仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

『日本沈没』と自己犠牲

2006-07-29 17:26:39 | 劇場の虎韜
早稲田演習の採点、豊田地区センター生涯学習の7月例会も終わり、前期の仕事はほぼ片付きました。J大の成績評価が残っていますが、8月下旬まででよいので、レポートは時間をかけて読みたいと思います。しかし、だからといって夏休みになるわけではなく、土・日は『災害史』の再校を仕上げねばなりませんし、来週からは早稲田の学芸員資格課程夏期集中講座が始まります。ちなみに、今度は講義をする方ではなく、受ける方になるんですね。実は、史学の教員で学芸員の資格を持っている人は、意外に少ないのです。私も、歴博の共同研究などしているにもかかわらず、学生時代は博物館学しか受講していませんでした。今回、ある事情で必要に迫られましたので、一夏学生に戻って精進しようというわけです。月~金の朝9時から夜7時半までみっちり講義、これは教員をやっているよりつらいかも知れません。

そういうわけで、来週からはまったく時間がなくなるので、金曜は久しぶりに映画を観てきました。写真に挙げた『日本沈没』です。ネタばれになるので未見の方は読まないでいただきたいのですが、さすが樋口真嗣、オーソドックスな物語としてはよくできていたと思います。泣かせどころも心得ていて、ラスト近くではけっこうぐしゃぐしゃになってしまいました。
しかしこの映画、原作や前作とはまったく違う物語として観た方がいいかも知れませんね。主役の何人かは新しいキャラクターですし、原作にある登場人物も、性格付けや活躍の仕方がけっこう違う。何より物語の枠組みが、ずいぶん変更されてしまっているのです。
原作や前作は、日本列島という甘えの元凶=〈母胎〉を失うことで、日本とは何か、日本人とはいかなる存在なのかを問うのがテーマでした。ところが新作はそういった哲学的なベクトルを脇に置き、未曽有の災害に立ち向かう人間の姿を群像劇風に描いているのです。つまり、前作ではなす術もなかった自然の猛威を、今回は人間の力がはねかえすことになる。草薙剛演じる小野寺の命がけの働きによって、日本列島は完全な沈没を免れるのです。そこに、自然に対する日本人の心性の変化を読み取る気はありませんが(例えば『妖星ゴラス』『メテオ』など、自然を改変して災害を脱するという映画は昔もありました)、どうも小野寺への讃歌のようなラストが気になってしまいます。
自己犠牲を物語のモチーフとしてどう評価するかということは、宮澤賢治好きの真宗僧侶である私にとってはけっこう深刻な問題です。『グスコーブドリの伝記』『銀河鉄道の夜』にも感動しましたし、『ヤマト』や『アルマゲドン』にも涙を流してしまうのですが、いつもどこかに疑問が残る。もちろん自己犠牲をまったく否定するわけではないですし、とくに主体的な選択肢としては目標に置いておきたいのですが、どうも納得がゆかない。自己犠牲から感動をひねり出そうとする作品は、生き延びた人々のその後、死んだものの命を背負わされたものの心情を、ちゃんと描こうとしないからかも分かりません。今回の映画では、小野寺を送り出す田所の描写につらさを滲ませてはいましたが、少数の犠牲によって多数が救われる現実を想定はしうるものの、それを疑問視する方向性もしっかりと確保しておかなければ、「神風」を讃美し正当化する心性を醸成してしまう。エンターテイメント大作ではないものねだりなのでしょうが、多くの人が観る作品だからこそ、映画人の責任として注意してもらいたいところです。
ちょっと批判方向に筆が乗ってきてしまいましたが、キャラクターの個性、人間関係、災害に立ち向かうそれぞれの理由も類型的で、新鮮な深みは感じられませんでした。豊川悦司演じる田所博士と大地真央の危機管理担当大臣が元夫婦だったという設定や、阪神淡路大震災をトラウマに持つヒロインが語る体験談、心情などには、リアルさよりも手練手管の印象があります。だからこそ安心して観ていられるところもあるのですが、没入しかけた意識がパッと引き戻されてしまう。ただし演出は長丁場を飽きさせない手慣れたもので(パンフによると、樋口真嗣の演技指導はかなり細かいそうで、これはアニメ的に絵コンテを描く監督の特徴でしょう。ただ、冒頭の田所博士のシーンで、研究室で飼われているネコがカメラ目線になっているなど、見落とし?もみられました)、画のパースや撮り方にも工夫があり、そして何より沈没の災害描写が(不謹慎ないい方ながら)美しい(本来はもっと残酷なもののはずで、美しくみせてしまうところが問題という議論もあるでしょうが……)。なお、列島各地の情況を鳥瞰図でみせる映像、時折現れるちょっとしたシーンやテロップ、音楽の使い方には、前作への強いオマージュが感じられました。

エンターテイメントとしてはよくできていたけれども、セルフには響いてこない。感動はしたもののその感動に疑問を抱いてしまう、という難しい映画でしたね。
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元ちとせ『ハナダイロ』

2006-07-25 04:27:46 | ディスクの武韜
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元ちとせ、2年半ぶりのニュー・アルバムです。

テレビや映画の主題歌となっているシングル曲ですが、やはり、「語り継ぐこと」と「青のレクイエム」がまず耳に残ります。
前者は、私たちみんなが語り継ぐべき物語のなかにいるという、リクールの歴史観を思い起こさせます。歴史の倫理とは、失われた過去の可能性を救済し、生き直すことにある。〈生き直す〉対象は、自らの理想と仰ぐ人の場合もあれば、身近な、かけがえのない人の場合もある。
「もしも 時の流れを /さかのぼれたら その人に出逢える」
……涙が出ますね。最近、死者=歴史的他者へ思いを向ける曲、多いような気がします。
後者は、なんといっても冒頭のフレーズ。冷たく、静謐な言葉が紡がれます。
「それは夢のように まるで嘘のように /残酷な朝は すべてを奪い去った /やがて空の底に つめたく沈むように /息絶えた月は 静かに消えていった」
これは恋愛の終わりなのか、世界の終末なのか。空爆があって、目が覚めたら焼け野原。愛する人はみな消えてしまった……最近のきな臭い世界情勢をみていると、そんな情景も浮かんできます。瞼を閉じて聞いていると、無力感の向こう側に、なにかふつふつと使命感のようなものが湧きあがってくるのが不思議です。

あとは冒頭の「羊のドリー」、ラストの「死んだ女の子」でしょうか。前者はクローン問題、後者は核兵器問題について問いかける、いずれもメッセージ性の強い曲です。あまりあからさまなものは個人的に苦手なのですが、元ちとせ「らしい」ところといえば、ドリーの存在を疑問視するだけでなく、その心性にポジショニングしてゆくところでしょう。
「羊のドリー レプリカント /頭の先からつま先まで /すべてみんなと同じ /だけどドリーは作り物 /メーメー鳴いて尋ねる /私は誰って言ってる /鳴いた声まで誰かに… /鳴いた声までそっくり」
「柵を超えて /陽のあたる どこにでもある世界に /いつか たどり着く事が出来ますように /ドリー でもあと何度生まれ変わったなら /Dolly the sheep そこに行ける?」
自己の〈存在〉を問うドリー。歌い出しの「レプリカント」は複製品という意味だけでなく、どうやら『ブレードランナー』に登場する人造人間に繋がるようです。そういえばあの映画の原作は、『アンドロイドは電気の夢を見るか』でしたね。
私たちは、ドリーのいる「陽のあたらない場所」に、いつか、自分自身が立っていることに気づくのでしょうか。
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夢と歴史と道/仏二教

