仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

考えるべきことは多い

2011-08-22 04:21:32 | 議論の豹韜
お盆からこっち、単行本関連の勉強を続けつつ、複数の作業を行っている。まずは、東北学院大学博物館文化財レスキュー活動へのボランティア派遣。19日(金)に8月下旬分の説明会を行い、9月上旬分の募集も開始した。それなりに問い合わせがあるが、やはり「殺到する」という雰囲気ではない。史学科にはもう少しプッシュした方がいいかも知れないが、まあこんなものなのだろう。上智日本古代史ゼミのOB会、上智史学会大会ミニ・シンポの企画、来年度の史学科カリキュラムなどについても、各方面へ連絡を取って検討している。夏期休暇といっても、やはり研究に専念できるという環境にはない。

11月には、「震災後」をテーマとした某学会の大会シンポで報告をするのだが、そのタイトルについてもようやく決めた。「画期なるものと生―震災後に噴出した歴史叙述=物語りの欲望―」である。まだ論旨自体明確な像を結んではいないが、東日本大震災後に噴出した、同震災そのものを特別視=画期視して「現実の崩壊・変容」や「終わりなき日常の終焉」を喧伝する言説、「復興」の名のもとに進歩史観的プランを打ち出し過去を捨象する言説などが、かえって私たちの生の感覚を麻痺させ大きな物語へ回収していっているような気がしてならない。それらを批判しながら、言語論的転回の消化不良以降棚上げされてしまっている私たちの生と物語りとの関係を、災害経験を主軸に置きながら問い直してみたいと思っている。
第一ぼくには、「復旧より復興を」というテーゼ自体が胡散臭く、どうも違和感が拭えない。もちろん、原発によって作られた電気を盲目的に使用する日常への復帰、首都圏の電力を賄うための原発植民地としての東北への復帰、という意味での「復旧」はナンセンスだろう。しかし現在使用されている「復興」はそこから離れ、過去を捨象した開発主義の未来への提言となってしまっているような気がする。その「復興」を実現するため、原発が作られたときと同じような、新たな利権の構造が生まれようとしている。東北に暮らす人々の、「災害が起きる以前の、平穏な日常を返してほしい」という願いは、そこから抜け落ちてしまっているのではないだろうか…。
このようなことを折に触れて考えているが、しかしその前提が他の言説の批判に基づくことにに、内心忸怩たる思いも抱えている。ま、いずれにしろ思考すべきことは多い。

今週は、25日(木)から宗教史懇話会のサマーセミナー、翌週9月1日(木)からは、ゼミの研修旅行も控えている。酷暑やお盆の疲れか何となく元気が出ないのだが、怠けてはいられない。

※ 写真は、うーんこれを批判対象とする価値があるのかという中沢新一本と、もう少し前に出ていれば絶対に春学期特講の参考書にした田口ランディさんの新著。田口さんとは、某シンポをご一緒する予定。前にも少しだけ触れたが、夏休みに入ってようやく読めている。
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「研究」開始

2011-08-17 09:38:43 | 生きる犬韜
15日(月)夜に自坊から帰った。今年は、12日に盂蘭盆会法要に参加したほか、14・15日の2日間で16件のスケット。大した力にはなっていないが、しかし久しぶりに1日10件近くお経をあげて歩き、さすがに疲労した(喉はガラガラで、いまぼくは重低音の魅力である)。ただ、数年ぶりにお会いする檀家さんもあって、お話ができてよかったと思う。

三鷹に帰って本格的に研究を開始。あいまあいまに事務仕事もしなければならないのだが、ずっと斜め読み状態だった許兆昌『先秦史官的制度与文化』を、ノートをとりながらじっくり読んでいる。「史」字の成り立ち、シャーマニズムにおける史の起源から説き始めていて、吾が意を得たりと感じる記述も少なくない。日本古代史においては、歴史叙述に関する研究は国史編纂へ限定されるため、東アジア的規模で史官の起源を論じたもの(とくにシャーマニズムに配慮したものなど)は見当たらない。かつて折口信夫が、国文学の発生についてその口火を切ったにもかかわらず、である(それゆえに古代文学には、シャーマニズムと歴史叙述との関係を問う議論がみられるが…)。春学期の特講でもこの問題を扱ったが、受講者には「マイナーにもほどがある」との印象を与えたようだ。しかし、これが歴史学の根源、根幹に関わる、本来王道中の王道であるべきテーマであることは言を俟たない(逆にいうと、「マイナー」「コア」との印象を持ったひとは、それだけ歴史学について勉強不足だということになる…などと自己正当化してみたが、ぼく自身が言い訳がましく同じ言葉を繰り返していたのだった)。しっかり読み込んで、単行本に活かしていかなければならないが、あとは時間との戦いである。それにしてもこの本で、エンゲルスを「恩格斯」、レヴィ=ブリュールを「列維布留尓」と中文表記することを初めて知った。

東北学院への上智大生ボランティア派遣の件は、まず日程の迫っている8月分のみ、史学科の学部生・院生を対象にアナウンスした。急だったので希望者はいないかも知れないと危惧していたのだが、すでに数人の応募がありホッとしている。ほとんどが1年生のうえに、全員が女子という顔ぶれに、何か時代のようなものを感じてしまう。がんばってきてもらいたい。9月に、やはり文化財レスキューボランティアを兼ねて行うゼミの東北研修旅行では、遠野市立博物館のご厚意で、文書の2次洗浄などの様子を見学させていただけそうである。ぼく自身も楽しみになってきた。
毎日暑くてやる気を削ぐが、何とか精進してゆきたいものだ。
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いよいよ「夏休み」

2011-08-13 03:06:59 | 生きる犬韜
9日(火)夜、前期成績のオンライン書き込み終了直前に、何とかすべての採点をし終わった。今年も、100通以上のレポートを読むのは一苦労だったが、コピペは論外として、やはりレポートの体裁をなしていないものが圧倒的に多いのには危機感を感じた。史学科生にもかかわらず、「史料」と「資料」の区別がつかない者もいる(エピステモロジー的には、もちろん議論の対象としうるが)。1年生はともかく、未だに読書感想文しか書けない2年生、3年生もいる。今まで何を勉強してきたのかと、首を傾げざるをえない。しかし、なかには恐るべき技量の持ち主もおり、1年生で、最近の卒論に匹敵するような文章を書いてきた学生もあった。どのゼミに進むつもりかは知らないが、とにかく成長が楽しみである。

10日(水)は、お盆休み前の最後の業務日。採点作業のために溜まっていた書類等々を片付け、夕方には学生センターで「文化財レスキューボランティア」関連の会議。前の記事でも紹介したとおり、東北学院大学博物館のレスキュー活動に対する支援態勢を整えているところだが、センターの皆さんのご配慮で、大学公認の行事とすることを認めていただき、ぼくからすると「破格」の資金援助が受けられることになった。詳細は今後各方面に周知してゆくが、これで、上智大生が現地へ赴き活動するための交通費実費、宿泊費実費を、かなりの上限額で賄えるようになる(仙台へ赴いて作業に従事するのに、食費以外はほとんど自己負担しなくてよいくらいである)。このお盆休みの間に早急に下準備をし、募集の仕組みを作成しておかねばならない。

11~12日(木・金)は、上記の作業と、ゼミ・プレゼミのフォロー。間に自坊のお盆の法要に日帰りで参加したので、結構な時間を費やしてしまった。合間に、兵藤裕己さんから、11月の日文協シンポの開催趣旨(テーマは「文学のリアリティ」)が届き、併せて報告要旨の提出を促された。タイトルが8月20日、要旨は9月15日だそうだが、やはりなかなか難しい問題である。ナラティヴの機能とリアリティとの関係を、災害経験を通じて考えてゆく以外にはあるまいが…まだうまくまとめられそうにない。明日からはしばらく自坊に戻り、月参りの手伝いをすることになっているのだが、夜は概ねフリーなので、単行本の執筆を進めつつ考えてゆこう。
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文化財クリーニングへの参加

2011-08-04 19:06:06 | 議論の豹韜
また更新が遅れてしまった。現在、恒例のレポートの採点に苦しめられている。特講は、難解な内容だったせいかあまり出来がよくなく、史学科生にもかかわらず9割コピペというものまであった(教員の信頼を失うことを怖れないのだろうか? ある意味で豪傑である)。それでも、なかにはハッとさせるような好論も含まれており、救われたような気持ちになる。そうしたところへ、左の本が届けられた。数年前から関わっており、ぼくの執筆遅滞で大幅に刊行が遅れていた『聖地と聖人の東西』である。時代的・地域的にも広汎な分野から聖なるものの起源についてアプローチした論集で、畏友藤巻和宏・水口幹記・黒田智氏らとの共同の仕事である(お詫びの気持ちが強いが、同世代の仲間でかかる立場を示せたことは、同時に喜びも大きい。船田淳一氏や菅原裕文氏ら、若い力との共演・競演である点も嬉しい)。表紙にも載せたが、ぼくの担当分は、鹿島徹氏〈物語り論的歴史理解〉の実証を、東アジア前近代の文脈(とくに六朝~隋唐の僧伝研究)において試みたものである。第3章の総説も担当、物語りと宗教的実践との関係について論じてみた。ご高覧を賜りたい。なお、今回も勉誠の吉田祐輔さんにお世話になった。かつてS社のOさんが果たしていた役割を、今は吉田さんが担っているのかなという気がする。ぼくらの仲間の本は、吉田さんや、H社のTさんらが次々刊行してゆくことになるのだろう。

さて、前回のエントリーの続きとして、7月28日(木)、東北学院大学博物館の文化財レスキュー作業に参加させていただいたときのことを、この活動を周知する意味でも詳しく書いておこう。まず最初に、ぼくの記憶している範囲で、上記の活動が開始された経緯をまとめておくことにする。

東北学院大学博物館(以下、学院博物館と略記)は、国の被災文化財等救援委員会からの依頼を受け、被災文化財の一時保管施設としてレスキュー作業を開始した。最初に学院博物館が参加したのは、石巻文化センター(石巻市南浜町1-7-30。写真はGoogleマップより)における瓦礫の撤去作業、文化財の救出・洗浄作業だったという。同センターは美術・考古・歴史等文化財の保管・展示を行う総合施設だが、石巻湾の最も海岸寄りに立地していたため、津波の直撃を受けることになった(かかる施設が津波の被害を受けたのは、少なくとも日本においては初めてとのこと)。鉄筋コンクリートの建物自体は残ったものの、もちろん施設内には土砂や瓦礫が雪崩れ込み、収蔵庫も大きく浸水し文化財が汚染されたため、瓦礫・土砂の撤去と文化財の搬出・清掃が、東京文化財研究所、国立民族学博物館、国立奈良文化財研究所などの研究者の協力により実施された。センター付近には多くのパルプ工場が存在したため、施設内へも大量のパルプが流入し、文化財へ貼り付きカビの温床となっていた。また、コンクリート壁面に染み込んだ海水の塩分は湿気を呼び込み、やはりカビの繁殖しやすい環境を作り出してしまっており、適切な湿度を保った空間を用意するのが大変であったらしい。

学院博物館では、この現場での活動を通じてレスキューの具体的な方法論・実践的知識を蓄積し、続いて、牡鹿半島の突端に近い鮎川地区での作業を担当することになった(写真はGoogleマップより)。この地域では、石巻市役所支所・体育館等々建物が密集した場所に文化財収蔵庫があり、屋根まで浸水したものの、文化財自体は波にさらわれずに済んでいた。しかし、やはり大量の土砂・瓦礫が流入し文化財と混在してしまっていたため、これを整理して博物館へ運び出し、清掃する作業が急がれた(民具など瓦礫か収蔵品か区別のつかないものも多くあり、とりあえずは厳密な選別をせず救出・運搬するという方法が採られた)。現在のところ、2週間ごとに2トントラック1~2台分の文化財を搬出しているが、鮎川地区からの運び出しがすべて終了するには、10月までかかる見込みとのことである。
なお、魚の腐臭や虫の大量発生、有毒物質を含んだ粉塵のため、被災地域での活動は困難を極めたという。作業者は破傷風の予防接種をし、防塵マスク等々を身に付け従事したが、数日すると必ず強度の頭痛や咽痛等身体に異常が出たと聞いた。現在、文化財に付着している粉塵の成分分析も行っているらしいが、やはり重金属が原因だろうとのことであった。

被災した文化財は、等しく海水に浸かっているため、大量の泥砂や有害物質、塩などが付着している状態である。とくに塩は水分を呼び込むため、前述のとおりカビが発生しやすくなり、日を追うごとに劣化が進んでしまう。これを抑止すべく、被災現場から運び出された文化財には、ブラシがけや水洗によって上記付着物の除去を行う。今回、学院博物館で行われているのはとりあえずの応急処置(第1次クリーニング)で、より根本的な洗浄作業(第2次クリーニング。化学洗浄等)の実施はこれをひととおり終了して以降となる。ぼくと、同行した院生のI君、O君、Fさんは、28日の午前・午後、この作業に参加させていただいたわけだ。
具体的には、博物館の前庭にテントを設営して搬入した文化財を仮り置きし、余りのスペースへビニールシートを敷き詰めて作業場として(有害物質の飛散を防ぐため)、またビニールプールに洗浄用の水を張る。続いて、博物館学芸員・歴史学科准教授の加藤幸治さんが、個々の文化財について材質・損傷状態・クリーニング方法を判断し、迅速かつ的確に作業の指示を行う(内容はカルテに記録される。彼の姿は本当に、ERの救急救命医のようだった)。ナンバリングされた文化財は、まず洗浄前の情況を写真撮影した後、作業者(主に院生・学生)によって指示どおりクリーニングされてゆく(この際、指示を遵守しないと、文化財をさらに傷つけたり、場合によっては損壊したりしてしまう。まさに「命を落としてしまう」わけで、緊張感に満ちた作業となる)。現在扱っている文化財は鮎川地区の収蔵庫にあったもので、農具・漁労具を中心とした民具である。ぼくが確認できたのは、古式の柱時計、お膳、各種の桶や篩、臼、延縄、網、銛、鯨解体用の刃物(鮎川地域は捕鯨をしている)、脱穀機、噴霧器、何かの器財を構成していたらしき部材等々であった。珍しいところでは、消防団のポンプ車、柱に取り付けられた状態の竈神の像もあった。今後は、土器など考古学関係の収蔵品も搬出されてくるらしい。それ以上文化財が傷まないよう丁寧に粉塵を落とし、洗浄した後、再び写真撮影して乾燥させる(上記の写真は、クリーニングを終え天日干しされている文化財。I君撮影)。運搬されてきた一群の洗浄が終了すると、大学構内に確保された倉庫へ搬入・保管される(博物館の収蔵庫には収容しきれないため)。
なお、作業者は汚れてもいい長袖・長ズボンにゴム手袋、マスク、帽子等を着用する(写真は、加藤さんの指示を受ける北條。I君撮影)。クリーニング作業の過程で多くの粉塵が出るが、前述のとおり、これは重金属などの人体に有害な物質を含んでいると考えられ、極力吸引しないよう注意が必要である。しかし、作業自体は、加藤さんの指示を遵守し丁寧に行えば、一般の学部学生でも充分に担当できるものである。事実、通常の作業は主に院生らが従事しているが、学部学生により学芸員課程関係の授業としても実施されている。学生たちは自らの身体を介して歴史や文化の大切さを学び、また社会的な責任感を強く醸成してもゆくようで、教育的効果は極めて高いと感じられた。ぼくらが参加した日には、大学訪問に来た高校生たちも説明を受けて作業を体験し、強く関心を持った様子であった。
ぼくは、用途不明の漁労具、柱時計、鯨解体用の諸道具などの洗浄を担ったが、それぞれの道具に直接触れて作業をしていると、それらがどのような場所で、どのような人々の手で使われていたのか、様々な想像が頭を駆けめぐる。この柱時計はどこにかかっていて、"その日"のありさまをみつめていたのか。鯨の解体具は、これまでどれだけの肉を切り分け、人々の興奮(と、あるいは慚愧の)なかに身を浸していたのか…。やはり、道具も身体の一部であることを実感した。

昼休み、今後の活動支援について加藤さんと相談し、上智の学生ボランティアを恒常的に受け容れていただけることになった。また、1月に彼を東京へ招聘する計画も動き出した。これらは早急に実現してゆかねばなるまい(このブログをみている上智の学生で活動に参加したい人は、北條まで連絡をください)。なお、北條ゼミでは、9月の初めに東北研修旅行を兼ね、再びクリーニング作業に参加させていただく予定である。遠野市博物館でもレスキュー関係の展示をしているようなので、ちょっと連絡を取ってみるか。

※ ちなみに、この文化財レスキュー活動については、TBSの『ひるおび!』が密着取材、7月上旬には放送されることになっていた。しかし、毎週「延期」の連絡が入り、当初の放送予定から1ヶ月以上遅れた現時点でも、未だ先送りの状態となっている。取材クルーには一定の正義感があるのだろうが、番組編成のレベルでは誠意も何もあったものではない。所詮は軽薄なバラエティなのだな、という印象を強くした。ま、ぼくらはそれを、いつも無責任に楽しんでいるわけだが…。
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