25日(土)は報恩講の当日でもあったのだが、雲南調査の義理もあって寺からは休みを貰い、アジア民族文化学会の秋季大会に出かけた。テーマは「歌の音数律」で、アジア諸民族の歌の構造、分布のありようなどを音数律という視角からみようとしたもの。個人的には、民族固有の音数律が、それぞれの共同体なり社会なりの身体化されたリズムとどう関わるのか、リズムの変化によって音数律も変化するのかに関心を持った。先週コミカレの講義で歩行の問題を扱い、江戸期のリズムが現在の我々のそれとはまったく異なることを痛感したので、よけいそう感じたのかも知れない。
会場が共立女子大だったので、帰りに東方書店と内山書店に寄り、敦煌文書関係の中文書の新刊を幾つか買った。この二つの書店を流している時間は本当に楽しい(注文した本はなかなか届かないけど)。三省堂を覗いてみると、北方謙三『楊令伝』の最新刊がもう出ていた。さっそく平積みになっていたサイン本を購入。ちょうど、12月刊の『歴史評論』掲載「歴史学とサブカルチャー (3)」で北方作品を扱っているところだったため、勢いに乗って徹夜で原稿を書き上げ、翌日編集委員会へ送信した。まとめは鹿島徹氏の物語り論に繋げてみたが、ちょっと強引だったかも知れない。
26日(月)は、「原典講読」の後でコミカレの第2回目。「芸能の場としての寺院」というタイトルで、上智で初めて「芸能としての声明」を披露した。あまり自慢できる読経力ではないのだが、受講生の方々にはある程度満足していただけた模様。しかし、こちらに時間を割きすぎて、もうひとつ説明しようと思っていた絵解きが疎かになった。やはり90分では話せない内容だったか。ぼくの体内リズムと関係するのかも知れないが、研究会報告・学会報告でも、だいたい設定された時間の倍くらいで話し終える内容を準備してきてしまう。困ったものだ。
amazonにて、『週刊金曜日』の書評欄でベタ誉めしていたバトラーの『自分自身を説明すること』を購入。権力からの呼びかけによって構築される自己に、いかに倫理的責任の根拠を求めるか。議論の筋はよく分かるのだが、ポストモダン的社会理論としてはむしろまっとうすぎる見解で、『金曜日』がいうほどの新鮮さは覚えなかった。むろん、熟読しているわけではないので、もう少し腰を落ち着けて読んでみよう。
それにしても、間近に迫ってきた早稲田大学高等研究所シンポ「僧伝のアジア」(12/6)が不安で仕方ない。一応、「先達の物語を生きる―行の実践における僧伝の意味―」というタイトルを出したが、未だに見通しが立てられていない。準備に使える時間もほとんどないので、恐ろしいことになりそうだ。こういう依頼を受けるときにはある程度の「未来予想図」があるのだが、今回はそれが描けない状態で依頼を受けてしまった。つまり、この報告の準備をするために、他の仕事を犠牲にして先延ばしする必要があるのだ。そちらの調整もちょっとストレスなので、明日から始まる学園祭休みにできるだけのことはやってしまいたい(『上智史学』の校了作業があって、やっぱり論文執筆には集中できないのだけど)。
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それにしても、間近に迫ってきた早稲田大学高等研究所シンポ「僧伝のアジア」(12/6)が不安で仕方ない。一応、「先達の物語を生きる―行の実践における僧伝の意味―」というタイトルを出したが、未だに見通しが立てられていない。準備に使える時間もほとんどないので、恐ろしいことになりそうだ。こういう依頼を受けるときにはある程度の「未来予想図」があるのだが、今回はそれが描けない状態で依頼を受けてしまった。つまり、この報告の準備をするために、他の仕事を犠牲にして先延ばしする必要があるのだ。そちらの調整もちょっとストレスなので、明日から始まる学園祭休みにできるだけのことはやってしまいたい(『上智史学』の校了作業があって、やっぱり論文執筆には集中できないのだけど)。