2006-07-22 16:48:32 | 議論の豹韜
中国の夢判断

東方書店

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19日(水)、首都大の〈夢見の古代誌〉もようやく終了、責任を果たせてほっと一息というところです。会場のある飯田橋区政会館2階のお店〈春花秋灯〉で、猪股さん・三品さん、そして通しで聴いてくださった武田比呂男さんとささやかな打ち上げ。去年もそうでしたが、講義終了後のこの飲み会が、本当に楽しいんですよね。皆さんそれぞれ屹立した専門をお持ちなのですが、学問の基本的考え方やベクトルが似ていますし、サブカル的な趣味も一致しているので、とても気持ちよく話ができる。そういうわけで、下のコメントで繰り広げられているような、大きな話へ盛り上がっていってしまうわけです。冷静に考えると、新しい本を出す前に片付けなければいけない案件が大量にあるのですが、まあ「それはそれ、これはこれ」。「心に棚を作って」やるしかありません。学問は、盛り上がっているときこそが旬!なのです。

12日の2回目の講義は「神霊との交信」と題して、主に道教の夢見について論じました。
まずは敦煌出土の『周公解夢書』などを概観して、王朝の占夢の知識が形式化・一般化したことを紹介。『左氏伝』でも確認できる、マイナス印象の夢をプラスの未来に逆転して解くという占夢のテクネーが、脈々と息づいていることなどを述べました。よく知られているように、自らの死ぬ夢が長寿や栄達を暗示するという解釈は『霊異記』に繋がりますし、糞尿で衣服や身体の汚れる夢が財産の獲得を暗示するという解釈には、〈殺された女神〉のそれと類似の心性を読み取ることができます。
後半は、『周氏冥通記』の読解。この文献、東洋史の研究者でも知っている人は少ないようですが、茅山道教の大成者陶弘景の弟子、周子良による神仙との感通の記録です。本人の仙去により記録の存在が発覚、陶弘景が収集・整理して詳細な注釈を加え、梁の武帝にも献上されました。周子良は、夢を通じて神仙から自らの前世、数世代にわたる修行(このあたりは仏教の影響です)、仙界での役職などを聞き、修行法についてのアドバイスや経典の賜与を受け、ついには仙界へ自由に行き来できるようになります。そして、神仙の処方した仙薬を飲んで、仙去=現実世界においては自殺を遂げてゆくのです(最初にみた夢のなかで、彼は仙界への召喚=現実世界の死を告げられ、動揺し、しかし決心して、着々とその準備を進めてゆく。夢における死の宣告から〈文学〉が始まるという構図は、『霊異記』や『更級日記』とも共通していて面白いですね)。
殷代より確認される夢見の文化が、人の生き死にを左右するまでに展開したことを示す、衝撃的な文献。つっこみどころ満載なのですが、王朝の占夢と異なり夢語りを拒絶することで(神仙との交通は他人に話してはならない)自己省察が深められている点、しかしその経験と解釈は茅山道教における師弟の語りに支えられている点(陶弘景も夢見は重視していますし、周子良の夢のなかには、茅山道教の聖典『眞誥』に登場する神々が網羅されているのです)が重要でしょう。また、この書物の成り立ちが、夢見の当事者周子良による自己省察と、それを客観的に分析する陶弘景の注釈の二重構造になっている点も面白いところ。周子良は神仙に対し、自分の師匠の陶弘景は登仙しうるのかどうかしきりに尋ねるのですが、神仙の側はその都度「頑張っているがまだだ」と曖昧な答えしか返してこない。つまり、現実世界の師弟関係は、仙界では大きく逆転してしまっているわけで、周子良の方が陶弘景より浄化の度合いが極めて高い。陶弘景はそうした記録をみて不審に思ったり、自己のこれまでの行動を振り返り、反省したり納得したりする。このあたり、とてもリアルで興味深いところです。道教研究とは別のレベルからでも、多様なアプローチが可能な文献です。

