仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

初年次教育、第一歩

2010-09-29 02:09:36 | 議論の豹韜
27日(月)、文学部をあげて、1年生の研修会が行われた。ぼくも末席を汚す初年次教育検討小委員会が発足したのが2年前、それから紆余曲折、さまざまな批判を浴びながら、何とか学部をあげて共通のプログラムを実施するところまでこぎつけた。大学生になれない大学生が増加の一途を辿り、各大学が彼らを社会へ輩出する責任を背負ってさまざまな試みを始めるなか、上智大学は後手後手に回っている。「まだまだ大丈夫、うちの学生はがんばっている」という楽観的観測や、「大学は最高教育機関・研究機関であって、そんな程度の低いことはやっていられない」という非現実的認識がはびこっているように思う。史学科は、全学に先駆けて「導入教育」ではない基礎ゼミを正規カリキュラム化するが、今後はそれが試金石の役割を果たすことになるかも知れない。がんばらねば。

上記のプログラム、史学科は国文学科と共同で実施した。1限目はレポートの作成の仕方について、2限目は4グループに分かれての史跡・文学散歩。ぼくは、史学科で自主ゼミを担当している関係上、1限目の講義も、2限目の1グループのガイドも両方担当した。おかげで前日は徹夜、1時間のみの仮眠をとって出勤となったが、まあ仕方ないところだろう。
1限目は、検討小委員会での議論を反映させて、理念や理想論ではなく、具体的なスキルの解説に終始した。60分という枠内で収めねばならず、最後はかなり窮屈な展開となってしまったが、少しでも勉強の方法を考える手がかりにしてもらえればと思う。
2限目、ぼくの担当するC班は、喰違から鮫ヶ橋を経て於岩稲荷へ至るコース。最終目的の陽運寺では、副住職の植松健郎師のご協力で、寺の縁起等々についてお話を伺えることになっていた。生憎の冷たい雨でとても外歩きに適した気候とはいえず、せっかく凝って作った資料も活用する場が限られてしまったが、学生たちがそれなりに関心をもって臨んでくれたおかげで、何とか予定どおり終えることができた。史学科の豊田先生、佐々木先生、国文学科の瀬間先生も引率に協力してくださったが、「面白かった」との感想もいただけた。自分としては、1限目が完全なツールの解説に終始したので、2限目は学生の想像力を刺激する展開にしたかった。成功したかどうかは分からないが、江戸という土地を形成する「高台」と「谷」に注目し、両者が文化の形成や人々の心性にいかなる影響を及ぼすか、それが過去から現在までどのように繋がっているかを考察できるような文脈を作ったつもりである。参加した学生たちが、文字を読む力だけでなく、土地や環境を読む感受性も磨いていってくれれば、徹夜した甲斐もある。これを機会に、どんどん歴史の現場へ繰り出していってほしいものだ(…それにしても、あんなに凍えた状態にならなければ、最後に感想や質問を受けたかったのだけれど。残念といえば、それが残念)。

終了後は、国文学科の先生方と慰労会。こちらも楽しいもので、いい職場にめぐりあえた幸せを感じた。また、イベントを取材にいらしていた上智短大の森下園さん(方法論懇話会の盟友!)と、久しぶりにお話できたのもよかった。恐らく、初年次教育のノウハウは短大の方が蓄積されているはずで、今後さまざまに教えを乞うことになるだろう。
さて、そろそろ秋学期の講義の準備も始めつつ、『もののけ姫』シンポのレジュメも仕上げねば。はいはい、原稿も書きますよ。

※ 写真は、町歩きの参考文献のひとつ、中沢新一『アースダイバー』。「乾いた文化」と「湿った文化」の対立的構図というのは単純化しすぎだが、確かに、高台と谷の間にはさまざまな確執があり、それが「目に見える」形になって現れている。
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忙しいまま終わりそうな9月

2010-09-25 02:56:08 | 生きる犬韜
さて、今週も相変わらず忙しかった。19日(日)はカトリックAO入試のため、朝8:30から夜9:00まで休日出勤。21日(火)は、『上智史学』の編集業務(初校ゲラの受け取りと発送)に成城大学民俗学研究所での『家伝』研究会の発表。22日(水)は、八王寺セミナーハウスにてゼミの卒論合宿。午前中は大学で事務仕事をし、昼過ぎに駆け付けた。23日(木)は、横浜にて生涯学習の講義。横浜線を始発駅から終発駅まで乗り切った。あっちへ行ったりこっちへ行ったりのうえ、発表や講義の準備に時間を費やし、徹夜が続いた。今日24日(金)は、自宅で一休みしつつ、遅れていた学科長会議・教授会の議事録作成と、27日(月)の初年次研修会の準備。議事録の方はようやくまとめられたが、研修会のレジュメ等々の作成にはずいぶん時間がかかりそうだ。締切を過ぎた原稿のプレッシャーがのしかかってきているところへ、『家伝』論集の初校ゲラが到着。『歴史評論』の原稿を書き上げて安心していると、さらに新たな原稿依頼が届く。『もののけ姫』シンポも近い。科研の申請書でも書こうと思っていたのだが、とてもそんな余裕はなさそうである。

『家伝』研究会は、論集も12月に刊行予定とかで、今回が最後の例会となった。なぜかトリはぼくで(ま、普段なかなか出席できなかったからなのだが)、武智麻呂伝の末尾を担当した。準備にさほど時間をかけられず、付け焼き刃の報告となってしまい、参加された方々に「お土産」をお渡しできなかったのは申し訳ない限りである。しかし、中臣=中国的史官説、卜部=中国的卜官説について、加藤謙吉さんと意見交換できたのはよかった。氏族の問題でこの人に話を聞いていただき、良い感触があれば必ず「いける」。ただし、その原稿を書いた論集がどのような形で刊行されるのか、まだ見通しの立っていないのは不安であるが(その原因の一端を作ってしまったのはぼくなので、仕方がないといえば仕方がない)…。この研究会、成城大学の民俗学研究所が主催しているのだが、『霊異記』『三宝絵』『家伝』と続いてきて、来年からは寺社縁起を扱うことになりそうだ。さてぼく自身は何を読もうか、誰も何も研究していないものをやりたいなあ。

卒論合宿は、教育実習や就職活動で欠席の2名を除き、今回は5人の報告を聞いた。政治史、神話、文化史、仏教美術とバラエティに富んでおり、何とか無事に書けそうな気配も漂ってきた。しかし、半数は例年より進み具合が遅く、まだ論文の核となる部分が作れないでいる。あと2ヶ月ちょっとしか時間がないので、少しペースを上げて懸命に取り組んでもらいたい。
報告の後は、深夜3時頃まで飲み会、学生たちの会話に耳を傾けた。盛り上がる若者話を仄聞しつつ、頭のなかで次の日の講義内容を反芻。部屋に戻ってからも明け方までレジュメを確認したが、かえって頭の回転が遅くなり、生涯学習の講義では何でもないところで内容を間違えたりしてしまった。こういうことがあると、やはりもう無理は利かないなあと感じる。限界を知らねば。

今朝、左のアジア遊学136『環境と歴史学』が送られてきた。ぼくは「神仏習合と自然環境」という項目を担当したが、他の方の原稿をみて、もう少し環境史的な叙述にするべきだったかと後悔した。もちろん環境史的な対象把握はしているのだが、植生復原データ、古気候復原データの活用など、いわゆる「環境史らしい」スタイルは採っていない。「コトバによって構築される世界(環境)」を見据えるとどうしてもそうした内容となるが、もっと前後に相応の解説を施すべきだったかも知れない。最近、いったん書き始めると、途中で方向転換を行うことのできないまま不本意に終わりに辿り着いてしまう、ということがままある。精神に余裕がなく柔軟性を欠くようになっている証拠で、期待して下さっている方には申し訳ない限りである。「断る勇気を持て」という言葉が耳に響くが、何とかこの情況から脱出せねばなるまい。

最近、身の回りで大事に思っている人が多く亡くなっているのも、気の滅入っている原因だろう(中村生雄さんについては書く機会があって助かったが、川本喜八郎さんについては無理だろう。せめて学生たち相手に氏のフィルムの上映会でも開き、感想など語ってもらおうか)。まったく遊びに出かけることもできずに夏期休暇期間は終わりそうなので、せめてどこかで映画にでもゆきたいものだ。
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寝言2

