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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

道連れ/北風と太陽

2014-01-16 12:03:37 | ※ モモ観察日記
久しぶりの、モモ観察日記である。読者の皆さん、お待たせしてごめんなさい。

底冷えのする今朝、こたつに潜り込んでいるモモを急かして目覚めさせ、なんとか上半身を起こすところまで持っていったものの、彼女は寒いだなんだとぐずぐず言って、なかなか着替えのある二階に行きたがらない。
モ「寒いよう。二階に行くのやだよう。…一緒に行って」
カ「なんでぼくが行かなければいけないのだ」
モ「道連れがいれば、行ける気がするんだよう」
仕方がないので、ついて行く。
モモが着替えを選ぶのに震えながらつきあい、ついでに一階へ下ろす洗濯物を持たされ、暖かい居間へ帰還。そうして、着替えながらモモが問う。
モ「今週はもう出勤しないの?」
カ「土曜に行く」
モ「何しに?」
カ「卒論発表会」
モ「…(何かのスイッチが入る)学芸会なの!」
カ「…(また、つきあう)うん、そうね」
モ「カツポ、『北風と太陽』やるの!練習の成果をみせるの!」
カ「なにゆえ、『北風と太陽』なんだ?」
モ「なんとなく。一緒に暮らしているから」
カ「北風は誰なの?」
モ「わたし」
カ「太陽は?」
モ「おかあさん」
カ「……」
モ「毎日北風に責められるカツポ。『えーん、おかあさ~ん。』ププッ」
カ「……(『北風と太陽』って、そういう話じゃないよね)」
モモの妄想は続く。

※ ちなみに、母親とは一緒に住んでいません。
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『ある精肉店のはなし』を観る

2014-01-10 07:43:04 | 劇場の虎韜
9日(木)は、午前中から夕方まで、昼食も摂らず会議・学生面談の連続。帰宅途中に、一昨年から待望の『ある精肉店のはなし』を観てきた。
いわゆる屠畜のシーンについては、すでに一昨年、北出新司さんの解説とともにラッシュを観、感想も述べたので、あらためて詳細は書かないことにする(しかし記録としては貴重な気がするので、前記事へのリンクを付けておこう)。今回、完成した作品を観て、あらためて感銘を受けた点はとりあえず2つ。

まず1つは、この映画が単なる屠畜の記録映画ではなく、近代から現代に至るひとつの家族=精肉店の物語として成立していること。まさに映画のタイトルどおりであり、もちろん屠畜の問題とは切り離せないながら、纐纈監督の目論見が「家族を撮る」ことにあったのが明確に伝わってきた。被差別の系譜を引くまちのなかで、子供たちが多感な時期をいかに過ごし、社会に憤り、親に反抗し、それでも親の背中をみつめて家業を継いでゆく、伴侶を得て家族をなしてゆく、その生き方がいかなるものであったのか。一方の親たちは、そんな子供たちをどのような思いでみつめてきたのか。澄子さん、新司さん、昭さんたちの、父親に対する思いが、さまざまに語られてゆく。ラストで象徴的に映される、居間の隅の、子供たちの背丈を記した柱。それはまさに、そのときどきの家族の思いがにじみ出る、家族の歴史書である。少し前の場面で、取り壊される牛舎から父親の名のある上棟札が取り出されていたが、この二つの「木材」が、ぼくのなかでは二重写しになった(個人的にいちばん好きなのは、東の仮装盆踊りのシークエンス。赤毛のアンに扮した静子さん、可愛かったです。うちの母親もそうだけれど、現在70前後の女性の憧れは、やはりアンなのだな。獣魂碑、鎮魂祭がみられたのもよかった。読誦されていたのは『阿弥陀経』だったか、癖が強くてよく聞き取れなかったが…しかし真宗は、教理的に動物や植物の生命をどう考えるかという点が弱い。宗派において、もっと積極的に議論してほしいところ)。

