仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

能とクラシック:クリスマスに高尚なるものを

2006-12-27 16:39:36 | 劇場の虎韜
22日(金)を最後に、ようやく今年の講義も終了。4月からの就職で慣れないコマ数、夏休みもなかったのでけっこう大変でした。講義にはそれなりに力を入れましたし、夢見や折口信夫、葛原親王に関して新しいネタもできました。古代文学会のシンポジウムで報告、仏教史学会の聖徳太子シンポでは企画・司会の一端を担い、臨川書店『亀卜』や吉川弘文館『日本災害史』に文章も書きました(『災害史』はなんと増刷!4000円もする本では珍しい)。しかしどうも、すべてが付け焼き刃だった気がしてなりません。やはり、じっくり物事を考える精神的余裕がなかったからでしょうか。いただいた抜刷への御礼も、いつからか滞ってしまっています(すみません…)。冬休み、春休みも何かと予定が入っていますが、なんとか腰を落ち着けて勉強したいものです。
この日は、初期神仏習合の日本の諸事例を詳述。『多度神宮寺伽藍縁起并資財帳』にある「久劫」の説明として、芥子劫・盤石劫の喩え話から五劫思惟阿弥陀像に言及しましたが、学生諸君にはけっこうウケがよかったみたいです。ぼくも学部時代、今は亡き佐藤昭夫先生の「日本美術史」の講義で、初めてその姿を観たときには衝撃を受けました。佐藤先生は、「中世における偏執的な具体化」の一例として、禅林寺の見返り阿弥陀像などと同じ文脈で解説されていましたが、五劫思惟像の印象があまりに強かったため、そのくだりはよく覚えています。脱線気味の話題でも、本筋の記憶を助けてくれるということはあるのですね。
講義終了後は、卒論の提出を終えた東城君とタリーズでお茶を飲み、渋谷のQXシネマでレイトショーの韓国映画『トンマッコルにようこそ』を観ました。前売り券を買ってあったのですが、なかなか映画館にゆく暇がなく最終日ギリギリになってしまったのです(妻は先に観てしまった)。朝鮮戦争を批判したファンタジー映画ですが、新鮮味はないもののしっかり作ってありました。韓国作品は、テレビ番組も含め、この真面目さ、丁寧さが魅力です(ま、すべてがそうということではないでしょうが)。

23日(土)、この日のうちになんとか『古代文学』の原稿を仕上げたかったのですが、結局叶わず。
24日(日)、クリスマスに賑わう東京に出て、水道橋の宝生能楽堂にて能を鑑賞。狂言は好きで何度か観ていますが、能は初体験です。この日の演目は3本で、一つめが「鸚鵡小町」。関寺の近辺に住む老境の小町のもとへ陽成院の使者が訪れ、彼女の和歌の才を試そうとする。小町は院の歌の一部を変えて返歌する鸚鵡返しを披露し、かつて在原業平が和歌の神に奉納した舞を舞う。2時間近くの長丁場で、半分以上が舞。舞手も囃子手も大変です。小町を演じるシテ浅井文義氏の足の運び、杖をついて少しずつ歩むその姿は静謐で一定ですが、それゆえに鬼気迫る雰囲気を醸し出していました。しかし、ぼくには追い着けない高尚な世界で、悲しいことに眠気と戦わざるをえませんでした(…)。
二つめの「狂言遊宴」は鎌倉武士の芸能、早歌の掛け合い。車座になった狂言師たちが次々と歌や舞を披露する様子は、さながら武士の宴の趣で飽きさせません。9世野村万蔵の芸は初めて観ましたが、崩れるような笑顔やその裏にみえるしたたかさは、兄万之丞(8世万蔵)譲りでしょうか。万作~萬斎の芸とはずいぶん質が違ってみえます。妻がいうには、共演していた父親の万(7世万蔵)が、じっと息子の動きに目を注いでいたようですね。厳しい世界です。
ラストの「岩船」は、年末年始に相応しくこの世を言祝ぐ内容。宝生流の子役がシテの龍神、ワキの勅使を務めて、元気のいい声を張り上げていました。前の世代から次の世代へ、伝統の受け継がれてゆく様子が垣間みえる舞台でしたが、そういえばこの日の催し自体、浅井氏の「父 竹谷文一 三十三回忌追善」と銘打たれていたのでした。
終了後、『古代文学』の論文に必要になった雑誌を取りに研究室に寄ったのですが、さすがにイヴの夜は研究棟も無人。しかし、学園祭のときと同じく、幾つかの研究室はライティングのために電灯が点され、光の十字架を描き出していました。イグナチオ教会には、ミサに集まった善男善女が長蛇の列をなしています。最近は、一般家庭に至るまで年末のイルミネーションが流行ですが、CMでも扱っているように、全国の電気消費量を合計すればかなりの数字になるでしょう。クリスマスツリーも樹木信仰の残滓ですが、現代社会においては、自然への敬意も環境への負荷となって現れるようです。

