仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

年末の一コマ

2010-12-28 08:59:32 | 生きる犬韜
相変わらず原稿に追われている。
三鷹の新居は地下に書庫兼書斎があるのだが、ここが異様に寒く、エアコンの効きも悪い(フィルターの掃除をしていないからだ、という噂もある)。仕方なくMacBook Airと資料を抱えて1階に避難し、コタツにもぐり込んで作業を進めているが、なかなか捗らない。年賀状も書かねばならないので(通常3日かかる)、早急に何とかすべきなのだが。

26日(日)は、2年次プレゼミ生の忘年会に呼ばれて行った。なんと日曜のお昼にスタートとのことで、非情に「健康的な」においがする(事実、お酒はほとんど入らなかった)。今年のプレゼミ生は、素直なうえに個性派揃いで、あまりぼくを恐れる空気もないため、授業中でも課外でも割合と接しやすい(というかいじりやすい)。興味の方向が偏っているのはやや問題だが(つまり指導教員の関心に近い方向にあるというわけ)、森見登美彦マニア?がいたり、Perfumeのファンがいたり、話題も一応は噛み合うので(本当か?)それなりに親心も湧いている。しかしその分、テストやレポートの採点の際には葛藤が大きくなるのだが…、皆さん、ぼくを苦しめないよう精進してください。今夏ゼミ旅行に行った際には「まだまだ高校生っぽいなあ」と思ったものだが、これからぐんぐん成長して頼もしい存在になっていってくれるのだろう…と、予約2時間のところなんと4時間、少々感傷に浸りながら若者たちの興味関心、学生生活の話を聞いていた。しかし、ぼくを「かつぽん」と呼ぶ女子学生がいるとの情報には驚いた。ブログの弊害である。

さて、明日にはモモは豪雪の秋田へ帰ってしまい、3日まで独身生活の悲哀を味わうことになる。30日には同期の友人たちとの忘年会、31日には実家で除夜の鐘の手伝いがあるが、あとは自宅に引きこもって寂しく執筆三昧である。例によって大掃除は年度末へ先送り。いただいた抜刷へのお礼も書かねば。とにかくがんばろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近のマンガ単行本