次は、少し学問?めいたことを。太鼓の張り替え。皮なめしから張り替えに至る一連の作業を、今回初めて映像で観た。動物の皮は、例えば狩猟採集社会の動物の主神話(及びその系統の伝承群)においては、獣を人間にし、人間を獣にする転換の装置、獣であることの象徴として重要な位置を占める。しかし、家畜の皮の問題となると、伝承はふいに口を閉ざす。せいぜい、オシラサマへ繋がる馬娘婚姻譚(天斑駒含む)で、馬の皮剥が強調される程度である。牛については、負債を返さずに死んだ人間が転生し駆使されて償うという堕畜生譚が圧倒的で、皮に関する変身譚、祟りの話などは寡聞にして知らない。太鼓についても、軸となる木の祟り話は伐採抵抗伝承の一種として残っているが、皮については聞いたことがない(ぼくが知らないだけかもしれない。どなたかご教示を)。しかしこの、張り替えの際の牛皮の存在感、生々しさは何だろう。伝承が沈黙しているのは、やはり列島における家畜の問題と関わりがあるのだろうか。太鼓には牛皮のほか、馬や鹿の皮が使われる場合もあるが、狩猟で得た獣の場合には何か言い伝えが残っているのだろうか。ん、待てよ、御柱祭シンポでご一緒した張正軍さんが、イ族か何かの太鼓と人身供犠の関わりを報告していたような…。ま、今後はもう少し意識的に集めてみることにしよう。

今年は正月から、いろいろ印象に残り、かつ考えさせられる、良い映画を観られている。感謝。
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『かぐや姫の物語』と所有

2014-01-08 20:28:53 | 劇場の虎韜
『かぐや姫の物語』について、続き。書き忘れたのだけれども、高畑勲のなかでかなり意識されていると思われたのは、「所有」の問題である。
いちばん露骨に出てくるのは翁で、姫を竹藪で手に入れた日から「わしが授かったんだ!」と始まり、その欲は最終的に、官位と引き替えに姫を天皇へ差し出すまでに膨張、結果として彼女を月へ帰してしまうことになる。姫に求婚する貴族たち、そして天皇も、彼女を「所有」しようとする。姫の気持ちに寄り添う媼でさえ、それらの「所有」に対しては「所有」で対抗せざるをえず、寝殿の隅に使用人小屋という自分の居場所を確保する(この時点で、所有の生み出す階層秩序のなかへ取り込まれてしまうのだ)。姫もそれに倣い、奪われた「誰のものでもない故郷」のニセモノを所有し、自分を慰めようとするが、都に連れてこられて美しい着物、壮大な屋敷に喜び、それらを「所有」してしまったときから、哀しい結末は決まっていた。「所有」は「所有」を呼び、次々と「所有したい願望」を引き込んでゆく。ここに、現世における姫の罪と罰がある。
これらに対立する軸として登場するのが、捨丸に象徴される移動民の木地師集団である。彼らの所有は生存に関わる最小限のもので、「所有しない」ことは「故郷を持たない」ことによって象徴的に示される。姫はそのなかへ回帰することで救済を求めようとするが、捨丸とお互いを「所有」する約束を結ぼうとしたとき、彼がすでに妻も子供も「所有」していることによって軋轢が生じ、望みはかなえられずに終わってしまう。姫が救済されるためには、やはり「非所有」の神仙世界へ戻るしかなかったのかもしれない。
所有への欲求が苦を生むということは、仏教の根幹にある思想であり、対称性原理が抑制しようとしてきた滅びへの道である。現代における資本主義の暴走はその予言するとおりの惨状を呈しているが、高畑勲がそれに抗おうとしていることは確かだろう。
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文化財レスキュー関連「牡鹿半島のくらし展 in 仙台 ―再生・被災文化財―」

2014-01-08 05:11:29 | ※ 告知/参加予定
文化財レスキューでお世話になった東北学院の加藤幸治さんから、暮れに下記のようなメールが来ていました。レスキューした文化財の特別展示です。できればぼくも行きたいな、と思っています。皆さまもどうぞ、お運びを。

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みなさま

東北学院大学の加藤幸治です。
今日は現在準備中の展覧会について、ご案内をさせていただきたく、メールをさしあげました。

新年1月10日(土)~13日(月・祝)、被災文化財を陳列して聞書きを行う「牡鹿半島のくらし展in仙台」をせんだいメディアテークにて開催いたします。昨年度に続いて2回目の開催となります。
今回は、東北学院大学が文化財レスキューを担当している鮎川収蔵庫の一時保管資料の約3分の2を占める、破片や部品等の断片化した資料は展示せず、単体で形の保持されているもののうち、クリーニングと殺虫処理等の作業が終わったもの約400点を陳列させていただきます。
今年度8月の牡鹿半島の鮎川地区、11月の石巻市内の慶長遣欧使節船ミュージアムでの展示と同様、今回も学生が聞書きをして、民具のデータを作成します。
以下のように大学からプレスリリースをしましたので、御一覧ください。

