9~10月は混乱を極めていたためなかなかアップできなかったが、以下、第2回四谷会談の記録である。すでにもろさんやmonodoiさんのブログにコメントが出ているが、とりあえずここはぼくの視点から。
今回、9/10(月)の四谷会談は真怪研究会。テーマ設定は非常に緩いのであるが、とりあえず於岩稲荷に参拝して、怪異について語り合おうという趣向。京都からはるばるのもろさん、関東からは猪股ときわさん、武田比呂男さん、三品泰子さん、工藤健一さん、monodoiさん、野村英登さんが集まった。小雨の降るなか、まずは丸ノ内線の四谷三丁目駅前に集合。この駅は、ぼくにとっては個人的な恐怖体験(怪異ではなく、リアルな)と結びつく場所なのだが、まあそれについては語るまい。そこからほど遠くないお岩稲荷へと進んだ。途中、「日本伝統医療科学大学院大学」なる建物を発見、新宿鍼灸柔整専門学校が発展したものとのことだが、いやいや、凄い学校があるもんだ(こういう思わぬ発見のあるのが町歩きの楽しいところ)。みんなで電脳コイルごっこをしつつ、早くもお岩稲荷へ到着。
さっきまでは都市の真ん中だったのに、ひとつ裏路次へ入ると江戸っぽい町並みが残っているのが、この四ッ谷界隈の不思議なところである。於岩稲荷はいわずと知れた、『四谷怪談』のお岩さんを祀る神社。代々田宮家が神主を務めているとのことだが、ここが持っている伝承は『怪談』のものとは大きく違う。お岩さんは、窮乏した田宮家を復興した功績ある女性として祭祀されているのである。このあたり、史実と伝承、そして噂話や世間話、戯作物語が複雑に絡み合っているので、もともとの位置づけが何だったのかはよく分からない。しかし、江戸の一女性を祀る神社があり、彼女に関する祟りの物語が強く伝えられてきたことは確かである。ひとつ興味深かったのは、田宮家の家紋が「陰陽勾玉巴」であったこと。巴類は神社などでよく使用される家紋だが(北関東に多いらしい)、勾玉巴をみたのは初めてだった。きっと、田宮家が神社化してゆくプロセスと関係があるのだろう。稲荷との習合も興味深いところ。
境内で遅れてくる猪股さんを迎えると、時折激しく降っていた雨が不思議と上がった。お岩さんに歓迎されていないのかと思ったが、シャーマンの登場とともに情況が変わってきたようだ。
続いて、お岩さんを鎮めるために建てられた日蓮宗陽運寺へ。境内には、お岩さん産湯の井戸などもあり(お岩さんというよりお菊さんが出そうだった)、やはり英雄扱いである。縁結びの祈願所となっているのも、ある意味生々しい。近世以降の日蓮宗の展開についてはほとんど無知なのだが、浄土真宗とは正反対に、民間信仰みたいなものをうまく取り込みながら教線を延ばしている感がある。義母の葬儀で伺った秋田のお寺でも、明らかに霊魂の存在を認めている印象の説教を聞いた(ま、そんなに珍しいことではないか)。現代の創価学会はどうなんだろう、などとふと考えてしまう。公明党本部のある信濃町の近辺は、最近創価学会系の建物が異様に増えているのだ。
お岩さん関係の遺跡を後にして、続いて一行は周辺の寺町廻りへ。左門町から若葉町へかけての周辺は、江戸期からの寺院が多く残っていて、墓地などをみると歴史的有名人の墓が多くある。塙保己一の墓がある愛染院など、史学科の学生は一度は訪れておくべきところだろう。これらを周遊しているうち、あるお寺で動物供養墓を発見。犬用と猫用に分かれていて、写真は猫用。なかなか精悍な顔の像が載っている。付近に有名な動物病院があるとかで、どうもその関係らしい。他にも、戒行寺坂の宗福寺にて、工藤さんが尊敬する新々刀の刀匠源清麿の墓などを発見。後から知ったことだが、どうも戒行寺自体には長谷川平蔵の墓があったようだ。また今度参拝してみよう。一応、次なる目的地として定めたところは、若葉町にある浄土宗西念寺。服部半蔵が出家して開いた寺院で、半蔵をはじめとする服部家代々の墓(写真は半蔵のもの)に、彼が使っていた槍があるという。