25日(月)は、まず自坊の定例法話会。勤行を終えてから支度し、妻と、ゼミのEさんが出演する上智大学管弦楽団のコンサートへ。会場の東京芸術劇場は京劇鑑賞でよく利用するところですが、確か大劇場は初体験。学生オケだと甘くみていたのに、プロと同じ土俵で勝負しているんだなあ…と変なところに感心してしまいました。この日の演目は、ウェーバー「魔弾の射手」・ラヴェル「マ・メール・ロワ」に、コルサコフ「シェエラザード」。Eさんはホルンを担当、パートリーダー・セクションリーダーも務めている様子。がんばっているんですね。庶民のぼくはここでも場違いで、細かいところは何も分からないわけですが、とりあえず「マ・メール・ロワ」の繊細な音運び、「シェエラザード」の勇壮かつ雄弁な曲想には感動(「魔弾の射手」は、一曲目で緊張があったからかも知れませんが、ちょっと上品にまとまり過ぎていた印象があります)。それにしても、コンミスのヴァイオリンは上手い…とこんな感想を書くのは馬鹿みたいですが、しかし、一般大学の学生オケに入ってくる若者は、いったい音楽界でどのような位置にあるのかが気になります。音楽大学へは入れないけれど、音楽は続けてゆきたい? でも、そんなレベルではないような気もする。事実、この管弦楽団の指揮者のひとり金山隆夫氏は、上智入学後に指揮法を学び始め、卒業後に渡米してジュリアードなどへ在籍したそうです。上には上がいるということでしょうか。耳が肥えていないので分からないことばかり、不思議です。Eさん、今度教えてください。ところで、卒論では音楽史なんかやったりしないんでしょうか?

26日(火)から27日(水)の早朝にかけて、なんとか徹夜で『古代文学』を脱稿。内容は6月に報告したままですが、文章化は一苦労でした(実質的に時間がなかっただけ)。近年、韓国加耶地域の古墳でクスノキやコウヤマキの木棺が確認され、(半島にほとんど自生しないことから)鉄の対価として倭から輸出されたものではないかと推測されています。「5世紀という年代(4~5世紀は紀水門が倭の外港)からみても紀伊半島産と考えていいかも知れない」、などといった付け足しもしてみました。『書紀』第8段一書第4・5にあるスサノヲ、伊太祁曾三神の樹種播殖神話は、彼らが多くの樹種を持っていながら半島には蒔かず、すべて列島へ将来して全土を青山とし、紀伊国へ渡って祀られたという内容。臆測なので書かなくてもよかったのですが、「半島にはない樹木が列島、紀伊にはある」という表明が、クスノキ材やコウヤママキ材と妙にリンクしたわけです。ちなみに、先の神話でスサノヲが造船材として定めるのがクスノキ、造棺材として定めるのがマキ。このあたり、木棺と丸木船の技法の関連や、神社で神体を収める御船代の問題などを追究してゆくと面白そうですね。しかし、全体的にはなんとなく暗い気分を反映してか、人間の、樹木に対する想像力の枯渇を嘆くような流れになってしまいました。4月末〆切の『三宝絵』論集で、ちょっとした反撃(自分に対する、そして自然観全体の流れに対する)ができるといいのですが…。
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師走の週末:日常化する京都

2006-12-17 12:17:45 | 生きる犬韜
ブログを更新する精神的余裕がなく、幾つか書きかけの記事が未公開の状態となっています。岡部隆志さんなど、ものすごくお忙しそうなのに毎日ブログを更新し、しかも書かれている内容に非常に味がある。やはり歌人は違いますね。

金曜は卒業論文のしめきり。4年生は、これといったトラブルもなく、なんとか全員提出できたようです。よかったですね。
5限の特講を終えて帰宅してから、翌日の仏教文化講座(自坊開催)の準備。いつもは兄が講義をしているのですが、今月はピンチヒッターを仰せつかり、「〈救済〉としての神仏習合―折口信夫「死者の書」にみる念仏―」というタイトルでお話ししました。「死者の書」については以前このブログでも触れましたが、自らの名の伝承を神婚という形で求める(すなわち祭祀の継続が忘却への抵抗となる。人間の根源的欲求としての〈歴史〉)滋賀津彦に対し、南家郎女は『観無量寿経』に基づく観想行を通じ彼を阿弥陀仏に変えてゆく。すなわち滋賀津彦は、時空を超えて称えられてゆく「南無阿弥陀仏」という新たな名を手にするわけで、念仏を現代の記憶論と関係づけて論じうる可能性が折口にはあるのです。日本文学や神道史の側だけでなく、仏教学・仏教史学の面からも、折口信夫を再検討する必要性を痛感する次第です。

講義を終えたその足で新横浜へ向かい、新幹線に飛び乗って京都へ。関東にいるため欠席しがちな仏教史学会の委員会、今日は新委員の紹介や委員長の交代、忘年会などもあるためどうしても顔を出さねばなりません。車内では、稲城正己さんから送られてきた『GYRATIVA(方法論懇話会年報)』4号の「問題提起」を下読み。構築主義・歴史の物語り論・記憶論を繋ぎ、人文学における問題点を指摘する優れた概説で、4号の完成に期待が膨らみます。余った時間は、iBookで遅れている『古代文学』の原稿執筆(ようやく「おわりに」にたどり着きました。近日中に提出できるでしょう。しかし雑誌にはありえない遅れ、自分が編集者だったらかなり怒っているでしょうねえ)。
自宅から3時間で京都着(やっぱり速い)、龍谷大学大宮学舎で委員会に出席。『仏教史学研究』の編集情況(ここで頼まれている書評も遅れてるんだよなあ。1月末までに4本は書かなければ…)や来年度の大会についてなど、種々の案件を話し合ってから京都駅前の中華料理「福幸」での忘年会へ。隣に座った龍谷大学のS氏(中世後期よりの本願寺学僧の末裔。名家)から、真宗学の演習に出席している学生が、なんと空也や唯円を知らないという驚くべき話を聞かされました。大丈夫か、真宗の未来は!?

楽しく会食を終えて、終電少し前の新幹線で関東へとんぼ返り。車内では、『古代文学』の原稿に一区切り付けてから、北方謙三『血涙―新・楊家将―』下巻の読書。『三国志』『水滸伝』『楊家将』と来て、少し薄味になっている印象ですね。今回は天皇制の是非を問うものではなく、ハードボイルドに徹した内容だからでしょうか(「代州を拠点に楊家が独立、遼と組んで宋を滅ぼす」という四郎の構想に、〈らしさ〉が表れてはいますが…)。
それにしても、近年、京都へは日帰りでゆくことが多くなりました。出張申請書を提出したとき、学科長のY先生に「せっかくゆくんだから泊まってくればいいのに。不思議な人だ」といわれましたが、自分ではまったく違和感がないんですよね。〈異国情緒〉を味わわない分(そういえば本願寺にもお参りしてこなかった)、かえって日常化が進んでしまっているのかも知れません。ま、同日に諸星大二郎参加のシンポがあったり、京博で「高僧の書」展が開かれているのを聞けば、帰るのが惜しい気はするわけですが。
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御礼と驚嘆:そうなのか…!