3回目最後の講義は「護法の奇跡」と題し、仏教の夢を扱いました。前回紹介した陶弘景が、実は仏の夢告を受けて「勝力菩薩」を名乗り、ボウ県の阿育王塔に参詣して五大戒を授かっていた点から、儒・仏・道三教の交流を背景に、それらを総合する形で仏教の夢見が屹立してくる情況を論じました。
まずは、『法苑珠林』眠夢篇の四夢の問題。前後の心理的状態、感情を基準とする『周礼』の六夢に対し、同様の前提は持ちながらも、夢の三性(善・悪・無記)や業報との関係に注意の払われているところが特徴的です。つまり、「人を殺す夢」が「悪業」をなすのかどうか、夢のなかでの仏道修行が「善業」に繋がるのかどうか。熏習はしてゆくけれども業報はなさない、心業として弱すぎるから…というのが、『珠林』の引く『善見律毘婆沙』の解答です。
続いて、護法沙門法琳による、廃仏への対抗言説としての仏罰の夢を紹介。これまで夢見当事者からの要求を前提としていた夢告が、超越者から一方的にもたらされる方向へ変質したこと、その背景には、夢を不安なものと捉える伝統的な心性とともに、超越的世界が常に現実世界を監視・管理しているという、仏教・道教的他界観の喧伝・浸透があったことを推測しました。
最後に道宣の仏教史書、感通書を分析しました。彼は律僧でありながら神秘体験を重視し、志怪小説の怪異譚も吸収しながら、教学における自説の正当化、教団の規則や儀式の権威付けなど、様々な領域に夢というメディアを駆使し、その機能を拡大してゆきます。ここで個人的に気になるのは、『集古今仏道論衡』でも紹介されている、『漢法本内伝』の前漢における仏教伝来記事。夢に金人をみて、その正体を天竺の得道者=仏であると知った明帝が、大月支・中天竺に使者を派遣し経典を書写させるといった内容ですが、もちろん仏教界が道教に対する優位を主張すべく偽作した書物です。夢が歴史の生成に利用されている点で重要なのですが、そのなかで明帝の諮問に答え、金人を仏と解くのが「通人」の傅毅なる人物。役どころからいって恐らく史官でしょうが、初唐の廃仏を計画した太史令・傅奕と何か関わりがある/持たされているのでしょうか。高木智見さんの論文に、老子の家は史官を源流とすると論じたものがあります。とすると、六朝末期から隋唐にかけての道教/仏教の戦いは、伝統的な史官=卜官(占夢官を含む)のテクネーを駆使する道教と、それらに学びながらさらに新たな要素を加え大成させていった仏教との、夢と歴史叙述をめぐる表象の闘争であるとも考えられそうです。

新たな視覚や論点をいただいた、本当に楽しい1ヶ月(本当は、聴講生の皆さんが面白かったかどうか、がいちばんの問題なんですけどね。それほど感触は悪くなかった、と思っていますが…)。猪股さん、三品さん、武田さんに感謝します。さとーさんも、まずは一緒にピンスポ研究会を実現させましょう!
ところで冒頭で触れた〈春花秋灯〉、お店の内装や雰囲気も落ち着いていて、従業員の方の応対も大変丁寧。高級感が漂っていますが、値段はそれほど高くない。実は傘を忘れてしまって金曜に取りに行ったのですが、「私どもが気づきませんで…」と丁重なるお詫びをいただき恐縮してしまいました。料理も美味しく、おすすめです。

写真は、今回の講義でお世話になった本。ちょっと近代的過ぎて、価値観はずいぶん違うんですけどね。
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J史学会7月例会

2006-07-17 01:53:43 | 議論の豹韜
J大学での講義もほぼ終了、あとは早稲田での演習の補講、首都大のオープン・ユニバーシティを残すのみとなりました。もうひとふんばりで、長かった前期も終了です。

ところで15日(土)は、J大史学会の例会で報告をしてきました。内容はほぼ古代文学会シンポの援用でしたが、タイトルは歴史学らしく?「他者表象としての伐採抵抗―非人間的存在に対する想像力の来歴―」と変更。しかしこの発表、私が持ち時間を誤解していたせいで(30分を1時間と誤解)、散々の出来になってしまいました。知り合いの方々は先刻ご承知と思いますが、私は、1時間の発表なら2時間かかる内容、時間の制約がなければ3時間の内容を準備してしまう困った性癖の持ち主です(これは改めなければいけませんね)。この日も、本当は30分の持ち時間しかないものに対し、古代文学会シンポにさらに上乗せした内容を準備してしまいました。当然、とっちらかった語りとなり、後から考えると、伝えるべきことをすべて落としてしまった感があります(しかも、超過して1時間しゃべったにもかかわらず……)。非常な自己嫌悪に陥り、翌日の大半は何のやる気も起きないありさまでした。30分と自覚していれば、〈大木の秘密〉に絞った話もできたんですけどね。

