仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

さよならアメリカ、さよならニッポン

2015-05-13 04:13:16 | 書物の文韜
今日は、ゼミの新歓コンパの予定だったのが、台風でお流れ。昼休みから共生学研究会の編集会議、プレゼミ、ゼミとこなし、17:30には大学をあとにした(濡れるの嫌なので)。
電車のおともは、下記。野田研一さんの、「はっぴいえんどの日本幻想、もしくは『渚感覚』」を読み終えた。野田さんは、ぼくにとって〈大人〉の理想像である。尊敬というとちょっと距離がありすぎる、敬愛といってよい感情を抱いている(こんなこと書くと、お弟子の誰かさんが嫉妬するかもしれない)。せいぜいまだ5年程度のおつきあいなのだが、そう考えられる人にお会いできるのは幸せなことだ。院生になって間もなくお会いした増尾伸一郎さん、そして中村生雄さん。人生の局面局面に大事な方が現れて、ぼくを未知なる世界へ導いてくださる。野田さんはそのなかでも、アメリカ文学というまったく違うハタケの方(環境文学、という点ではもちろん共通項があるのだけれども)なのだが、どうも不思議な縁である。最近は図々しくも、ご自宅の催しにまでお邪魔するようになってしまった。今年は野田さんの大学生活最後の年、お祝いする論集2冊にもお招きいただいたので、気力を振り絞って書かねばならない。そうそう、それで思い出したのだが、野田さんはぼくにとって、面白いものを書いて喜んでいただきたいと思う人なのだ。家族以外の研究世界で、しかもまったく異なる研究分野でそういう人にお会いできるのは、なかなかに希有だ。

さて、「はっぴいえんど論」。ついにお書きになったのだな!とニヤニヤしながら拝読する。ご自身も、「最後だと思って、書いちゃいました」とはにかみながら仰っていた。いつもお書きになるご論文以上に、その言葉が直接的に響いてくる文章。これは、下手なまとめを拒絶する。

……60年代後半のロック・ミュージックはかたやビートルズ、かたやボブ・ディランを筆頭に、ポップス革命とでもいうべき様相を呈していた。それは音楽的な高度化のみならず、歌詞の高度化を特徴とした。端的に言えば、ポップ・ミュージックが文学やアートに限りなく接近した時代であった。さらにいえば、もはやポップスはたんなる流行歌であることをみずから否定し、音楽性とポエジーをぎりぎりまで追求するある種の文化革命をめざしていた。……そのような「洋楽」を輸入し、享受しながら、日本の模倣者たちは、ただの模倣者に過ぎなかった。……しかし、《はっぴいえんど》は違っていた。かれらは、もし自分たちが本物のロックを演っていると自負しうるとするならば、それは「洋楽」ロックに比肩しうる音楽性とテクニックのみならず、言葉の革新、さらには日本の音楽の革新でなければならないと考えていた。とりわけ、ロックとは本質的に言葉の革新以外の何ものでもないという透徹した認識を具えていた。そうでなければ、欧米のロックに本質的に肩を並べることはできないとかれらは考えたのである。《はっぴいえんど》の本領というべき、かれらの「日本語」ロック創出のドラマは、こうして洋楽=ロックと日本語の接合という問題に設定された。」(p.336~337、「…」は省略)

アメリカ/ニッポンの境界に誕生したはっぴいえんどの革命は、その解散=頂点において、「さよならアメリカ、さよならニッポン」(よん・とらっく!よん・とらっく!)と繰り返し歌い上げ、アメリカもニッポンももはや虚構に過ぎない、幻想に過ぎないと捉え返し、アメリカの模倣者ともニッポンへの回帰者(フォーク!)とも袂を分かって、野に放たれる。野田さんが彼らに見出す「冷徹な自己認識と自己批評」は、恐らく野田さん自身の矜持である。はっぴいえんどの位置した境界性は、後にメンバーだった細野晴臣が、「下半身は海の方に、上半身は砂浜に寝転がって」いる「渚感覚」と表現している。それは彼にとって、彼の憧憬してやまないニューオリンズの、シルクロードからヨーロッパ、パリやスペイン、アフリカ、そしてアメリカに至る音楽の旋風の快感と、同時に一種の薄気味の悪さをも意味しているようだ。野田さんは「(生態学的)境界の感覚であり、絶えず揺動する場所に身を置くことを意味する言葉」と評するが、そこには移動や放浪の心地よさと、根無し草の孤独と、ビートと侵蝕が同居する。気持ちいいけど気持ち悪い。かつて柳田国男は、「伝説はあたかも北海の霧が、寒暖二種の潮流の遭遇から生ずるやうに、文化の水準を異にした二つの部曲の、新なる接触面に沿うて現れやすい」(「史料としての伝説」、『定本柳田国男集』4、p.192)と述べたが、「渚」とはそういう場所なのだ(『遠野物語』99話、そしてネビル・シュート『渚にて』。クトゥルー神話も入れたい)。

さて、ちょっと妄想が過ぎて脱線してしまったが、野田さんははっぴいえんどの試みの先に、とうぜんのごとく、イエロー・マジック・オーケストラの〈反表象〉を展望してゆく。オリエンタリズム的表象を二項対立的に否定するのではなく、そのまま受けとめて投げ返してしまう強靱で、そしてやわらかい遊び。その「もっとも純化された現在形」としてPerfume、中田ヤスタカが位置づけられるのは、本当に野田さんらしくてニヤリとする(河野哲也さんといい、なぜ環境論者はPerfumeが好きなのか?)。
さて、ではぼくは野田さんをニヤリとさせるために何をするか? 来年3月までのお楽しみ。
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