仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

集う「死者の書」:因果の理が回り出す

2008-04-26 18:45:03 | 書物の文韜
今週もようやく終わった。ある意味ではもうGW突入である。この間に絶対仕上げねばならない原稿があるのだが、せっかくの休みにもかかわらず、今日はなかなかエンジンがかからないでいる。やはり四十路がみえてきたせいか、ちょっと疲れがひどいのだ。月曜は日本史概説と公開学習センターの講座(今週はぼくの担当)、オリキャンの反省会、火曜はプレゼミとゼミ、水曜は歴史学をめぐる諸問題(コーディネーター)、奨学金申請者の面接(私費留学生10人)、学生生活委員会の会議、木曜は豊田地区センターの講義(『家伝』講読)、金曜は日本史特講と院ゼミ(『法苑珠林』講読)。まさに駆け抜けた感があり、切り換えがなかなかできないのである。これからなんとか立て直し、執筆にかからねばなるまい。明日は明日でまた授業の準備、書かねばならない書類もある(ふと気づいて、現在所属している学内委員会等々を数えてみたら8つもあった。なんだろうね)。

ところで、前期は日本史特講と首都大OUで死者をテーマに立てているのだが、不思議なことに、ある研究を始めると関連の書物がタイミングよく出版されたり、知り合いの研究者からご恵与いただいたりすることがけっこうある。今回も、ありがたいことに下記の書物と出会うことができた。
まずは大正大学綜合仏教研究所の『仏教の死生観と基層信仰』。筆者のひとり、増尾伸一郎さんからいただいた。増尾さんのの「我、現身にして補陀落山へ帰参せん-〈補陀落渡海〉のシンクレティズム-」はもちろん、猪股清郎氏「空海の思想的基層と自然との瑜伽観」(修行と身体、観仏との関係から)、西野光一氏「弥勒浄土から阿弥陀浄土への展開-鎌倉仏教による救いのイメージの簡略化への模索-」(日本的浄土の成立と本覚論との関係、最近ちょっと気になっている)、名和清隆氏「慰霊空間の形成と変化-日航機事故を事例として-」(遺族が大切な人の死をどのように受け入れてゆくかは重大な問題)など、すぐにでも読まねばならない論考が多い。
工藤美和子さんの『平安期の願文と仏教的世界観』は、ご本人からいただいた。工藤さんのことは、修士の時代からよく知っている。方法論懇話会の例会にも京都から駆け付けてくれる、非常に勉強熱心な女性だった。歴史学/文学/仏教学というディシプリンの狭間で苦しみつつ、立派な学位論文を上梓されたことを、心からお祝い申し上げたい。願文という宗教的言説が新たな現実を構築してゆくという方法にも注目。それ自体が、死を超克するための方法だったという読み方もできるだろう。ぼく自身は未だ平安仏教に充分見通しがきかない状態なので、これから勉強させていただきたい。
佐藤弘夫さんの『死者のゆくえ』は、古代~中世に至る死と死者をめぐる心性を扱っており、今年の特講ともかなり重なり合う内容。書名もいい。しかし、古代の部分を概観したところでは、扱っている情報が限定されている(もしくは偏重している)印象があった。考古学の現状においては、古墳は簡単に整理することのできない複雑な意味を持っているし、弥生以前の宗教的心性、制度を受け継いでいることも分かっている。山折哲雄氏は「骨を扱っていない」と柳田国男を批判しているが、列島における〈祖先〉なる概念の誕生において骨は重要なファクターである。東北大学、『遠野物語』という文脈があるからだろうが、その柳田から説き始めるというのもどうだろうか。刺激を受けつつも、批判的に読みたい本である。

そうそう、今週は、土居浩さんからも右の書物をいただいた。千田稔編『アジアの時代の地理学-伝統と変革-』である。ぼくらはどうしてもヨーロッパとアメリカ、専門によっては中国の学問事情には敏感となるが、まさにオリエンタリズム的感覚の規制によって東南アジアを排除してしまう。本書には、それら地域の地理学の現状が手際よくまとめられている。アジアの環境文化を読み解くうえでも極めて重要な本。四谷会談でちゃんと紹介せねば。土居さんの関係している東アジア宗教文化学会の設立もあり、今年もアジア研究は盛り上がりそうだ。ちなみに、ぼくは8月下旬に雲南へ調査にゆく予定。
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あっという間に1週間:春学期授業開始

2008-04-18 16:43:32 | 生きる犬韜
慌ただしく春学期の授業が始まり、またたく間に一周してしまった。その間、学科会議や教授会、その他各種委員会の会議があり、気づくと4月も下旬にさしかかってしまっている。3月に例会を行った方法論懇話会のケアもしなくてはいけないし(もういいのか。解散したから)、そろそろ環境/文化研究会(仮)の例会も設定しなければいけないのだが、とても時間的余裕がない。しかしこれは、ぼくが時間を使うのが下手だからなのだろう。ここ数日、妙に眠気が強く、集中力を欠いている。そろそろペースを立て直さないと、問題が次々と先送りされてしまうことになる。がんばるべし。

最初の授業は、11日(金)古代史の特講「冥界と喪葬の文化史」。『世界の中心で、愛をさけぶ』に代表される病死譚の流行を手がかりに、生者が死者と向き合うあり方について考え始めた。いきなり「皆さんの大切な人は、これからどんどん死んでゆくんだよ」と始めたものだから、とても重たい空気に包まれてテンションが下がりまくったが、リアクションをみてみるとそれなりに受け止めてくれた学生が多かったようだ。今日はこれからその続き、縄文時代の「骨」に対する意識について考える。
なお金曜は、今年度から担当することになった院ゼミがあるのだが、中世史専攻の院生が1名いるだけの上智では開店休業状態。来年度大学院を受験する予定のHさんと、学位論文執筆のため帰国中の榊佳子さんを誘い、ほとんど研究会状態で『法苑珠林』の講読を開始した。参加者募集中なので、我こそはと思う人は手を挙げてください。

続いて、14日(月)日本史概説 I「環境史からみる日本の古代III」。今年は都市論を中心に考えてゆくが、ガイダンス(環境史の視座)は、毎年共通の話題を趣向を変えながら話している。この日は江戸期農村の景観について、スクリーンに国絵図や名所図絵を映しながら説明、例の現里山非伝統論を導入として使った。80人の1年生を核に30名ほどが集まったようで、どうやら120人近い学生が聞きに来ているらしい。反応は非常によいが、来週はどれくらい残っているのかな。

15日(火)はプレゼミとゼミ。前者に集まった2年生は8人、うち5人が他のゼミとの掛け持ちだから、古代史ゼミの厳しさに嫌気が差して去ってゆく姿が目に浮かぶ。最終的にどこへ所属するにせよ、日本史を研究する技術は身につけていってほしい(ためになるので)。この日は春学期のスケジュールを話して、それぞれに自己紹介をしてもらった。なかなかしっかりした意見を持った子たちで好印象。ちゃんと育てなくてはなるまい。ゼミは15人の大所帯。そろそろ就職活動を終える学生が増えてきて(早いな)、卒論が心配になってきている様子。ゼミ旅行も出雲周辺に定めた。今年のゼミ長のI君はやる気満々なので、ぜひ昨年以上に有意義なものにしてほしい(彼はブログを始めたようだ。他にも何人かブログをしているゼミ生がいるのだが、リンクを張ると怒られるかも知れないので止めておこう)。

16日(水)は輪講「絵画資料でよむ環境文化史」。この日はガイダンスだったのでぼくが担当、環境文化史の意義、絵画資料の利用価値を概説、北原糸子さんによる広重『名所江戸百景』の新しい読みを紹介した。その美しい色彩を大画面でみせるべく、また安政大地震の被害が大きかった亀戸周辺の現在と江戸期の状態を比較すべく、PCを持ち込んだものの、なぜか調子が悪く画面に映らず。けっきょくプリントだけで講義する羽目になった。評判はよかったが、やはり残念なことこのうえない。Windowsは不具合が多いので、中村さんのようにiPodを使うようにしようかな。

17日(木)は、研究日だが会議。会議の場で英語学科のT先生と会う。お互い、「よく会いますね」と笑いあう。やっぱり仕事を担当する人は限られているのだ。合間を縫って翌日の準備をした。

そうそう、公開学習センターで、工藤さん、佐藤さん、土居さんと企画した「異界からのぞく歴史」も始まった。10人の方が登録してくださって、なんとか開講にこぎ着けることができたわけだ。初日の14日は佐藤さんの担当、プロテスタントの教会がキリストの身体に準えられていることを、境界論の概説と合わせて説明していただいた。カトリック教会は古代より人骨の集積される場所で、クトナー・ホラの全聖人教会など骸骨装飾を持つところも多い。日本古代でも天皇の大殿は屋船命の身体だし、それを受け継ぐ日本家屋も樹霊の肉体そのものだ。大工=宗教者という位置づけの共通性とともに、いろいろ生々しいイメージが浮かんだ。
また、先日吉川弘文館から『三宝絵を読む』を刊行した成城大学民俗学研究所の三宝絵研究会も、15日に打ち上げを行って無事終了。ぼくは諸々の事情があって論文を寄稿することができなかったのだが、文献目録の作成にちょっとだけ貢献したので呼んでいただいた。勝浦さん、小峯さん、増尾さん、藤井さん、藤巻さんにもにも久しぶりにお会いした(増尾さんは少々肥えたようだ)。今年度からは『藤氏家伝』の研究会が始まる予定。

...ところで、森見登美彦氏と神山健治氏が会っているらしい。神山氏といえば、いわずと知れたテレビ版『攻殻機動隊』・アニメ版『精霊の守り人』の監督である。現代日本で最も優れた映像作家のひとりといってもいい。これは、森見作品のどれかをアニメ化するということなのだろうか。硬派の神山氏が興味を持った作品とは何だろう?

※ 写真は自坊境内の八重桜。昨日からの雨でちょっと散ったかな。
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春の宵に浸る:『かもめ食堂』『めがね』『太王四神記』

2008-04-07 19:49:37 | ディスクの武韜
毎月積み上がってゆくばかりで一向に減らないDVDのなかから、荻上直子作品を一気に鑑賞した。『かもめ食堂』と『めがね』である。ともに、ものすごくゆるゆるしたテンション(そして枠組み)の映画だが、そのだらけ具合が大変に心地よい。「忙しい現代社会」云々、といった対立項は、絶対に設けたくない類のゆるさである。二作品を通して小林聡美ともたいまさこが好演、「このひとでなければありえない」というツボにはまった演技(なのか?)をみせてくれる。鑑賞後の爽やかさ、清々しさは、三谷幸喜『やっぱり猫が好き』や木皿泉『すいか』に類似のものがあるが、画面の片隅にのぞく〈不思議さ〉は、荻上直子独特の世界なのだろう(〈神話性〉といってもいいかも知れない。『めがね』のもたいまさこなど、まさに春に来る来訪神である。名前も「さくら」だし)。
さて、二作品に共通して気になったことがひとつ。すでにどこかで誰かが書いていることだろうが、贈与・交換のカタチへの監督のこだわりである。前者のかもめ食堂は、小林聡美がヘルシンキに開店した下町食堂風の和風レストラン。いわゆる寿司や天ぷらといったステレオタイプの和風料理ではなく、おむすびをメインメニューに、焼き魚やトンカツ、野菜炒めなどの定食を出している。当初は誰ひとり客が入らないが、片桐はいりやもたいまさこが様々な縁で関わることにより、次第にひとを誘う"風"が生まれてくる。金銭で成り立っている商売のはずなのに、客が代金を支払うシーンはほとんどない(お金を置いてゆくのが強調されるのはもたいまさこのみ。彼女が支払っているのは、本当に"お金"なのか?)。かわりに挿入されるのは、料理を口に入れたときのささやかなうなずき(決して大げさではない)、安心、そしてもうひと口ほおばろうという自然な動作である。そうした客の姿をみていて、小林らはニコッとする。彼女たちの感じる小さな幸福感は、お金からではなく、こころの交換によって育まれているのである(そして交換のきっかけが、誰しもが抱える様々の〈生きる悲しみ〉である点も重要だろう)。
後者にも印象的なシーンがある。もたいまさこが春だけ営む浜辺の小屋では、子供も大人も「たそがれさせる」不思議なかき氷が配られている。島の誰もがその氷を食べに来るが、対価として支払うのはお金ではなく、氷屋は原材料の氷を、子供は折り紙を、友人の光石研と市川実日子はマンドリンの演奏を贈る。自分が受けたものが自分にとってどれだけ大事なものか、それを贈ってくれたひとにいまの自分は何ができるか。それを考えることこそ、現代の貨幣経済においては麻痺してしまっている、贈与・交換の倫理において最も大切な行為なのだろう。
キッチンや台所用品、そしてファッションのセンスのよさも必見。ひととひととのコミュニケーション、受けること、伝えることの意味を深く考えさせる、感じさせる映画だった(妻は『アメリ』以来という惚れっぷりでした)。

もうひとつ、NHKで地上波放送の始まった『太王四神記』について書いておこう。日本古代史においても重要な好太王の生涯を描いた伝奇ファンタジーだが、第1話は檀君神話がモチーフ。火を自在に操る虎族の巫女が支配する地上に、戦争を抑止すべく天神の子ファヌンが降り立ち、熊族を核とする平和な都邑を築く。火の巫女カジンはファヌンに惹かれるが、ファヌンは熊族の英雄セオと結ばれ、三者の間に愛憎の炎が巻き起こる。ファヌンの使う白虎(風伯)・青龍(雲師)・玄武(雨師)と朱雀との戦いなど、VFXをふんだんに使ったスペクタクル映像が展開する。ハリウッド的な豪華さは演出の未熟さを助長するものだが、なかなかピーター・ジャクソンよろしく手堅い話運びをみせていた。かつて、類似のテーマを扱った『燃ゆる月』(カン・ジェギュプロデュース、2000年)という映画があったが、それより壮大で洗練された印象がある。天神が、結局は地上に混乱を呼ぶだけというのもそれらしい。テレビ東京で始まった『コーヒープリンス1号店』(『宮』の主演女優ユン・ウネの最新作)、NHK-BS2の『ファン・ジニ』(実在した妓生の生涯。今年の卒論にもあった女楽に関連)とともに、楽しみにしておきたい作品である。
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新年度開始:慌ただしく過ぎてゆく

2008-04-06 07:59:29 | 生きる犬韜
2007年度〆切の仕事を完了しないまま、慌ただしく新年度が始まった(始まってしまった)。
30日(日)の方法論懇話会のため京都を日帰りで往復し(この模様も書かなければいけませんね)、31日(月)にはオリキャン等の準備のため出校。奉職後初めて、1日(火)の入学式にも出席した。ぼくらの頃には四谷キャンパスの体育館で行われていたが、いまは東京国際フォーラムのホールA。やはり、儀式において空間のありようは重要なファクターで、厳粛さは一層増した感がある。続いてキャンパスへ戻り学科集会、卒業式に続いて司会を担当、80名に及ぶ新入生の名前を読み上げたが、年々読みにくい名前、ユニ・セックス的な名前が多くなって困る。

3・4日(木・金)は、例年どおり富士箱根ランドにてオリエンテーション・キャンプ。今年は担当教員なので気を遣い、ヘルパーの学生たちと何度か話し合いを重ねて準備した。2月までの段階では少々やきもきしたが、やはり彼らはやるときはやる、3月後半にはかなりハイペースで作業を進め、なんとか実現へとこぎつけた。もちろん、反省すべき点、改善すべき点は少なくない。学科集会での挨拶など、「もう少し上級生らしく威厳を持ってくれ~」と冷や冷やした。しかし、数々のトラブルにも冷静に対処し(使用していた会議室の電源が故障し、急遽別の会場を設営しなければならなくなるなど)、深夜まで履修登録の質問に対応する彼らの姿をみていて、「なんという"よい子"たちなのだろう」と頭を撫でてやりたくなってきた。本当にお疲れさま。
それにしても、近年の導入教育の重要性を考えると、今後、オリキャンの内容にはかなり手を入れないといけないかも知れない。基本的なコンテンツが、ぼくの学生時代とほとんど変わっていないのである。むろん、履修説明とレクからなる現状の利点もあるのだが(新入生間の交流は深まるようだ)、無駄な時間も著しく多い(教員の演説を減らし、新入生と会話する機会を増やすべきではないか? バスの出発を待つ空き時間に何かできないか?)。基礎ゼミの実現も含め、考慮しなければいけない問題だろう。
ところで、ホテルに着くなりちょっと面白いことがあった。会議室のある本館と宿泊室のある別館を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、いきなり制服姿のOLに呼び止められたのだ。なにごとかと思ってよくみると、なんと義理の妹である。彼女はジョナサンで新人を教育する仕事をしているが、3日までこの場所で新入社員の研修が行われていたのだという。いやはや世間は狭い。悪いことはできません。

5日(土)は高校の生徒会OB・OGとお花見。根岸森林公園の桜はほぼ満開、これまでで一番の状態だった。しかし個人的な趣味からすると、やはり花吹雪の方が情趣があるかも。夜は組合広報紙『紀尾井』の校正をし、地上波で放送の始まった『太王四神記』を観た。そうそう、いわゆる春休み中、積ん読DVDから『かもめ食堂』『めがね』も鑑賞。いずれも好印象。詳しい感想は近日中にアップします。
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