仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

モモと歩けば…

2011-01-30 02:00:40 | 生きる犬韜
2月1日に口頭試問を控え、卒論査読の最終段階に入っている。昨年までは、提出された紙媒体を縮小コピーして持ち歩き、通勤・帰宅の各所でメモをとりながら読んでいたが、今年はすべてpdfで提出してもらっているので、MacBookAirでAcrobat Professionalを動かし、傍線を引いたりコメントを付けたりといった作業になっている。いきおい?、土日はほとんど炬燵から動かず、腰が痛いのなんの(最近、どうやら老眼の疑いも出てきたようだし…ぼくもとうとうリストランテ・パラディーゾか)。明日はどこかで運動するかね。モモは、吉祥寺で行われる江口寿史のサイン会へ出かけると云っていたが…。

そうそう、そのモモで思い出したのだが(今は同じ炬燵で熟睡中。腰も悪いのに…)、先週の火曜、23:30頃まで研究室で仕事をしていて、同じく(しかしこちらは飲み会で)帰宅が遅くなったモモと武蔵境駅で落ち合い、2人で歩いて帰ったことがあった。モモもそうだが、運動不足のぼくは、できるだけ帰路は家まで歩くようにしている。早足で20分強かかるのだが、もはや習慣化したのでまったくつらくはない。
この日も、時折なぜか車道の中央へ引き寄せられてゆく酔っぱらいのモモに注意しながら、てくてく深夜の街路を歩いていったのだが、半ばくらいまでやって来たところで、だんだん身体が芯から冷えてきた。はて、いつもはこんなことはないのだが、今日はずいぶん気温が低いのかな?…とよくよく考えてみたら、ひとりのときはかなり歩調も速いので身体も暖まっているが、この日はモモに合わせて歩を進めていたため、倍とまではいかないもののずいぶん時間がかかっていたのだ。
ようやく家にたどり着いた頃には、冷えきってブルブル震えてしまっていた。するとモモが不思議そうに、「なんでそんなに凍えちゃったんだろうね。あたしはポカポカあったかいよ」などと云う。そりゃそうだよ、君は酒を飲んでいるうえに、ぼくより多く、「○○という名の服を着て」いるんだから。

※ 全国の変態よ刮目せよ!ということで、ついに森見登美彦の新刊が出た。仕事の合間に熟読してます。
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学期末が近づく

2011-01-24 23:59:25 | 生きる犬韜
本日26日(水)で、秋学期の授業は終了。あとは1週間試験期間が続き、その間に卒論の口頭試問、その後に入試、修論の口頭試問などが入ってくる。春学期と違い、授業が終わったからといって即休暇となるわけではなく、緊張を強いられる日々が続く。結局、1月半ばまでといわれた原稿も出せていないし、1月末までの原稿など1文字も書けていない。2月は2月で書かねばならないものがあり、各種校正も殺到しそうなので、関係先に平謝りする毎日となるだろう…。

秋学期を振り返ると、やはり幾つかの反省点があり、来年度へ向けての課題も出てきた。
例えばゼミの史料講読は、後半ちょっとだらけてしまった感があった。報告者はプレゼン終了後、ゼミのブログに反省点等々をまとめることになっているのだが、幾ら注意をしても1人を除いて実行しない。確かにぼくのゼミは課題が多く、今年の3年生は人数が少ない分たくさんの作業をさせられているので、あまり口うるさく云って学問への興味を失わせることは避けねばならない、どうしたものかな…と悩んでいたら、後半のフィールドワーク、卒論構想発表等で少し巻き返した印象があった。よくよく考えてみると、今年の3年生は、ゼミ旅行でも質問や感想などをよく口にしていて、道中例年より賑やかだったという記憶がある。年次によってそれぞれ個性があり、得手不得手もみうけられる。そこが学生たちの面白いところのひとつかも知れない、と思い直した次第である(でも、ゼミの評価はちょっと辛くなるかもよ)。
プレゼミは、とくに年が明けてからのグループ報告で、盛りだくさんの内容が調査・発表されて面白かった。しかし、プレゼミ生はお互いにそれぞれ気心が知れてきているはずだし、もはやぼくに対してそれほど緊張感を持ってもいないと思うのだが、特定の学生からしか発言が出ない。もっと何でも喋っていいのになあと、来年度以降の雰囲気作りについて考えさせられた。また、コメントすべきことが多過ぎて時間内に語り終えることができないし、あまり「答え」ばかりを並べても、議論する面白さが損なわれて演習の意味がなくなってしまう。来年からプレゼミ用のブログも作るべきか、あるいはもっといい方法はないか…授業形式についてもさらに工夫が必要だろう。
「原典講読」は、絵巻の読み方に重点を置いて『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵巻』を解説したが、特講のように自分の研究成果を縦横無尽に語る場ではないので、講義をしていて少々フラストレーションが溜まったかも知れない。そこは学生に関心を持ってもらえるよう、いろいろ努力はしたつもりだが、自分自身のなかでは、「ちゃんと面白く知識を受け渡せているのか?」との疑問が払拭できなかった。概説もそうだが、やはりぼくは、思考・視点・論理に翼を生やせないと窮屈に感じてしまうようだ。来年度は「原典講読」の担当を外れ、全学共通「日本史」に復帰するので、受講生たちとせいぜい「飛躍」を楽しもう。

そうそう、これは学外の話だが、成城大学民俗学研究所の『藤氏家伝』共同研究も、先月論文集を刊行して終了となった。18日(火)には打ち上げが行われたが、姉御と慕うF女史が「泥酔」しぼくと増尾さんに絡む絡む。愛情溢れるご批判を多々いただいたのであった。この会、来年度からは「寺社縁起」を対象とする共同研究が始まる。ぼくは『集神州三宝感通録』か、それとも『法苑珠林』の敬塔篇・伽藍篇あたりか、ともかく日本の縁起の原型となった中国のものを攻めてゆきたい。また何か、新しい発見があるだろう。

※ 写真は、読む暇もないのに買ってしまったオランダ製ファンタジー。最初だけちょっと読んだけれど、けっこういける。子供にしか聞こえない周波数でかかってくる電話とは…!
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石神問答

2011-01-21 10:01:22 | 議論の豹韜
1月は激務である。読まねばならないもの、書かねばならない書類がたくさんあって、寸暇を惜しんで取り組んでいるが、身体がついていかない。会議も連続してある。入試が一段落する2月後半までは、精神的にも緊張が続いて疲労が嵩む。毎年、もうこの時期には外の仕事は受けないようにしようと誓うのだが、これも毎年、書かねばならない原稿を複数抱えてしまっている。当然のごとく取り組む余裕も何もないのだが、どこかで何とかせねばなるまい。そう、ブログなぞ書いている場合ではないのだ。

などと文句をいいつつ書き進めているわけだが、左に掲げたのが例の「しゃぶき婆」の実体である。堀一郎が序文を書いている大護八郎『川越の石仏』(川越市、1973年)を手に入れたら、巻末の写真資料集(恐ろしい充実ぶり!)の本当に最後の頁に載っていた。現在では紐縄が巻かれていてその全貌を確認できないのだが、初めてその「中身」を拝見することが叶ったわけだ。大護氏はこれを「塔」と表現しており、真夜中、ある浪人の家に突如として出現するという来訪神的な縁起を記した、江戸後期の記録を紹介している。やはり広済寺とはもともと関係がなく、江戸後期に境内へ寄せられたもののようだが、確かに頭頂部は五輪塔の空輪のようにもみえる。しかし胴体はどうなのか…もう少し、類例を集めて検討する必要があるだろう。灌漑施設の石材についても、類似の形状のものがないか調査しておかねばならない。またもうひとつ重要なことに、大護氏は、呼吸器系の病を癒すというこの石像の霊験を、柳田国男『石神問答』における石神=咳神のテーゼを用いて説明している。それで思い出したのだが、広済寺周辺には松山へ出る北の道、高麗方面へ出る東の道が通じている。東への道は、そのまま秩父を経由して諏訪へ到るルートである。諏訪といえば東国の石神信仰のメッカなわけだが、かのミシャグチとシャブキは何となくイントネーションが似ていないだろうか。miは接頭語として、sha-gu-chiとsha-bu-kiは母音も共通しているし、転訛の範囲内と思える。もともとは諏訪神の祠だったのだ、と考えてもいいのかも知れない。いろいろ無駄な想像力を働かせてしまうが、とにかく、もう少し調べてみるべし。
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川越フィールドワーク!(2)

2011-01-15 19:30:33 | 生きる犬韜
さて、前回からの続きである。

広済寺をあとにしたぼくらは、そのまま東行して川越城内へ。途中、市庁前で出初め式などに出くわしたが、そのまま素通り。せっかくだから、ちょっと見物していってもよかったかもね。古地図を確認しながらゆくと、ちょうど市役所のあるあたりが大手門。さらに進むと、侵入者を排除するための食い違いの堀が出現する。その一部は復原されて残されていたが、写真のとおりけっこう深い。治水・灌漑の機能を思うと同時に、突き落とされて這い上がろうとする自分を想像してしまった(…)。

食い違いから博物館まではそう遠くない。美術館等々が併設されたなかなか立派な施設だったが、まずはその前庭に移設されている城の井戸の前で、ゼミ生のH君の「霧吹きの井戸」に関する説明を聞いた。川越城に危険が迫ると、城内の井戸から霧が吹き出し、城を覆い隠して敵から守るという。川越城周辺は水の多いところではあるが、周囲に山もなくまったくの平地なので、あまり霧が立ちこめるような環境ではない。列島各地の「平城」に伝わる伝承と同じく、攻撃に対する防御が薄いため、人々の不安を払拭すべく政治的に作り出された伝説ではないかとの話だった。城主サイドが生み出したのか下級武士たちが生み出したのか、いずれにしろ不安の産物ではあるのだろう。
博物館は、教育展示としてはなかなかよく出来ており、川越市内の精密なジオラマから、古代~近現代の歴史が分かりやすく説明されていた(最近の和算ブームの影響か、あるいは『天地明察』の影響か、若い女性2人が興味津々に算額を眺めていたのが印象的だった)。とくに、蔵作りの様子を再現した巨大な模型や、上棟式の祭壇の様子など、子供には珍しく興味をひくだろう。最後には「昔ながらの遊び」のコーナーが設けられており、けん玉や独楽などが置かれていたが、学生が「先生できますか」というので30年ぶりくらいに挑戦。けん玉には少々手こずったが、独楽はほとんど失敗せず回すことができた。いや、紐の巻き方を覚えていたこと自体、奇跡的でしたよ。

博物館を出てからは、時の鐘方面へ移動。Lightning Cafeでおいしい玄米ランチに舌鼓を打ち、周囲を流しながら喜多院へ。時の鐘の裏にある薬師神社は、本来「薬師寺」もしくは「薬師堂」であるべきだが、廃仏毀釈運動のなかで改名させられたものらしい。神仏習合の問題を考えるうえでは格好の事例であった。日本の歴史からすれば、現在のように、一定度截然と神社/寺院が分かれてることの方が珍しいのだ。プレゼミ生のS君は、なぜか掛けられた絵馬の群れを凝視。神と人との関係について、何か掴んだようである。

観光客でごった返す老舗、おしゃれなお店の類はほとんど無視して突き進み、一行は喜多院境内へ。今年は正月から妙な因縁があるが、やはり慈恵大師(元三大師)良源を信仰する寺院である(ちゃんと角大師降魔札も配布している)。護摩法要の参拝客が列をなし、屋台も立ち並んで、さながらお祭りのような混雑ぶりである。まずは正攻法で客殿・書院から見学。なかなか凄まじい庭が広がっている。江戸城から移築した建物とのことだが、「将軍も使った」というふれこみの厠には、今にも何かが出そうな雰囲気があった。この日は護摩法要のため本堂=慈恵堂の拝観はできなかったが、ゼミ生のKさん・Sさんの説明によれば、本堂は別名「潮音殿」といい、座ると海原の音が聞こえてきたそうだ。付近からは貝塚も発掘されているので、なるほど、縄文海進はここまで来ていたわけだ。四ッ谷のように台地/谷によって文化が形成されている地域ではないが、水にまつわる伝承が多いのは、長い時間の記憶が受け継がれてきているからかも知れない。
続いては、喜多院最大のミステリースポットのひとつ、五百羅漢を巡る。本来は羅漢像ではなかったという話もあるが、江戸後期よりだんだんと集積され、今は破損部分も修理され(かなり荒っぽいが)曼荼羅状に配置されている。一体一体が様々な姿態をしていて、じっくり眺めているとどんどん時間が経ってしまう。動物を抱えている羅漢像もいるので、学生たちの何人かは、「十二支が全部揃っているかどうか」探し始めた。結果は「羊だけいない」とのことだったが、いやはや、若者はいろいろな遊びを思いつくものである。ぼくは写真を載せたような、自分のお腹を開けて阿弥陀の化仏?を出している像が気になった。まるでチェスト・バスターだが、宝誌和尚像などからの発想だろうか。目黒の五百羅漢寺にはほぼ同じ様式の羅候羅像が存在するが(腹内にいるのは釈迦)、それを模したものなのかも知れない。しばし見入ってしまった。

続いて、慈恵堂の裏にあるはずの三位稲荷を捜索。3年生のKさんの解説によると、三位という小僧、もしくは3人の小僧が、空を自在に飛べる師匠のあとを追うべく、箒やすり鉢を使って高い木から飛び上がったが落ちてしまい、地上には狐の死体が残っていた。これを哀れんで祀ったのが三位稲荷であるとか。神階の三位が意味をなさなくなってから生じた伝承だろうが、空を飛ぶ道具として鉢や箒が出てくるのが興味深い。天台宗の寺院であることだし、恐らく飛鉢法に何らかの関係があるのだろう。飛ばす道具として鉢ではなく竿を用いる伝承もあるから、箒はそのヴァリアントかも知れない。いろいろ想像力を掻き立てられたものの、どうしても稲荷へ続く道が見つからない。あれこれ探して疲れ果て、冷めたお団子などを食べつつ一休みしたのだが、どうも修築中とかで道を塞いでしまっているようだ。夏の京都でも「事件(「伏見事件」と呼ぼう)」が起こったが、どうもうちのゼミと稲荷は相性が悪いのかも知れない。ぼくが戌年だからだろうか?

最後に向かいに鎮座する日枝神社の「底なしの穴」を確認し、日が傾いて寒くなる旧川越街道を、一路川越駅方面へ。それなりの距離を、周囲の地形を確認しながら歩いたが、3年生はともかく、2年生にはもう少し親切に解説しながら歩くべきだったかと後から反省した。駅前に到着後は、とにかくまず暖まってゆっくりしようと、ケーキセットを食べつつ小新年会。早く終えるつもりが、学生ひとりひとりのいろいろな話を聞いていたら、いつの間にか5時間近くが経っていた。アルコールは一切入っていなかっただけに、かなりディープな話も聞いたが、学生たちの顔がよくみえるようになった一日だった(3年生のH君、2年生のAさん、Yさんの印象はかなり変わった…)。
参加の皆さん、どうもお疲れさまでした。
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川越フィールドワーク!(1)

2011-01-13 23:17:18 | 議論の豹韜
冬休みから年越しで書き継いでいた論文、ようやく2本目を脱稿。これから1月末日を目指して、環境関係のものを2本書かねばならない。卒論や修論のことを考えると…まあ、無理だろうけれど。

それはさておき、9日(日)には、懸案の川越フィールドワークを決行した。参加者は、院生1名に3年生4名、そして2年生が3名。朝10:00に川越駅に集合したが、ぼくの場合は三鷹からそれほど時間はかからないものの、なかには2時間かけてやって来た学生もいて、お疲れさまというしかない。この日の川越は喜多院でお焚き上げが行われるとかで、未だ初詣客も多く新年の雰囲気を残していた。フィールドワーク自体の目的は、主に次の2つ。
a)江戸期(元禄/享保)の古地図を眺めながら歩き、町割の変化と環境との関係などを確認して、土地について考えるセンスを養うこと。
b)川越城や喜多院の七不思議について任意に調査し、現在の情況を確認すること。
b)については、3年生にレポートを課している。あくまで擬似的なフィールドワークに過ぎないが、まあとにかく、文献に拘泥しがちな史学科生に現地をみる重要性を認識してもらうことが大事なのだ。

まずは時間短縮のため、川越駅から市役所方面へバス移動。バス道路を古地図上で確認しながら進んだが、ほとんど町割自体の変更はないようにみえた。主要道路も、鍵の辻を直線にしたくらいで大きな変更はない。これは四谷も同じだが、交通と日常生活、地域と国家の関連からすると興味深いことではある。

バスを最初に降りて向かったのは、曹洞宗の広済寺。元禄の地図にもちゃんと載っているお寺である。しかし、目的はお寺自体ではなく、その境内に置かれている「しゃぶき婆」の石像。何でも呼吸器系の病を治してくれる力があるとかで、像に縄紐を結びつけて「結縁」するのだという。話を聞いたときから気になっていたのが、四谷鮫ヶ橋のせきとめ稲荷と同じく、「堰き止め」から「咳止め」へという治水神→治癒神への変化である。川越はもともと水害の多い都市で、周囲を取り囲むように高沢川・入間川・夜奈川が還流している。恐らく、平城ゆえに多くの堀を防御施設として持つ川越城の築城自体が一種の治水工事で、その折に川の流路変更なども行われているのだろう。しゃぶき婆はそうした歴史、記憶を留めた石造遺物なのではないか、と想像していたわけだ。
現在この石像は、境内の山門脇に、あごの欠けた地蔵と並んで安置されている(腮なし地蔵。こちらは歯痛に効験があるらしい)。寺院にはよくあることだが、周辺の工事等々で境内地へ集積されたもので、もともとここにあったものではあるまい(天保の頃には寺内にあったという縁起書があるが、事実であるかどうかは分からない)。紐でぐるぐる巻きになってはいるが新しいものはないようで、医学の進歩した昨今、治癒神の信仰自体は衰えがちなのかも知れない。ミイラのような状態になっているので全体の形状は細かく確認できなかったが、どうやら人型の像ではない。慶応2年(1886)頃の光西寺蔵「川越城下図」や大正11年(1922)「大日本職業別明細図之内」には、広済寺からの道が川とぶつかる地点に中ノ島のようなものが描かれている。もしそうだとすれば川堰が存在した可能性が高いが、かかる場所に水神や治水神を安置するのは中国以来の常套手段である。江戸中期以降には、治水や灌漑工事の際に禹王を祀る例が散見され、各地に禹王廟や文命碑が建てられており、関東では酒匂川の文命堤が有名である。現在、中ノ島のあった場所付近には稲荷神社等が見受けられるが、川越にも治水神が存在していたとして全く不自然ではなかろう。夜奈川には、入水した娘の魂を鎮めるために小石を投げ込むという習俗・伝承もあり、もともと治水に関わるものだったのではないかとの想定を抱かせる。人型像ではないらしいしゃぶき婆も、灌漑施設や治水施設を構成していた石材のひとつであったのかも知れない。
なお、「しゃぶき」という名称については、三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』埼玉編(有峰書店、1975年)が、根が薬用として使われたツワブキに由来するのではないかと述べている。とすれば、治癒神への変質後に付けられた名称となろう。いずれにしてももう少し調査が必要で、文献を調べたり、周辺を歩き回ったり、広済寺にお話を伺ったりもしなければなるまい。この日はどこにもアポイントメントをとっておらず、またこの像だけに時間をかけているわけにもいかなかったので、学生たちに仮説を話して早々に移動した。しかし、近いうちにまた訪れることになるかも知れない。

