仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

師走の風景

2011-12-18 08:56:19 | 生きる犬韜
おかげさまで、秋季恒例のシンポラッシュは無事?に終了したが、さすが師走、ここ数日はやはり多忙な日々を過ごしている。

文学部の公認のもとに始めた災害時危険度調査は、文学部教職員の皆さん、院生さんたちの献身的な協力もあって、今のところ順調に推移してきている。ふだんは気づかない杜撰な管理状態がいろいろ発覚し、当局へ早急な対応を求めねばならないことも多々出てきた。年明けには中間報告をまとめ、文学部長に提出することにしているが、完了には2月末までかかるだろう。文学部長と話し合って、3月上旬には最終的な報告会・研修会を設けたいと考えているが、そのときに何らかの形で繋げたいのが「日本版Shake out」だ。
アメリカで実施されている世界最大規模の防災訓練だが(こちらはその広告動画)、東日本大震災を受けて、来年の3月9日、その日本版が敢行予定なのである。行政団体としては、上智の立地する千代田区が、早くに参加の意志を表明している。同区に所在する多くの官公庁や企業、学校等々にも、同じような考えを持つところは多いだろう。防災や災害時対応には、地域の連携が欠かせない。上智も全学的に関わってほしいものだが、少なくとも文学部、あるいは有志の形では参加したいものである。

16日(金)には、徹夜で院ゼミの報告準備をしたあと、第6回人間文化研究情報資源共有化研究会「人間文化研究情報資源の保全と資源共有化の課題」に参加のため、立川の国文学研究資料館へ移動した。同館が立川へ移動してから初めて訪れたが、その画一的な景観にまず驚かされた。耕地か雑木林を再開発したのだろうか、アメリカ空軍立川基地跡地を再開発したとのことで、周辺にはマンション、工場、研究機関しかなく、埋め立て地を思わせるような情景だった。人間文化研究機構の整備に伴い集中的に建設されたものだろうが、文化を研究する機構が文化的魅力を感じない環境に立地しているという矛盾は(まあ土地の記憶という意味では重要かもしれないが)、まあ日本のお役所のやりそうなことではある。集会自体は同機構のものなので、参加者はその構成員が中心(ちょっとハビトゥスが違う感じ)。ぼくは、東北学院大の加藤幸治さんが発表するというので予定を調整して来たのだが、国立の文化財関係のトップの人たちが、文化財レスキューに関してどのような意識を持っているのか、その作業はどこまで進められているのかにも興味があった。結論を先にいうと、もはや個々の大学、博物館、ボランティア・ネットワークの枠組みで作業を続けるのには限界がある、ということになろうか。東北大の平川新さんの報告で触れられていたが、各地の原発の危険度を考慮すれば、列島内のどこにも文化財の置き場がないという情況が出来しているのだ。本当に最悪の事態が訪れたとき、この島に育まれてきた文化の痕跡をどう守るのか…。平川さんは、史料データのアメリカへの避難を考えているとのことで、まるで小松左京の小説のような議論になってきたが、しかしそうした危機的情況においては、我々も日本を退去せざるをえないし、自然環境ももちろん壊滅的な打撃を受ける。まずは、「日本文化」が破滅を招いた人類の負の遺産として語り継がれないよう、力を尽くさねばならない。

ところで加藤さんの報告は、文化財レスキューという実践自体の教育的価値、研究価値が明確に分かるものだった。ぼくは予定がうまく合わず9月以来参加できていないのだが(上智の学生は要請のある度に協力させていただいている)、それから3ヶ月余りの間にも様々な情況の変化があり、新たな難問も生じてきていることを知った。何とか、できる限りのフォローは続けてゆきたい。しかし、今回本当に嬉しく、また驚いたのは、加藤さんから上の新著単行本をいただいたことである。『郷土玩具の新解釈―"無意識の郷愁"はなぜ生まれたか―』。加藤さんのこれまでの研究の一端を大幅に拡充しつつ、一般にも分かりやすくまとめたものだ。といってもこの本は、よく観光地でみかけるような、郷土玩具を地域の特性とともに説明した図録ではない。郷土玩具をめぐる近代の文化的実践を西洋志向と江戸懐古との狭間に捉えた、民俗学の形成史なのである。しかも加藤さんは、震災でデータの一部を失いながら避難所でこの執筆を再開し、約半年間で脱稿したという。加藤さんが大変だったことはちょっとだけ聞いているので、少し泣きそうになった。大切に読ませていただきたいと思うとともに、これが、忙しさを言い訳に学問から逃げている人間と、言い訳をせず黙々と努力している人間の差だなと恥ずかしくなった。自戒すべし。