東日本大震災の津波で被災し、レスキューされた民具について、学生が聞き書きを行って作成したデータシートは3年間の活動で600枚を超え、さらに、鮎川の老人ホームやデイサービスでの聞書き、捕鯨会社での聞書きなど、活動も広がりが出て来ました。
そうしたデータを、民具の台帳・目録に反映させて、復興後の博物館活動に生かしてもらえるように作業を進めています。
今回は、昨年度同様、牡鹿半島から仙台市内に震災後に移転したり、見做し仮設で仙台市周辺にお住いの方々、また仙台市内にお住まいでもともと牡鹿半島に縁のある方などに、できるだけ来ていただき、聞書きを行いたいと思っています。

どうぞよろしくお願いします。
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『かぐや姫の物語』を観て

2014-01-07 11:45:38 | 劇場の虎韜
6日(月)は、会議と学生との面談のため出勤。帰りに立川まで足を伸ばして、『かぐや姫の物語』を観てきた。比べても仕方ないが、『風立ちぬ』より数段よい(しかし、『風立ちぬ』より売れないだろうな)。

アニメーションとしては、高畑勲の敬愛するフレデリック・バックの作風を、日本のデジタルアニメの製作工程でどう再現するか、というのが大変だったのだろう。実験アニメを見慣れている眼には新鮮さはないけれども、アニメートは近年まれにみる出来で非常にしっかりしていた。姫の赤ん坊時代の描写など、画の動きだけで心を動かされたのは久しぶりである。アニメーションとアニミズムの関係性については以前に論じたことがあり、ジブリアニメでは『崖の上のポニョ』の表現に顕著に表れていたが、アニメートする主体とアニマを与えられた画との関係性を考えると、手描きの工程が直接的であればあるほどシャーマニックな営みとなる。それは自分の身体を自覚する作業でもあり、身体のコントロールにも繋がってくる(マンガ家がキャラクターの表情を描くとき、鏡をみるわけでもないのに画と同じ顔を作っていることは、実体験としてよく分かる)。『白蛇伝』『安寿と厨子王』時代の東映動画の風格もあった。絵巻からの引用も随所にみられ、日本史研究者としての楽しみもあったな。
物語の内容としては、まず、時代を超えて受け継がれてゆく古典の力を感じた。原作の『竹取物語』は、もちろん生のさまざまな営みに視線を向けながらも、やはり現実世界の無常と神仏・神仙の世界の永遠性を対比的にみつめ、後者の価値観を中心に持つものだった。しかしこの映画は、環境世代の目線に立って、現実世界のなかに自然/文化の対立軸を組み込み、草木魚虫と人間との営みをより具体的に描き出したうえで、原作の価値観を転倒させる。地上世界に生きるいのちははかなく、互いに殺し合い傷つけ合い、苦しみと悲しみ、虚仮と無常に満ちている。しかしそれゆえに愛おしい。波立つ苦悩はなく平穏で、けれどもそれゆえにほとばしる激情も、沸き立つ喜びもない天上世界を拒否する主人公は、ナウシカに代表されるジブリ・ヒロインの正統な系譜に位置している(でも、星野鉄郎みたいなところもあるか)。『死者の書』の南家郎女とは対照的…と書くと、語弊があるだろうか。まあ、姫の造型を地上化しすぎて、単純化してしまった面は否めない。神仙=他者としての隔絶性、豊かさの方は薄れてしまった。
もっとも価値観の転倒の問題は、思想史的にみれば「本覚思想化」なのだということもできる。映画のラスト、月世界からの聖衆来迎(これは、平安~中世の隠された心性を捉えていて見事)に象徴される神仙・神仏世界の「平和」は、愛憎を超越したその静謐さゆえに否定的に位置づけられるが、そもそもなぜ仏教が現実を苦と捉えそれからの解脱を唱えたのかを考えると、日本列島の環境文化のなかだからこそ可能な「転倒」だといわざるをえない。劇中、姫が再会した木地師の青年に対し、あなたと一緒なら「生きていける!」と繰り返し語る場面があるが、そのとおり、日本の環境でなら生きてゆけてしまうのである。数多繰り返された激甚災害の犠牲となったいのちのことを思うと、簡単には断言できないのだが、それでも日本の環境は生命の生育において極めて恵み豊かなのだ(もちろん、そこに政治的・社会的要素が加わると、とたんに〈生存〉を危ぶまれる情況になってしまうのだが)。現実世界のいのちの営み、その豊かさを具体的に描き出すことに力点を置いたこの映画は、その本当の対立軸である神仙世界・神仏世界の価値観については充分に表現できておらず、それを憧憬せざるをえない人々の心のあり方には目を向けていない(倶会一処を描いた二階堂和美の主題歌「いのちの記憶」が、それを補っているということだろうか)。その意味で『かぐや姫の物語』は、列島の環境文化、列島的価値観に絡め取られた物語なのだといえるだろう。