2006-12-08 00:39:58 | 書物の文韜
お世話になっている三浦佑之さんから、ほぼ連続してご高著をお送りいただきました。ベストセラーとなった『口語訳 古事記』の文庫版(神代篇人代篇)と、志賀島で発見されたという「漢委奴国王」金印をめぐる衝撃的な論考>『金印偽造事件―「漢委奴国王」のまぼろし―』。御礼を申し上げますとともに、その旺盛な研究・執筆活動にも心から敬意を表します(届いたその日のうちに読了してしまう岡部さんも凄いが…。やっぱり、ぼくくらいの分際で忙しがってちゃいけませんねえ)。

国宝にも指定され、誰でもが知っているあの金印を贋物だと言い切る三浦さんの勇気、それを支える学知の力には凄まじいものがあります。決定的証拠はというと「自然科学的解明」を待つしかないわけですが、情況証拠だけでも限りなく黒に近いグレーでしょう。発見地といわれる志賀島の考古学的調査結果(海岸付近の海底まで試掘したが弥生時代以前の遺跡はほとんどない。金印が埋納されていたような墓、その他の特別な遺構に至っては皆無)、幾つかの文書に記される発見時の情況と鑑定のプロセス(町人から侍講にまで上り詰めた儒学者亀井南冥を祭酒とする藩校・甘棠館の開校と、競合する藩校・修猷館を持つ譜代の儒学者らの存在。金印を〈発見者の百姓〉から預かった商人、管轄の郡役所の奉行、南冥との交友関係)、そして金印自体の形状や銘文の内容・彫り方。細かく検証してゆくと、これまで金印を「後漢の光武帝が下賜した本物」と判断していた学説の多くが、脆くも崩れ去ってしまうのです。そして、中世日本紀の伝統を体現するような稀代の〈贋作製作者〉藤貞幹の影…。まさに役者が揃っている、という印象です。
ただし、第8章で三浦さんが復原しているとおりに本当に事が運んだか…というと、まだ何かが隠されていそうにみえますし、逆にもっと単純な筋書きなのかも知れない、不明確な点が多いというのが正直な感想です。考察の核を支えている二つの学説、田中弘之氏の論考、鈴木勉氏の一連の研究にも突っ込んだ分析が欲しかった気がします。

それにしても、「どうして学者というのはこうも単純で、騙されやすいのだろうか」(p.143)という三浦さんの一言は、自分のことをいわれているようで堪えます。
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地元講演:「栄区のなかの平安京~伝承をめぐる臆説~」

2006-12-07 13:30:00 | 議論の豹韜
○六人衆の道案内シリーズ10(全4回) 主催:六人会
 ・日時:12月2日(土)13時30分~
 ・会場:横浜市栄区本郷地区センター

【11/05】 父ともどもお世話になっている、地元の歴史サークル・六人会の方々の企画です。まだ何も考えていません。ごめんなさい。
【11/19】 ようやく準備を開始しました。その前に書いておかなければならなかった『古代文学』の仕事が終わらず、併行して作業する羽目に陥っています。来週は下にある、『周氏冥通記』をやらなきゃいけませんしね(そういえばここのところ、馬王堆の『黄帝四経』(知泉書館)だの『老子』(東方書店)だの、今までありえなかったような注釈本を手にすることができ、かなり浮かれています。熟読する時間がないのでコレクターと化していますが、早く『五十二病方』もみたい!)。ところで分かりきったことですが、上の話は〈秦氏〉と〈葛原親王〉がキーワード。アカデミックな歴史学の世界では見向きもされないような地域伝承から、地元、山内荘本郷のイマジネールの世界を考えてみたいと思っています。とうぜん、考察は粗っぽくまさに〈臆説〉にすぎないのですが、聴いてくださった方々の目に映る見慣れた景色が、いつもと少し違うようにみえてくる材料を提供できれば幸いです(皇女神社の写真は、HP葛原親王の仮御所よりお借りしました。関係記事・史跡を網羅した資料的価値の高いページです)。なお、主な検討史料は次の一文のみ。
『神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌』公田村条/社(抜粋、神奈川県郷土資料集成12)
皇女御前社 同社東方字台ニアリ。葛原親王ノ皇妃照玉姫ヲ祀ル
里伝ニ云フ、往昔、姫親王ニ従テ東国ニ下リ、本村ニ居リ。天長元年九月二十八日薨ス。今ノ社傍ニ葬ル。里人之ヲ皇ノ御前ノ塚ト云ヒ、又女臈塚トモ云フ。文禄元年壬辰二月朔日、僧信永ナルモノ社ヲ建テ其霊ヲ勧請ス。又姫ノ侍女相模局・大和局ノ二人、姫ノ薨スルニ及ビテ尼トナリ、死後姫ノ塚ノ傍ニ葬リシヲ、同時之ヲ両塚明神ト崇ムト云フ。其塚今猶ホアリ。