もろさんらの交渉で本堂に上がらせていただき、余間に飾られていた問題の槍も拝見。東京大空襲の被害によりやや焼けてしまい、重さ7.5kg・長さ258cmの現状だが、本来はあと60cmほど長かったらしい。柄の類焼部分からは、太い鉄芯が覗いていた。工藤さんのお見立てでは、半蔵本人のものであっておかしくない代物とか。これを自在に振り回したとしたらかなりの胆力だったのだろうが、実際は馬上で腰の辺りに抱え持ち、左右に振ることで敵をなぎ倒すという使い方だったという。坊守さんからは、大空襲などの話も伺った。ちょうど母の実家である林光寺もすぐそばで、当時の戦災の話は子供の頃からよく聞いていた。ちなみに、嘉永年間の古地図によれば、林光寺の周辺は伊賀者の集住地となっている。何か関係があるのかも知れない。
さて、その後は「わかば」で名物の鯛焼きを買い込み、上智に戻って懇話会。残念ながらネタを持ってきた人が少なかったので、ぼくの準備しておいた『The Eyes』と『化け猫』を観てもらった。前者は、前にも書いたが、洗練された成巫譚との印象がある。講義で成巫譚の話をするときには、谷川健一『神に追われて』から分かりやすい事例をピックアップして紹介していたが、この映像作品も利用できる気がする。後者は、もののけに他者了解の視点を当てはめた作品と考えている。人とはまったく異なる存在の持つ悲しみ、彼が〈もののけ〉にならざるをえなかった理由を理解できるかどうか。その残酷さ、哀切さが胸を打つ。何度観ても、観終わった後に非常な疲労を覚える内容である。
もともと、来年度パネリストを引き受けている物語研究会のシンポで〈怪異〉について語らねばならないこともあり、この懇話の場を設けた。コーディネーターからは、「言語論的転回以降の歴史学で怪異をどう捉えるか」という難しいお題を貰ったのだが、それに取り組む糸口すらまだ見つけられていないのである。幸い、一時期停滞していた四谷会談のブログでも、近代オカルティズムに関する新しい情報が入り始めた。そろそろ腰を据えて考えてみようか。
今回、9/10(月)の四谷会談は真怪研究会。テーマ設定は非常に緩いのであるが、とりあえず於岩稲荷に参拝して、怪異について語り合おうという趣向。京都からはるばるのもろさん、関東からは猪股ときわさん、武田比呂男さん、三品泰子さん、工藤健一さん、monodoiさん、野村英登さんが集まった。小雨の降るなか、まずは丸ノ内線の四谷三丁目駅前に集合。この駅は、ぼくにとっては個人的な恐怖体験(怪異ではなく、リアルな)と結びつく場所なのだが、まあそれについては語るまい。そこからほど遠くないお岩稲荷へと進んだ。途中、「日本伝統医療科学大学院大学」なる建物を発見、新宿鍼灸柔整専門学校が発展したものとのことだが、いやいや、凄い学校があるもんだ(こういう思わぬ発見のあるのが町歩きの楽しいところ)。みんなで電脳コイルごっこをしつつ、早くもお岩稲荷へ到着。
さっきまでは都市の真ん中だったのに、ひとつ裏路次へ入ると江戸っぽい町並みが残っているのが、この四ッ谷界隈の不思議なところである。於岩稲荷はいわずと知れた、『四谷怪談』のお岩さんを祀る神社。代々田宮家が神主を務めているとのことだが、ここが持っている伝承は『怪談』のものとは大きく違う。お岩さんは、窮乏した田宮家を復興した功績ある女性として祭祀されているのである。このあたり、史実と伝承、そして噂話や世間話、戯作物語が複雑に絡み合っているので、もともとの位置づけが何だったのかはよく分からない。しかし、江戸の一女性を祀る神社があり、彼女に関する祟りの物語が強く伝えられてきたことは確かである。ひとつ興味深かったのは、田宮家の家紋が「陰陽勾玉巴」であったこと。巴類は神社などでよく使用される家紋だが(北関東に多いらしい)、勾玉巴をみたのは初めてだった。きっと、田宮家が神社化してゆくプロセスと関係があるのだろう。稲荷との習合も興味深いところ。
