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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

迷いのない技:「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る」

2012-12-13 19:49:14 | 劇場の虎韜
10日(月)、新進気鋭の民俗学者M君が、大学院の授業「特殊研究」の時間に遊びに来てくれて、左の上映会の情報を教えてくれた。「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る」。「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」略してECとは、1951年、西ドイツ ゲッチンゲンの国立科学映画研究所で開始された、国際的な学術研究および大学教育用の科学映像資料収集運動らしい。読んで字のごとく、映像からなる百科事典を作ろうとした、と理解すればいいだろう。それから30年近くの歳月を費やし、多くの研究者やカメラマンが世界各地を巡って、生物学や人類学に関する2000タイトル超の映像アーカイブが構築された。ECフィルムはその後各国機関に渡り、日本でも、平凡社創立者の流れを汲む下中記念財団が、1970年にEC日本ア-カイブズ(ECJA)を開設、1972年より、アジアで唯一のフルセットの管理・運用を開始した。しかし、現在に至って本国ドイツのECプロジェクトは解散し、日本でも16mmフィルムという媒体形式が障壁となって、上映の機会はほぼなくなってしまったという。ポレポレ坐で開催された今回の企画は、このフィルムをテーマごとに定期的に上映してゆこうというもので、ゲストを迎え、最新の研究成果を併せて伝えるというプラスαもある。第1回のテーマは「屠畜」で、民博の関野吉晴さん、場の写真で知られる映画監督・写真家の本橋成一さん、纐纈あやさんの映画『ある精肉店のはなし』のモデルとなった大阪北出精肉店店主の北出新司さんが壇上に並んだ。上映プログラムは以下のとおり。
1)中央ヨーロッパ・チロル、ヴィルアンダースの家庭の :ベーコンとソーセージづくり
2)北ヨーロッパ・ノルウェー、サミ人 :初秋のトナカイの狩集め、耳への刻印、去勢、と解体
3)北ヨーロッパ・ノルウェー、サミ人 :トナカイ肉の解体
4)西ニューギニア・中央高地、ファ族 :豚のと料理
5)特別上映 :纐纈あや監督『ある精肉店のはなし』ラッシュフィルム、北出さんによる最後の

当日は6限まで授業が入っていたため、前日に予約をして、授業の終了後 急いで会場へ駆けつけた。会場はほぼ満員だったが、何とか開演には間に合い、幸運なことに座席も確保することができた。まずは3人のゲストが登壇され自己紹介、彼らのコメント付きで映像を観てゆくことになった。なんという贅沢。

1)チロルの一般家庭における、クリスマス準備と冬支度のための豚の。庭先に引き出されてきた豚は、発火形式のニードルのようなものを頭部に打ち込まれて昏倒、早速解体作業が進められる。まずはのど笛を切り裂き、血をすべて体外に出す血抜き(飛び散らせず、容器に集める)。その後、豚をまるごと棺桶のような大きな木箱に入れ、樹脂の粉と熱湯を注いで全身をこすってゆく。すると、次第に毛の部分がとれてくるので、丸裸の状態で室内(納屋?)のに運ぶ。豚は大ヨークシャー種で、1頭の重さは120キロ程度。かなり重いが、両足先(くるぶしあたり?)に杭を貫通させ、ウィンチで逆さ吊りにする。北出さんの解説によると、これは「極めて合理的」とのこと。北出さんは、我々には分からない解体の専門知識をさまざま補足してくださり、非常にありがたかった。続いて、吊り下げられた豚の腹を顎から股間まで切り裂き、内臓をすべてかき出してしまう。血抜きをした後なので、臓腑は白くて非常に美しい。これをさらに各部に分け、粘膜や内容物などをすべて出して洗浄し、腸詰めの作業に備える(大量にある雪も使用し、踏みつけるようにして洗浄していた)。この作業は大腸を除き、ほぼ女性が担うという。北出さんによると、大阪でも同じだとのことだが、その理由は何なのだろう。腸は裏返して洗浄し、風船のように膨らませて穴がないか確かめたうえ、ミンチ状にした肉を専用の器具で詰め込んでゆく。クリスマスの特別な料理である、血のソーセージも作る。その他の肉については、最初、豚をそのまま入れたのと同じサイズの木箱のなかに、肉を丁寧に並べてゆき、塩をすり込み、寝かせる作業を繰り返す。一部は薫製にし、ベーコンを作ってゆくらしい。
・解体の作業は、本当に家庭的な、あたたかい雰囲気のなかで進められてゆく。女性たちは、カメラが入っているからなのか、いくぶん照れたように、楽しそうに作業しているようにみえる。子供たちは遠巻きに眺めているが、クリスマスのご馳走に期待を膨らませているようだ。ここではは、(少々「特別さ」を帯びているとはいえ)日常の一齣にすぎない。