【11/27】 葛原親王伝承は、常陸・上野の太守、太宰帥を歴任しているため同地周辺に多いようす。中部の伝承も『続日本後紀』の領地関係記事に基づくもの。千葉は千葉氏、神奈川は鎌倉氏関係が多いですが、『平家物語』や幸若舞に基づく可能性もありますね。しかし、佐賀県に親王後裔を名乗る波多氏がいて、実在の親王家令に土佐大目・秦忌寸福代がいるということは、栄区の伝承から考えると面白い。親王・ヒコホホデミ・豊玉姫を祀る、高山の桂本神社との関係はどうなんだろう。
【12/02】 先ほど、ようやくレジュメを作り終えました。あとはチェックを残すのみ。なんとか間に合いましたね。昨日木曜日の作業で、公田の皇女神社がいかなるものか、やっとある程度の実相を掴むことができました。といっても、創建主体と創建年代の特定は難しいですけどね。やっぱり大庭氏かなあ…。
【12/03】 昨日、一応は講演を終えることができました。ラストは急ピッチで仕上げたのですが、ある程度の結果は出せて安心しています。お集まりの皆さんにも、どうやら喜んでいただけたようですし。結論は、「栄区の皇女神社は、葛原親王を祀っていた御霊神社から派生したものであろう」という単純なもの。鎌倉周辺の御霊社は祇園社の系統とは異なり、主に鎌倉景政を祭神としています。もとは、鎌倉・大庭・梶原・村岡・長尾五氏の祖先=五霊を祀っていたのではないかというのが、『相模国風土記稿』以降の一般的な考え方(最近の樋口州男さんの事典項目も、この説を採用していました)。鎌倉周辺には、藤沢宮前と鎌倉坂ノ下・梶原にありますが(離れたところでは群馬にもあります)、いずれも葛原親王伝承を伴うもので、恐らくは五氏共通の祖先たる親王も合祀していたのでしょう。野口実さんらの研究によると、平氏政権期の相模国武士団は、上総介忠清の代官的存在となっていた大庭景親に掌握されていたようです。現在の栄区を領地としていた須藤経俊は、石橋山の合戦以降、景親と行動を共にし頼朝と敵対していますから、そうした縁から本郷にも御霊社が建てられたのかも知れません(現在は神明社合祀ですが、かつては皇女神社付近、同じ公田村内に立地していました)。では、この御霊社から皇女神社が分かれたのはいつのことでしょうか。また、親王の妃・照玉姫に関わる物語は、どのように生み出されたのでしょうか。手がかりとなるのは、姫が葬られたという上臈塚と、そこから姫の霊魂を勧請して社の神にしたという僧・信永の存在です。塚そのものの実態は不明ですが、御霊社の近くにあるということで、佐賀県東松浦郡の親王塚古墳のように、いつしか親王の墓であるという伝承が生じたとしてもおかしくはありません(「上臈」には「葛」字が含まれており、言葉どおりの意味のほかに、何らかの〈遊び〉がある気もします)。公田は鎌倉街道に接続する要衝のひとつで、廻国修行者の碑もあちこちにみられます。信永がそうした僧侶のひとりであったとすると、浮かび上がってくるのが〈祟りの物語のパターン〉です。かつては信仰を集めた寺社なり偉人の墓なりがやがて衰亡、忘れられた存在になったとき、干害なり水害なり疫病なり、原因不明の災害が発生する。物理的な対抗手段を失った民衆は神仏にすがり、託宣と救済を乞う。それに応えた近隣のシャーマンや廻国の修行僧が、廃絶寸前の寺社、墓の祟りを持ち出し、それを供養し鎮めることで災害が止むと説く…。