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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

冥報記+仏教文化研究会例会:「神霊の訪れ方」

2006-11-26 14:00:00 | 議論の豹韜
「神霊の訪れ方―『周氏冥通記』の世界―」というタイトルで、報告を終了しました。
内容的には、7月に首都大のオープン・ユニバーシティで話した『周氏冥通記』を、前回の藤本誠氏による『冥報記』中巻14話のレポートと絡めた史料紹介です。この説話、主人公の〓(目+圭)仁〓(艸/人+青)なる人物が見鬼について修行したり、冥界臨胡国の長史成景と交遊関係を持ったり、泰山の主簿となった同郷人を通じて冥界の召命を受け病死しそうになったりと、志怪小説や道教的世界との交流が顕著な内容。これを読み解くうえで、『冥通記』の独特な成書過程や神霊の訪れ方、交信の仕方の描写はいい参考になるのです。とくに、撰者である茅山道教の大成者・陶弘景は、仏の夢告で与えられた称号〈勝力菩薩〉を名乗り、〓(貿+邑)県(浙江省)の阿育王塔に詣でて五大戒を授かったという経歴の持ち主。『冥通記』にも、神仙となる人物は永劫の過去世より転生しつつ浄化を進めてきているなど、仏教からの影響と思われる考え方が散見します。六朝は道教/仏教が競合しつつ相互交流をはかった時代で、隋唐仏教の繁栄はその集大成であるともいえるでしょう。近ごろ閉塞気味の神仏習合研究を一歩先へ進めるためにも、中国における仏教と道教、その他民俗信仰との交渉の具体相を見据えてゆく必要があります。以前、堕牛譚で扱った六畜が喋るという現象、路上に神霊が出現するという常套表現、『冥報記』にも『冥通記』にもみえる寿命を告げる鬼神、さらに「餓鬼」といった言葉なども、すでに戦国末期の睡虎地秦簡(仏教以前)にみることができます。これらを単純に仏教文化、道教文化と捉えるのは誤りなわけで、日本とは異なるシンクレティズムのあり方を長期スパンで考察してゆかねばならないでしょう。

報告終了後、四谷駅2階のBECKで、内藤亮氏・石津輝真氏としばし歓談。Y社から、とんがった神仏習合の本を安い値段で出そうと盛り上がりました。実現するでしょうか? したらしたで、また仕事がひとつ増えてしまいますが…(ありがたいなあ)。
帰りの電車のなかでは『下山事件』の続き。松本善明・いわさきちひろ夫妻が何者かの監視・尾行を受けた末、家政婦の女性が拉致・監禁のうえに病院で変死、直後にその主治医も事故死するという異常な情況。それらはすべて、未解決なまま忘却されようとしている。あったことすら知られていない節もある。怖ろしいことです。
…サスペンス映画もどきという形容を人はよく使うけれど、一九四九年に端を発するこの時期において、日本はまさしくその状態にあったということなのか。冷血な男たちは闇に跋扈し、様々な謀略が積み重ねられ、警察や検察は組織的な隠蔽や工作に耽り、冤罪はくりかえされ、そして、不都合な命は、あっさりと消される。何の価値もないかのように。何のためらいもないかのように。…でも人は、あまりに近距離なものには焦点を合わせづらい。だからこそ過去を忘れてはいけない。だからこそ何度も何度も目を擦りながら、僕らは過ぎ去ってきた遠くを、凝視し続けなくてはならない。(p.153.)
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悪習:読書ペースが追いつかない