2・3)スカンジナビア半島のサミ人による、トナカイの。まずは初秋の狩集めの風景。牧畜といっても、かなり広大な地域に放牧されているのだろう。関野さんによると、シベリアでは他の家畜を昼間に放つのに対し、トナカイは逆に夜に放つのだという。人間が餌場に誘導する必要はなく、群れで自由に餌(主に苔類)を食べにゆく。彼らはエネルギー消費が激しいために脂肪分が非常に少なく、肉も引き締まっているが、そのため、人間が食べる場合には「旨味」に欠け、シベリアでは安価な肉として扱われるらしい。狼の群れに襲われることも多く、ソヴィエト時代はヘリコプターで保護をしていたらしいが、ソヴィエト崩壊後はそれも行われず、狼との競合に敗れた牧畜民の離散が相次いでいるという(上記、高倉先輩の本で勉強しておこう)。
サミ人のフィルムには、トナカイ管理の方法として、耳に様々な文様の切り口を入れる作業が記録されていた。ものすごいスピードで移動する群れに輪のロープを投げ、任意のトナカイの角に引っ掛けて連れ出し、焼きごてのほかに耳の加工を行って、持ち主の印を刻む(かなり複雑に切られてしまう場合もあって、ちょっと可哀想ではある)。ところで、牧畜トナカイの群れのオス・メスの割合はだいたい半々程度らしいが、優秀なオスの子孫を残すため、繁殖期の前に一定量の去勢が行われるという。驚いたのはその方法だ。最初は何が行われているのか分からなかったが、押さえつけられたトナカイの股間に、サミ人が顔を埋めている場面が映し出された。なんと、トナカイの睾丸を口で噛み潰しているのだという。何ともいえない気持ちになった。関野さんいわく、シベリアにも去勢の方法があって、東西で潰す/抜き出すという相違があるらしい。スカンジナビアではどうなのだろうか。いずれにしろ、狩猟や牧畜には、対象となる動物と人間との身体的接触が多い。異類婚姻譚が生じるのもむべなるかな、と考えられる。
さて、解体のシーンである。押さえつけたトナカイの胸に、杭のようなものを打ち込む。シベリアでは心臓を一突きにするらしいが、いずれにしろ、体内で血液をすべて出すようにしてしまい、一ヶ所に集めて排出する。それから野外で解体が始まるが、サミ人の男性は、幾つかの刃物を器用に使いこなし、手際よく作業を進めてゆく。トナカイの内臓構成はおおむね牛と同じらしい。反芻用の巨大な第1胃から始まり、第2胃、第3胃まである。第1胃には、未消化の苔がたくさん詰まっていた。皮のなめし方については、糞尿を用いる方法が広く知られ、日本でも行われていたが、サミ人がどのような方法を採用しているのか、フィルムからは確認できなかった。解体された各部は、再び皮に包まれてサミ人に背負われ、自宅まで運ばれていった。なおされる動物は、解体の過程でどんどん体温が上がり続け、40℃くらいには達するという。厳寒のなかでは湯気が立ち上るとのことである。寒いなか、内臓に手を入れていると温かい、とは関野さんの談。

4)ニューギニア、ファ族における豚のと料理。の対象となったのは、1)の大ヨークシャー種とは比べものにならないくらい小さなもの。綱で繋がれたものを、かなりの至近距離から矢で射殺していた。合理的な意味はなく、かつての狩猟の記憶を伝えているものなのかもしれない。このフィルムは1975年の撮影らしいが、ニューギニアの人々は鉄製の刃物を使用せず、鋭利な竹の刀を削りながら使用していた。そのため作業は迅速ではなく、かなり手間がかかっていて、チロルの家庭やサミ人の手際にみる「職人性」を感じなかったが、かえってあたたかみを覚えたのは不思議だ。肉はある程度の固まりに切り分けられ、毛皮は剥がずに、そのままたき火で熱した石の上に並べられ、焼かれる。ある程度焼いた時点で、木の枝などを用いて毛を削ぎ落とし、食べてゆくようである。