2010-09-18 22:57:27 | ※ モモ観察日記
明け方、仮眠をとりに寝室へゆくと、モモが少し目を開けた。
「どうした?」と聞くと、「なんで理科の教科書を買わないのよ!」と文句をいいつつ、最後は笑い声になる。寝ぼけながらも、自分がおかしなことを云っているのに気付いたようだ。
「…いやね、なぜかあたしが小学校の理科の先生になっていて、翠(妹)を教えているんだ。理科の教科書を出していないもんだから、『教科書どうしたの?』って訊いたら、『前の先生が買わなくていいって云った』って。…なんだろうね?」
それはこちらのセリフである。
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死に片足を突っ込んでいる男

2010-09-18 02:51:58 | テレビの龍韜
9月も追い込みに入り、秋学期に入る前に倒れそうな毎日が続いている。
今週は、27日(月)の初年次生研修会の準備をしつつ(知人のIさんのご紹介で、於岩稲荷を祀る陽運寺さんの副住職先生とお会いしました)、『上智史学』の編集、大学院入試、学科会議、学科長会議、教授会などの校務が満載。15日(水)の会議では、ある案件でまたまた瀬間正之さんにお世話になり、「北條君の文章を読んでいると、身を削って学問をやっている息苦しさを感じる。今後は『断る勇気』を持って、ゆっくりものごとにとりくんでほしい」とのお言葉を頂戴した。ご心配いただいていることをありがたく感じるとともに、最近の粗製濫造ぶり、ケアレスミスの増産ぶりを戒めていただいたようで、身の引き締まる思いがした。自戒の念のなかで研究室に戻り、10時近くまでかかって『歴史評論』の原稿を脱稿。締切をかなり超過してしまったものの、やはりゆっくり構想を練ることのできなかった憾みはある。レヴィ=ストロース、平野仁啓、斎藤正二、中村生雄各氏の業績を、環境史研究と接続するという当初の課題は一応達成?できたが、紙幅の関係もあり現状の整理としては不充分になってしまった。校正で、少し調整できるだろうか。あとは、中途半端になっている「修行」の論文を完成させねば。

ところで、今日17日(金)は、『熱海の捜査官』の最終回だった。前回、「おっと、これは向こう側へゆく話だったのか!」と身を乗り出したが、最近浅薄な印象で終わるドラマが多いなか、充実の結末をみることができた。星崎の常に話しかけているモトコさんが死者だとすれば、彼は「死に片足を突っ込んでいる男」ということになる。オダギリ・ジョーは『蟲師』でギンコを演じていたが、このキャラクター(もちろん実写版ではなく漫画、もしくはアニメ版)も「向こう側」に強烈な憧憬を抱きながら、生/死の境界で踏みとどまっている存在だった。ラストシーン、同じく「向こう側」に魅入られた少女 東雲麻衣と、黄泉津比良坂のようなトンネルをぬけてゆく彼を待っているのは、一体誰なのか。栗山千明演じる北島捜査官の、「私を置いていかないで…」という呟きは、遺されたジョバンニの孤独を吐露しているようでもあった。
枠組み自体は『ツイン・ピークス』だったけれども、テレビドラマとしては珍しく哲学的な深み=おかしみを漂わせる作品だった(もちろん、そのこと自体をパロディ化しているのは分かっているが…)。三木聡の常連俳優陣はもちろん、東雲を演じた三吉彩花の妖しい透明さ、いつの間にか濃密な芝居ができるようになった小島聖、芝居は決してうまくないが不思議な存在感のKIKIが印象に残った。萩原聖人も、岸田森、堀内正美を髣髴とさせるマッド・サイエンティストぶりだった。しかし、銀粉蝶演じる占い師の名前が、「卜部日美子(ウラベ・ヒミコ)」というのは凄いなあ。
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寝言

2010-09-15 00:40:03 | ※ モモ観察日記
「最近、ぜんぜん更新がないじゃないか」という一部のリクエストにお答えして、ついさっきの出来事から。
ワインを飲んで布団に大の字になり、爆睡しているモモへ向かって話しかけてみた。
「なんで君は、布団と布団の間の境界線上に寝ているのだ?」
「…うん?(寝ぼけている)…子供用なんだよ」
「? 何が?」
「…わさび」
「? 何の話をしているんだ?」
「…だから、君の飼っている牧場の牛だよう」
「牛? 誰が?」
「…壮一郎」
「大田壮一郎が、ぼくの飼っている牛なの?」
「違う違う。大田壮一郎が、君の飼っている牛に会いにくるんだよ」
「……」
何のことかさっぱり分からん。大田さん、何かご存知でしたら教えてください。
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他者表象の暴力性:怪談と押尾学裁判から

2010-09-08 22:59:14 | 議論の豹韜
モモが、ひどい座骨神経痛で身動き取れない状態となっている。そんなわけで、ふだんあまり家庭的ではないぼくが、買い物に行ったり、料理をしたり、食器を洗ったり、洗濯物を干したり、モモのお世話をしたり、家事全般をこなしている。偉いものである。並行して、『上智史学』の編集作業や初年次教育のプランニング、論文執筆も行っているが、後者は相変わらず進まない。じわじわと来る催促に怯えきっているところである。

ところでこのところ、他者表象の暴力にキレそうになったことが数回あった。
ひとつは宗教史懇話会のサマーセミナーにおいてだが、これは、呼びかけ人としての立場上角が立つので書くのはやめておく。
二つめは、Tという実話怪談作家の作品についてである。いわゆる「みえる」立場を前提として綴ってゆく一種の私小説なのだが、『幽』13号に載っていた百物語風の告白が本当に酷かったのだ。彼女は電車の一両目に乗ると必ず人身事故に遭うといい、そのことを自覚してからは二両目以降に乗るようにしていたのが、うっかりしてまた一両目に乗ってしまったため投身自殺に遭遇したとの筋である。一読して、死や死者に対する感受性の低さに愕然とさせられた。自殺をせざるをえなかった人間へのシンパシーや、遺族の抱くであろう痛みや苦しみへの想像力が、その叙述にはまったく欠如しているのである。この人の書いたものはなぜかたいてい読んでいるのだが、いつも、極めて狭隘な自身の視野だけであらゆることを断定してしまう傾向がうかがえる。ぼくにとっては、怪談の内容よりその人間性の方がよほど恐ろしい。
三つめは、ここ数日の押尾学裁判の報道で目にしたことで、急性薬物中毒で死亡した女性に関する検察側の冒頭陳述に、思わず首を傾げてしまうような表現が見受けられた。最近は、一般選出の裁判員にアピールするため、検察側・弁護側のプレゼンテーションも、「分かりやすさ」を基調に凝ったものになってきている。これもやはり「裁判の劇場化」に伴う問題なのだろうが、検察が被害女性の中毒症状を段階を追って述べてゆく際、「エクソシストの状態」「呪怨の状態」などの譬喩を用いたというのである。報道によれば、薬物中毒の恐ろしさを強調しようとしたらしいが、被害女性の遺族も傍聴している前で、死に至る症状をホラー映画の化け物(リーガンの場合は正確には化け物ではないが、映画はモンスターとして描写していた)に喩えるその神経は普通ではない。裁判の現場においては、恐らくこのような暴力は頻繁に行使されているのだろう。裁判員制度の採用によって一般人の尺度や価値観を導入しようというなら、この点についてもしっかりとした監視と批判が行われなければならないはずだが、ふだんから同種の暴力を繰り返し行使しているマスコミも含めて、あまり重大なこととは考えられていないようだ。

…と、自分のことは棚に上げて語っているが、お調子者であるぼく自身も、たまに講義などで「口を滑らせる」ことがある。自戒せねばなるまい。
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学生を本気にする心意気:2010年度ゼミ旅行3日目

2010-09-07 03:40:21 | 生きる犬韜
最終日は、午前中に三十三間堂と東寺の見学を済ませ、午後から花園大学へ伺って、博物館のバックヤードや情報歴史学の作業をみせていただくスケジュール。昨日のように9:00前の出発となったが、やはり全員は集まらず。今回は、始動時にすべての学生が集合したことがなかった。マイペースというか、緊張感がないというか…まあよしとしよう(ホントに?)。
まずは炎天下を三十三間堂へ徒歩移動、途中、京都の街並みについてところどころ説明した。三十三間堂内部もなかなかに暑かったが、ぼくの最も好きな彫刻家のひとりである湛慶の技にしばしみとれた。しかし、各像の前に据えられたキャプションは、日本語より英語解説の方が詳しいのはなぜだろうか。みやげもの売り場でしばらく休んでいたら、参加者のうち、唯一家の宗教が神道であるという2年生のSさんが、おみくじで「凶」を引き当てた。昨日のT君のことがあるので、少々嫌な予感がした。
猛暑と時間の関係から、京都駅を経由してタクシーで東寺へ移動。空海がもたらした新来経典の儀軌、図像などから立体化したと思われる、本邦初の密教の仏像群を堪能した。今から考えると、このとき、ちょうど最後の見学地であったわけだし、王権と宗教との関係について少しディベートなどしてもよかったかも知れない。東大寺と聖武・孝謙=称徳、飛鳥と斉明・天武、蓮華王院と後白河、そして東寺と嵯峨。それぞれにみられる結びつきの特殊性、宗教の担った意義など、現地だからこそ抱く感想もあったはず。貴重な学びの機会を逸してしまったようで残念だが、学生たちは暑さでそれどころではなかったか。

京都駅で各自昼食をとってから、一路円町の花園大学へ。まずは、歴史博物館のバックヤードをみせていただいた。この施設の特徴は、博物館の機能と学芸員課程の教育とが有機的に連動していること。収蔵品にも、学生が実際に発掘したもの、収集してきたものが多く、特別展などの図録にも学生作成のものがある。自分たちと同年代の若者の「実践」をみて、ゼミ生たちも大いに刺激を受けたようだ。また、未だ学芸員課程の授業を終えていない2年生などは、展示の物品を実際に触らせていただいたり、展示ケースのなかへ入らせていただいたりしてはしゃいでいた。また、文化遺産学科の誇る数々の最新機材、2000万円はするというデジカメなどもみせていただいた。アンコールワット云々と喧伝していながら、より身近な歴史、文化の保存・探究を真剣に考えていないどこぞの大学とは違う。
続いて、師さんの説明で、現在プレス発表へ向けて作業も大詰めの、京町家CGの作成現場を見学させていただいた(動画の暫定版はこちらにて)。古文書として残る図面からの立体化作業は種々の困難を伴い、それゆえにこそ判明した新事実、構築しえた新たな仮説も多かったとのこと。史料からマンガや小説を描いてみようと志した人間なら、日常生活レベルで過去を再現するに際し、実際に判明していない(あるいは自分自身分かっていない)細かな事柄が極めて多いことに気付かされた経験が、きっとあるはずだ。精密な作業を心がけるなら、問題の古文書のみならず、より多くの関連史料の博捜とそれに根ざした想像力が必要となる。ただ文献を読んでいるより、歴史について学ぶ幅は広く、深度も深いに違いないと痛感した。また、このプロジェクトには企業も関心を示しているとかで、CG作成を通じて得た技術が将来のキャリアへ繋がる可能性も見出しえたという。学生を本気にさせるために、まだまだぼくらにもやるべきことはあるな、と反省した数時間だった。師さん、花園のスタッフ・学生の皆さん、いろいろありがとうございました。

見学終了後は京都駅にて解散、それぞれ帰宅の途についた。計画を立ててくれた3・4年生はじめ、大挙して参加してくれた2年生、院生のHさん、T君、みんなお疲れさまでした。もう少し事前の勉強を活かして、史跡それぞれの全体像を把握しながら見学できればよかったけれど、まあ、今年はそれなりに充実していたのではないでしょうか。しかし考えてみたら、(勉強会はともかく)例年のような深夜の飲み会はなかったな。疲労困憊、というところですか。

※ その後もろさんが、ミステリー・ツアー花園大訪問に関する感想をアップしてくださいました。御礼申し上げます。
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始まりは二上山、異界が口を開けていた:2010年度ゼミ旅行2日目

2010-09-05 22:10:10 | 生きる犬韜
ゼミ旅行2日目は、9:00前に宿舎を出て一路飛鳥へ。相変わらず、集合時間に全員が集まらないというハプニングがあったが、ひとつめの目的地である飛鳥資料館までには全員が揃った。一応の解説をしながら施設内を見学したが、学生時代に訪れたときにはそれなりの充実感を得た気がしたものの、今回は物足りない印象が強かった。あれから飛鳥ではたくさんの発見があったはずだが、それらが充分展示に活かされていない。資金が足りないのだろうか、もっとしっかりしてほしいものである。
昼食は資料館前の売店。昨日とは違い、今日の出だしは「まったり」していたが、それもここまで。昼食後はバスを乗り継ぎ、または炎天下の徒歩移動で、やはりヒーヒーいいつつ主要スポットを回った。まずは飛鳥寺で飛鳥大仏と対面、入鹿の首塚から甘橿岡へ登り、飛鳥坐神社から天武持統陵、高松塚古墳へ。甘橿岡からの眺めは相変わらず素晴らしく、飛鳥を卒論で扱い、修論でも考察している院生のHさんが、学部生相手にいろいろ説明してくれていた。こういう上級生と下級生との関わりが生まれるのも、ゼミ旅行のよいところだろう。畝傍山の向こうにみえる二上山が清々しく、『死者の書』の舞台とはまったく異なる印象に映った。そうそう、折口信夫といえば、彼の歌碑が立つ飛鳥坐神社の境内で、久しぶりに玉虫(屍骸であったけれど)を目撃。学生たちは今までみたこともなかったようで、玉虫厨子の話をするいい機会を得た。