境内で遅れてくる猪股さんを迎えると、時折激しく降っていた雨が不思議と上がった。お岩さんに歓迎されていないのかと思ったが、シャーマンの登場とともに情況が変わってきたようだ。
続いて、お岩さんを鎮めるために建てられた日蓮宗陽運寺へ。境内には、お岩さん産湯の井戸などもあり(お岩さんというよりお菊さんが出そうだった)、やはり英雄扱いである。縁結びの祈願所となっているのも、ある意味生々しい。近世以降の日蓮宗の展開についてはほとんど無知なのだが、浄土真宗とは正反対に、民間信仰みたいなものをうまく取り込みながら教線を延ばしている感がある。義母の葬儀で伺った秋田のお寺でも、明らかに霊魂の存在を認めている印象の説教を聞いた(ま、そんなに珍しいことではないか)。現代の創価学会はどうなんだろう、などとふと考えてしまう。公明党本部のある信濃町の近辺は、最近創価学会系の建物が異様に増えているのだ。
お岩さん関係の遺跡を後にして、続いて一行は周辺の寺町廻りへ。左門町から若葉町へかけての周辺は、江戸期からの寺院が多く残っていて、墓地などをみると歴史的有名人の墓が多くある。塙保己一の墓がある愛染院など、史学科の学生は一度は訪れておくべきところだろう。これらを周遊しているうち、あるお寺で動物供養墓を発見。犬用と猫用に分かれていて、写真は猫用。なかなか精悍な顔の像が載っている。付近に有名な動物病院があるとかで、どうもその関係らしい。他にも、戒行寺坂の宗福寺にて、工藤さんが尊敬する新々刀の刀匠源清麿の墓などを発見。後から知ったことだが、どうも戒行寺自体には長谷川平蔵の墓があったようだ。また今度参拝してみよう。一応、次なる目的地として定めたところは、若葉町にある浄土宗西念寺。服部半蔵が出家して開いた寺院で、半蔵をはじめとする服部家代々の墓(写真は半蔵のもの)に、彼が使っていた槍があるという。もろさんらの交渉で本堂に上がらせていただき、余間に飾られていた問題の槍も拝見。東京大空襲の被害によりやや焼けてしまい、重さ7.5kg・長さ258cmの現状だが、本来はあと60cmほど長かったらしい。柄の類焼部分からは、太い鉄芯が覗いていた。工藤さんのお見立てでは、半蔵本人のものであっておかしくない代物とか。これを自在に振り回したとしたらかなりの胆力だったのだろうが、実際は馬上で腰の辺りに抱え持ち、左右に振ることで敵をなぎ倒すという使い方だったという。坊守さんからは、大空襲などの話も伺った。ちょうど母の実家である林光寺もすぐそばで、当時の戦災の話は子供の頃からよく聞いていた。ちなみに、嘉永年間の古地図によれば、林光寺の周辺は伊賀者の集住地となっている。何か関係があるのかも知れない。
さて、その後は「わかば」で名物の鯛焼きを買い込み、上智に戻って懇話会。残念ながらネタを持ってきた人が少なかったので、ぼくの準備しておいた『The Eyes』と『化け猫』を観てもらった。前者は、前にも書いたが、洗練された成巫譚との印象がある。講義で成巫譚の話をするときには、谷川健一『神に追われて』から分かりやすい事例をピックアップして紹介していたが、この映像作品も利用できる気がする。後者は、もののけに他者了解の視点を当てはめた作品と考えている。人とはまったく異なる存在の持つ悲しみ、彼が〈もののけ〉にならざるをえなかった理由を理解できるかどうか。その残酷さ、哀切さが胸を打つ。何度観ても、観終わった後に非常な疲労を覚える内容である。
もともと、来年度パネリストを引き受けている物語研究会のシンポで〈怪異〉について語らねばならないこともあり、この懇話の場を設けた。コーディネーターからは、「言語論的転回以降の歴史学で怪異をどう捉えるか」という難しいお題を貰ったのだが、それに取り組む糸口すらまだ見つけられていないのである。幸い、一時期停滞していた四谷会談のブログでも、近代オカルティズムに関する新しい情報が入り始めた。そろそろ腰を据えて考えてみようか。