暮れに深夜のテレビで『パンズ・ラビリンス』を放映していたのだが、DVDを持っているにもかかわらずじっくり観てしまった。そういえばあの映画も『かぐや姫の物語』と同じ構造を持っているが、スペイン内戦の悲惨な現実のなかで、『かぐや姫』とは逆に楽園を希求する物語になっていた。楽園/現実の間で揺れ動く人間の姿は、シャーマニズム研究の主題のひとつでもある。とにかく、『ハンナ・アーレント』に続いていい映画を観た(しかしまあ、自然と共生しすぎの平安時代であったことよ。もっと開発してるよなー、実際)。

※ 追加。音楽もよかったので、サウンド・トラックほしいな。二階堂和美はもちろんいいのだけど、いちばん印象に残ったのは「天人の音楽」。ゴンチチか!と突っ込んだ。
Comments (2)
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蠢く言葉

2014-01-05 11:17:59 | 書物の文韜
『蟲師 特別篇―日蝕む翳―』を観終わった。新鮮なところはなかったけれど、久しぶりに、自然/身体/心/言葉/文字の相関する作品世界を堪能した。日蝕が出現する場面では、これまで物語のなかに語られてきた人々が、しっかりと地に足を付けて生きている様子が確認でき、作り手が作品への愛情もうかがえてよかった。狩房探幽の姿を観られたことも「よかった」点のひとつだが、この作品における文字・書記と生命との関係性は、文字とアニミズムを考えるうえでも重要なヒントになる。テレビ画面を眺めていて、何となく、探幽の姿と『出三蔵記』に書かれる経典誦出の少女「僧法尼」の姿が重なった。なお、『蟲師』は4月から「続章」も始まるとのこと、また楽しみがひとつ増えた。
併せて、年末から持ち越しの仕事であった、事典項目の執筆もほぼ終了。あとは、表記と文字数を調整して送信するのみ。本年の読書初めは、その参考文献である行基の関連資料だったけれど(第一論文の研究対象に、20年を経てこうした形で関われるのは幸せだな)、文学作品としてのそれは日和聡子かな。今年度は、多和田葉子→残雪→日和聡子と、言語主義の文学に傾倒して読んできた気がする(多和田葉子は、幸いにも上智のイベントで、その衝撃的な声・朗読を生で聞くこともできたし)。とくに日和作品は、言葉のアニミズムとでも形容しうる実験性があり、多和田・残雪とはまた違った意味で惹き付けられる(多和田は声・語り、残雪は文章、日和は言葉か)。読み始めて最初に連想したのが、昨年金沢21世紀美術館の特別展「内臓感覚」で観た、ナタリー・ユールベリ&ハンス・ベリの映像作品「私になる」だった(こちらを参照)。上の『瓦経』は、開いて最初に出てきた話が、偶然にも馬の話。しかも、こちらも(前回の中山人形と同じ)女性象徴。馬は、東北で馬娘婚姻譚の追究を誓ったままほったらかしにしているけれど、あらためて女性の観点から、裏返して突き詰めるべきかもしれない(ちなみに、有名な『遠野物語』のオシラサマの話は、六朝志怪小説の『捜神記』に原型がある。両者を比較すると、前者は馬と娘が互いに好き合って結ばれるのに対し、後者は人間/動物の断絶が激しい。しかし、これを中国的心性/列島的心性の相違と想像してしまうのは短絡的で、後に中国にも、馬と娘の異類恋愛に親和的な類話が生じてくるのである)。
なお、『瓦経』のあとは、『螺法四千年記』『おのごろじま』へと進む予定だが、これも年末に読んだ梨木香歩『蟹塚縁起』『冬虫夏草』などと、類似の世界観である。萩原朔太郎の詩を物語にしたような、あらゆる生命が、それぞれに関わりあいながら、びくびくと蠢く世界。近代主義的な自然/文化の二元論では、言葉はそのなかからはじきだされるか、あるいはその混沌を分節して異なるものへ変容させてしまうが、上記の物語のなかでは、言葉も生態系のなかに組み込まれている。ぼくの言語観はソシュール、丸山圭三郎に多くを拠っているので、言葉が世界を創出するとの観点に立っているのだけれど、もう一度、言葉自体を混沌のなかに投げ込んでみる必要性があるのかもしれない。
先日のポストには書き忘れたが、野田研一さんからは、「交感論」に関する宿題をいただいている。『知の生態学的転回』全3巻も出揃ったことだし、『環境と心性の文化史』から『環境という視座』に至るなかで構築してきた方法論をじっくり再考することも、今年の課題としておこう。
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謹賀新年、2014

