仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

儀礼研究会第3回例会

2011-02-22 16:02:05 | 議論の豹韜
昨日21日(月)は、儀礼研究会の第3回例会。大妻女子大学にて、倉住薫さんによる「『万葉集』巻十六・三八七〇番歌の解釈:枕詞の生成から」と題するご報告があった。問題の歌は、「紫の 粉潟の海に 潜く鳥 玉潜き出ば 我が玉にせむ」というもの。作者は不詳で、枕詞「紫の」にしても、「紫色の濃い意味から派生した枕詞」「紫の染料を粉にする意味から派生した枕詞」といった解釈が並立しており、全体の位置付けも、「在地の民謡」やら「軽い旅中の作」といった諸説があって定まらない情況であるらしい。倉住さんは上代歌謡から類例を博捜し、土地にかかる枕詞をその特産や特徴を挙げて讃える表現と定義、さらに「紫」を「紫菜」すなわち海苔の一種と特定した。また、玉は女性のメタファーであって、下向した都人に土地の女性を添わせる習俗、それらを背景にした宴で歌われたものではないかと結論している。非常に蓋然性のある考察で、背景のまったく分からなかった歌の輪郭が明瞭になった。
海苔が名産の海とすると、「潟」であることからしても、浅瀬で澄んだ水の広がる景観が想像される。水に潜って魚を捕る鳥が、時折海苔などを身に絡ませて浮き上がってくるのだろうか(「潜く」と「被く」は同じ語源)、それが海中の白玉であったなら…といった、卜占的な意味合いも見え隠れする。允恭紀に載る淡路島の真珠の物語、志度寺縁起に展開する海女の伝承などと、どこかで繋がる言説なのだろう。勉強になった。
なお倉住さんは、笠間書院から上のご著書を上梓したばかり。要注目である。

さて、左は最近いただいたものから。『藤原鎌足、時空をかける』は、金沢大学へ就職した黒田智さんから。黒田さんの出世作ともいうべき鎌足論を、人物表象の展開として、古代から現在まで描ききった力編である。昨年末に刊行された拙稿「鎌足の武をめぐる構築と忘却」とも密接に関わる。田中貴子さんの安倍晴明論といい、新川登亀男さんの聖徳太子論といい、そして斎藤英喜さんのアマテラス論といい、最近このような形の人物史?が増えてきた。実証主義vs表象主義、と殊更に二項対立を作り出す気はないが、人物叢書の向こうを張って発展してほしいジャンルである。
『風土記の文字世界』は瀬間正之さんから。少なからぬ人数の歴史学者が、『古事記』や『日本書紀』、『風土記』などを「史料」と把握することで、それが文字と固有の表現、コードによって組み上げられているテクストであることを忘却してしまっている。「史料」の意味するところとは何か、あらためて考えさせてくれる論文集である。近年朝鮮半島で相次いで確認された出土文字資料の分析も含め、東アジアの古代的書記の世界がいかなるものであったのかを具体的に考察できる。いま、上半期刊行予定の「史官」に関する単行本を準備しているところだが、加藤謙吉さんらのフミヒト系氏族研究とも併せて読んでゆくと、非文字世界から文字世界が立ち上がってくる文化的情況を明瞭に想像できる迫力がある。精読すべし。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雪の朝に

2011-02-15 08:11:21 | 生きる犬韜
昨日14日(月)は、大学院の入試。ものすごく大きな共通問題が出たが、受験生はそれなりに頑張ってくれたようだ。採点と面接、合格判定会議を終えて、ひとまず入試関係は一段落した状態である。秋学期の成績の入力もほぼ終えたので(原典講読受講者は、講義ブログで正答を確認しておいてください)、水曜の学科長会議・教授会が終了すれば、各種委員会の残務を除き、あとは研究に専念できるはずだ。3月末からはまた忙しくなりそうだから、とにかく依頼原稿、単行本の原稿など、できるだけ早いうちに仕上げてしまわなければ…。と、待っていただいていた『アジア民族文化研究』の原稿を脱稿、研究室からメールで送信した。久しぶりに映画でも観て帰ろうかとも思ったが、何となく雲行きが怪しくなっていたので、諦めて直帰。案の上、武蔵境の駅に到着したとたんに、ものすごい勢いでぼたん雪が降り出した。
一夜明けてみると、周囲は一面の雪景色である(休みでよかった!)。食器を洗い、風呂を洗って沸かし、モモを送り出してから、家の前の雪かきを始めた。寺には何でも揃っていたが、こちらの家にはスコップもない。仕方ないので、先日モモが買ってきたばかりの熊手を駆使していると、ご近所さんがスコップを貸してくださった。そこでご近所さんと一緒に、通り一面の雪を粉砕。まあ、気温も上がってきたので、すぐに溶けてなくなるだろう。運動になったし、久しぶりに、お隣の方々とコミュニケーションがとれたのもよかった。頭にも血が回ってきたので、さて、研究にとりかかるとしようか。