2010-12-25 11:39:25 | 書物の文韜
世の中はクリスマスである。ぼくには信仰上は関わりはないが、心情的には敬意を表しておきたい。

ところで、今年ももうすぐ終わりなので、このところ言及していなかったサブカルネタをまとめておこう。上に並べたのは最近買ったマンガ、雑誌の類である。マンガといえば某賞?に選ばれ、売り切れ続出の『進撃の巨人』が巷を騒がせているが、ぼくは何となく気に入らない。確かに1巻が出たときには、同人誌レベルの画力・構成力にもかかわらずなぜか読ませる不可思議な力量、いろいろな妄想を抱かせる展開に魅力を感じたのだが、最新の3巻では早くもその輝きが失せてきた。きっと、読む側の「妄想の幅」が狭められて、作者・編集者の想像力の限界がみえてきてしまったからだろう。実際にそうであるかどうかはともかく、そう思わせる流れになってしまってきたことが問題なのである。また、これだけ騒がれてみんなが読んでいると、へそ曲がりのぼくは、「そんなにいいマンガなのか?」と疑問を持ってしまう。その意味では不当な評価かも知れないが、1巻発売の頃から、何となく「過剰宣伝」の雰囲気はあった。それが年末の受賞に繋がっているので、どこかに『KAGEROU』的な胡散臭さを感じてしまうのだ。デザインや設定はすべて見覚えのあるものだし、画力的にも何ら魅力を覚えないので、新たに驚愕させるような展開が起きない限り、もはや購入はしないだろう。
その点、福島聡の新作『星屑ニーナ』は凄まじい。ネタバレになるのでストーリーについては書かないが、1巻でここまで濃密な物語を作ってしまって、この先どう展開させてゆくのだろう。「人間は死ぬがロボットは死なない」という時間的感覚の食い違いは、これまでにも何度か描かれてきたが、それを生命の問題、記憶の問題として、何十年、何百年にもわたって描ききろうというのだろうか。切ない。色の薄いインクでの印刷も、福島聡の画に合っていてよい。
山川直人の『澄江堂主人』も、いわゆる流行とは真逆の絵柄だが、1ページ1ページがイラストとしても成立しており、所有欲を大いにくすぐる出来となっている。物語は、芥川龍之介の晩年を、彼を漫画家に置き換えて描いたもの(前編はほとんど「歯車」のマンガ化といってよい)。その「置換」自体にいかなる意味があるのかは不明だし、好き嫌いも分かれるだろうが、読者の想像力をかきたてる力を持った記憶に残る作品である。
『京大M1物語』は、今まで手にしたことがなかったのだが、最近何となく買って読んでみた。物語と構成の緻密さは及ばないが、男性視点版『動物のお医者さん』といったところだろうか。京大が舞台なので、やや森見登美彦も入っている気がする。「動物民俗学」研究室の設定には疑問を感じなくはないが、大学院の雰囲気はよく出ているかも知れない。それにしても、この1巻は2007年に出ているのだが、その後3年の間続刊がなされていない。『四畳半神話大系』人気に便乗できそうなものだが、『もやしもん』なんかとバッティングして敗北したのだろうか。ちなみに、大学サークルものでは『げんしけん』などが人気だが、ぼくの学生時代は細野不二彦『あどりぶシネ倶楽部』がバイブルだった(文庫化されているようなので、映画好きの人はぜひ)。
最後の『幽』は、毎季楽しみにしている怪談専門誌。今回は「みちのく怪談」が特集で、赤坂憲雄さんも出ており興味深く読んだ。しかし最近、「怪異」を商品化している印象があまりに強くなってきて鼻につくのも確かだ。主力連載である「実話怪談」類も、加門七海や立原透耶のものには、時折気分が悪くなる表現がある。平山夢明も同じだが、彼は当初から「実話怪談はフィクションである」ことを標榜しているので、別に怒りは覚えない(作風が好きになれない、というだけである)。その点、小池壮彦、安曇潤平の書くものには、「分からないもの」への敬意が感じられ、落ち着いて読むことができる。どうか、安易なスピリチュアル・ブームに流されないようにしてほしい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだ年は越せない

2010-12-22 23:48:02 | 生きる犬韜
18日(土)、古事記学会での報告が終わった。一応、今年度最後の研究発表である。
今年は実にシンポジウム5回、講演もしくは研究報告を5回、論文を12本書いた。異常なペースで、こんなことはもう2度とない(やらない)だろうが、確かに消耗もしたけれども充実もしていた。幾つかの素晴らしい出会いがあったし、自分のやってきたこと、やろうとしていることに一定の評価が得られたのも大きい。20~30代前半までは、シンポなどで報告を行っても批判されたり非難されたり、生産的な議論にならないことが多く、その分心身ともに疲弊したものだった。そういうことがなくなっただけでも、心情的には極めて〈楽〉に、そしてあまりぶれのない状態で、目的とする方向へ歩んでゆけるというものだ。

さて、古事記学会へは今まで一度も伺ったことがなく、ぼく自身、独自の見識を持ちうるほどに『古事記』を勉強していないので、これはかなりの酷評を受けるに違いなかろうと覚悟していた。しかし、蓋を開けてみると、ご依頼をいただいた工藤浩さん、いつもお世話になっている三浦佑之さん、密かに畏怖の念を抱いている呉哲男さんらに大変な評価をいただき、かえって恐縮してしまった。工藤さんからは亀卜の問題について、三浦さんからはオシラサマの起源譚の考察について、呉さんからは王権・国家以前の情況についてより深く考察するよう、それぞれ宿題をいただいた。二次会は、早稲田の高松寿夫さんに高田馬場のショット・バーへ連れていっていただき、三浦さんや呉さんと遅くまで意見交換をすることができた。呉さんの希有な人生経験についてもお話を伺い、たくさんの「プレゼント」をいただいて帰宅した。これから、借りをお返ししてゆかねばならない。
まずはこの神話と環境に関する話、某社から単行本となって出る予定だが、ホットなうちに書いてしまった方がよいだろう。ドメスティケーションの起源を語る神話・伝説の探索、江戸期山人言説の集積と将来漢籍との比較などから、厳密を期してゆくことにしようか。とにかく最近は、地域も列島から、時代も古代から離れて考えることが多い。自分の掲げるテーマを追究してゆくことが、「日本古代史」という枠組みのなかでは、明らかに難しくなってきたのだ。

20(月)~22日(水)は、通常の校務を粛々と進めた。まず日・月を使って、輪講「環境と人間」小テストの採点。ひとつひとつコメントを書き込んだので、案外時間がかかってしまった。原典講読の終了後は、4年生との面談。ゼミのYさんとは、内定企業から、「自分の倫理観や責任感について、知人の社会人へインタビューして100点満点で採点してもらえ」との(ものすごい)課題が出ているとのことで、結局3時間ほど話をした。まあ後半は世間話や身の上話になっていたのだが、彼らの入学時から、プレゼミ、ゼミ、卒論に至るまでの過程をさまざまに思い出した。Yさんは、1年生の頃はかなりとんがっている印象があったのだが、2年生でのプレゼミ指導等を経て、かなりナイーヴな感性の持ち主なのだなと印象が変わってきた。しかし、入学時から持ち続けた仏教美術への関心を、しっかりと卒論へ昇華させる芯の強さ、頑固さも持ち合わせている。ぼくらは大学という限定された場でしか、まさに教員/学生という関係のなかでしか彼らを捉えることができないが、それでも4年間みていると、その人となりがある程度は分かってくる。最初は怖がっていた学生たちも、そのうち気軽に声をかけてくれるようになる。しかし、もうその頃には卒業ということになり、卒業生の大半は、その後ほとんど研究室に顔をみせることはない。元気でやってくれていれば、それでいいのだが…。それにしても、卒論作成の作業は、本当にその人の人間性が表れてくる。必要以上の慎重さや緻密なデータ整理、それとは対照的なひらめき・思いつきの重視、自宅や図書館にこもって徹底的に自己を追い詰めるタイプ、頻繁に研究室を訪れて相談をし、その会話のなかで何かを掴んでゆくタイプ。学生たちは、就職活動と卒論執筆を経験すると確実に成長する。逆にいうと、いい加減に終えてしまったのではまったく伸びない。彼らが困難を克服してゆく様子を眺めているのは、心配ではあるもののそれなりの喜びがある。
水曜は、初年次教育検討小委員会や学科会議、修論演習の合間に、1年生プレゼミ希望者Sさんの面接を行った。彼女は自主ゼミのリーダー的存在でもあり、Sophia History Clubを仲間たちと立ち上げた強者である。歴史への関心もマイナーな方向へ向いており、歴史学自体を踏み外してゆきそうなので、大きく期待しているところだ。この日の夜は、修士1年生の打ち上げに付き合った。大学院にもなると、自分のゼミに出ている以外の院生たちと交流する機会はあまりないが、個性豊かな面々と話をすることができた。自宅最寄駅の武蔵境周辺について、スピリチュアルな情報も得たので、今度調べてみたい。

ということで、ようやく冬休みに入りはしたが、23日(木)にはまだ授業があって、生涯学習の講義のため横浜へゆかねばならない。今年中に脱稿せねばならない原稿、休み明けに出さねばならない論文も山積している。そして1月は、卒論・修論の採点をしているうち、あっという間に学期は終了してしまい、激動の入試シーズンに突入してゆく。今年度は、1~3月のシンポや講演の予定はないものの、書き下ろし単行本の原稿をできるだけ早くに仕上げねばならない。とにかく、もうしばらくがんばってゆこう。

※ 写真は、兵法の論文を載せていただいた『藤氏家伝を読む』。ようやく刊行となりました。分野として括るのが難しい(いうなれば政治文化史か)、新しい領域へ踏み出した論文でもあるので、けっこう気に入っています。世の中の評価はどうか分かりませんが…。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さて。どうなったかな?