2014-01-02 19:35:08 | 生きる犬韜
皆さん、あらためまして、新年おめでとうございます。以前は、年に一度賀状を描くときだけPainterとタブレットを駆使し、PC画家を気取っておりましたが、最近は年末にそうした余裕がなく、Illustratorで簡単なテンプレートを作成し、色調やフォントなどを微調整するだけの方式へ切り替えました。中央の写真だけは、毎年秋田の義父が届けてくれる郷土玩具、十二支の動物を象った中山人形を使用しています。今年は馬ですが、「お姫様」な印象ですね。昨年度提出された卒業論文に、列島文化における馬の表象をジェンダー史的に分析したものがあり、馬を男性として描くものが圧倒的に多いことを指摘していましたが(恐らく、長期にわたって王権の象徴であったり、軍事に使用されてきた影響でしょう)、これは特別なようです。

本年度はサバティカルをいただきましたが、器が小さいせいかご依頼いただいた仕事に対応するのが精一杯で、所期の目的であった単行本刊行の作業は思うように進捗しませんでした(残すところ3ヶ月で何とかしたいところです)。それでも研究の内容面では種々の展開があり、1)瘧を鎮圧する呪符の成立を追った医学史、2)宇治川の洪水を中心にした平安貴族の危険感受性に関する分析、3)四ッ谷鮫ヶ橋の洪水をめぐる災害文化史、4)里山史の概説(未刊)、5)出雲鰐淵寺「浮浪山伝説」の成立をめぐる環東シナ海交流史、6)災害における宗教者の役割(シンポジウムにおける報告・質疑応答のテープ起こし)のほか、幾つかの書評・事典項目を執筆しました。各種シンポジウム・講演会では、1)列島における動植物の喪葬史(〈送り〉の文化史)、2)東アジアにおける洪水伝承の成立と展開、3)六朝期中国江南における神仏習合言説の成立、といった報告を行いました。いずれも長いものになりましたが、本年度中には文章化の予定です。また、やはりあまり進捗しない作業として、院ゼミで輪読している『法苑珠林』のウェブ公開がありますが、関連して江南のシャーマニズム/女性史を読み解く作業も始めており、他の研究とも関連して面白い成果が出てきています。とにかく、今年は「東アジアの歴史叙述」に関する懸案の単行本を出すことを中心に、各種の作業を進めてゆきたいと思っています。

暮れから体調を崩して微熱のある状態が続いていますが(症状は何となくインフルエンザ的。高熱を無理矢理押さえつけているような感覚で、かえってすっきりしません)、正月休みのうちに幾つか原稿を脱稿し、新たな年のスタートを切りたいところです。今後ともよろしくご教導のほどお願い申し上げます。
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