仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

オープン・キャンパス:受験生/卒業生と会う

2007-07-29 16:51:20 | 生きる犬韜
23日(月)の日本史概説で、上智大学の前期の講義は終了。今年度の1年生は、最初は少々食いつきが悪かったが、そのうちに集中して聴いてくれるようになった。質問にもコアなものが多く、レポートが楽しみである。内容は当初、斉明期までを視野に入れて話すつもりだったが、いわゆる〈史料〉を用い、歴史時代の話ができたのは最後の時間のみだった。毎年、考古資料を用いた環境/心性の話のウケがいいので、かなりとばしとばしやってきたものの、結局大きくは進めなかった(麻疹による休講の影響もあったし)。来年は全面刷新する方向で考えよう。
大妻の方は8/1(水)まであるが、これは風邪で休講してしまった分の補講。規定の内容はすべて話し終えたので、最終日は、祟り関係の部分だけ再編集した「いざなぎ流」のビデオを見せる予定。祟りや占いの文化が現在に息づく、その一端をリアルに感じてもらえればと思っている。
首都大OUも、25日(水)で全日程を完了。佐藤さんによる、ユタを中心とする沖縄の〈夢語り共同体〉の講義を受け、夢語りの場を記録した映像をみせてもらった。夢をみた一般の女性と、夢解きのユタとの会話は緊張感があり、語りの場はまさに政治であった。語ること/解くことは、相手を受け入れたり拒絶したりしながら、絆を強めネットワークを構築してゆく。超越主義的ロマン主義といわれそうだが、しかし夢に〈外部性〉があるのなら、語ること/解くことはそれを明らかに弱め、内部へ回収してゆこうとする行為に他ならない。宗教的次元における〈翻訳〉の難しさについて、しばし考えさせられた。終了後は土居さん、野村さんを加えて打ち上げ。やはり本を出そうという計画になるが、どこから出すか、どういう形態で出すかがネックである。新たな表現形式を考えるという意味でも、「夢見班」の会合を定期的に持ちたいところ。

28日(土)は、上智大学のオープン・キャンパス。10:00~13:30に「史学科教員個人相談ブース」に入ることになっていたので、9:30前には出勤していた。学科長から、「例年からいうと、あまり人は来ないと思いますよ」といわれていたが、大学へ着いてみると大勢の参加者(昼までで1万人とか)で、観光バスをチャーターして集団でやって来る高校もあったようだ。歴史学研究会の売り子よろしく、会場の机で『栄花物語』を読んでいると、開始後30分くらいで段々と相談者が来始めた。カリキュラム、具体的な授業の内容、就職状況、研究者・教員・学芸員になるための方法など、様々な相談がある。自分のやりたいことが本当にできるのか、心配する高校生もあるようだ。学科説明会が終了した11:00台が最も来場者が多く、ブースの前に長蛇の列ができてしまった。折よく学科長が様子をみにきてくださったので、2人でなんとか対応。13:30、K先生と交代したあとも、割合に人がやって来ていたようだ。全大学的にオープン・キャンパスの試みが定着し始めたということなのか、それとも日曜に参院選の投票があるので、親御さんが予定を土曜に前倒しした結果なのか。よく分からないが、受験者数の増加を願うばかりである。
この日の夕方は、有楽町(紅虎餃子房)で平田ゼミ同期の女性たちと食事。あえて女性だけを集めたわけではなく、男子がぼくしか来られなかっただけである。何人かとは10年以上会っていなかった気がするが、「未だ独身である」せいか、皆さん大変に若々しい。今さらながら、「へぇーこういう人だったの」と感心することが多くあり、学生時代、上智の提供してくれる人間関係のなかで、いかに真剣に人と向き合ってこなかったか(一部の人としかちゃんと話してこなかったか)を思い知らされた(女子の名前なんて、ほとんど覚えていないもんなあ)。しかしみんな、未だに熱くて活力に溢れており、刺激を受け元気づけられたのであった。