2006-11-22 12:02:47 | 書物の文韜
我々の職業において、「本を買う」という行為はきわめて日常的です。そして、「買っておいて読まない」というのもきわめて当たり前。必要なときがくれば読むわけで、「そのとき」までは積んでおく。「そのとき」手元にあることこそが重要なのです。しかし、それは学問に関わる書籍のハナシで、小説やマンガは別問題。一般の方々と同じように、読みたいときに買い、欲望のままに読むべきものでしょう。けれども最近は、その種の趣味の本まで積んでおくことが多くなりました。理由のひとつは、ストレスによる?衝動買い。恥ずかしいことですが、仕事量が自分のキャパシティーを上回ってしまっており、反動として趣味に逃げようとするわけです(翻訳もののモダン・ホラー、SF短編集なんかはこの類ですね)。しかし踏み倒すほどの勇気がないので、買ってはみるけれども結局は読めません。ふたつめは睡眠不足。趣味の本は通勤/帰宅の電車のなかで読むようにしているのですが、没頭するのは最初の10分ほど。後はどうしても眠くなってしまい、ページが先へ進みません。最後はぼくの責任ではなく、嬉しいやら悲しいやら分からないのですが、最近わたし好みの書籍が次々出版されていること。最近では、「ケガレをめぐる理論の展開」でも引用したことのある森達也氏の新作、『下山事件―シモヤマ・ケース―』(新潮文庫、2006-11。初刊2004)。今月の文庫化を受けて読み出したのですが、異常に面白い。やはり今年文庫化された魚住昭氏の『野中広務 差別と権力』(講談社文庫)もそうでしたが、テーマに賭ける著者の真摯さ、迫力、紡がれる言葉の重みが、どこぞの学界の論文とはまるで違う。政治・経済・社会と多様な人間関係が複雑に絡みあう様相をみると、事象を特定の人物に還元したがる、古代政治史の単純さが浮き彫りになる気がします(自戒せねば)。早く完読せねば、と眠気をこらえて読んでいるところへ、今度は熊谷達也氏の『相剋の森』(集英社文庫、2006-11)の文庫化。環境史をやっていながら、(しかも思想的にリンクするであろうことが分かっていながら)ちょっと読むのが怖くて距離を置いていたのですが、〈野生〉や〈共生〉について語るうえでは、やはり目を通さなくてはいけない小説でしょう(なんと解説は赤坂憲雄なのでした)。
ご恵賜いただく文献にもなかなか手を付けられず、礼状執筆も滞って周囲に顰蹙を買っている情況。どこかで立て直さなくてはいけませんね。

ところで来年、酒見賢一の『墨攻』を映画でやるんですね(なんとアンディ・ラウ主演)。チャン・イーモウもまた豪華絢爛路線に戻った様子。『真系累ヶ淵』の本格的映画化『怪談』(なんと中田秀夫監督)、漱石原作の『ユメ十夜』(実相寺昭雄、清水崇ら監督。なんと天野喜孝も)、燕山君時代の芸人の運命を描いた韓国映画『王の男』も楽しみです。
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『宮(クン)』:いまだ韓流強し

2006-11-17 02:08:49 | テレビの龍韜
以前、しゅいえほん君のブログで話題になっていた韓国のドラマ『宮(クン)』、日本でも、先週からテレビ東京で放送され始めました。帝政の敷かれる架空の現代韓国が舞台。芸術高校の美術科に通う〈普通の女子高生〉が、親友どうしだった先帝と祖父との約束によって、とつぜん皇太子妃に選ばれてしまう。皇太子は同じ高校の映画科に通う高校生で、いまはやりのイケメン・おれさま君。おまけに彼にはダンス科の恋人がいて、「本気で愛する人を宮中に入れてがんじがらめにすることはできない」から、結婚を容認している。主人公は彼の冷ややかな言動に翻弄されながらも、借金に苦しむ親のために入内を決意。宮中に足を踏み入れるものの、そこには言葉遣いも含めて様々なしきたりがあり、おまけに皇位継承をめぐる謀略も絡んでくる始末。果たして…という、なんとも少女漫画的なコンセプト。しかしこれが、美術・演出・撮影全般にわたり極めて丁寧に、お金をかけて作られていて、ジャンルは異なるものの『チャングム』に匹敵するような出来。宮中での古雅な言葉遣いと、女子高生の〈現代用語〉とのギャップの面白さ。〈しきたり〉の巻き起こす様々な悲喜劇、感情表現の抒情性・細やかさ。婚儀をはじめとする宮中儀式も詳細に仮構されていて、興味を惹きます。いやほんと、この題材を風格ある作品に仕上げるセンス、技術には頭が下がります(日本のドラマ界にはできないことですよ)。早くに父親を亡くした前皇太子の息子(第二皇位継承資格者)が今後どう絡んでくるか、彼と皇太子の元恋人とが接近する気配もあり…。今秋のドラマは割合に豊作だったのですが、『僕の歩く道』も『セーラー服と機関銃』も挫折し、いまは『のだめ』と『コトー』、そして『宮』しか観ていません。なんとか、ぼくの興味を持続させてくれ!と願う今日この頃(写真はこちらからのの借りものです)。
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死をめぐる有縁と無縁 (2):動物の死

2006-11-16 15:40:24 | 書物の文韜
『季刊東北学』第9号

柏書房, 2006-11

上記掲載の中村生雄さんの新稿「ペット殺しと動物殺し」を読みました。先に感想を書いた、土居さんの論考と〈死をめぐる有縁/無縁〉といった共通項を持つ内容です。土居さんの〈死〉は人間のものですが、こちらは動物が対象。死者のなかには、忘却/想起以前に、記憶されることのなかったもの、認識されることすらなかったものもあります。まさに、主観レベルで〈無縁〉状態に置かれ、それゆえに生者には介入しないもの。人間以外の生命であればその割合はなおさら高く、〈ペット殺し〉など典型的な事例といえるでしょう。

中村さんは、このエッセイのなかで坂東真砂子の「子猫殺し」問題に触れ、生物が生きる意味を喪失している現代日本社会の病に対する批判こそ、彼女の告白の真の目的であったと指摘します。さらに、小林照幸氏の近著『ドリームボックス―殺されてゆくペットたち―』(毎日新聞社、2006年)を紹介、ペットブームの裏で年間40万匹に及ぶ犬猫が殺処分される現実を提示。さらに坂東真砂子の言葉を借りて、食用動物として鶏7億羽、豚1600万頭、牛126万頭がされ、人工中絶によって失われる人間の命も30万以上に上ることを浮き彫りにします。「そんな人間の側の勝手な都合が大手をふって歩いているのが現代社会の実情だが、そうしたペットへの愛情がさらに高じて溺愛になり、病理的な様相を呈するまでにいたったのが昨今の日本ではないか」「なぜそんなにペットが溺愛されるか。坂東はそれを、人間の世界における愛情の不毛と砂漠化の結果なのだと言う。ほんとうは誰か人を愛したいのに、人はことばをしゃべって反論もするし、裏切ったり見棄てたりもする。むろんペットはそんなことをしないから、人間への愛の代わりとしてペットほど都合のいいものはない。かくしてペットへの愛情は洪水のように溢れかえり、それは同時に人間どうしの愛情を不毛にし、砂漠化する。愛情の不毛は不妊につながり、生殖活動の枯渇をもたらす」(p.66)。エッセイは、坂東と批判者との応酬のなかに病理のうごめくさまを見据え、そこにより普遍的な〈動物殺し〉との連続/非連続を展望して閉じられます。

異常なほどの衛生ブームにより次々とヒットを飛ばす消毒系商品、洗剤、殺虫剤。安価なドラッグストアには薬品が溢れていますが、その大量生産の陰には、これまた無数の実験動物たちの〈意義ある死〉体が横たわっている。人間を頂点とする現代文明の生命ピラミッドが、生態系の連鎖にメスを入れてイリーガルな秩序を作り出し、無数の動植物を犠牲にすることで屹立している事実は、あらためて指摘するまでもないでしょう。人間の枯渇を癒すツールとしてのペット・ブームは、本質的には有縁である動物たちの死を無縁の闇に沈め、ピラミッドを自覚しないことで成り立っている(しかし、三角錐の頂点というのは無限に小さく、そして孤独なんですねえ)。動物との関わり方は、エコロジカルな意味ではまさに〈互酬〉的であることが理想なのでしょう。宮澤賢治の「なめとこ山の熊」のように、自らの生命のために殺し/殺されうる関係ですね(中沢新一の〈対称性〉のように、契約の魔法で動物側の対等の利益/人間側の対等の損害が封じられるのではなく)。しかし、ドメスティケーションに始まる動物との関係の文明化を解体せずに生きてゆくにしても、その改善への道が一切閉ざされているというわけではありません。家畜もペットも、人間の社会・文化を根底から揺さぶる脅威を完全に失ってはいない。中村さんのエッセイに坂東の所論としてまとめられた、「ペットは人間のように自分を傷つけない」という見方には、どこか少し違和感があります。ペットだって人間不信に陥るものもあれば、特定個人を毛嫌いする場合もある。その一挙手一投足が我々を一喜一憂させ、時には心のなかを掻きむしることもある。動物と真摯に向き合おうとすれば、そこには様々な葛藤が発生してくるはず。だからこそ、それに耐えられない人間、現状(無痛?)を維持しようとする人間が、彼らとの関係を放棄する(縁を切る、そして無縁化する)というわけでしょう。かくいう私も、動物の死を恐れて(とくにそれを早めることに自分が加担してしまうことを恐れて)ペットを飼わないわけですが、それはある意味、〈ペット殺し〉と同じくらいの残酷性を帯びているのかも分かりません。

いずれにしろ、ここでもまずは、〈個と個との関係〉ということでしょうか。
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死をめぐる有縁と無縁 (1):人間の死

2006-11-16 10:59:28 | 書物の文韜
『比較日本文化研究』第10号

同会, 2006-10

通勤・帰宅の電車のなかで、土居浩さんからご恵賜いただいた「〈墓地の無縁化〉をめぐる構想力―掃苔道・霊園行政・柳田民俗学の場合―」(『比較日本文化研究』10号)を読みました。

土居さんの論考は、昭和初期に社会問題化する無縁墓の増加について、遺骸・碑石構造物・埋葬地の3点セットを不可分として改葬移転に反対する掃苔道、景観整備において移転の際はセット解体もやむなしとする霊園行政、歴史的構築物であるセット自体が死者の忘却を妨げ、逆に無縁墓地問題を引き起こしているのだという柳田民俗学の立場を詳述。「〈墓地の無縁化〉をめぐる言説は、このままだと将来的に国土が墓地で埋め尽くされる可能性を懸念する具体的な土地問題であるとともに、死者についての記憶の問題である。つまり、いかにして対処すべきかとの将来的展望と、いかにして無縁化に至ったのかとの過去の来歴と、その両者についての構想を含みこんで言説化されるのである。それは柳田の同時代に限らず、おそらくはわれわれの同時代でも同様なのである。……柳田の同時代を顧みることは、じつはわれわれの同時代の足下を照らすことでもあるのだ」(p.85)と結びます。

このブログの「死者の書」に関する分析でも触れ、〈言語論的転回〉に直面した歴史学が抵抗した〈死者の忘却〉の問題について、その成り立ち自体が〈構築的であること〉を気づかせてくれる重要な指摘です。そういえば、前期J大の特講「祟りと卜占の古代文化論」も、「なぜ人は、神が祟ると考えるようになったのか」を漢字の起源から論じたものでした。生命の誕生以来、この地球上では確かに無数の個体が死亡し、分解され消え去っています。そういう意味では、私たちの立つこの大地自体が、死体の集積であるわけですね。現代に生きる我々はその事実をまったく顧慮せず、またそれゆえに静かな生活を営んでいられる。いわば、〈死者の無縁〉状態による平穏。忘却された死者は祟ることがない。とすると、生者によって想起された死者だけが祟るのでしょうか。主観的なレベルでの無縁が、実際は有縁であることを自覚した時点で、生者の存立基盤が揺さぶられるということはいえそうです。しかし、想起されることそれ自体によって死者は苦しむことになるのか、忘却は死者自身にとって幸福なのか、という問いは残り続けます。いったい死者は、生きている私たちに何といいたいのか(あるいは何もいいたくないのか?)。