質疑応答でも皆さん唖然とした様子でしたが、報告の主旨をうまく伝えられなかったこともあったのでしょう、何人かの方からタイトルに違和感があるとの指摘を受けました。まずは「非人間的存在」。つまり、通常の感覚ではこれを人間以外の生物とは解しえない、非道徳的・非倫理的な意味と思ってしまう、とのこと。これは仕方ないかな、とも思いますが、〈人間〉という枠組みを通してしか他生命へポジショニングできない、我々の認識論的限界を表現したかったんですよね。またお一人の方は、「他者表象が人間以外のものを指示するのはどうか」というご意見。これも説明不足とは思いましたが、しかし、暴力論や他者表象論は、対象をどこまで/どのように拡大しうるかが重要なところ。環境学関連(とくに思想分野)では、他生命体を〈他者〉と認識するのはもはや当たり前のはず。方法論懇話会では、さらにその先の、対象に設定する暴力の問題にまで及んでいたというのに……。

このところ、古代文学会やら供犠論研究会やら、参加者が環境に関する問題意識を共有している場で話すことが多かったので、正直なところギャップは大きいですね(中澤克昭さんも、帝京山梨のシンポ「寺院の中世史―景観と暴力―」における報告で、「狩猟は暴力なのか」「殺生は中世人にとってそれほどシリアスだったのか」といった批判?を受けたそうです)。自分の報告のまずさはもちろんありますが、学問的感覚の相違にも少々驚かされた一日でした。
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〈夢見の古代誌〉スタート

2006-07-09 12:06:04 | 議論の豹韜
5日(水)、昨年に引き続いて、首都大のオープン・ユニバーシティが始まりました。テーマは「夢見の古代誌―東アジアと日本―」。最初の2回をコーディネーターの猪股ときわさんが、次の3回を三品泰子さんが担当されましたが、すでにお2人の講義は6月中に終了しています。神話や万葉歌、『日本霊異記』を扱ったお話から、〈夢語りの生み出すソシアビリテ〉とでもいうべき本講座の特色が浮かび上がってきたところです。

私の役割はといえば、お2人の敷いたレールを踏襲しながら、古代日本の夢見の文化を東アジア世界へ開くこと。昨年の猪股さんによる『更級日記』論をうかがって、これは面白そうだと引き受けたのですが、東洋史素人の私にとって初めて扱う史料も多く、やっぱり結構難しかったですね。

初日のお題は「天意の探究」。甲骨卜辞の「夢」字の意味から始め、殷代卜占にあらわれる夢、『周礼』占夢官の役割と夢の分類、『春秋左氏伝』にみる占夢の事例などを解説。今回は使ったことのある史料が多かったので、割合にまとめやすかったです。王権直属の卜官=史官に独占されていた占夢の技術(天地の運行、陰陽五行説などと密接な関わりを持つ)が、マニュアル化されるとともに賢人から士大夫層へと移ってゆくこと、災禍の表象に過ぎなかった夢が具体的かつ多様な内実を形成してゆくこと、王と卜官の夢語り/夢解きという関係から、夢語りが共有され同一階層の強固な紐帯を創り出すことなどを指摘しました。あらためて史料をめくってみて、夢に新たな機能を付与するうえでも、案外に史官が重要な役割を果たしていることが分かりました。これは私の〈祟り論〉とも密接に関わってくる問題で、今回の大きな収穫のひとつです。

さて、次回のお題は「神霊との交信」。今までちゃんと読んだことのなかった『周氏冥通記』、『周公解夢書』などを扱います。準備が大変そう。写真は、敦煌出土の解夢書類を校訂・集成した便利な書物、鄭炳林『敦煌写本解夢書校録研究』(氏族出版社、2005年)。
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