写真は、石井公成さんに教えていただきアメリカから取り寄せた、Lambert Schmithausenの"Plants in Early Buddhism and the Far Eastern Idea of the Buddha Nature of Grasses and Trees"。草木成仏の概説を書くのに使うつもりだったが、なかなかゆっくり読む暇がなかった。しかし、「原始仏典において樹木が人や獣のように生命あるものとして扱われなくなるのは、仏教教団が戒律によって肉食を抑止するようになり、植物を主な食料として生きてゆかざるをえなくなった結果だ」とするのは極めて重要な指摘であり、環境文化史の観点からも熟考を要する問題である。仕事を引き受けすぎることによる弊害のひとつは、こうした海外文献の消化が充分にできないことだ。院生、非常勤講師の時代は、"History and Theory"誌も丸善を通じて定期購読し、ポストモダン歴史学の方法論的展開を注視していたものだが、今は自分のアンテナに引っかかってきたものを概観するのがやっとである。やはり、7年に1度は研究休暇を貰って脳内の刷新を図らないと、研究も教育も質が下がる一方だ。とにかく、心せねばなるまい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻想第四次の歴史学

2011-02-13 10:26:41 | 生きる犬韜
一般入試業務は、ぼくの関わっている方面では何とか無事に終了。毎年この時期は本当に心労が嵩むが、どうやら穏やかな気持ちで春休みシーズンを迎えられそうである。…と思っていたら、4月からさらなる校内業務を引き受けることになり、これまでとは比べものにならないほどの仕事量を処理しなければならない事態に陥った。そろそろ八方美人はやめて、大学人としてどのような道を歩んでゆくか決めておかねばならないのかも知れない。とうぜん、教育・研究優先、それ以外に選択肢はないのだが。

昨日12日(土)は、修士論文の口頭試問。うちは公開制なので、全教員、院生が集まって試問を見守る。今年の提出者は5人とあまり多くはなかったので1日だけで済んだが、それでも朝から1時間余ずつ、5人の報告・試問を聴くのはかなり疲れる。ぼくのところの院生も1人いたのでなおさらだ。終了後はずいぶんと肩が凝っていた。いきおい、史学研究室で行われた打ち上げで、ふだんは口にしないワインを少々。しかし、紙コップに1センチほど飲んだところで、意識が朦朧としてしまった。

帰宅の電車のなかでは、ライアル・ワトソンの遺著『エレファントム』の頁を繰った。冒頭、ダウン症の少年がフロリダの草原に絶滅した象の姿を幻視するくだりで、宮澤賢治「小岩井農場」を思い出した。牧場を歩く賢治の目前にも、白亜紀の恐竜たちが姿を現す。中沢新一の『アース・ダイバー』にも、縄文と現在をゆききする似たような経験が散りばめられていた。空間に時間軸が交錯する第四次元の交感は、特別な感性を持たないぼくには訪れない経験かも知れない。しかし、ぼくにとっては学問こそが(もちろん歴史学に限らない)、それへ近づくためのツールなのだ。本来、東アジアにおける「歴史」という実践は、悠久の過去を現在において生きなおすために存在したのだから。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「存在の贈与」と「原罪性」

2011-02-07 14:33:15 | 書物の文韜
2月に入り、期末テストやレポートを終えた学生たちは春休みに突入、まさに青春を謳歌していることだろう。こちらは心身ともに酷使する最繁忙期を迎え、帰宅しても執筆に身が入らない。しかし何とか、懸案の2本の論文は脱稿の方向へ向かってきた。