2010-12-15 21:00:25 | 生きる犬韜
大澤信亮氏の『神的批評』。イノさんのお薦めで買いました。通勤・帰宅の車中、立っていてPCが打てないときに読んでいるが、確かになかなかいい。冒頭の「宮澤賢治の暴力」は、かなり引き込まれる。いずれ、ちゃんと感想を書こう。

今日は卒論の〆切日だったが、学科長会議・教授会・文学部教員研修会の連続で休む間がなかった。合間合間に、学生から入ってくる「卒論提出しました!」というメールへ返事を書いていたが、果たして全員出せたのか。連絡がない学生が3人いて、昨日の時点で「明日出します」とは云っていたのだが…少し心配である。

心配といえば土曜の古事記学会、そして連日催促されている原稿2本、某学会の査読1本。さらに、8月に寄稿済みの原稿も、体裁に関してリライトの連絡が入ってきた。年明けには、別の原稿も2本出さなければいけないので、もはや冬休みなど無きに等しい。卒論・修論を読んで採点もしなければならず、1月を無事に過ごせるか不安でならない。

何だか、不安と心配ばかりで年末に相応しくない?な。モモの話では、ぼくの来年をカタカナ4文字で表すと、「ワクワク」だそうなのだが。上半期には単行本が出そうなのが、せめてもの救いか(いや、余計忙しくなるのか?)。そうそう、ちなみに、勤務校の史学科のホームページが、ブログ形式で試験運用されている。「専門の研究を始めたきっかけについて、自己紹介的に書いてください」といわれたので、去年の3月に提出した文章が掲載されている。あまり他でしたことのない話かも知れない。しかし、掲載されている他の先生方の文章を拝読すると、何だか少し趣が違う。ご自分の分野の現代的意義、必要性などをお書きになっていて、立派である。あれえ、自己紹介じゃなかったんですか…とここでも何か不安になってしまった。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師走の風景

2010-12-12 23:49:41 | 生きる犬韜
最近、心に残ったことがあってもすぐ忘れてしまう。執着を離れて、次第に仏に近づいているのだろうか。だとしたらありがたいことだが、定期的にブログを更新するのは大変である。

秋学期はとにかく怒濤の勢いで過ぎ、気がつくともう師走も中旬に差しかかっている。卒業論文の締切も間近に迫り、4年生も浮き足立って来ているようだ。今年は優等生ばかりなのだが、その分自分の作業に不安を覚えたり懐疑的になったりすることも多いらしく、例年にも増して相談に来る学生があとを絶たない。この期に及んで…とやや心配になるが、きっと出来は悪くないに違いない。一部、提出できるかどうか自体を危ぶんでいる子もいるのだが。
そんなわけで、例年この時期は精神的に落ち着かない。今年はとくに、約束の原稿も仕上がっていないし、18日(土)には古事記学会での報告もある。引き受けるんじゃなかった、と今更ながら後悔しているが、まあ義理があるから仕方ない。内容の核は上智史学会で発表した「毛皮をめぐる種間倫理」と同じだが、まったく同一では芸がないので、ジャータカなどの事例を補足し結論も変えている。インドまで手を伸ばすと収拾がつかないから、あくまで東アジア(とくに中国から日本)の受容情況に限定して考えているが、どこまで納得のゆく形に仕上げられるか。併行して書き進めている2つの原稿も仕上げにかかっているが、ここに来て『涅槃経』が大きな意味を持ってきた。とくに、釈迦が涅槃に至ることを「洞窟に入る」と表現していることにあらためて気づかされたが、これは極めて重要な表現で、僧伝類における物語の授受、江南道教における洞窟聖地の成立にも関わりがあるように思う。もう少し粘って追いかけてみよう。