汗みずくになりながら、17:00過ぎには近鉄飛鳥駅を出て京都へ帰還。なぜ暗くなるまで散策を続けなかったかというと、この日は20:00から夜のオプション、京都ミステリー・ツアーが控えていたのであった。目的地は、伏見稲荷神社・将軍塚・八坂神社・上下賀茂社・深泥池・一条戻り橋。昼間の強行軍で疲れ切ってしまった数人を除き、京大大学院に通うOBのT君が駆るレンタカー、わざわざご協力をいただいた花園大学の師茂樹さんの車に分乗し、いざ怪しい夜の京都へと繰り出した。
まず最初に向かったのは、深夜でも参拝可能な伏見稲荷。怪異な雰囲気の漂う千本鳥居を、再び汗をかきかき、かなり上の方まで登っていった。鳥居を千本くぐれば願いが叶うというのだから、これは立派な通過儀礼であり、いいかえるとその間に何か困難が起こるということを意味する。てっぺん付近で夜景を眺めたあと、元来た道を降ってゆくと、突然後ろが騒がしくなった。どうしたのかと振り返ると、なんと、運転手のT君がムカデに噛まれたという。なぜここで、いきなりムカデが…?と不審に思ったが、彼は今年本厄で、本当の話、公私ともに大きなトラブルを抱えていたのだった。これは何か、より危険なことが起きる前触れかも知れない…と、あまりの「はまり具合」に、真宗僧侶であるぼくでさえ不安になった。幸い、T君は大したことはないというので、ツアーは継続することとした。
夜景の美しい将軍塚、御霊より祇園に渦巻く愛憎の方が恐ろしそうな八坂神社を参拝し終わると、いつの間にか時刻は23:00過ぎに。時間も時間なので、賀茂については森の前を通過するだけで済ませ、一行は一路京都最大の心霊スポット深泥池へ。実は最終氷期に遡る高原湿地で貴重な生態系が残っているのだが、平安時代から神霊の住む場所として恐れられ、現在でも京都で最も怪談の多い場所として知られる。住宅地もあり、あまり騒ぐと迷惑がかかるので、周辺をちょっと歩くだけに止めたが、やはり最高に雰囲気のある場所であった。しかも、近くに都市伝説の温床である病院もあり、バス停の名は「狭間町」ときている。帰りがけに車のなかから1枚だけ写真を撮ったのだが、変なものが映っていないか、あとでちゃんと確認しなくては。
ちょうど0:00に深泥池を発ち、一条戻り橋を経過して宿舎へ到着。なんとか無事に、全員が帰還できた(途中、気分の悪いという学生が出たりしたが…)。レクリエーションとしてだけでなく、ちゃんと史跡としての説明もしたので、学生たちはそれなりに楽しめ、勉強にもなっただろう。興奮してなかなか寝付けなかった学生もいたとか。とにかく、師さんには感謝感謝である。しかし、心配なのはT君のこと。彼は以前心霊写真を撮ったこともある男なので、本当に何か変なものを背負い込んでいなければよいのだが…。ぼくらが何かの怪異に巻き込まれていたのだとすれば、それは昼間の二上山から始まっていたのかも知れない。
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寧楽の中心で、暑いとさけぶ:2010年度ゼミ旅行1日目

2010-09-04 15:45:49 | 生きる犬韜
しばらくまとまった記事は控えて校務と原稿執筆に専念しようと思ったが、今回のゼミ旅行は各方面に協力をいただいて実現したものなので、一応記録は残しておこう(気分転換にもなるし)と思いなおした。2010年は、平城京遷都1300年に鑑み、9月1~3日の日程で奈良・飛鳥・京都方面の名所巡り。3年生が非常にぜいたくな(そして厳しい)スケジュールを立ててきたので、こいつは大変だなと危惧したが、まあできるところまでやってみようと踏み切った。

10:00に近鉄京都駅改札へ現地集合ということなので、まずは、現地までたどりつかねばならない。東京発7:00の新幹線に乗るためには5:30過ぎに自宅を出たいところだが、生憎この時間帯はバスがまだ走っていない。タクシー会社に電話をかけまくったがなかなかつかまらず、武蔵境駅へ焦って走り出したところ、モモの機転で何とかタクシーに飛び乗ることができた(ふー)。
京都へ到着するまでの間は問題なく、駅に至近のセンチュリーホテルへ荷物を預けて集合場所へ駆け付けたが、今日の参加者12名のうち、4名が遅刻で途中参加になるという。ぼくはあまりそうしたことに腹は立てないタチだが、「大丈夫かなあ」と不安にはなった。この日の予定は、11:00過ぎから昼食を間に挟んで興福寺・東大寺・奈良博を走破し、ついで15:00過ぎに平城京跡へ移動、最終目的地は唐招提寺、時間があれば薬師寺までゆくとのこと。絶対に実現不可能だと思ったが、できるだけということで見学を始めた。
目に入ってくる仏像や寺院建築は何度みてもすばらしいものばかりだが、それにしてもとにかく暑い。今回は猛暑との戦いになることは目にみえていたが、9月に入ってますます酷くなる陽差しと熱気に、学生が熱射病にかからないか気が気ではなかった(東大寺境内では、恐らくは熱射病の参拝客を救護に来たのであろう救急車に2度遭遇した)。しかし、そこは若さというものなのか。若干不安な学生もいたものの、合間合間に涼を取ることを心がけたせいもあってか、何とかみな無事乗り切ることができた。とくに、体育会系の多い2年生の女子の元気さには、ぼくも上級生も大いに勇気づけられた。遅刻の学生たちも無事に集結し、ヒーヒーいいながらも楽しく散策できた。
興福寺では、東博で異様な熱狂の渦中にあった阿修羅像を含め、国宝の仏像たちを間近に拝観。華原磬の彫刻の精密さを久しぶりに堪能した。
東大寺では、鏡池の傍らの慰霊碑に組み込まれた旧伽藍の礎石群など(写真)、幾つかの穴場スポットも紹介。法華堂では、仏像をどこぞに運び出そうとする、日通美術スタッフの仕事ぶりも垣間見ることができた。勢い、金鍾寺跡地の丸山西遺跡まで足を伸ばそうと険しい山道を登り始めたが、途中で立ち入り禁止になっていたため断念。しかし、「賢い学生たち」は、東大寺の原風景へ思いを馳せてくれたのではないかと思う。
奈良博では、特別展「至宝の仏像」が、常設展示も併せて圧巻だった。国宝が極めて地味に(ある意味では無造作に)ぽん、ぽん、ぽんと展示されている、奈良だからこそ実現できるラインナップに驚愕。現在、また何かと話題になっている「長谷寺銅板法華説相図」も目の当たりに鑑賞できた。

その後は昨年初めて食べて感動した御茶乃子のかき氷を学生たちにご馳走し、ライトアップされた黄昏どきの平城京跡地へ。恐らく昼間は大変な人出でごった返していたのだろうが、いつもと雰囲気の違う朱雀門、大極殿をゆっくり眺めることができた。もはや気持ちの悪くなくなったせんとくんや復原遣唐使船をみることはできなかったが、これもまた一興ということだろう。東京ではなかなか拝めない広い夜空のもと、これまた広大な平城宮を横切って西大寺駅へ向かい、この日のスケジュールは終了となった。奈良博見学を終えるまでに5時間近くを要し、やはり唐招提寺や薬師寺までたどり着くことは叶わなかったものの、充実した1日になったのではないだろうか。

この日の朝は完徹で迎えたのと、翌日は深夜まである強行スケジュールに備え、ホテル到着後もあまり夜更かしせずに就寝(というよりダウン)した。まあ、とにかく、無事にことが済んでよかったよかった。2日目は何やら怪談めいた出来事が起こったのだが、その詳細はまた次回アップすることにしよう。
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