これから大学へ入ってこようとする受験生、大学を出て一線で活躍している卒業生、それぞれのパワーと真剣なまなざしを感じた一日だった。通過点としての大学で生きるぼくらが、疲弊した状態であってはならないだろう。受験生の真剣さ・真摯さを、そのまま社会への眼差しとして維持し、広げてゆく責任の重さを痛感した次第である。
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史資料収集:休暇への助走

2007-07-22 15:01:19 | 議論の豹韜
さて、20日(金)で特講も終了した。麻疹による休講もあり、思ったより日本の事例に踏み込めなかったのが残念。『書紀』や『古事記』の夢関係記事に関しては、研究史的にも新しい論点が打ち出せたと思うが、その後の展開は『霊異記』『蜻蛉日記』『更級日記』をつまみ食いし、『明恵上人夢記』『慈鎮和尚夢想記』に少々言及しただけに終わった。しかし、これらにおいても、中国的伝統が脈々と受け継がれているのが分かったのは収穫だった。『霊異記』で景戒が自身の遺体を焼く夢の夢解きは、すでに中前正志さんによって、敦煌出土夢書との関係が指摘されている。しかし、『蜻蛉日記』の蜥蜴の夢、日月の夢なども、『捜神記』巻十や『新集周公解夢書』天文章第一にまで遡りうるようだ。阿弥陀来迎の夢をみて「怖れ」る菅原孝標女の心情も、『史記』世家/孔子世家にみる孔子の死の予兆夢、『周氏冥通記』にみる周子良への仙去の夢告に連なろう。むろん、完全な書承というわけではなく、同種の夢見の文化が中国から将来されてきているということである。その媒介をなしているのは、恐らくは夢見法師や夢解きの者、漢籍や仏典に通暁した高僧たちだろう。平安~中世の夢文化については、いずれまた挑戦したい(関連する内容を、四谷会談のブログに投稿したので参照されたい)。

21日(土)は、洗濯・風呂掃除をして『GYRATIVA』4号の編集作業。刊行までもう間もなく。3号雑誌に終わるのは避けえたものの、1号増えただけの4号雑誌とは…。しかし、若い人材も育ちつつあるようなので、いつかは復活させねばなるまい。
来年からは大学院の授業も担当することになるが、演習では中国・日本の双方に関わる文献を読み(兵法史をやりたいという院生が入ってくるので、『孫子』『孫?兵法』『呉子』『六韜』『三略』『素書』の比較なんかも面白いかも)、特殊研究では人間の環境への適合と物語り形成について考えたいと思っている。だがそれとは別に、歴史認識の理論についても考究したい。特研の前提としてそれらを扱い、院生と議論するというのもいいかも知れない(理論だけで半年やったっていいだろう)。

ところで、ぼくはここのところ、自分が専門にしている分野と、〈環境史〉という分野とは少々合致しないところがあるように感じている。かつて増尾伸一郎さんが命名してくれた、〈環境と心性の文化史〉は正鵠を射ているのだが、専門として名乗るのには長すぎる。あえていうなら〈生命倫理史〉なのかな、と思ったりする。そういうわけで左の本。鈴木貞美の『生命観の探求』(書評はこちら)。『東北学』で注目の作品社から、分厚い本が刊行された。近代日本スピリチュアリズムにも言及する重要な書籍、夏休みに読むのが楽しみである。そうそう、研究室よりも自宅の方が環境の整っているぼくは、ここのところ、休み中に仕上げるべき原稿に必要な史資料を、ネットの古本屋で買い漁ったり、国会図書館に注文してコピーを送ってもらったり、大学の図書館で仕入れたりしている。冬眠の準備みたいだが、字義としてはまるで逆の助走なのである。
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会議の一日:しかし、夢の集まりで終わる

2007-07-19 17:44:59 | 生きる犬韜
18日(水)は、大妻の講義を終えると会議の一日。教授会、学生生活委員会を経て、もうひとつ。結局、自分の研究室に戻ってきたのは9時少し前だった。帰り支度をしていると、学科長のI先生から呼び止められた。
「北條先生……。あと3年くらいの間に学位論文仕上げないと、学務が増えてきて書けなくなっちゃいますよ。少し、仕事セーブしないと。……ご両親より先に死んじゃだめですよ」
I先生は、ご自分も激務で(ぼくなどより何倍も)お忙しいはずなのに、いろいろ心配をしてくださる。ありがたい限りである。セーブが必要なことは前々から認識しているが、ぼくには困った性向がある。事務仕事に関しては、自分が引き受けることでものごとが早く回るのであれば、面倒なので背負ってしまう。原稿等々については、自分を必要としてくださるありがたさに、できるだけお受けする。しかしいちばんの問題は、自分の処理能力を過信することだろう。今期はそのせいで、いろいろなところでミスが出てしまった。両方をセーブしてバランスよくこなさなければ、両方ともうまくゆかなくなってしまう。
今週も、報告のご依頼をひとつ、書評のご依頼をひとついただいた。前者の方は9月とのことで、〆切の集中する時期であったため、申し訳ないことだが辞退した。後者の方は1月末とのことで、書けないことはないのだが、昨年度1~3月が予想外に忙しかったため躊躇している。お題の本はお世話になった方々、知り合いばかりの書いている(ぼくの専門にも大いに関わる)論集なので、本当は喜んでお引き受けすべきところなのだが…。

I先生と駅までご一緒し、飯田橋で下車。首都大は今日から佐藤さんの担当だが、講義時間には間に合わなかった。気づいたらメンバーの携帯番号を何も知らなかったので、いつものお店を数軒回り、「春夏秋冬」にて飲み会現場を発見。なんとか無事に合流できた。佐藤さんの話は、聴講者の常識を打ち破るコアなものだったもよう。夢を重視する心性に関する理論的問題から、夏目漱石『夢十夜』、黒澤明『夢』のインパクトある場面を紹介して、聴講者にも「物語り」をしてもらったそうである。やはり、佐藤さんの講義はライブ性が強い。ぼくなんかは最初から最後まで線を引きたがる質なのだが、学生の発言によってフレキシブルに姿を変える講義もいいかも知れない。しかし、この飲み話のなかで、三品さんとぼくとの奇妙な共通点が、また明らかになったのには驚いた。いま指導しているプレゼミ生で「岩井」君という学生がいるのだが、名前は間違いなく覚えてはいるものの、なぜか最初に口に出すときには「岩田」君になってしまう…という話をしていたら、なんと三品さんも、知人の「岩井」さんをよく「岩田」さんと言い間違えてしまうそうだ。何だろう、この符合。前世で何か因縁が…?

帰りの電車のなかでは、佐藤さんと子供の頃の「遊び」について会話。いま考えると、田宮の戦車やら、ハセガワの戦闘機やら、ぼくらの周りには常に「兵器」が溢れていた。書店には、子供向けの戦記ものや兵器の図解、図鑑等々が普通に並び、それらを読むについて、親からの規制もほとんどなかったように記憶している(少なくとも、永井豪のマンガよりは)。いまよりもっと戦後色が強く、非戦平和が常套句であった時代の話である。子供文化から戦後をみると、今とは少し違う歴史が描けるような気がするのだが…。どうでもいいが、スピットファイア、メッサーシュミット、ヘルキャット、コルセア、ファントム、スターファイター、トムキャット、イーグル、ファイティングファルコン、ハリアー、スカイホーク、ホーネット、セイバー、イントルーダー、クルーセーダー、ライトニング、デルタダート、ビゲン、ブードー、パナビア・トルネード、ミラージュ、フォックスバット、等々の名前をとても久しぶりに口にした。