自然環境と人間との間に横たわる〈負債〉の意識については、やはり「存在の贈与」と「原罪性」がキーワードとなる。前者は自らの生命が自然、もしくはその表象である神霊(造物主)から贈与されたものだとする考え方で、後者はそうした自己が自然や神霊に決定的なダメージを与え、それゆえに苦悩を背負うことになったとする考え方である。どちらが欠けても、恐らく〈負債〉の意識は生じないか、もしくは根無し草的で浅薄なものとなる。この問題をもう少しきちんと掘り下げてゆけば、川田順造氏などが繰り返すステレオ・タイプのキリスト教批判論(「創世記パラダイム」)や、エコ・ナショナリズムに繋がるアニミズム礼賛論への有効なアンチ・テーゼとなるだろう(…たぶん)。
以上のようなことをつらつら考え、文章を綴っていたら、それにシンクロするかのごとく、上記の3冊が岩波書店から立て続けに刊行された。秋道智彌さんの『コモンズの地球史』は、シリーズ『資源人類学』前後の論文をまとめたもの。資源・所有の問題系は、〈負債〉を論じる際には極めて重要と思うが、あまり贈与論や交換論と結びつけて語られてはいないようだ。注意したい。
谷泰さんの『牧夫の誕生』は、ドメスティケーション起源論の集大成ともいえる内容。昨年の河野哲也さん、三浦佑之さんとの意見交換のなかで、「家畜化は人間の野生を鈍化させる」というテーゼが浮かび上がってきたので、あらためて勉強しなおさねばという気になっていた。王権や国家の起源にも結びつく問題であり、牧畜の発展しなかった列島文化との比較においても重要だろう。
野本寛一さんの『地霊の復権』は、石神を扱っている点で、例のしゃぶき婆の来歴を考える手助けとなりそうだ。諏訪御柱祭のシンポジウムでは、ミシャグチのブームを巻き起こしたともいえるヴィジュアル・フォークロアの北村皆雄さんの知遇を得たが、今度お話を伺う必要があるかも知れない。…しかし、こう「地霊」の存在を前提に論じられると、少し違和感がある。すべてを「地霊」に収斂してしまうことで、逆に列島の豊かなアニミズム世界とはかけ離れていってしまうような気がしてならない。

よくよく考えてみると、今年度考えてきたことは、仲立ちしてくださった方々も含めみんなどこかで繋がっている。不思議なことである(しかし上の本、みんな同じ感じのタイトルだなあ。岩波編集者のサジェスチョンなんだろうけど、もうちょっと特徴を持たせようよ)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒論口頭試問終了

2011-02-02 17:19:56 | 生きる犬韜
昨日、卒業論文の口頭試問が終了した。その準備がかなりハードだったので、今日は反動で自主休日。これから入試業務のため土日返上となるが、まあ明日の研究日は様子をみに出勤してみよう。

卒論の採点は、その学生の4年間の学習結果を問う作業でもある。概説や特講、演習などを通じて提供してきた最新の学的知識や、歴史を研究する方法をちゃんと修得、駆使できているか。それは、4年間のぼく自身の教育の質を再検討することにも繋がるわけだが、結果が良くても悪くても、かなりの精神的ダメージを受けることになる。ここ数日胃の働きが明らかに悪くなっているが、昨日は帰宅して夕食を食べてからすぐ倒れてしまい、夜中にふと気づくと重い胃痛が襲ってきていて、午前中いっぱい違和感がとれず何をする気力も湧かなかった(それが休もうと思った理由でもある)。葛藤の具体的な中身は、ここに書くと問題がありそうなので伏せておくことにしよう。まあ、ぼくの厳しい詰問に打ちのめされた学生もいただろうから、少しはその不安や慚愧を共有した方がよいということかも知れない。昨日の帰り際、史学研究室では東洋史専攻の打ち上げが行われていたが、試問の直後、向き合った学生たちと騒げるようなタフさがぼくにはない。

お昼前になって、ようやくPCを開き仕事を再開。メール・ボックスを開くと、1月末までの原稿の催促が来ていた。少なくとも2本、修論の採点作業を進めながら書き上げねばならない(さらに胃が痛くなるというものだ)。持ち越しになっている単行本の執筆作業のほか、7・9月に原稿の〆切があり(まだ正式な依頼はないが、他にも数本書かねばならない文章がある)、5月に仙台で講演、秋に中国少数民族文化のシンポジウム報告と、もう幾つかの予定が入り始めている。今年度見送らざるをえなかった『法苑珠林』注釈の『上智史学』掲載も、来年度は実現させねばならない。お品書きのように列挙されている仕事をとにかく片付けてゆくという生活は、これからどれくらい続いてゆくのだろう。学生のときはもっと自由だったかな、としばし記憶をたどってみたが、映画の制作に邁進していたあの頃も、自分の理想がうまく実現できない悔しさとか、撮影協力者である友人たちの不満を解消しつつどのようにスケジュールを調整するかとか、どこに妥協点を見出すかとかいった、胃の痛い毎日を送っていたことを思い出した。結局性格なのか…、白髪になるまで同じ調子で生きてゆくのかも知れない。とにかく、もう少し元気出して頑張ろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする