仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

何なのだ、この面白いひとたちは:「交感論シンポ」終わる

2010-10-25 04:26:45 | 議論の豹韜
微熱と喘息のなかで仕事をこなす日々が続く。延べ6時間の会議中ずっとキーボードを叩き続けたり、書類や授業準備に明け暮れ連日徹夜を続けたり…気がつくとシンポジウムの前日になっており、この日も朝までかかってレジュメを仕上げ、1時間ちょっとだけ仮眠を取って会場の立教大学へ赴いたのだった(目覚めてレジュメの読み直しをしつつ、『諏訪市博物館紀要』の念校を確認して同博物館へメールしたりもした)。身体の調子は相変わらずでテンションは上がらなかったが(気管支拡張剤のシールもしっかり貼付)、まあ自業自得でやむをえない。

この日のシンポジウムは、「エコクリティシズムと日本文学研究」「もののけシンポ」に引き続き野田研一さんのコーディネート。本当に刺激的な体験をさせていただいて感謝してもしきれないほどだが、今回の舞台は異文化コミュニケーション研究科主催の講演会「環境と文学のあいだ8:交感論」で、環境哲学の河野哲也さんとのコラボレーションである。河野さんのご著書のうち、上に挙げたようなものは拝読していた。とくに、それらで開陳されているジェームズ・ギブソンの〈アフォーダンス〉の概念は非常に魅力的で、『環境と心性の文化史』でも触れたものの、表層的な理解に終わってうまく使いこなせていなかったため、いろいろ教えていただこうと楽しみにしていた。

14:00過ぎに野田さんの研究室に到着、しばし一次自然/二次自然の概念、「交感」なる言葉について意見交換しているうちに、長身の河野さんが颯爽と登場。肩には剣道の防具を担がれている。後から伺った話だが、何でも小学校1年生の頃からずっと剣道を続け、いま6段への昇段へ向けて稽古中でいらっしゃるという。ぼくも小学校時代に剣道をやっていたので(不真面目で中学へ上がるときに止めてしまったけれど)、まず思い切り親近感が湧いた。進行についてある程度の打ち合わせをして、早速会場へ。その間とりとめもない会話しかしていないのだが、何となく話がしやすい雰囲気でリラックスしてきた。しかし、微熱で頭がうまく回転しないので、とにかく自分の責任をしっかり果たさなければとプレッシャーも強まった。

このシンポのためにぼくが用意したのは、「〈人外〉のものと語り合う世界―東アジアにおける神霊との交渉・交感―」との報告。当初はよりシャーマニックな内容を考えていたが、やはり野田さんのお声掛かりなので動物の精霊へ焦点を絞った。具体的な内容は、春学期の特講を通じ4ヶ月間で考えてきた、異類/人間の交感=交換をめぐる神話の分析。最古の神話形式であるそれが、東アジア世界でどのように成立し展開してゆくのかを、歴史的に跡づけてゆく試みである。とくに、中国江南におけるトーテミズムの意義と、日本列島にトーテミズムが無くなってしまった理由の考察をメインに据えた。対象とする神話の核をなす「毛皮」については、もう少し社会的・経済的価値についても追究するつもりであったが、とても70分では語りきれないので、11/13の上智史学会大会での報告へ後回しにすることにした。あとは、野生(wilderness)、環境世界、二次的自然、身分け構造、言分け構造、ブリコラージュ、アフォーダンス、ハビトウスなどの粗っぽい概念整理。この点は、11/10刊行の『歴史評論』でも少し言及したが、異分野どうしが生産的に語り合うために、それぞれの射程の重複/非重複に関するきちんとした交通整理が必要と思う。テンションの低さが幸いしたのか、あまり脱線せず、5分超過で用意した内容すべてに触れることができた。聴きにきてくださった皆さんの関心に訴えられたかどうかはともかく、とりあえず責任を果たしてどっと疲れが出た。

続いては河野さんのご報告、「自然と野生:生態学的哲学の視点から」。まずはアフォーダンスの概念を簡易に説明され、心理作用を含む生物の行動は常に環境との関係において発現すること、心が身体や環境から独立して存在すると考えることは無意味であることが提示された。つまり、心も身体も環境との繋がりにおいてのみ定義されるわけで、適応とは当該環境に即した〈変身〉であり、かかる形態の創出/生態学的関係の創出こそが、想像力の第一の機能であるという。また〈交感〉は、こうしたコミュニケーション可能な2次的自然とのあいだには成立しえず、人間を拒絶するような野生との関係においてのみ成り立つ。ディスコミュニケーションの情況であればあるほど他者の存在は屹立してゆく。逆説的なことに、その意味で野生と等価に置かれるのは都市なのである…。

とにかく、知的刺激に満ちたお話だった。それぞれの発表終了後、まずはお互いに質疑応答。河野さんから日本文学における野生について質問されたので、古典的世界から現在に至る大雑把な流れをお話しし、さらに仏教における「野生」の位置付けはとの深い突っ込みをいただいたので、アジア化と易行化によって「野生」への視線は希薄化、本覚論の成立と普及が日本仏教的二次自然を確立し、野生とのアクセスを強固に疎外するのではないかとの展望を述べた。私の方からは、アフォーダンスや「環境に広がる心」における集合的記憶論の可能性などについて質問、これまでの議論は視覚に偏重していたので、記憶についてどのようなアプローチができるのか、唯脳論へどのようなアンチ・テーゼができるのかがポイントだとの回答をいただいた。集合的記憶論は「想起の契機が集合的に与えられるもの」だが、それを編成する共通のコードがどのように社会の網の目に保存されているのか、これまで曖昧な議論に止まっていたように思う。アフォーダンスにより社会的記憶、いや環境的記憶の概念が明確化されれば、ぼくらの環境文化史や心性史にも大きな収穫となる。幾つかの意見交換のあと、なんとなく、「ディスコミュニケーションな存在との交感と聞いて、『未知との遭遇』を想い出しましたが」と振ってみたら、「ぼくは『ソラリスの陽のもとに』のつもりでした」とのお答えが。おお、河野さんとはそういう人だったのか…!と、当初感じた「何となく話しやすい雰囲気」に合点がいった。

シンポジウム終了後の食事会では、あるわあるわ、河野さんには失礼かも知れないが、サブカル的なものに対する嗅覚の共通点が次々明らかになった。もちろん、60年代生まれの河野さんの方がコアでハイレベルなのだが、映画、マンガ、SF、音楽など、アンテナを張っていた分野がかなり重複していたことに嬉しくなった。河野さんがいちばん惚れている(「むせるぜぇ!」)アニメは『装甲騎兵ボトムズ』だそうで、ご著書にはそのセリフが散りばめられているのだという。まったく気づかなかった。不徳の致すところである。突っ込む機会を逸したが、野田さんに「先生がお若いときに御覧になっていたSFとかは、何かなかったのですか」と伺ったとき、横から「『謎の円盤UFO』とか」ときたのにも相当に熱くなった(なんて「分かっているんだ、この人は!」と)。野田さんといい、上田さんといい、そして今度の河野さんといい、立教大学はなんというコアな人々を抱えているのだ…と、肩に担いだ赤い防具袋を「シャア専用。通常の防具より3倍速い」と云って去ってゆく河野さんの後ろ姿を、半ば呆然としながら見送る私であった。
ちなみに、野田さん、河野さんとも、Perfumeのファンであることが判明、次はPerfumeのシンポジウムをやりましょうというとんでもない話になった。ぼくはファンというほどでもないのだが、お2人との繋がりは大事にしたいので参加させていただこう(ちなみに野田さんはあーちゃん派、河野さんとぼくはのっち派である)。
またこの日は、すでにネット上で邂逅している☆ The Reflective ☆ ☆ Practitioner ☆のやまもとYへいさんともお会いすることができた(やまもとさんの感想はこちら)。英米文学についてはまったく見通しが利かないので、ぜひ今後もご教導願いたいものである。

それにしても、1年を通じてこれほど楽しく知的興奮に溢れた出会い、経験をさせていただき、野田研一さんにはいくら感謝申し上げてもし足りないほどである。今年は、中村生雄さんら偉大な先達を失ったが、新たに進むべき道を照らしてくださる方々にお会いできた。この1年だけでも、自分の研究者人生は幸福なものだといえそうだ。あとは、この「負債」を返済すべく精進してゆくしかない。
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過労

2010-10-22 04:56:05 | 生きる犬韜
ここ数日のハードスケジュールが祟って、身体が悲鳴をあげてきた。
春学期からことあるごとに現れる喘息が酷くなり、風邪の諸症状と、37.0ちょっとの微熱もある。
こんなことで、土曜のシンポジウムは大丈夫だろうか。自分のことながら、ちょっと心配になってきた。
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アニミズムとアニメート:『もののけ姫』シンポ終わる

2010-10-10 04:53:16 | 議論の豹韜
ずいぶん更新が滞ってしまった。この間、書くべきことはたくさんあったのだが、とにかく忙しくて余裕も何もない毎日だった。秋学期の授業も始まったが、こんなに消耗した状態で来年まで保つのか不安になる。週の3分の2くらいは2時間睡眠程度で頑張っているが、仕事は山積するばかりでなかなか片付かず、そういうときに限って論文の校正などが送られてくるのでげんなりしてしまう。「北條君は勉強のしすぎだよ」などと知人や同僚から声をかけられても、実際は研究する時間など全くないに等しいのでストレスを感じるばかり。しかしとりあえず、『藤氏家伝』論文集と『諏訪市博物館紀要』の校正は終了し、『もののけ姫』シンポの報告も終えた。今月はまだ立教の環境シンポがあるし、11月には明治大学での講演と儀礼研究会・上智史学会での報告、12月には古事記学会での報告がある。原稿も山ほど残っているが、とにかく、校務の合間合間に何とか準備を進めるしかあるまい。

『もののけ姫』シンポは、そんな消耗する毎日のなかでも、なかなかに楽しめた1日だった。コーディネーターの野田研一さんに感謝するばかりである。
一緒に報告をさせていただいたのは、以前にも書いたが、ぼくにとってはキラ星のように輝く先輩たちばかりである。野田さんはもはや書くまでもないが、ネイチャー・ライティングの第一人者で、最近はハルオ・シラネ氏の二次的自然の概念を参照しつつ、分節化以前の野生(wilderness/wildness)に迫る論考を発表されている。今回のご報告も、『もののけ姫』が日本作品にしては珍しくwildernessを扱っている点に注目されたものだった。ちょっと古いところでは戸川幸夫氏、最近では熊谷達也氏などが、日本人にとっての野生の問題を鋭く捉えた文学作品を発表している。戸川氏のそれは恐らくジャック・ロンドンの影響だろうが、そういう意味では英米文学の視点から捉え直された〈野生〉が描かれているのかも知れない。熊谷氏のバックボーンについてはよく知らないが、二次的自然に馴れきったこちらの価値観をかき乱す荒々しさがある。それらの試みをどう捉えるか、今度野田さんに伺ってみたい。
小峯和明さんも、いわずもがなの中世文学の権威である。今回は、中世の思想的宇宙へ『もののけ姫』を「開く」ご報告だった。とくに中世神話の観点から、『もののけ姫』に描かれる神々は排除されてゆく「実者」と共通性を持っている、というご指摘は印象に残った。中世神話の研究者のなかでは山本ひろ子氏が、公開当時、その「近代主義」や「神話性の喪失」を批判した論考を発表している。ぼくらの編纂した『環境と心性の文化史』でも、斎藤英喜さんが同じ立場から『もののけ姫』批判を書いていた。ぼくもそれらに近い見方をしていたのだが、今回あらためて『もののけ姫』をみなおしてみて、小峯さんの語るようにもっと多様な読み方ができる作品であることを再確認した。
田中治彦さんは開発教育の専門家で、以前、『もののけ姫』を扱った氏のホームページを拝見し、自分の読み方と共通する点の多いことに驚いた記憶があった。今回は作品内部/外部の様々な対立/共生の図式を整理し、その構造自体が、二項対立を乗り越える弁証法的ベクトルを持つことを明らかにされていた。以前ぼくも、『環境と心性の文化史』のなかで、ものごとを二項対立的に把握することの問題点を指摘したことがある。すでにマルクスが述べているが、AとBが対立しているとしてもそれは見せかけのものにすぎず、AはBがあるからこそAに、BはAがあるからこそBになるという根源的関係態が実相なのだ。これを動物神と人間の関係に置き換えれば、また違った『もののけ姫』の世界が浮かび上がってくるかも知れない。なお、田中さんは以前、『エヴァンゲリオン』に関するシンポジウムも開催されたことがあるのだという。
上田信さんは、環境史を研究している人間にとっては一種のアイドルでもあろう(というのは失礼か)。今回は、ご自身ジブリを訪ねて『ナウシカ2』の企画書を持ち込んだという恐ろしい告白をされ、そのお人柄と共に非常に強烈な印象を残された。ご報告は『ナウシカ』の諸要素と『もののけ姫』の諸要素が符合する点を指摘され、宮崎駿が作品の断片を様々に変換・置換しながら物語を紡いでゆく、その創作作法(まさにブリコラージュ)を明らかにされるものだった。上田さんは「宮崎駿の語り」は後付けであり資料としては使用できないと断言されていたが、その点はもっと議論ができるところだろう。ぼくは、『もののけ姫』『千と千尋』『ポニョ』といった作品には企画書、製作過程を追ったドキュメンタリー、完成後のインタビューが存在し、それらがほぼ論理的一貫性をもって成立していること、思想家や文学者との白熱した討論のなかにも同じモチーフが表れること、アニメの製作体制はあくまで集団的なものであり常に演出意図の周知が求められることなどから、上記の「語り」は充分読み込む意味があると考えている(「後付け」でないことは立証できるのだ)。しかし、『もののけ姫』から『ポニョ』への展開のなかで論理から感性への移行はあり、それに連れて宮崎駿の創作態度も、周囲との議論を繰り返すものから、個人の内面に閉じて達成するもの(岬籠もりとか)へ変異してきたように思われる。
ぼくの報告は、アニミズム表現の変化を基軸として、上記のような『もののけ姫』から『ポニョ』への感性への傾倒、野生の思考への接近を跡づけるものだった。しかし、今回とくに重視して論究したのは、アニミズム的思考とアニメートという実践との関わりについてである。あらゆるものが生命を持ったように動き出すアニメーションの世界は、語源を同じくするだけでなくアニミズムと強い親和性を持っている。また、絵に動きを与えるアニメートは、描き手の身体に記憶された自然環境との関係によって支えられている。『もののけ姫』以降のジブリの現場では、若いアニメーターの進出が二次自然ならぬ二次アニメーションをもたらし(すなわち自然の動きではなくアニメの動きをアニメートしてしまっている)、問題化することがしばしばあった。その桎梏と葛藤が、宮崎駿単独での全手描き原画からなるアニミズム映画『ポニョ』へ結びついてゆくのだろうが、自然環境との関係からアニメーターのプラチックについて考察する意味は大きいはずなのだ。
相変わらずうまく時間配分ができず、報告の内容も赤面ものだったが、何とか一定の役割を果たすことはできたようだ。時間的に短くなってしまった会場からの質問にもいくつか答えたが、ぼくのパネリストとしての扱いがなぜか「アニメの専門家」になっていて、本来答えるべき(ぼくの専門は心性史・環境文化史です)日本史の環境問題、災害などの質問が、他の先生方へ回されてゆくのは面白かった。なお、立教の院生の方が質問して下さった神とコトバの問題は、そのときには至上神と人間とのディスコミュニケーションとして回答したが、言語と世界構成との関連から考えると、「人間と他の動物神とは同じレベルの世界に住んでいるが、シシ神は別の位相を生きているのだ」という答え方もできたことに後で気付いた。その方が、議論としては面白かったかも知れない。
いずれにしろ、野田先生をはじめとするパネリストの先生方、照沼麻衣子さんをはじめとするスタッフの方々には大変お世話になった。心から御礼を申し上げます。

