献身的な看護のおかげで(結婚とはありがたいものです)、なんとか回復をいたしました。というわけで簡単な記述でしたが、皆さん、お身体にはお気を付けください(写真は、土曜に新宿のLOFTで撮ったバレンタイン神社? 鳥居のみで、本殿や拝殿はもちろん、ご神体もないようでしたが……)。
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