さて、NHKの『坂の上の雲』は、正岡子規が亡くなるところまで来た。日光が出たり陰ったりする細かい演出は、テレビドラマで観たのは初めてで、その気合いの入れようには脱帽する。子規が真之にいうセリフ、「淳さんにとって世界は広いが、わしには深いんじゃ」はよかった。ところで、その後秋山真之は日蓮宗、大本教、宗教研究・霊学研究にのめり込むが、かかる動きは佐々木喜善や宮澤賢治とよく似ている。兵陰陽について書いた拙論はもうすぐ刊行されるはずだが、戦争や軍事理論は人間の生死に直結する分野であるだけに、本来的にオカルティズムと切り離せないのかも知れない。真之にとっても、世界は「深かった」ということか。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マ、マ、マ、マカロニ

2010-12-08 23:48:03 | 生きる犬韜
perfume『マカロニ』の冒頭に、「見上げた空は高くて だんだん手が冷たいの キミの温度はどれくらい? 手をつないで歩くの」というフレーズがある。恥ずかしながら、ぼくら夫婦もよく手をつないで歩く。ぼくの方が幾分進むのが速いので、気がつくとモモはマイペースで後ろをついてきている。ぼくは時々立ち止まり、あるいは逆戻りして、モモの手をしっかり握る。まったく、手をつなげる相手がいるというのはありがたいことだ。「キミの温度はどれくらい?」とは、言葉を発しない会話である。
そういえば、授業を始める前、ぼくらは受講している学生たちの「温度」を測る。教員と学生のそれが同じくらいだと、キャッチボールは割合にうまくゆく。違いすぎるとお互いに疲労する。最近、学生の側の温度が低い、と実感することがままある。彼らの温度を上げるためにはどうしたらいいだろう、と日々考えている。

さて、今週は秋学期開始以来始めて、「臨時学科長会議」がなく比較的時間がある。とにかく原稿を仕上げねばならないので、締切を破りに破っている二原稿の核にある『涅槃経』の情報収集と読み込み、執筆に時間をかけている。先週で終了した「環境と人間」の準備中、やはり『涅槃経』については「もう少し」かと実感した。使用されている比喩に注目すれば、草木についてももう少し別の見解を出してゆけるかも知れないし、動物の王たちに注意すれば、インドの神話的世界との繋がりも見出せるだろう。神話における毛皮の追究にも役立てられそうだ。

ところで、左は最近買った本。秦氏本は、少々議論が偏っている。古代の氏族研究の水準を理解せず、中世以降の、とくに民俗研究、伝承研究の視点から、きちんとした方法論的省察もなしに秦氏を語るのは止めてほしい。ケガレの問題にしても、とにかく新しい研究を参照していない。「日本文化史を書き換える」と息巻いているが、これでは諸領域間の断絶が加速するばかりで何も変えられまい。
秦氏といえば、環境史で修論を準備している院生のI君と、『日本書紀』に載る秦河勝の常世神鎮圧記事を治水との関係で読み直せないか考えている。それが可能であれば、I君の研究も加速するだろうし、ぼくの秦氏本執筆にもいい刺激となる。がんばってほしい。
ブルデューの方は、最後の思想のエッセンス。対象化する主体の対象化、研究の再帰性など、みなおすべき言葉が並んでいる。自分の立ち位置を確認する意味でも重要だろう。

しかし…「出かけるのをやめなさい」は名言だなあ。もうちょっと前だったら、流行語大賞いけたのではないか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師走を体現

2010-12-05 22:21:52 | 生きる犬韜
ザビエル祭のおかげで3日(金)が休日になったので(なんと2週間ぶりの休み!)、原稿を待ってくださっている皆さんに心のなかで平身低頭しつつ、実に10ヶ月ぶりに映画を観にいった。韓国映画「冬の小鳥」の最終日である。 岩波ホールは相変わらずの客層で、良き市民、やや年齢層が高めの善男善女が集まっている。映画のアウトラインは予告編やホームページを参照していただきたいのだが、父親に捨てられて施設に預けられながら、その父親を恨むことのできない、愛してやまない少女がとにかく健気である。自分の境遇について誰かのせいにできたら、それはそれで楽なのだろう。幼い少女は、すべてを自分のせいにしてしまい、殻のなかに閉じこもる。新しい養父母のもとへ独り旅立つ彼女の人生に、どうか幸あらんことを!…と、月並みながら祈るばかり。 それにしても、この手の中国や韓国の映画を観ていて思うのは、日本映画があまりにも物語的に作り込まれていることだ。すべての映像的要素を計算・配置せねばならないアニメーションならともかく、実写映画は各要素が偶然に起こす化学反応こそ重要であり、また、観客はそれが生まれる余白に想像力を掻き立てられるのだ。一人の脚本家、演出家によってがんじがらめにされた世界より、広がりある日常的エピソードの積み重ねこそが、画面にも物語にも深みを与えてゆく。日本映画は、なぜ現在のような方向へ進化してきたのだろう。現在、「原典講読」という講義で絵巻の表現、読み方を説明しているのだが、絵巻は詞書によって支配されてはいない。一昔前までの漫画がそうであったように、日本映画の文法が、映像の独自性より物語としての分かりやすさを追求してきたからなのだろう。学問の世界と同じく、それが観客の感受性や想像力を低下させ、映像文化自体を弱体化させていると感じるのは僕だけだろうか。
映画のあとは、神田を一回りして東京国立博物館へ。これも終了間近の「東大寺大仏展」を見学した。もはやそれほど人出も多くなく、ひとつひとつの作品をゆっくりと鑑賞できたが、ちょっと特別展としては厚みのない内容だったか。快慶の阿弥陀如来像・地蔵菩薩像の截金文様の細かさを間近に観られたこと、五劫思惟の阿弥陀を堪能できたことは幸いだったが…(でもあれは、教学的には「法蔵菩薩像」とすべきだよな)。

4日(土)は、原典講読の準備に終日を費やした。前回で『信貴山縁起絵巻』を終了し、次回からは『伴大納言絵巻』を扱う。幾つかの研究論文、論著に目を通してレジュメを作成したが、やはり新しいことに手を出すのは勉強になってよい(いかなる情況でも、自分を追い詰めることは必要だ)。 夕方からはモモと吉祥寺に出て、次兄夫婦と食事会。美味しいイタリア料理を堪能しつつ、お互いの現状について情報交換。武蔵野大学も、次兄が中心になって教養教育に力を入れ始めているらしく、初年次教育を推進している自分としても、何となく心強い気持ちになった。しかし宗教系の大学は、(ここには書けないが)どこも同じような問題を抱えているようだ。

5日(日)は出勤し、キリシタン文化研究会主催「ソフィア・シンポジウム マテオ・リッチ没後400年記念学術講演」に参加。島原の乱に関する午後の部はずいぶん盛況で、この問題への一般の関心の高さを感じた。しかし、パネリスト各氏の報告を伺い、原城の発掘成果をスクリーンで確認しているうち、不意に猛烈な頭痛に襲われた。度の強い方の眼鏡をかけ、細かいものを観ていると時折こうした症状が出る。もともとは、幼いときの左目の傷により両目の視力の差が大きくなり、目が疲れやすかったために起きていたようだが、とくに最近は血圧が高めのせいか、目眩も伴うようになってよろしくない。最後の議論は退席させていただき、研究室へ帰って「原典講読」テストの採点を行ったが(その出来のせいだろうか?)、吐き気も催してきたので早々に帰宅した。 現在は薬が効いて快復しているが、どこかでちゃんと休養をとらないとだめだな。…といっても、こう原稿が積み重なっている状態ではどうしようもない。催促のメールが届くだけで大きなストレスを感じるので、とにかく一刻も早く脱稿してゆかなければ体調も好転しない気がする。しかし、もう目の前に古事記学会の報告、某学会の査読の締切、卒論や修論の採点が迫っているんだよなあ…。つらい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする