23日(月)の日本史概説で、上智大学の前期の講義は終了。今年度の1年生は、最初は少々食いつきが悪かったが、そのうちに集中して聴いてくれるようになった。質問にもコアなものが多く、レポートが楽しみである。内容は当初、斉明期までを視野に入れて話すつもりだったが、いわゆる〈史料〉を用い、歴史時代の話ができたのは最後の時間のみだった。毎年、考古資料を用いた環境/心性の話のウケがいいので、かなりとばしとばしやってきたものの、結局大きくは進めなかった(麻疹による休講の影響もあったし)。来年は全面刷新する方向で考えよう。
大妻の方は8/1(水)まであるが、これは風邪で休講してしまった分の補講。規定の内容はすべて話し終えたので、最終日は、祟り関係の部分だけ再編集した「いざなぎ流」のビデオを見せる予定。祟りや占いの文化が現在に息づく、その一端をリアルに感じてもらえればと思っている。
首都大OUも、25日(水)で全日程を完了。佐藤さんによる、ユタを中心とする沖縄の〈夢語り共同体〉の講義を受け、夢語りの場を記録した映像をみせてもらった。夢をみた一般の女性と、夢解きのユタとの会話は緊張感があり、語りの場はまさに政治であった。語ること/解くことは、相手を受け入れたり拒絶したりしながら、絆を強めネットワークを構築してゆく。超越主義的ロマン主義といわれそうだが、しかし夢に〈外部性〉があるのなら、語ること/解くことはそれを明らかに弱め、内部へ回収してゆこうとする行為に他ならない。宗教的次元における〈翻訳〉の難しさについて、しばし考えさせられた。終了後は土居さん、野村さんを加えて打ち上げ。やはり本を出そうという計画になるが、どこから出すか、どういう形態で出すかがネックである。新たな表現形式を考えるという意味でも、「夢見班」の会合を定期的に持ちたいところ。
28日(土)は、上智大学のオープン・キャンパス。10:00~13:30に「史学科教員個人相談ブース」に入ることになっていたので、9:30前には出勤していた。学科長から、「例年からいうと、あまり人は来ないと思いますよ」といわれていたが、大学へ着いてみると大勢の参加者(昼までで1万人とか)で、観光バスをチャーターして集団でやって来る高校もあったようだ。歴史学研究会の売り子よろしく、会場の机で『栄花物語』を読んでいると、開始後30分くらいで段々と相談者が来始めた。カリキュラム、具体的な授業の内容、就職状況、研究者・教員・学芸員になるための方法など、様々な相談がある。自分のやりたいことが本当にできるのか、心配する高校生もあるようだ。学科説明会が終了した11:00台が最も来場者が多く、ブースの前に長蛇の列ができてしまった。折よく学科長が様子をみにきてくださったので、2人でなんとか対応。13:30、K先生と交代したあとも、割合に人がやって来ていたようだ。全大学的にオープン・キャンパスの試みが定着し始めたということなのか、それとも日曜に参院選の投票があるので、親御さんが予定を土曜に前倒しした結果なのか。よく分からないが、受験者数の増加を願うばかりである。
この日の夕方は、有楽町(紅虎餃子房)で平田ゼミ同期の女性たちと食事。あえて女性だけを集めたわけではなく、男子がぼくしか来られなかっただけである。何人かとは10年以上会っていなかった気がするが、「未だ独身である」せいか、皆さん大変に若々しい。今さらながら、「へぇーこういう人だったの」と感心することが多くあり、学生時代、上智の提供してくれる人間関係のなかで、いかに真剣に人と向き合ってこなかったか(一部の人としかちゃんと話してこなかったか)を思い知らされた(女子の名前なんて、ほとんど覚えていないもんなあ)。しかしみんな、未だに熱くて活力に溢れており、刺激を受け元気づけられたのであった。
これから大学へ入ってこようとする受験生、大学を出て一線で活躍している卒業生、それぞれのパワーと真剣なまなざしを感じた一日だった。通過点としての大学で生きるぼくらが、疲弊した状態であってはならないだろう。受験生の真剣さ・真摯さを、そのまま社会への眼差しとして維持し、広げてゆく責任の重さを痛感した次第である。
大妻の方は8/1(水)まであるが、これは風邪で休講してしまった分の補講。規定の内容はすべて話し終えたので、最終日は、祟り関係の部分だけ再編集した「いざなぎ流」のビデオを見せる予定。祟りや占いの文化が現在に息づく、その一端をリアルに感じてもらえればと思っている。
首都大OUも、25日(水)で全日程を完了。佐藤さんによる、ユタを中心とする沖縄の〈夢語り共同体〉の講義を受け、夢語りの場を記録した映像をみせてもらった。夢をみた一般の女性と、夢解きのユタとの会話は緊張感があり、語りの場はまさに政治であった。語ること/解くことは、相手を受け入れたり拒絶したりしながら、絆を強めネットワークを構築してゆく。超越主義的ロマン主義といわれそうだが、しかし夢に〈外部性〉があるのなら、語ること/解くことはそれを明らかに弱め、内部へ回収してゆこうとする行為に他ならない。宗教的次元における〈翻訳〉の難しさについて、しばし考えさせられた。終了後は土居さん、野村さんを加えて打ち上げ。やはり本を出そうという計画になるが、どこから出すか、どういう形態で出すかがネックである。新たな表現形式を考えるという意味でも、「夢見班」の会合を定期的に持ちたいところ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/d7/d004faf7a1e7abc4ba4da993d1ab6b04.jpg)
この日の夕方は、有楽町(紅虎餃子房)で平田ゼミ同期の女性たちと食事。あえて女性だけを集めたわけではなく、男子がぼくしか来られなかっただけである。何人かとは10年以上会っていなかった気がするが、「未だ独身である」せいか、皆さん大変に若々しい。今さらながら、「へぇーこういう人だったの」と感心することが多くあり、学生時代、上智の提供してくれる人間関係のなかで、いかに真剣に人と向き合ってこなかったか(一部の人としかちゃんと話してこなかったか)を思い知らされた(女子の名前なんて、ほとんど覚えていないもんなあ)。しかしみんな、未だに熱くて活力に溢れており、刺激を受け元気づけられたのであった。
これから大学へ入ってこようとする受験生、大学を出て一線で活躍している卒業生、それぞれのパワーと真剣なまなざしを感じた一日だった。通過点としての大学で生きるぼくらが、疲弊した状態であってはならないだろう。受験生の真剣さ・真摯さを、そのまま社会への眼差しとして維持し、広げてゆく責任の重さを痛感した次第である。