仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

シンポジウムへ照準:今年も終わりか…

2008-11-23 16:11:00 | 生きる犬韜
一気に冷えてきた。冬は一年のうちいちばん好きな季節なのだが、やっぱり寒い。それにしても、今日(11/23)は抜けるような青空で、空気も澄んでおり、静かで気持ちがいい。自宅の前を走っている幹線道路は、昨日は終日大渋滞だったが、今日は連休の中日のせいか、いつもより交通量が少ない感じである。

11月もいよいよ下旬に入ったが、先々週~先週と終日缶詰会議、上智史学会大会など幾つかの山を越えた。16日(日)の大会では、筑波の根本誠二さんのお弟子さんが、わざわざほくの拙い報告を聞きに来てくれた。まだ修士の一回生だそうだが、ドクター進学を目指して『霊異記』の自土意識を分析しているとのこと。関東は古代宗教史(とくに仏教史)研究が低迷している(つまり若手が育っていない。これは全国的な情況で、8月の『日本書紀』を考える会でも曽根さんたちを前に、「あなたたちの世代が弟子を育てなかったからだ!」と暴言を吐いてしまった。ごめんなさい)ので、ぜひがんばってもらいたい。懇親会でずいぶん話ができたが、こちらは数日前から風邪気味でうまく声が出ず、ご迷惑をおかけしました。

22日(土)は埼玉県の北本市へ出張。上智大学が同市と提携して開催している市民講座で、「あの世へのまなざし―日本古代における他界の成立―」と題する話をしてきた(本当は仏教史学会の大会があるので京都へ行かなくてはならないのだが、残念ながら校務と重なってしまった)。悪い癖で、制限時間の2時間をフルに使ってしまったが、会場の反応はそれなりによかったようだ。市の職員の方も大変に親切で、(未だ風邪が治りきっていないながら)気持ちよく講義をすることができた。お世話になりました。
帰宅してから机の回りに集積された文献を整理し、シンポジウムへ照準を定めて環境を仕切り直し(とはいっても、2本の論文を並行して書いているのでそれらの書物も積まれているが)。前日までに要旨を担当者へ提出しているのだが、どうもまだしっくりこない。とりあえずここに引用しておこうか。
〈言語論的転回〉以後の歴史学においては、言語による構築物である過去を、倫理的対象としてどのように措定するかが問題となった。鹿島徹氏によれば、ある時代を生きる人間の諸経験は、その社会の様々な関係のうちに多様な物語りとして蓄積されている。後代の人々は、それを選択的に引き受けて範型とし、自己同一性のなかで日々体現し変容させて、再び社会へと受け渡してゆく。歴史研究は、過去の可能性をより豊かにすることで生の選択に寄与し、抑圧・隠蔽された過去を再発見して歴史を不断に更新する。未完・未遂に終わった先人の生のありように対する〈反復=取り戻し〉、過去の可能性を将来へ向けて救済してゆくことにこそ歴史構成の倫理性があるという。こうした歴史観は、人物の逸話を通じて中国史を学ぶ『蒙求』の広がりを例示するまでもなく、前近代のアジア世界においては珍しいものではなかった。『文心雕龍』史伝によれば、『春秋』に体現される史書の存在意義とは、過去を勧善懲悪の理念のもとに総合的に叙述し、社会の変革を迫ることにあった。一方の伝は『左氏伝』に示されるように、聖人の手になる経の真意を明らかにするものとして編み出されたが、やがて先人の言動を記録した伝記の意味を持つようになる。列伝等の文中にはその人物が目標とした偉人が現れるが、それは先人の生き方を範型として自らの生を構築してゆこうとする歴史意識の表れだろう。僧侶の世界においても恐らくは同様の現象がみられるが、しかし巨大な法脈をなす師弟関係が存在する仏教界においては、先人の物語の継承はその取り結びのなかへ解消され(あるいは法名がその表明である場合もある)、僧伝に明瞭な痕跡を認めることは難しい。けれども吉田一彦氏が、古代日本における神仏習合の成立を説く論文のなかで、中国の僧伝類が山林修行のテキストとして活用された可能性を想定したように、先人の伝記が宗教的実践の範型として用いられたことは想像に難くない。また私も以前、山野河海における仏菩薩の出現譚を観想(観仏)行の反映であると指摘したが、僧伝の発達した六朝~隋唐期の仏教は多く道教との交渉を持っていた。代表的観想経典のひとつ『観無量寿経』を重視した曇鸞は、昇仙の方法を直接陶弘景に学んでいたし、梁武帝のブレーンでもあった当の陶弘景は、阿育王塔で受戒して勝力菩薩を名乗り、やはり瞑想や夢告を介した神霊との交渉を重視していた節がある。山林修行における神仏との邂逅を物語る僧伝類は、こうした交渉を如実に反映する実践的テクストとして読むことができ、日本を含む後世の僧侶らの行法にも大きな影響を与えたと考えられる。
いま作っているレジュメでは、先人の生を媒介して歴史を体得する方法を〈人物伝的歴史理解〉と呼称しているが、これって書きようによってはキャラ論だよな。『蒙求』はキャラ立ちの本だもんな。いずれそちらに接続することもできるか。ま、残り2週間、実質的に準備に使える時間はほとんどないので、とにかく今日中にあらすじを作っておきたいところだ。

左は、最近購入したジャック・ロンドンの短編集と大澤真幸・北田暁大の対談集。ジャック・ロンドンについてはこのブログでもたびたび触れているが、ぼくにとってはとにかく『白い牙』と『野生の呼び声』の印象が強い。せいぜい他にプロレタリア的な作品を遺したことを知っているくらいだ。しかし晩年は多くの幻想短編を手がけ、本人は大変な合理主義者ながら、近代オカルティズムにも関心を寄せていたという。ウィリアム・ジェイムズなんかも読んでいたらしい。宮澤賢治にもオカルトとプロレタリア、自然の不思議な結びつきをみることができるが、ロンドンもそうなのか。興味を引くところである。大澤・北田の発言には頷かされるところが多いが、今回の対談は、大澤の「オタク」に対する発言が少々鼻につく。理路整然とした彼にしては、イメージ先行で語っている部分が多い気がする。北田はそんな大澤に気を遣って舌鋒が鈍い。学生時代、社会学者の次兄と議論しているとき、「君はその言葉をどんな意味で使っているんだ?」と概念の濫用を指摘され、たびたびやり込められたことを想い出した。
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シンポ『僧伝のアジア』:未だ〈未来予想図〉みえず

2008-11-14 14:41:11 | 生きる犬韜
昨日、早々にコタツを出した。冬の間はこれが "生活拠点" となるが、机の上にあるPCに向かうのが億劫になりそうである。

さて、シンポジウム「僧伝のアジア」のポスターが送られてきた。早稲田高等研究所のホームページでも宣伝されている。しかし、ぼくの準備の方は相変わらず「未来予想図完成せず」である。来週中に概要を連絡せよとのことなので、あと1週間で目鼻を付けなければならないのだが、16日(日)は上智史学会の大会で報告だし、22日(土)は埼玉県北本市で講演会があり、それらの準備もしなければならない。おまけに、『国立歴史民俗博物館研究報告』の初校が、「25日(火)必着」ということで送られてきた。古代日本の神仏信仰に関する通史を書いたもので、2年前にやはり時間のないなかで書き上げ、いつか書き直さねばとずっと考えていた原稿である。時間が経ちすぎていてもはや「神仏信仰」の頭ではないし、とうぜん全面的にリライトする余裕もない。ストレスを抱えながら微修正に止めて提出するしかないが、その時間を作るのさえ大変だ。
シンポの準備自体は、本格的には昨日から始めた。通勤電車のなかなどで大体の構想は練っていたが、「こんな記述があるはず」と踏んで僧伝史料を漁ったものの、しっくりくるものがまったく出てこない。これは軌道修正を余儀なくされるかも知れない。僧伝を修行実践のテキストとして使っていた明確な証拠がほしいのだが、日本においてはある程度想定できるものの、中国の事例が見出せないのだ。それならそれでまとめようもあるけれど、まだ始めたばかり、もう少し頑張ってみるか。

なお、今日は『上智史学』の納品。今年は印刷をお願いしているH社のオペレーターが新人さんに代わったので、詰めの作業が大変だった。妻は歴史科学協議会の大会に出席のため、学芸大の講義を終えてすぐ大阪へ。月曜まで帰ってこないらしい。
ところで...『地球の静止する日』、リメイクしたんだなあ。ぼくより上の世代のSFマニアには特別な作品で、名作古典ロボットといえば『禁断の惑星』のロビーか『静止する日』のゴートということになる(『サイレント・ランニング』のヒューイ・デューイ・ルーイもいいが)。小学校の頃、フォルモで模型を作った覚えがある。リメイク版ではゴートは出ないのかな。予告編には映らなかったけど。
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『レッドクリフ』:壮大だが薄味、そして長い

2008-11-05 14:13:58 | 劇場の虎韜
先日、大学からの帰りに楽しみにしていた映画『レッドクリフ』を観た(しかし、なんで英語なんだ? 意図は分からないでもないが、「ハリウッドを超えるアジア発」を強調したいのであれば、「赤壁」でいいだろうに)。ぼくはいわゆる三国志フリークではないが、正史『三国志』からサブカルチャーの世界まで、これまで大いに親しんできた題材である。この映画も、曹操=渡辺謙、周瑜=チョウ・ユンファ(劉備役にラインナップされた時期もあった)というキャスト情報が流れたときから注目していた。まだ公開間もないが、12月が近くなると身動きが取れなくなりそうだったので、無理をしてでもと観にいったわけである。さてその感想だが…

まず最初に感じたのは、とにかく2時間半という上映時間が長いこと。「尺の長さも感じさせない」という誉め言葉はよく聞くが、この作品のストーリー展開はややもたつき気味で、それがある種の重厚さに繋がっているところもないではないのだが、もっとスマートに作れただろうという気がどうしてもしてしまう。自主制作ではよくあることだが、監督自らが出資して作られた映画の場合、上映時間は概ね長くなりがちである。興業面のみ重視すれば、映画は短い方が一日の上映回数も増え、その分収入も多くなる。よって、制作会社・配給会社としては断然短尺の方がいいわけだが、監督が出資すると興業サイドからの口出しがしにくくなり、また監督も愛着あるフィルムを切りたくないので、あれもこれも必要とだらだらした映画が出来てしまうわけだ。作品の質はともかく、ケヴィン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』がいい例である。『レッドクリフ』にもその気があるが、実は、丹念に贅肉を削ぎ落としていった方が、映画は面白く深みのある作品に仕上がるものなのだ(長い論文を書く人間のいうことじゃないか。ま、自戒ということで)。

見せ場である合戦シーンのアクションは、スタイリッシュで美しい張芸謀のものと比べるとかなり泥臭い。リアルさを狙ってあえてそうしたのだろうが、重みを生み出すための"間"はややもすればたるみとなり、数万の人間が入り乱れる戦場のなかでは不自然さが際立つ。サム・ペキンパーなスローモーションも、かえって動きのまずさを暴露してしまっているようだ。大立ち回りを繰り広げる主要キャスト以外の兵士たちも、何となく動きが緊張感に欠けていたが、ジョン・ウーって集団アクションは苦手なのかも分からない。呼びものの八卦の陣はなかなかだったが、騎馬の命であるスピードを封じた後の展開は、数万の敵に対するものとしては現実味に乏しい。あれは城中か山中に埋伏したときの戦法だろう。期待が高かっただけに、もっとうまく演出できたはずとの印象がどうしても強くなってしまう。
『三国志演義』を下敷きにしているので仕方ないのだが、曹操を悪役、諸葛亮・周瑜を正義の味方に据えるという勧善懲悪的な構図もいただけない。そのせいで、登場人物は類型的で深みがなくなってしまっており、とくに魏の名将たちなど個性も有能さも剥奪されていて憐れでさえある。主人公であるにもかかわらず、『演義』でさえ内面性の複雑さを醸し出していた、諸葛亮・周瑜の葛藤もほとんど描かれていない(「信じる心」が大切だから)。

全体としては壮大なエンターテイメントに仕上がってはいるのだが、やはり遊園地的な印象は否めない。物語の進め方や音楽の使い方などに、何度も『スターウォーズ』を思い出した(日本版のゲーム画面的オープニング、三角スクロールでやってもよかったんじゃ?)。監督のジョン・ウー自身は「黒澤時代劇へのオマージュだ」と語っているようなので、オリジンを同じくする作品が相似形になったということか。八卦陣での戦闘は、確かに『七人の侍』っぽかったな。諸葛亮が呉に説得工作に来る件も、凶賊から村を守る仲間を集めるノリだったのかも知れない。
Comments (2)
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