今日19日(木)は、久しぶりに晴れたので朝から洗濯。ブログを更新し、明日の特講最終日の準備にとりかかるところである。
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前期終了間近:さあ、これからは

2007-07-14 23:58:31 | 生きる犬韜
前期も終了間近である。首都大学OU、上智史学会の報告など、上半期の山もほとんど越えた。上智の講義はほぼ来週で終わりだし(概説のみ23日まで)、大妻の方は8/1まであるものの、あとはほとんど事務仕事となる(会議と奨学生の面接など)。というわけで、今週からいよいよ溜まりに溜まってきた原稿に手を着けられそうだが、スイッチの切り換えがやや難しい。講義準備などは短期間に締め切りがやってきて、しかもできていなければ確実に破綻するので、とにかく集中してやりとげる。しかし原稿の場合は、明日でいいかという甘えが出て、どうしても先へ先へと延ばしてしまう。締め切りまで、さほど余裕があるわけではないにもかかわらず、である。怠惰な性向にも困ったものだ。

11日(水)は、大妻の講義、学科会議、上智史学会理事会を終えて首都大OUの2回目講義へ。諸子百家から伝奇小説までを90分で語り倒す。かなり強引な時間配分で、聞きに来てくださった方には難しかったかも知れないが、中国の夢文化が一気に爆発する瞬間は捉えられたのではないかと思う。猪股さん、三品さん、ぼくと来て、来週からは宗教学の佐藤壮広さんが担当。沖縄を主な舞台に、よりコアな世界が展開されるだろう。
講義終了後は、飯田橋の「春夏秋冬」にて飲み会。猪股さんと佐藤さんは、ご自分の夢をある程度コントロールできるらしい。猪股さんは睡眠に至る導入の夢が存在し、その訪れを待っているとやがてあちらの世界へ誘なわれるという。最近は、夢での自由度を増すべく訓練中とのこと。佐藤さんは、現実世界でのわだかまりを夢で解消し、生のあり方を変えてゆくという明恵のような実践をしているもよう。論文のアイディアも夢のなかで得ることがあるという。驚くばかりである。一方の三品さんとぼくは、中学・高校を舞台に「試験前なのに準備ができていない」「必修なのにちゃんと出席していなかったことに気づく」といった夢を未だにみていて、どうも学校教育のストレスが異常に強かったことが判明。夢を使いこなしたいとは思うが、ここ10年ほどは「寝ようとして寝るのではない」生活を続けており、睡眠に落ちるときは疲労しきっているので、ほとんど夢をみることがない(みていたとしても、覚醒時にはまったく覚えていない)。もう少し余裕をもって生きねばならないか。

14日(土)は、上智史学会例会での報告。台風の接近にもかかわらず、院生の皆さんもある程度参加してくれた。毎回、きちんと出てくる学部1年生も2人いる(素晴らしい)。ぼくの論題は、「礼拝功徳、自然造仏」。『三宝絵』論集に間に合わなかった、例の長谷寺縁起に関する分析である。三宝絵研での報告は昨年だったが、朝鮮の野談史料などもパラパラとみて、少し解釈の仕方が違ってきた。席上、大澤先生からは、中国の江南文化と日本の宗教文化との繋がりや、木を「引く」ことの意味についてご質問いただいた。応答するなかで、自分のなかで曖昧だった考えも整理することができ、非常にありがたいご指摘だった(後者の件は、終了後に院生の吉野君とも意見交換して刺激を受け、「引く」ことの儀礼性をしっかり考え直すいい機会になった。吉野君にも感謝します)。また、山内先生からは、「長谷寺縁起にみる祟る樹木の菩薩化には、五行が意図的に配されているのではないか」との、ハッとするようなご意見をいただいた(これは、徳道・道明/為憲の、述作主体を判断するのに役立つかも知れない)。漢学の伝統をちゃんと踏まえた東洋史の先生方は、ぼくのいい加減な中国史理解や、同様にいい加減な漢文の訓み方を正確に訂正してくださるので、本当に感謝するばかりである。

土曜、雨のなかを帰宅してから、水曜にケーブルで録画しておいた韓国製ホラー映画『狐怪談』を観た。女子校を舞台に、願いが叶えられるという狐の階段によって、平和な日常を狂わされてゆく少女たちを描いている。前半は、主人公のふたりを軸に女子校独特?の人間関係が丁寧に綴られてゆくが、話が怪談じみてきてから描写がかなりいい加減になる。画作りがいいのでごまかされてしまうが、観終わってから考えると、人間関係もどこぞの少女漫画の引き写しのステレオタイプだったような…。恐怖描写は中田秀夫『リング』のものまね。窓の外から亡霊が入ってくるシーンは、貞子がテレビから這い出てくるシーンのパロディであった。問題の階段の描写もあっさりしていて、願いの深刻さに応じて増えるという「29段目」もさほど強調されず、少女たちの思い込みによって増えるのか、怪奇現象として増えるのかがはっきりしなかった。前者の設定で強調した方が、学校という特殊空間の心理劇としては成功した気がする。
怪談といえば、季節がら、このところその手の出版物が多い。ぼくは趣味と実益を兼ねてこれらを渉猟しているが、先日も、毎号購読している『幽』の最新号、『新耳袋』の著者コンビそれぞれの新刊が出ていたので購入した。
『幽』は、「真景累ヶ淵」に取材した中田秀夫『怪談』の公開に合わせ、三遊亭圓朝の特集。東アジア怪異学会の大江篤さんのインタビューが載っていた。木原浩勝『隣之怪』は、『新耳袋』より恐らくは創作性の高い短編怪談。中山市朗『なまなりさん』は、呪い・祟りに関する一事件のノンフィクション・レポートという形をとる。どちらも恐怖度はさほどではないが(むしろ哀れを誘う)、前者の校正ミスの多さは非常に気になった。著者の確認能力、編集者の力量が疑われる(人のことはいえないが)。
怪談というと、一種の都市伝説を題材にしたところのアニメーション『電脳コイル』(教育テレビ)の出来が非常によい(プロモーション映像はこちら)。日常空間と電脳空間の重複する近未来(といっても、風景は現在と同じ)を舞台に、小学生たちの一夏の冒険が描かれる。現代の子供たちにとって、日常空間は探検する魅力のないものとなってしまったのかも知れないが、電脳空間の存在によって、子供たちのみる世界がかつての神秘性を取り戻しているかっこうである。怪しげな違法プログラムを「呪符」として売る駄菓子屋のばあさん、未修復の古い空間の裂け目に顔を覗かせる他界、そして出所不明の電脳生物イリーガル…。廃工場や深夜の学校、神社の裏手が、新たな意味を得て立ち上がってくる。そこから生まれる様々な都市伝説に、死者の記憶。物語りも画作りも上質で、みどころ満載の作品である。かつて『.hack』というネットRPGを題材にしたアニメーションがあったが(まさに、ネット上のキャラクターとPCの向こうにある実在との関係を問う内容だった)、『コイル』はあらためて、ネット世界とは現代的心性において他界として現前し、PCは境界以外の何ものでもないことを思い知らせてくれた。かつて必要とされつつも恐怖された境界が、いまは個人の部屋にひとつずつあり、電話という形でひとりひとりに携帯されている(そうそう、電話自体が境界であることは、呪いの電話、死者からの電話などの都市伝説モチーフが明示している)。パワーユーザー=呪術師ならともかく、普通の人間では「向こうからやって来る危険」に対応できまい。ネット犯罪等々の被害者が年々増加するのも、そのように考えてゆくと別の意味で頷ける。
『精霊の守人』といい、今年のNHKはちょっと違う。
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瘠せた?といわれる:Tomy's boot campには、以前から入隊しているが…

2007-07-12 10:43:26 | 生きる犬韜
最近メディアへの露出も多い、ビリーさんの方ではない。トミーさん(モリミー氏)の方である。
モリミー氏によれば、Tomy's boot campの手順は以下のとおりらしい(番号は筆者が付した)。

1)自分の能力の見積もりを誤る。
2)上記の手順をふまえた上で、仕事を引き受ける。
3)締め切りに間に合わないかもしれない。
4)頑張る。
5)才能がないと自分を責める。
6)締め切りに間に合わないかもしれない。
7)机に向かい、珈琲を飲みながら煙草を吸う。
8)ご飯を食べるのが面倒になる。
9)ハッと気づくと一日が過ぎている。

素晴らしい。激しく共感する。これならば、ぼくも以前から入隊していた(たばこは吸わないが)。モリミー隊長は、これで骨と皮だけになったそうだ。しかし、ぼくは周りから「瘠せた?」と心配されるものの、実は完全にボリュームを維持している。なぜなのか。それは、ぼくが隊長ほど真面目でなく、自堕落なせいで、上の隊規?を微妙に変えてしまっているからだろう。つまり、

1)自分の能力の見積もりを誤る。
2)上記の手順をふまえた上で、仕事を引き受ける。
3)締め切りに間に合わないかもしれない。
4)頑張る。
5)才能がないと自分を責める。
6)「本当の締め切り※1はいつだろう?」と勘ぐる。
 ・「ぼくはほんたうのしめきりをさがすぞ」と銀河を見あげてつぶやく。
7)PCに向かい、気晴らしにブログを更新する。テレビに逃避する。
8)ご飯を食べるのが面倒になるが、逃避のために食べる。
 ・徹夜するとお腹が減るので、ときにはコンビニに食料を買いにゆく。
9)ハッと気づくと朝が来ている。
10)講義をする。会議に出る。
 ・「9コマ講義をする」「週2ケタの会議に出る」などのオプションがある。
11)ハッと気づくと締め切りを過ぎている。
12)編集者の電話に怯えて暮らす。

という感じだろうか。この変則campにはまり込むと、身体はそれほど瘠せずに、精神ばかりが消耗してゆく。しかも原稿は進まない。どこかで泥沼を抜け出さねば。

※1 明示されている締め切りは、原稿を早めに回収するための仮の姿で、「本当はここまでは待てるんだよ」という実相が、1~2ヶ月後にあることが多いのだ。もちろん、あえてその実相を見極めようとする行為は、もの書きとしては非倫理的である。
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書物文化論終了:届いたかいなか?

2007-07-07 02:11:31 | 議論の豹韜
今週の月曜で、2週間続いた「書物文化論」の担当分が終了した。論題は「マジカル・アイテムとしての書物―〈太公兵法〉をめぐるモノと言説―」。紀元前11世紀、周に仕えた軍師太公望呂尚は、殷の紂王(帝辛)打倒して周王朝の樹立を実現する。以降、正統的革命として歴代王朝に利用されるこの物語に仮託し、戦国末期には『六韜』、漢代には『三略』、宋代には『素書』といった兵法書が生み出される。当初、仁徳による国家経営、戦争における兵士統率、謀略などについて書かれていた内容は、次第に老荘思想に偏り、『素書』において魔術書化の画期を迎える。同書の序文には歴代の偉人たちが列挙、彼らの説いた思想よりも『素書』の内容の優れていることが喧伝され、愚かなものへ相伝されれば祟咎が下るという制戒が書き添えられているのである。古代日本では、中臣鎌足の伝記『藤氏家伝』大織冠伝に、鎌足が『六韜』を暗誦し乙巳の変を成功させたことが書かれている。『家伝』を編纂した藤原仲麻呂には、彼の権勢を「歴史的に必然のもの」として正当化する目論見があったと考えられ、彼が「恵美押勝」の名を賜った詔勅のなかでも、鎌足は伊尹や太公望に比肩する忠臣として語られる。その後は、9世紀末の『日本国見在書目録』に「六韜」「三略」の名が現れるが、その躍動が見受けられるのは院政期末期の九条兼実の日記、『玉葉』においてである。兼実は『素書』を入手して歓喜し、大江匡房や藤原実資らの登場する伝来過程にも言及する。そこには大江氏/藤原氏の、正統性の根拠をめぐる〈表象の闘争〉があるようだ。また、兼実が起請して相伝を受けているさまは、『素書』の制戒が生きていることをうかがわせる。その後も伝説は拡大し、『義経記』は太公望から平将門までを〈太公兵法〉相伝者の超人的英雄として描き出し(ここにはもちろん、源義経も加わる)、もはや内容も完全に呪術書となった『兵法秘術一巻書』では、歴代天皇までもが相伝者の列に加えられる。ひとつの兵法に関わる言説を核に、古代中国から中世日本を貫く神話大系が創出されてゆく……。言説がモノを生みだし、モノが言説を生み出す。書物文化としては、極めてユニークな事例といえるだろう。

以前、早稲田古代史研究会や上智史学会で報告した内容を補足したものだが、史料をあらためて読み込むことで、様々の新しい発見があった。いつか、ちゃんと論文化しなければならないだろう。学生たちは、面白がって聞いてくれただろうか? 初日のリアクションにはいろいろ感想が書かれていたが、2回目はまばら。ま、6限なので、みんな早く帰りたいという気持ちが強かったのかも知れないが…。こちらのメッセージは、ちゃんと届いているかどうか。

太公望とずっと付き合っていたら、気になっていた横山光輝の『殷周伝説』がどうしても読みたくなった。そこで講義終了の翌日、amazonで古本を探して全巻大人買い。さっそくペラペラとめくってみたが、『三国志』と同様の風俗描写に思いきり違和感がある(ま、原作の『封神演義』自体は明代だからなあ)。どちらかというと、これは諸星大二郎的な題材なんだろう。白川静の漢字研究をベースに歴史小説として描ききった、宮城谷昌光『太公望』もよかったな(案外宗教的だし)。酒見賢一『周公旦』の、ダークな謀略家というイメージも面白かった(周公旦の儀式シーンが、シャーマニックで圧巻だった)。古代的要素をきちんと描いた中国モノ、もう出ないかな。
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夜明け:動き出す/消える

2007-07-06 04:39:59 | 生きる犬韜
もうすぐ夜が明ける。

少し明るくなってきた空をみると、次第に低くたれ込めた雲が浮かびあがってくる。今日も曇りだろう。でも、曇りの日も嫌いじゃない。何かが起こりそうな気配、予感がある。

子供の頃、山の上の学校へ登ってゆく途中、みあげた先に空だけが覗く階段があった。快晴には何も感じないのだが、ときおり灰色の薄い雲の層が、幾重にも重なって流れるようにみえる日もある。そんなときは、階段を登ったその先に、いつもとは違う風景が広がっているような気がしたものだ。

涼を採るため、少し開けていた窓を押し開くと、ひんやりした空気とともに、濃い緑の香りが流れ込んでくる。ヨーロッパの方で、「月は夜露のもたらし手である。ゆえに、植物は夜に育つ」という民間伝承があるのを思い出す。明け方、ぼくと同じような経験をした人々が、これまで本当にたくさんいたということだろう。

窓の下の道路を、騒がしい音を立てて車が行き交う。いろいろな鳥のさえずりが聞こえてくる。一日が動き出そうとしているが、それに紛れ、やがて緑の香りは消えてゆく。消えてゆくものを忘れまい、と感じる一瞬である。

……ふと気づくと、空もみるみる明るくなってきている。思ったより晴れるかも知れない。
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