「しゃぶき婆」だけでずいぶん長い文章になってしまった。メイン・イベントはまだまだ(つづく)。
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今日の名言

2011-01-13 10:06:01 | ※ モモ観察日記
明け方、炬燵から出て皿洗いを始めると、物音を聞いて目覚めたモモが開口一番、「今日、モモ誕生日?」と訊いてきた。あなたが生まれたのは、7月25日ですよ。

髪の毛が横になびくように寝癖がついていたので、「モモ、ぼくエクトプラズム出てるよう」と喩えていってみたら、「今?」と返された。そういう問題ではない気が…。

Airに向かって仕事をしていると、横からモモが「土日の予定は?」と訊いてきた。
「土曜は仕事、日曜はいる」
「モモと同じじゃん!」
「…だから?」
「なかよし!」
…そうだね。
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深大寺のなぞ

2011-01-08 16:31:05 | 生きる犬韜
忘れないうちに書いておこう。実は仕事始めの前日の4日(火)、ついに調布の名刹深大寺へ行って来た。三鷹へ越して以来1年弱、自転車で30分かからないというのに、実はまだ一度も参詣していなかったのである(草木成仏論の権化たる良源ゆかりの寺であるのに、なぜか白鳳仏の釈迦如来像があるのに…)。これはいかんということで、ちょっと前から、初詣は必ず深大寺へゆこうと決めていた。

しかし、そこまでの道のりが長かった。モモと自転車で向かうつもりで、それまでにママチャリ1台しかなかった自転車を2台にしよう、つまり僕用の自転車を買おうと思っていたのだが、いつもの後回し癖で、結局4日になるまで実行には移さなかった。ときどきamazonを眺めて「こんなのがほしいなあ」とは考えていたのだが、やはり実際にみて購入したいので注文はせず。4日の午前中に徐に出発し、まずは食料品を買い足しつつ武蔵境のヨーカドー・ホームセンターを確認。それなりに面白げな車はあったものの、やはり圧倒的に選択肢が少ないので、続いて武蔵境通りにある自転車専門小売店「あさひ」へ向かった。こちらは2階建てで在庫も豊富、店員さんも実に丁寧だったので印象がよく、うろうろ歩き回った末に、折り畳み式のMINI AL-FDB207を購入。防犯登録も済ませ、保証もいろいろ付けてもらい、意気揚々と帰宅した。すでに時計は2時を回っていたが、やはり深大寺に行って蕎麦を食べねばならぬと、傾く日差しのなか、モモと連れ立ってツーリングに出かけた。

道に迷うこともなく快適に疾走し、30分ほどで浮岳山昌楽院深大寺へ到着。さすがに、浅草寺に継ぐ関東第二の古刹といわれるだけあり、広い境内地に初詣客がごった返していた。最も入り口に近い深沙堂の傍らに駐輪し、早速散策を開始。このお堂は水神の深沙大将(沙悟浄のモデルといわれる)を祀る伽藍最古のお堂で、それこそ深大寺の起源を想像させるが、今はなぜか縁結びの神様になってしまっていた。これも、玄奘と師弟関係を結んで困難な旅をした沙悟浄からの発想なのだろう。山門前のメインの参道では、『ゲゲゲの女房』で一躍有名になった鬼太郎茶屋が出迎えてくれる。未だ人気は衰えず、多くのカップル、子供連れが押し寄せている。水木しげるが描いた調布の絵はがきを手に取り、その画力の確かさをあらためて痛感した。
お腹も空いていたが、まずは本堂・元三大師堂に参詣。真宗僧侶のぼくは礼を尽くした?だけだったが、モモはしっかりとお参りをしていた。角大師好きなので、一応は降魔札も購入。無料で拝観できる白鳳仏も目に焼き付けた。しかし、何でこれはこんなところにあるんでしょうねえ。様式的にはやっぱり白鳳仏ですよ。しかも、石位寺の石仏、川原寺のせん仏、長谷寺銅板法華説相図にみるような椅像。最近はこれこそ釈迦の肉身を写した優填王像だとの説も出ているので、いよいよ注目が集まりそうだ。
境内を堪能した後は、オードリーの若林くんがかつて通いつめたという蕎麦屋「多聞」で食事。野草の天ぷらをつつきながら蕎麦をすすった。どちらも美味。蕎麦は腰があって非常に歯応えがよい。こちらへ越して来てから美味しい蕎麦にありつけないでいたのだが、初めて「また来よう」という気にさせてくれた。満足満足。
多聞を出た後は少し参道を流し、屋台の焼きまんじゅうなどに舌鼓を打って、再び自転車で疾走。懸案の運動不足もやや解消されたし、それなりに正月らしい、いい一日を過ごすことができたのだった。
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みんないい加減だなあ

2011-01-07 23:42:33 | テレビの龍韜
大山誠一さんから、「かなりいいたい放題喋ったのでみて」といわれていたので、今年一番の寒さに震えながら帰宅し、ちょうど平城京の話に差しかかっていた「たけしの新・世界七不思議」を観た。
大山さんの説は、主に『天孫降臨の夢』をなぞったものだが、これに対する異論の一部は「鎌足の武をめぐる構築と忘却」(『藤氏家伝を読む』収録。鎌足と中大兄の邂逅する打毬の場面の典拠は、『三国史記』より『史記』や『漢書』の張良伝が重要)に書いたし、続きは今年上半期に刊行予定の拙著『歴史叙述としての〈祟〉』に詳述したのでひとまず措く(中臣氏は単なる祭祀氏族ではなく、神話=歴史を記述・管理し、それに基づいて卜占・祭祀をなす中国的史官をモデルに創出されたもの。まさに「史」の名を持つ不比等が田辺史に養育されたのは、不遇であったわけではなく英才教育である)。『多武峰縁起』を事実のように語る演出も、まあバラエティだから許すとしよう。問題は、井上和人氏が、8世紀前半には存在しない「陰陽道」を平城京遷都の依拠思想として述べたり(四神の山・川・池・大道比定も10世紀以降のもの)、千田稔氏が、「天皇に関わりのある紫色の冠をほしいままにしたのが、蘇我氏の専横の最たるもの」と述べるなど(本当は、大王の授与すべき冠を蝦夷が私的に入鹿に授けたのが問題)、専門家による不正確な発言が繰り返されたことだ。『日本書』を「日本書」としたり、「徳天皇」を「徳天皇」としたり、テロップに誤字が目立ったのもマイナス。
まあ、たまたまそういうところを切り取ってしまった結果なのだろうが、それがすべてのように残ってしまう(陰陽道云々は、文献史家でも知らずにいる人が多いので、単なる不勉強かも知れない。自分のことは棚に上げておくけれども)。テレビというのは恐ろしいものだ。
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ツィート

2011-01-03 01:27:02 | テレビの龍韜
「マジ歌選手権」すげえ。でも、角田ってやっぱり水口幹記に似てるな。
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恭頌新禧

2011-01-02 00:27:40 | 生きる犬韜
おかげさまで、無事に新しい年を迎えることができました。皆様にとって、本年が実り多き一年になりますよう、心より祈年申し上げます。

左の写真は、今年の年賀状である。例年のごとく、秋田の義父が送ってくれる「中山人形」をモチーフにしたが、今年のウサギはなぜか鉞を担いでおり(「斧兎」というらしい)、理由はまったくもって謎。…というわけで、年末最後の数日は、いつもどおり年賀状書きに明け暮れた。宛名やコメントを300通弱手書きするので、それなりに時間がかかる。しかし、昨年の賀状を眺めながらその向こう側にいる人へ思いを馳せ、自分の非礼を反省するというのは、年末の行事としてなかなか貴重な機会かも知れない。ああ、皆さんごめんなさい。

30日(木)は、夕方から大学の同期の忘年会。ZARAのSALEでコートを買って、新宿の鼎に駆けつけた。毎年歳末に開いている会だが、集まったメンバーは今年1年を象徴する漢字と来年1年こうありたいという漢字、今年心に残った本と映画を披露し、それを肴に酒を飲む。メンバーのなかに映画業界関係者、映像に携わっている人間がいるので、そのあたりから出た案かもしれないが、面白い。発言は記録されているので、1年前に何を考えていたかも思い出すし、同年代の友人たちが、いま何を課題に生きているのかもみえてくる。ぼくの今年の1字は「耗」。去年は「恣」で、もうあるがままやりたいようにやると宣言したようだが、その結果がこの疲弊に繋がった。いろいろな場に出させていただき、いろいろな人と出会うことができたので、自分自身を客観的に見直すこともでき、そういう意味では非常に充実していたといえる。しかし、体もだんだんと悲鳴をあげてきているので、今年はしっかり健康を管理し、余裕を持ってものごとを考えられるようにしたい。ということで、来年の1字は「裕」にしようと思ったが、やはり現時点でもはや課題が山積しているため、あらゆる意味を含めて「達」とした。友人のなかには、子供も生まれ、職場で中間管理職的な役割を担うものも出てきており、やはり現状から新たな段階へ到達しようとする攻めの姿勢が多かったようだ。ちなみに、心に残った本は『ペンギン・ハイウェイ』、映像作品は『熱海の捜査官』(映画はほとんどみなかったし…)。

31日(金)は自坊の除夜会。いろいろ片付けものをしていて出発が遅れ、到着したのはすでに夕暮れどきだった。そのためほとんど戦力にはならなかったが、久しぶりに父母兄姉、そして鐘を撞きに来た級友と充分に語り合うことができた。ウチは学者の家なので、話をしていればそれだけで勉強になるのだが、次兄から現在書き進めている論文の構想などを聞いたり、父母や長兄・義姉に年末まで書いていた草木成仏の概説について聞いてもらったりして、いろいろブレイン・ストーミングをすることができた。やはり、ぼくにとってこの家族は大切である。…しかし、実家に届いていた郵便物にまた原稿依頼があった。これも断れる筋からのものではない(編集委員にモモが名を連ねている本である。何なんだ)。「余裕を持って」というのはやはりムリか。
除夜の鐘は、今年は300余り撞かれた。門の外まで並んでいる参拝客をみると、ずいぶん若返りが進んだように思う。しかし、やはり子供の姿は少ないか。もうすぐ小6になる姪が、2時過ぎまで甘酒を注ぐ仕事を健気に受け持っていた。ちょうどこの頃、ぼくは『少年サンデー』の新人コミック大賞に応募する作品を描き、第3審査まで残って編集部からサンデー専用原稿用紙を貰ったのだなあ…と何か感慨深く思い出した。結局就いた職業は違ってしまったが、世間で思うほどかけ離れてはいないような気がする。人間、少し背伸びをして、自分を成長させることも必要である。姪よ、大志を抱け。
※ ちなみに、上の写真はモモ姉妹が、年末を最後に定年退職する義父のために作った横断幕。厳冬の秋田でドンペリが飲み干されたらしい。お疲れさまでした。

1日(土)は四谷林光寺での親戚新年会を経て三鷹に帰宅。さて、休み中にもう1編原稿を仕上げねば。
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