ところで。その数日後(5日)の『朝日新聞』夕刊に、池澤夏樹氏による「多神教とエコロジー 世界を支配する資格」なるエッセイが載っていた。一神教を批判しアニミズムを礼讃するステレオタイプな内容で、何も勉強していないこと甚だしい。自分自身が対立構造を構築していることに気付かないのだろうか。アニミズムの問題点の指摘、その歴史化の作業は、もっと「声高」に進める必要があるかも知れない(なお余談だが、同日同紙の朝刊に掲載されていた野田正彰氏の「龍馬」表象批判にもげんなりした。史実を大事にすべきとフィクションを批判しておきながら、当然のごとくしっかしりした史料収集や史料批判に裏付けられた発言ではない。偉人にアイデンティファイした生き方も国家主義、あるいは人格の自然な統合ができないと批判するが、アジアにおいては、それが紀元前にまで遡る伝統的な歴史認識であったということも知らないのだろう。このような言説が大きく取り上げられるのをみると、いったいポストモダンとは何だったのか、やはりあらゆる思想的議論は流行として忘れ去られ、その経験はまったく後世に活かされないのかと暗鬱とした気持ちになる)。

※ 写真は、夏休み映画に行けなかったのだからどこかでこれだけは観なければ、と思っている『スープ・オペラ』と『冬の小鳥』。エントリの主題とはまったく関係ありませんが…。
Comments (3)
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