とはいっても、自分の忙しさは変わらない。上の研究集会を途中退席して上智へ戻り、留守の間に積み重なっていた学生センター関係の仕事と学生への対応を終え、1年生のプレゼミ説明会に出席して、院ゼミの報告。『法苑珠林』の講読は敬仏篇の途中まで進んでいるが、今回は北涼仏教の実態、それに対する道宣の評価についてかなりクリアに勉強できた。経典や美術の面では、日本古代の護国仏教の淵源は、どうやら北涼仏教にあるようだ。今後の研究に活かすことができそうである。院ゼミというと、最近は所属の院生たちの成長がいちじるしく、頼もしい限りである。学部ゼミもかなりがんばっていて、たくさんの本を抱えてキャンパスを闊歩する学生、大学院進学を志す学生も増えてきている。その将来を考えると責任を感じるが、嬉しい気持ちも強い。自分も一層真剣に学問に取り組みたいものである。
翌17日(土)は早朝から出勤し、来年のオリエンテーションキャンプの下見のため、学生ヘルパーや学生センターの職員さんたちと箱根へ。素晴らしい天気で、富士山から日本アルプス、相模湾まではっきりと見渡せた。またこの日は、10回近く通って始めて、避難経路の詳細を学生共々確認させていただくことができた。当日は、右も左も分からない1年生をヘルパーが統括しなければいけないので、その安全を考えると大きな収穫だった。来週は忘年会続きで会議も多いが、原稿執筆にも尽力したい。大掃除や年賀状は、やはり後回しか。それから、いただいたご高論、ご高著へのお礼状も…。

※ 訂正線の部分は、コメント欄のご指摘を受けて書き直しました。
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フロイトをどう扱うか

2011-12-10 04:40:38 | 議論の豹韜
先週の3日(土)、神道宗教学会の大会シンポジウムが終わって、ようやくシンポラッシュも完走することができた。今年はあまり出来がよくなかったが、まあ、仕事を抱えに抱えている現在の情況を考えればやむをえないところだろう。神道宗教学会のシンポは、古代から近現代に至る報告者がいずれも真摯・誠実に学問に取り組んでいて、何か爽やかで気持ちのよい印象だった。いずれもこれまでの仏教史、神道史の枠組み・概念を再検討する内容で、コメントを付けつつ、自分自身の課題も明確になった気がする。コーディネーターも兼ねた報告者の藤田大誠氏、古代の報告者加瀬直弥氏、中世の太田直之氏、近世の遠藤潤氏、コメンテーターの引野亨輔氏、司会の藤本頼生氏に心から感謝申し上げる次第である。

さて、あとは〆切を延ばしている原稿を順番に片付けてゆかねばならない。単行本もそろそろ脱稿せねばならないが、同時並行してT社の禁忌の論文ににも精力を注ぎたい。その関連で、最近凝り始めているのがフロイトである。フロイトについては、以前物語研究会シンポで死者の問題を扱ったとき、『トーテムとタブー』『エロスとタナトス』を検討して感銘を受け、その後非常に気になっている存在だった。学生の頃は、兄の影響でデュルケームなどを読んでいたせいか、精神分析の個的心理還元主義に否定的な先入観があり、概説程度を手に取るくらいでほとんどまじめに取り組んだことがなかった。しかし、あらためて読みなおしてみると、まずフロイトは人物として極めて面白い。エディプス・コンプレックスをはじめとするさまざまな概念も、自分を分析対象に、その罪悪観の根源をとことん追究した結果だと知れる。実際、彼の精神分析記録をみていると、患者との対話の最中に自己のトラウマに気づくなど、物語の相互構築の行われているのが分かる。きっと、歴史の物語り論を考えるうえでも重要だろう。よく考えてみると、精神分析学には、「個人心理の歴史学」という側面がある。個人心理が構築されてくる過程を臨床経験に基づく理論によって解明し、現状の分析に援用する。現行の心理状態は、その構築過程で生じたさまざまの問題によって異常をきたすため、精神分析学者は対象の精神を脱構築することで、過去の問題を明るみに出してゆくのである。セルトー『歴史と精神分析』やゲイ『歴史学と精神分析』も、この観点から読みなおしてみたい。

昨年は、アメリカ文学などとの共同作業のなかで、モースやレヴィ=ストロース、今村仁司や中沢新一の仕事を読み直し、動植物/人間の対称性の歴史をアジアの地域性において素描した。その折重要な分析対象となったのが異類婚姻譚だが、フロイトやクラインの議論を読んでいると、やはり個人意識の形成過程と社会的条件、そして環境的条件をどう架橋して考えてゆくかが重要な問題となってくる。ぼくはこれまで、後者の社会/自然環境との関係に方法論的な重心を置いていたが、やはり個人意識の方へも臆せず取り組んでいかなければならないようだ。例えば異類婚姻譚だが、ぼくは対称性との関連において把握していたけれども、そのうち異類が女性であり主人公への献身的奉仕の末に去ってゆくタイプの物語は、乳児期における母親への依存/憎悪の表象であるとする説明にも魅力を感じる。母親への意識が、そのまま地母神、自然環境へと投影されているとみることもできる。精神分析学者が物語を扱う際、極めて超歴史的なものとして分析する点(普遍的人間心理という対象構成の仕方からすれば、とうぜんそうなるわけだが)は批判せざるをえないとしても、生物学でさえ遺伝と歴史・文化との関係を論じる現代なのだから、各地域・時代の特徴を踏まえて個人心理の構築過程を把握し、それに対して前代的言説形式が社会的にどう供与され新たな形式を生み出してゆくか、やはり変転する自然環境がどう関係を及ぼしてゆくか考察することは可能なはずである。

しかし、フロイトはあまりに便利に消費されすぎて、現在周辺科学ではあまり注目されていないのかもしれない。先日の日文協シンポでも「快感原則の彼岸」について言及してみたが、懇親会も含めてまったく反応が得られなかった。ゲイが20年前に記した、「フロイトを批判する歴史学者は多いが、フロイト理論や精神分析学についてきちんと勉強している歴史学者はいない」という言葉は、未だ生きているような気がするが…。
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