死者の声を聞こうとすることは、確かに生者の恣意にほかならないでしょう。幾多の無縁の死者たちを前にすれば、墓標を立てて記憶化しようということ自体、生命の峻別、死者の差別という問題を抱え込むことになります。ここ5~6年の間、大衆文学や映画・ドラマの世界で拡大してきた〈死者による癒し〉の流行は、〈個と個の結びつきだから赦される〉ことを無意識の前提としていますが、この点を充分顧慮してはいません。以前、『ケガレの文化史』のコラムで肯定的に捉えたとおり、葛藤の末の癒しであれば意味があります(それこそ無縁を有縁にしてゆく効果がある。〈鬼子母神効果〉とでも呼ぶべきか)。しかし、(私たち宗教者がよくしてしまうように)癒しをふりまきすぎると、それは正当化のツールに変貌してしまう。恐怖のもとに死者を排除するのは論外ですが、畏れを抱き続けながら接してゆくことは必要です。
残念なことに、自分自身を批判する何か、脅かす何かを持たなければ、人間の無軌道な欲望は抑えることができない。神霊の祟りに怯える心性も、死者の忘却を冒涜と捉える態度も、本当は自分自身への根源的な恐怖から発しているのかも分かりません(それ自体もツール化なのだから、本当に人間とは厄介な存在であり、また他者表象論は難しい)。

そうそう、今日民衆史研究会から関連するシンポの案内が来ていました。
○民衆史研究会2006年度大会シンポジウム「近世社会における民衆と『死』―死生観と墓標をめぐって―」
 ・日時 :2006年12月2日(土)13:00~17:00
 ・会場 :早稲田大学文学部36号館682教室
 ・報告 :木下光生氏「近世畿内近国民衆の葬送文化と死生観」
      田中藤司氏「死を記念する―『由緒の時代』仮説と祖先表象の歴史人類学―」
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訃報:キーワードだけは生き残る?

2006-11-05 02:13:50 | ※ 雑感
この休み中、白川静、クリフォード・ギアーツの訃報に接しました。お二人とも、拙稿で引用し、また概念を検討したことのある研究者です。謹んで哀悼の意を表します。しかし…サイードやブルデューの件で9月にも書きましたが、彼らが流行として見向きもされなくなる日はいつのことか。ま、白川氏については甲骨卜辞や金文の文法に関する研究は捨象されて漢字の解釈だけが、ギアーツ氏については認識論や叙述のあり方への省察は無視されて〈劇場国家論〉だけが、それぞれ独り歩きしてゆくことは目にみえていますが…(今だってそうなんだから。『字統』なんてもはやサブ・カル化しているし…)。そうそう、ポール・モーリアも亡くなったんですね。自分も過去のものになってゆく気がするなあ。
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伴大納言絵巻展:「…してみました」が、それが何か?

2006-11-04 21:14:54 | 議論の豹韜
今日4日(土)で、学園祭連休中にまとめて取り組んだ、『GYRATIVA(方法論懇話会年報)』4号の版下作成がようやく終わりました。本来なら9月中に終えていなければならない作業だったのですが、Macのトラブルやら使用ソフトのアップグレードやらで遅れに遅れ、ここまでずれこんでしまったのです。関係者の皆さん、失礼をいたしました。これでようやく、こちらも自分の原稿にとりかかることができます(10月末締切の古代文学シンポの原稿、明日中に書けるかなあ…)。

しかしいろいろと予定は入っているわけで、昨日3日は、母の実家・四谷の林光寺さんの報恩講へ出勤してきました。この法要は親鸞聖人の命日に合わせて行われる真宗最大の年中行事で、新暦・旧暦の相違はあるものの各派本山で勤修されます。本願寺派の末寺では、〈お待ち受け〉として10月後半頃から営まれ、同一組内の僧侶が各寺院に持ち回りで集まり勤仕します。覚如上人の著した親鸞聖人の伝記、『御伝鈔』を拝読するのが特徴ですね(ちなみに自坊では、毎年10月24~25日に斎行しています)。

2時過ぎに読経が終了したあと、学園祭でごった返すJ大学に立ち寄ってから(実は林光寺さんのすぐ近く)、妻と待ち合わせて出光美術館「国宝伴大納言絵巻展」へ。本当はすぐに帰宅してとりかからねばならない仕事もあったのですが、展示は5日までのうえ、今週は上・中・下3巻すべて本物が並ぶ最終週間。せっかく東京へ出て来たのだからと足を伸ばしたのですが……混雑はしているだろうとタカを括っていたものの、1階入り口のエレベータ前には「待ち時間120分」の看板が。本物志向の弱い(つまりモノをみる目がない)ぼくは躊躇しましたが、「待ってでも観た方がいい」という妻の一声で入館。ご年配の方の多さに倒れるひとが出ないかと心配しつつ、自分も足腰の疲れを耐え、日も暮れた頃になんとか展示室へ入場。明らかに〈行列〉を意識した蛇行する動線に辟易しながら、それでも絵巻の細やかかつダイナミックな筆致を堪能しました。蛍光画像による分析の結果、人物の描画には下書きが認められなかったとかで、その画力の高さに驚く反面(モーツァルトか!)、そうか、下書きしてあったら(それに縛られて)この迫力と躍動感は出ないよなあと妙に納得。しかし建物の描画にはしっかり下書きがあり(定規使ってるし)、「これだけ人物の描画に長けた著者(常磐光長?)も建物は苦手だった」との説明にまたまた感心(ぼくもそうだったよ、なんてね)。建物はあくまで背景、応天門だってこれまたみごとな炎と黒煙に覆われて、ちょっとしかみえませんからね(わざと隠していたりして)。また、植物の描写も微細で、何か意味がないかと凝視していたところ、源信邸へ使者が訪れる場面などには柳が使われていて、鑑賞者に別れを予感させる(そして疑いを晴らし一気に緊張を弛緩させる)演出が施されているようです。
ということでそれなりに満足したわけですが、上巻第13紙/14紙の継ぎ目や、藤原良房と伴善男が同じ直衣を付けていることなど、新しい発見についての謎解きを「…してみました」「…してみたらどうでしょう」と提示するキャプションはいかがなものか。もっと論理的に、自信をもって示してくれてもよかったんじゃないでしょうか、いずれにしても〈個人の見解〉なわけですから。絵巻に隠された暗号(つまり、応天門の変の真犯人は良房であることを示す内容)を、あまりにも有名になってしまった小説・映画に準えて〈バンダイ・コード〉と呼ぶのも迎合的です(気持ちは分かるけど)。

展示室の隣には登場人物、名場面の拡大写真パネルをかけた部屋があって、これも細部が確認できて非常に面白かったのですが、人物一人ひとりには「セリフ」が割り振られているという妙な凝りよう。いちばん奥の良房のところには、「今回、伴善男と同じ直衣を着ていることが新たに確認されたようですが、それが何か…?」。うーん(笑えたけれども)。清和天皇にセリフがなかったのも気になりましたね(ここまでやるなら、「眠いよお、適当に処理しといてよ」くらい書いてもよかったのに)。稲本さんmonodoiさんのブログに関連記事あり。
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環境/文化研究会(仮)10月例会:亀をめぐる心性

2006-11-04 20:30:02 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
31日(火)は環境/文化研究会(仮)の10月例会。学園祭前日、準備と前夜祭で騒然とするJ大学(この仮称、もはや意味はないですねえ)で行われました。報告は民俗学の藤井弘章さん。藤井さんとは10年近く前、ケガレ研究会の夏期合宿で知り合いました。当時は、「おお、マンボウやウミガメの民俗なんて研究しているひとがいるのか」と驚愕したものです。その後、『環境と心性の文化史』へも執筆をお願いし、國學院へ来られてから何年ぶりかで再会。環境/文化研自体の発足にも、藤井さんとの繋がりが大きな要因となっています。卜占の研究を通じ、ぼくの意識が亀に向きだしてからは、藤井さんのお仕事をより身近に感じるようになりました。他の参加者は、石津輝真・市田雅崇・亀谷弘明・榊佳子・土居浩・東城義則・中村生雄・三品泰子の各氏、またはるばる関西から牧野厚史さんにもご出席いただきました。

さて、藤井さんのご報告は、「ウミガメ供養習俗の発生と伝播と地域差?動物供養の一類型?」。研究史を整理された後、列島全域にわたる丹念な調査結果をもとに、ウミガメの生態的動向と習俗分布との関係を地域別に追究されました。そこからあぶり出されてきたのは、東北・日本海側、関東・東海、紀伊半島、瀬戸内・豊後水道、南九州など、それぞれの地域で固有の成立過程と多様な性格があること、現状の習俗が近現代(古くても18世紀)の特別な事情に発生の契機を持っており、古代以来の〈伝統〉へは安易に遡及できないことなど。網羅的なデータによって初めて明らかになる点も多く、「論をこう持ってゆきたい」という研究者的欲望には極めてストイックで、いろいろ目を開かされる思いがしました。
質疑応答についてはよしのぼり君のブログで詳しく触れられていますが、他の海洋動物習俗との関連性、供養の方法やその霊魂観などに議論が集中しました。中村さんが指摘されたクジラやジュゴンをめぐる習俗との関係、どのような動物信仰と繋がっているかによって、亀をめぐる表象が相違するということは重要な論点でしょう(これぞ構造民俗学って感じですね)。土居さんが注目されたように、東北などにみられる〈剥製として祀る〉という方法は、形態保存の欲望を駆り立てる亀に独特のものかも知れません。浦島伝承との関わりについての牧野さんの質問に対する藤井さんの回答、「近代の教科書的知識として浦島の昔話が普及したことが問題では」も面白かったですね。
個人的には、豊漁を祈願して遺体を海に帰す〈送り〉と仏教的な〈供養〉との区別、多様性を築きあげてゆく具体的過程、あるものならばそのシステムについて関心が湧きました(monodoiさんのブログに関連記事あり)。また、6月例会以降問題になっている動物/植物の境界という観点からすれば、亀自体が仏として信仰されている可能性(〈亀地蔵〉が亀を地蔵化したものかどうかは不明ですが、菩薩化した事例は確実にあるようです)。樹木の場合は神霊として祀られる事例、修行者の実践を通して仏像として顕現する事例はありますが、樹木そのものが仏化されるケースはないように思います(動物/植物の問題というより、やはり亀固有の問題かも知れませんが)。また、例会では言い忘れましたが、「霊亀」という呼び方の多さには、やはり元号も含めた古代的な知識、「玉霊」などと呼称する亀卜の影響が現れているようにも感じられます。これも伝統的知識の広がりというより、国学以降の問題を考えた方がいいかも知れません。

写真は、9月にいった薬師温泉でみた藍の亀文様(丸に一ツ亀?)。
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墓と戯れる女:その名は…

2006-11-01 22:02:37 | ※ モモ観察日記
愛妻です。初登場です。
ぼくが卒論合宿へ行っているあいだ、彼女は日本史研究会の大会に出席するため上洛していたのですが、前日に自分の研究に関係する旧跡を回っていたもよう。月曜に帰宅すると茶の間にデジタル・カメラが置いてあり、記録をみると上のような写真が20枚も…。この墓は、保元の乱で死亡した藤原頼長のもので(伝)、相国寺の墓地で探し出すのに苦労したとか。なんとか「しっくりくる」ツーショットを実現しようと、ひとりきりで30分ほど頑張ったらしいですが(もちろんカメラはセルフ・タイマー)、墓と戯れるおんなの一部始終を目撃した人がいたらどう思ったことか…。最後には烏もやって来て、その珍妙な光景を眺めていたそうです。
ちなみに、この墓地には藤原定家・足利義政・伊藤若冲のトリオ墓も存在。それにしても、この組み合わせ。どこぞの映画館の3本立てじゃないんだから。
Comments (7)
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