神田明神の創祀などは、この典型的なパターンですね。『皇国地誌』に載る皇女神社の成立譚に祟りの発生は語られていませんが、塚の死霊を神に昇華させる祭儀が行われたとすれば、何らかの契機を想定した方が自然でしょう。『吾妻鏡』にも祟りや鳴動の記事が載る坂ノ下御霊社の分身ですから、祟りのパターンを介して塚と結び合わされるなかで、葛原親王に関係する神社が誕生したと考えられます(「王の御前社」という別名は、この段階にこそ相応しい名称ではないでしょうか)。文禄元年という年紀が正しいのかどうかは分かりませんが、照玉姫の物語は、このとき以降に生まれてくるものでしょう。現在みることのできる『平家物語』には、葛原親王は系図上の一人物としてしか登場しませんが、千葉氏が『源平闘争録』を生み出したように、鎌倉氏後裔の武家にも独自の祖先神話が存在していた可能性があります。また、室町期に当道座に編成されてゆく平家語りのなかには、葛原親王への信仰が強い地域を訪れた際、期待に応えてオリジナルのエピソードを披露した(即興で創作した)盲僧もあったかも分かりません。「照玉姫」という名称自体、神話に登場する最もポピュラーな女神呼称「玉依姫」や、小栗判官物語の「照手姫」を想像させます。親王の孫平政子が東国下向中に葬られた地を、平の塚ということで「平塚」と呼ぶようになった、という伝承も関係する可能性があります。いずれにしろ照玉姫のエピソードは、中近世の物語り世界との結びつきのなかで誕生した、比較的新しい縁起譚といえるでしょう(また信永による勧請そのものが、何らかの縁起からの創作である可能性も捨てきれません)。
しかし前にも書きましたが、興味深いのは、葛原親王の実在の家令に秦忌寸がおり(葛野付近を本拠としていれば当然のことですが)、彼の末裔を称する戦国武将に松浦の波多氏がいることですね。栄区は、以前から郷土史の世界で話題になっているように、秦氏との関係性が指摘されています。山城国葛野郡と関わりの深い「桂」地名、横穴式石室を持つ七石山古墳群、そして秦川勝の創建と伝える「光明寺縁起」(ウチの寺ですけどね)…。いずれも明確な証拠ではないわけですが、親王の観点からみてゆくと秦氏が浮かび上がってくるから面白い。常陸筑波出身の家令有道(丈部)氏道のように、親王は関係地の在地豪族を家産機関に取り込み、領地経営に役立てていたようですから、ひょっとしたら本郷にも…。また、最近の塩谷菊美さんの研究によれば、神奈川の真宗寺院は荒木門徒系が多いようです(光明寺も含めて)が、同集団には本願寺の『御伝鈔』と異なる親鸞伝が伝承されており、そこに登場する親鸞の妻は九条兼実の娘でなんと「玉日姫」…。これは!とついつい臆測を膨らませてしまいますが、想像力を喚起して史料不足を補うとともに、どこで自分を抑制し踏みとどまるかが、郷土史を研究するうえで大事なことなのでしょうね。
講演終了後、どうしたわけか乗り慣れたバスを乗り間違え、公田周辺(ちょうど皇女神社から御霊社跡地の上あたり)を彷徨うことになったのですが、これは果たして葛原親王のお導きか、ひょっとしてお怒りだったのでしょうか?
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