仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

未来予想図:12月シンポ、どうしよう

2008-10-29 11:59:54 | 生きる犬韜
25日(土)は報恩講の当日でもあったのだが、雲南調査の義理もあって寺からは休みを貰い、アジア民族文化学会の秋季大会に出かけた。テーマは「歌の音数律」で、アジア諸民族の歌の構造、分布のありようなどを音数律という視角からみようとしたもの。個人的には、民族固有の音数律が、それぞれの共同体なり社会なりの身体化されたリズムとどう関わるのか、リズムの変化によって音数律も変化するのかに関心を持った。先週コミカレの講義で歩行の問題を扱い、江戸期のリズムが現在の我々のそれとはまったく異なることを痛感したので、よけいそう感じたのかも知れない。
会場が共立女子大だったので、帰りに東方書店と内山書店に寄り、敦煌文書関係の中文書の新刊を幾つか買った。この二つの書店を流している時間は本当に楽しい(注文した本はなかなか届かないけど)。三省堂を覗いてみると、北方謙三『楊令伝』の最新刊がもう出ていた。さっそく平積みになっていたサイン本を購入。ちょうど、12月刊の『歴史評論』掲載「歴史学とサブカルチャー (3)」で北方作品を扱っているところだったため、勢いに乗って徹夜で原稿を書き上げ、翌日編集委員会へ送信した。まとめは鹿島徹氏の物語り論に繋げてみたが、ちょっと強引だったかも知れない。

26日(月)は、「原典講読」の後でコミカレの第2回目。「芸能の場としての寺院」というタイトルで、上智で初めて「芸能としての声明」を披露した。あまり自慢できる読経力ではないのだが、受講生の方々にはある程度満足していただけた模様。しかし、こちらに時間を割きすぎて、もうひとつ説明しようと思っていた絵解きが疎かになった。やはり90分では話せない内容だったか。ぼくの体内リズムと関係するのかも知れないが、研究会報告・学会報告でも、だいたい設定された時間の倍くらいで話し終える内容を準備してきてしまう。困ったものだ。
amazonにて、『週刊金曜日』の書評欄でベタ誉めしていたバトラーの『自分自身を説明すること』を購入。権力からの呼びかけによって構築される自己に、いかに倫理的責任の根拠を求めるか。議論の筋はよく分かるのだが、ポストモダン的社会理論としてはむしろまっとうすぎる見解で、『金曜日』がいうほどの新鮮さは覚えなかった。むろん、熟読しているわけではないので、もう少し腰を落ち着けて読んでみよう。

それにしても、間近に迫ってきた早稲田大学高等研究所シンポ「僧伝のアジア」(12/6)が不安で仕方ない。一応、「先達の物語を生きる―行の実践における僧伝の意味―」というタイトルを出したが、未だに見通しが立てられていない。準備に使える時間もほとんどないので、恐ろしいことになりそうだ。こういう依頼を受けるときにはある程度の「未来予想図」があるのだが、今回はそれが描けない状態で依頼を受けてしまった。つまり、この報告の準備をするために、他の仕事を犠牲にして先延ばしする必要があるのだ。そちらの調整もちょっとストレスなので、明日から始まる学園祭休みにできるだけのことはやってしまいたい(『上智史学』の校了作業があって、やっぱり論文執筆には集中できないのだけど)。
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能力の限界:6/8が講義だと…

2008-10-24 15:52:41 | 生きる犬韜

秋学期が始まって最初のヤマである。間に入ってくる委員会仕事や内部学会の雑誌の編集はまあ措くとして、通常授業のうちの演習系が当初2回程度は講義になること、コーディネーターを務めるコミカレの講義が初回・2回目は自分の担当であること、月末は豊田地区センターの生涯学習の講義があることなどが重なり、ここ2週間ほどは担当授業が一時的に8コマとなり、うち6コマが講義という過酷な状態に立ち至っている。毎年同じ内容を話しているのなら復習で凌げるが、とうぜんぼくは違うネタをかけているので、週6コマの講義になるとほとんど処理能力の限界に達してしまう(よってこのブログも、更新が滞っていたわけだ)。精神衛生的にもよくないこと甚だしい。これを乗り切れば「学園祭休み」なので、あともう一息頑張るしかない。ま、学園祭休みにしたって、溜まっている原稿を処理し、『上智史学』校了へ向けての編集者校正だけで終わってしまうのだが。せめて映画を1本観るくらいの時間は作りたいものだ。

