今週は、通常の授業のほかに、先週から引き続きの「人間の尊厳の再検討」の2回目、発表者が少ないため自分も輪読に加わっている院ゼミの報告があったので、やはり2時間睡眠の日が続いた。責任者を務めるプロジェクトが難航しているので、大学での空いている時間はその調整に飛び回っているし、その他もろもろ行事もあったので余計である。春学期も半ばに差しかかり、少々ストレスと疲労が溜まってきた感じだ。贅沢な話だが、時折、「普通のお坊さんに戻りたい」と思うこともあった。やらなければならないことがたくさんあると、とうぜん時間的問題から処理できない案件も生じてきて、そのこと自体がまたストレスとなって積み重なってゆくのだ。
はっきりいって、学期が始まると原稿など書く時間はほとんど確保できない。すでに1本の論文、2本の書評の〆切を破ってしまっているが、8月末にさらに1本の論文、1本の書評を提出できなくなることは確実である。10月の秋学期開始の時点でどれだけ脱稿できているだろうか。専任の研究者のなかには、それでも多くの著作を生み出す人々がいるが、どういう1日を送っているのか不思議である。ま、ぼくの時間の使い方が悪いだけかも知れないのだが。
もうすぐ、古代文学会シンポの構想を提出しなければならないが、ゆっくり問題を考える時間が取れない。首都大オープン・ユニバーシティの講座も始まるけれど、6~7月はいま以上に忙しくなることが分かっているので、どうスケジュールをやりくりするかが課題である。とにかく、なんとか頑張らねばなるまい(…また、誰も読みたくない愚痴を書いてしまったなあ)。
それでも授業の準備は、自分の研究に関わってくるので知的刺激はある(要は、もっとゆっくり時間をかけて考えたいということだ)。とくに、院ゼミの『法苑珠林』輪読は重要だ。充分な調査・考察ができなかったのだが、今回は『太平広記』にも収録されている『冥祥記』の逸文、「宋司馬文宣」を扱った。六道篇の鬼神部に入ってきたので、述意部~舎宅部までの概説も併せて行ったのだが、道宣が、やはり注意されるのは仏教的には「餓鬼道」に相当するこの鬼神部へ、中国の鬼神すべてを包括しようとしている点である。すなわち、この部分こそが神仏習合のフィールド、フロントラインとなっているのだ。立論の基本には『阿毘達磨大毘婆沙論』があるが、餓鬼を有威徳と無威徳に分けて、睡虎地『日書』詰篇に出てくるような〓(厂+萬)鬼を後者に、泰山府君などの高位の神格を前者に位置づけ、いずれも輪廻の枠組みのなかに捕捉する。以前にも論文で指摘したことのある、神身離脱説と同様の論理である。「司馬文宣」の物語は、食事を渇望する餓鬼のイメージ(すでに戦国期の〓(厂+萬)鬼に同じイメージがある)に、死すべき者を冥界へ連行する死神のイメージが重なったものだが、餓鬼が前世の悪業を吐露する部分など、神身離脱説とまったく同型なのである(やはりまた、〈説話の可能態〉を強く意識する結果となった)。登場人物でもある霊味寺僧含の主要著作『神不滅論』を立証するような内容となっているのも、慧遠の『三報論』に基づく宮亭湖の廟神解脱譚と類似している。畏怖すべき中村裕一氏の『中国古代の年中行事』が13世紀に想定する東岳大帝の生誕日信仰を、大幅に遡らせうる材料もみつかった。あまり議論が活発化しなかったのが残念だが、やはり院ゼミは勉強になってよい。
来週は、初年次ゼミも豊田地区センターの講義もある。また徹夜続きになりそうだが、なんとか乗り切ろう。
※ 写真は、先日東方書店で買った東洋史の新刊。菊地章太さんは、以前『環境と心性の文化史』へ寄稿していただいたことがあるが、実はまだお目にかかったことがない。「詰」篇から『女青鬼律』への〓(厂+萬)鬼観の変化など考えてみたいな、といろいろ刺激を受けた。『孫子』については、以前『六韜』『三略』『素書』を囓った経験からずっと注目はしている。とくに、兵法は日本史では研究蓄積が薄いので、思想史・文化史の対象としてきちんと扱わねばならないと思っている。しかし、学会発表等で扱って放りっぱなしになっているネタのなんと多いことか。もったいないにもほどがある。でも、最近はシンポで話すことが多くなっているので、無理をしてでも活字化する羽目に陥っている。余裕なくまとめているのが問題だが、勉強したことが必ず活字なるという点ではよいのかも知れない。
はっきりいって、学期が始まると原稿など書く時間はほとんど確保できない。すでに1本の論文、2本の書評の〆切を破ってしまっているが、8月末にさらに1本の論文、1本の書評を提出できなくなることは確実である。10月の秋学期開始の時点でどれだけ脱稿できているだろうか。専任の研究者のなかには、それでも多くの著作を生み出す人々がいるが、どういう1日を送っているのか不思議である。ま、ぼくの時間の使い方が悪いだけかも知れないのだが。
もうすぐ、古代文学会シンポの構想を提出しなければならないが、ゆっくり問題を考える時間が取れない。首都大オープン・ユニバーシティの講座も始まるけれど、6~7月はいま以上に忙しくなることが分かっているので、どうスケジュールをやりくりするかが課題である。とにかく、なんとか頑張らねばなるまい(…また、誰も読みたくない愚痴を書いてしまったなあ)。
それでも授業の準備は、自分の研究に関わってくるので知的刺激はある(要は、もっとゆっくり時間をかけて考えたいということだ)。とくに、院ゼミの『法苑珠林』輪読は重要だ。充分な調査・考察ができなかったのだが、今回は『太平広記』にも収録されている『冥祥記』の逸文、「宋司馬文宣」を扱った。六道篇の鬼神部に入ってきたので、述意部~舎宅部までの概説も併せて行ったのだが、道宣が、やはり注意されるのは仏教的には「餓鬼道」に相当するこの鬼神部へ、中国の鬼神すべてを包括しようとしている点である。すなわち、この部分こそが神仏習合のフィールド、フロントラインとなっているのだ。立論の基本には『阿毘達磨大毘婆沙論』があるが、餓鬼を有威徳と無威徳に分けて、睡虎地『日書』詰篇に出てくるような〓(厂+萬)鬼を後者に、泰山府君などの高位の神格を前者に位置づけ、いずれも輪廻の枠組みのなかに捕捉する。以前にも論文で指摘したことのある、神身離脱説と同様の論理である。「司馬文宣」の物語は、食事を渇望する餓鬼のイメージ(すでに戦国期の〓(厂+萬)鬼に同じイメージがある)に、死すべき者を冥界へ連行する死神のイメージが重なったものだが、餓鬼が前世の悪業を吐露する部分など、神身離脱説とまったく同型なのである(やはりまた、〈説話の可能態〉を強く意識する結果となった)。登場人物でもある霊味寺僧含の主要著作『神不滅論』を立証するような内容となっているのも、慧遠の『三報論』に基づく宮亭湖の廟神解脱譚と類似している。畏怖すべき中村裕一氏の『中国古代の年中行事』が13世紀に想定する東岳大帝の生誕日信仰を、大幅に遡らせうる材料もみつかった。あまり議論が活発化しなかったのが残念だが、やはり院ゼミは勉強になってよい。
来週は、初年次ゼミも豊田地区センターの講義もある。また徹夜続きになりそうだが、なんとか乗り切ろう。
※ 写真は、先日東方書店で買った東洋史の新刊。菊地章太さんは、以前『環境と心性の文化史』へ寄稿していただいたことがあるが、実はまだお目にかかったことがない。「詰」篇から『女青鬼律』への〓(厂+萬)鬼観の変化など考えてみたいな、といろいろ刺激を受けた。『孫子』については、以前『六韜』『三略』『素書』を囓った経験からずっと注目はしている。とくに、兵法は日本史では研究蓄積が薄いので、思想史・文化史の対象としてきちんと扱わねばならないと思っている。しかし、学会発表等で扱って放りっぱなしになっているネタのなんと多いことか。もったいないにもほどがある。でも、最近はシンポで話すことが多くなっているので、無理をしてでも活字化する羽目に陥っている。余裕なくまとめているのが問題だが、勉強したことが必ず活字なるという点ではよいのかも知れない。