5)『ある精肉店のはなし』ラッシュフィルム。現在の大規模屠場は、多く機械によるオートメーション化が進んでいるが、北出さんは、100年続く古い公営の屠場で、牛と人間とが正対する形にこだわり作業を行ってきた。しかしその屠場も今や閉鎖されてしまい、このフィルムの映し出す光景が最後の屠畜になるという。纐纈監督は、その緊張感に満ちた現場を、抑制の利いた色彩の「美しい」映像で捉えた。冒頭、屠場に連れられてきた牛は、人間たちのいつもと違う雰囲気に多少の緊張を抱いていたとしても、とくだん警戒心を強くしているようにはみえなかった。その額へ向って、北出さんが、ふいに巨大なハンマーを打ち込む。重い、大きな音がした。ハンマーの先端は細い杭のようになっており、それが頭蓋を貫通して脳を壊すのだ。しかし北出さんも、最後の作業で緊張していたのか、1回目は微妙に急所を外してしまったようだ。牛はよろけるが倒れない。そこへ2発目。ついに牛は昏倒した。「ほんとは1発で倒してあげたかったんだけど…、2発目は当たりましたが、これで外してしまうと、今度は牛がぼくらに向ってきますね」。生命と生命が、生きることを賭けて向き合っている。人間が圧倒的に力を持つ空間ではあるが、そこには、生命に対する敬意が満ちている気がした。その後、牛は血抜きをされ、皮を剥がれて解体されてゆく。床の溝に集められた血は、かつては、他の肉片や骨片とともに煮沸・圧搾・乾燥を繰り返し、肥料として使用されたという。内臓は、大きなプールで丁寧に洗浄される。裸になった肉塊は、冷凍車で北出精肉店の倉庫へ運ばれてゆく。荷下ろしの作業の際、近くの小学校に通う子供たちが、その様子を嬉々としてみつめ、「さよならお肉屋さ~ん」と口々に叫んで帰っていったのが印象的だった。うん、この映画やはり、完成したら観にゆかねばなるまい。

さて、このイベント自体は、けっきょく3時間余りに及んだだろうか。とにかく力が入って肩は凝ったが、思ったより普通の感覚で観ることができた。しかしそれは、まずECフィルムが映像のみで、肉を切る音、骨を断つ音などが一切記録されていなかったからでもあろう。その分、『精肉店のはなし』の方は鮮烈だった。また、これは当たり前だが、臭いがなかったのも耐えられた理由のひとつかもしれない。大量の血・脂の臭い、内臓の内容物の臭い、糞尿の臭い。慣れなければ、これらは我慢できまい。いうなればぼくらは、「無痛文明」に保護されたシェルターのなかから、動物の解体ショーを観ていたにすぎない。いくら生命の重み、食べることの重みを痛感しても、迷いのない技に美しさを感じ敬意をはらっても、それは動物たちにも、そして屠畜に携わる人たちにも、根本的に礼を欠いた行為であったような気がする。しかし、きっと観ないでいるよりは、感じないでいるよりは、考えないでいるよりはましなのだろう。もちろん、その意味で極めてよいイベントであったと思うのだが、しかしECフィルムの上映会という性格上、上映プログラムのすべてが同じ「技術」のレベルでしか論じられなかったのは残念だ。例えば、流通経済の関与がまったくないニューギニアの事例と、北出精肉店の事例とでは、屠畜の意味がまるで異なる。また、ゲストのトークが、「誰だって肉を食べるんだ」「肉を食べるのは当たり前なんだ」という文脈で展開されたのもどうかと思った。屠畜関係者に対する卑劣な差別を撤廃してゆくためには、もちろんそうした姿勢も必要だろう。しかしそれでは、前近代社会や民族社会の人々が持ち続けてきた、「殺される動物の側の視点」が抜け落ちてしまう。せっかくこの問題に関する叡智が集っていたのだから、さらにその先について考えてもよかったのではないかと思う(まあ確かに、雑食性の動物としての人間の「自然」を考えれば、肉を食べないぼくなど不自然極まりないのだが…)。殺して食べる側の視点と、殺されて食べられる側の視点、そのどちらも大切にしつつ、「腑に落ちる」共生のあり方を模索してゆきたいものだ。
なお、上のフィルムの描写は当日暗いなかでとったメモに基づいているので、いくぶん誤謬があるかもしれない。予めご容赦をいただきたい。
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2 Comments

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そうですね。 (kari)
2012-12-23 05:40:21
こちらも少し、忙しさは止んだ感じです。
お体には気をつけてくださいね。

食の選択ということが可能なヒトにおいて、肉食は当然の前提ではなく、」むしろ「あえて肉を食べている」という言い方もできると思います。

宮沢賢治ならば、「食物連鎖の頂点に近いものを食べるな」と言ったかとも思いますが、ではその「頂点に立つ」と自らを位置付けるヒトとは何なのか、身につまされました。

『環境の日本史』にも書くのですが、北條さんの議論には及べず、大変恥ずかしく思っています。
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ん? (kari)
2012-12-31 11:14:48
宮沢賢治が「食物連鎖の頂点に近いものを食べるな」と言っているわけではなかったですね。上記コメントには、何か文章が抜けていたと思いますが、何を言おうとしていたか、ちょっと思い出せません。

食物連鎖のピラミッドという認識は、その成立自体が問題になっていますね。

「来るべき書物」は、いつも参考にさせて頂いております。ここまで真摯に答えてくれる教員は中々いません。学生の質問も、良質ですね。
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