20日(月)は、「原典講読」終了後の18:45からコミカレ「体験する江戸の学芸」の第1回。今回は総論だが、身体技法のうち最も基本的な〈歩き方〉に注目した(いわゆるナンバも含む)。幕末~明治期の史料から日本人の身体に関する記述を洗い出し、江戸期までの文字通り〈環境文化〉的な身体が、西欧的軍事教練を取り入れた体育教育により、国民国家的?に改造されてゆく過程を論じた。参考になったのは神奈川大学COEのDVD「あるく―身体の記憶―」で、昨年度に行われた特別展示の映像を記録したものである。絵巻や名所図会などの前近代画像資料、1930年代のフィルムにみえる「かつての日本人の歩き方」を復原しながら、構築的な身体のありようについて考える内容だ。また、文字史料としては、モースの『日本その日その日』が大いに役に立った。真面目に読んだのは初めてだったが、当時の日本人の生活の様子が具体的に活き活きと描かれ、正確なスケッチも付されていて素晴らしい。大森貝塚の発見のみが人口に膾炙しているが、彼が人類学者・民俗学者としても極めて優秀であったこと、極めて誠実で内省的な人格の持ち主であったことがよく分かる。ちなみに、体育史の研究において江戸の身体/明治の身体が比較される際、『風俗画報』誌に連載された蓬軒居士の「旧幕府の軍隊」がよく引用されるが、これが文脈を無視したまったくの誤用であることを発見した。西洋式教練にうまく対応できない当時の武士たちの滑稽さを示す記述は(恐らく、山田洋次監督『隠し剣鬼の爪』に描かれた教練シーンの典拠のひとつだろう)、実は旗本の次男、三男が教官となったことに対する故意の抵抗として書かれているのだ。史料批判以前の問題で、ずっと孫引きに孫引きが重ねられてきた怠慢の結果だろう。

22日(水)は、「全学共通日本史」の後、修士論文演習で山内先生のご論「星湖李ヨクと文明の化」を書評。17世紀朝鮮の実学者李ヨクがいかなる世界観を抱いていたか、近代的価値観による分析視覚を相対化しつつ考察されたもので、『魏略』に載る箕子朝鮮説(殷の賢人箕子が武王によって朝鮮に封じられたとする説)をよりどころに、彼が朝鮮を中華的文教の国として正当化してゆくさまが興味深かった。とくに、春秋戦国期においてはマイナス視された殷を、正統性の根拠として持ち上げている点は非常に面白い。古代日本でも、律令国家が重視した三史(『史記』『漢書』『後漢書』)においてマイナス視されている秦を、秦氏が自らの出自として選択・喧伝する。以前論文として書いたように、そこには開発事業をめぐる秦へのオマージュがあるのだが、殷礼賛にも特別な事情が存在するのだろうか。ところで、問題の『魏略』は倭について「太伯之裔」と記しており(とても邪馬台国の使者のセリフとは思われない)、箕子朝鮮の記述とも併せて注意される書物である。個々の民族・国家自体がどう思っていたかは関係なく、魏の中華思想に基づき夷狄をその枠組みへ包摂する言説を生産したものかも知れない。

今日23日(金)は、プレゼミ生やゼミ生を引率し、午前中に宮内庁書陵部の特別展示「除目」を観覧。文書を読み始めたばかりの学生には難しい内容だったが、みんな図録を片手に一生懸命に見入っていた。展示室では、以前お世話になっていたあけぼの会の若井良子さんと再会。榎本淳一さんの引率でいらっしゃっていたようだ。他に、早稲田大学高等研究所の藤巻和宏さんともバッタリ。ブログ上でお目にかかっている秘書さんたちとも初めてお会いしたが、眉目秀麗な女性たちだった(てっきり男性だと思っていたので驚いた。考えてみたら、マッキーが男性を雇うはずはないね)。
土砂降りのなか宮内庁を後にして出勤、印刷の白峰社と『上智史学』三校の受け渡し。これから全頁を確認して校了へ持ってゆかねばならない。昨年、校了でokを出したものの、仕上がり時点で幾つかミスが出てしまったので、今回はその点を注意すべく相談。大変である。今朝は早朝に編集後記を入稿、宮内庁へ向かう電車の車内では「サブカルチャー」の原稿を書いていた。今日中に仕上げて投稿しなければならないが、今日は真宗最大の年中行事「報恩講」のお逮夜なので、これから帰って法会に出勤しなければならない。やはり大変である。

※ 冒頭の写真は、この数日で購入した本のラインナップ。動物と人間との関係に関するものが多い。早く落ち着いて読みたいものだ。
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1週間経つ:この秋を乗り切れるか

2008-10-11 12:49:11 | 生きる犬韜
自坊の境内にも四谷見附の橋詰めにも金木犀が咲いており、通勤・帰宅の際に甘い香りが漂ってくる。そういえば、8月に行った麗江でも金木犀が咲いていた。向こうとこちらの温度差はちょうど2ヶ月分くらいなのだな、と少し懐かしく感じる。そういえば、関東の大学でもなかなか持っていない『納西東巴古籍訳注全集』100巻を、史学科の図書予算で買ってもらえることになった。見積もりをお願いした東方書店が、ずいぶんディスカウントしてくれたおかげである。まずは調査した祭署関連の典籍を読み込まねばならないが、それは岡部さんや遠藤さんとの研究会まで取っておくことにして、こちらは卜書の方を総合的に洗い出す必要がある。時間はないがやる気はある状態。このモチベーションをどれくらい維持できるかが、研究達成の鍵だろう(写真は、麗江東巴博物館に展示されていた『訳注全集』の偉容。無形の記憶遺産として、〈世界遺産〉に登録されているのだ)。

授業が始まって1週間経ち、それぞれの初日を終えた。シラバスを書いたときよりさらに工夫を凝らしたが、学生たちの反応はまちまちである。全学共通の日本史は149名という大所帯だが、今のところ興味を持って聞いてくれている学生が多い。2回目の終了後には哲学科の学生が、「動物の日本史楽しみにしています」と、自分の専攻との関連から問題意識を語ってくれた。こういう声には本当に支えられる。原典講読は『蒙求』を扱うが、演習と同じというので学生たちは緊張している状態か、あまり反応がよくない。内容的にも、半ば「人物から考える中国倫理史」になってゆく可能性もあるので、プレゼン終了後にどれだけ自由な意見交換ができるかがポイントになる。主体的に発言のできる環境を整えてゆきたい。ゼミは4年生も卒論へ邁進しだし、わさわさしてモチベーションが下がる頃である。新たなテキストを加えて気を引き締め、また麗江の四方街で手に入れた「清明上河図」の複製をみせて画像の分析をさせてみた。つまり、この絵巻に描かれている景観は、春のものか秋のものか、また朝のものか夕のものか。学生たちはそれなりに鋭い指摘をしつつ、興味深く隅々まで絵を眺めていた。やはり実物?はインパクトがある(写真は夜の四方街。最近のデジカメ一眼レフは性能がいいから、三脚がなくてもこれくらいは撮れる)。プレゼミは本当に真面目な学生が多く、(まだ?)学習意欲も高い。勉強することが面倒くさくならないように、その好奇心と能力を伸ばしてゆかねばならない。責任重大である。

授業以外の業務では、初年次教育検討小委員会、奨学金検討小委員会、学科関連の会議、『上智史学』の編集等をこなした。「初年次」は、来年3月までに文学部としての構想をまとめねばならないという。少し忙しい。「奨学金」は、今年から始まったダイキン融資の制度の論文審査。環境問題に関する応募論文を10本ほど読んだ。学科会議は、来年度カリキュラムの調整や11月の入試の役割分担。『上智史学』は、中国の方からの投稿もあって校正スケジュールが混乱しているが、なんとか予定どおりに刊行できそうな状態になってきた。やや胸をなでおろしている。

そんなこんなで日を送っていると、1週間などすぐに経ってしまう。自分の研究をする時間はほとんどない(というか、本当に「ない」)。電車のなかでスマートフォンを使い、「歴史学とサブカルチャー」の原稿を書くのがせいぜいだ。しかし、緊急に仕上げねばならない論文が2本、11月には上智史学会大会の報告、12月にはシンポジウムと論文1本、1月には厖大な卒論を読みつつ論文1本、2月は期末評価と入試、3月には書評、5月にはまた論文1本、その間隔月で「サブカルチャー」の原稿というキツキツのカレンダーだ。毎回こうして書いて確認しておかないと、ちょっと気が遠くなる。この秋を乗り切れるか、無事年末を迎えられるかが問題だ。

左は『百鬼夜行抄』の最新17巻。今週プレゼミ生のYさんから薦められたのだが、実はぼくの最も好きなマンガのひとつだ。最近、ちょっと絵が粗くなってきた気がするけれど。それにしても、司ちゃんが柴咲コウにみえて仕方ない。右はこれも大好きな『竹光侍』の最新5巻。こっちの安倍晴明顔な主人公も、なんとなく居眠り磐音と重なったりする。
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新朝ドラ:『だんだん』の神話世界

2008-10-04 16:43:20 | テレビの龍韜
NHKの朝ドラが新しくなった。マナカナ主演の『だんだん』である(写真は公式ホームページから。この構図は不思議なかっこよさがあるね)。傑作だった『ちりとてちん』の反動もあって前作は観る気も起こらなかったが、今回は出雲・松江と京都が舞台とあってとりあえず視聴。関東在住の身としては旅気分も味わえるので、なかなかによかった。

別れていた双子がふとしたことから再会し、決定的にひびが入ってしまっていた二つの家族を結びつけてゆくというストーリーは、『ふたりのロッテ』以来古典的なテーマである。NHKでも20年ほど前、ウチの近所にある山手学院を舞台に『夢家族』という翻案ドラマを作成、フィギュアスケートが特技のツインキーという双子アイドルが主演していた。今回の『だんだん』もほとんど翻案だが、かなり和風の味付けなのが面白い。第1週をみたかぎり、お互いのことをまったく知らず、まったく異なった環境で育った姉妹が、偶然の積み重ねによって出雲大社で出会う。いうまでもなく、同社が「縁結び」の神様だからだろう。これから京都の賀茂や松尾などが次々出てきて(祇園だから八坂か。でも牛頭天王の配剤というのはちょっと怖そうだ)、裏設定に関わると面白いのだが...そりゃないだろうね。

ところで、ナレーションも担当している(情趣に溢れていて美しい)竹内まりやの主題歌「縁の糸」。よいと思うが、「袖すり合うも多生の縁」と「天の描いたシナリオ」がイコールになっている発想が気になる。前者は仏教思想で、輪廻を繰り返す命が他のたくさんの命と交わりあってゆく世界を意味する。「多生」とは生まれ変わり死に変わりしているそれぞれの生のことだ。「天」という単一な存在がヒトの生を決めてゆくという、運命論的な後者にはそぐわない。さらに細かいつっこみを入れれば、出雲のオオクニヌシだって天神ではない。ま、まったく違う発想が交わっているのが日本的といえば面白いし、ドラマの設定にも合っているといえばそのとおりなのだが。
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寝ないで考える:歴史叙述としての大学教育

2008-10-01 02:50:43 | 議論の豹韜
28日(日)の卒論合宿から始まって、29日(月)、30日(火)、そしてもうすぐ来る1日(水)の朝と、3日間で5時間ほどしか寝ていない。おまけに連日8時間に及ぼうかという会議の連続で、明日も1限の講義のあと、11:00~18:00、18:00~19:00+αと会議が入っている。とうぜん、帰宅は午前様である。そして、帰ってからも仕事の継続。「残業」などという概念のない業界であることを実感する。

明日からは授業も始まるので、往き帰りの電車内での睡眠を惜しんで準備。今日は左の文献を読んだ。我々の歴史研究も授業実践も、多様かつ広範囲にわたる歴史叙述の一環であることが明記されている。この間の『歴史評論』の連載にも書いたように、もちろん、マンガやゲームの世界も含めてである。やはり、現場の教育に立脚したこのような書物の方が、歴史叙述に関する問題意識も高い。教科書に対する「無名性」「匿名性」批判など、かつての方法論懇話会のベクトルと非常に重なり合う。しかし、教科書的記述はポストモダンの極北に位置するので、批判するのは非常に容易である。教科書をバッサリ斬って、返す刀で自分の実践を見つめなおさなければ意味がない。問題意識が近現代史に偏重しているのもお決まりの作法だ。この議論を前近代史へ広げられないようでは、こちらの方こそ「想像力の貧困」という批判を免れないだろう。

明朝1限の「全学共通日本史」は、こんなことを考えながらスタートを切る。18:00~の会議も「初年次教育検討小委員会」なので、歴史叙述としての大学教育のあり方について悩み続ける一日になりそうだ。(場合によっては書きかけ)
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