仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

あの頃:『トキワ荘の青春』を観て想い出す

2007-08-30 05:37:52 | テレビの龍韜
夏休み2本目の原稿にとりかかっている。12000~16000字だから大したことはないのだが、これまでちゃんと取り組んだことのなかった史料に関する内容なので(どちらかというと、ぼくよりも妻に来るべき仕事なのだ。依頼を貰ったとき、編者に確認のメールをしてしまった)、助走に時間がかかる。基本的な下調べが終わり、ようやく執筆を始めたところである。来週の月曜には投稿できるようにしておきたい。

ところで今日未明、ケーブルの日本映画専門チャンネルで、市川準監督『トキワ荘の青春』(1996年)を放映していたので録画をしておいた。昔、レンタルビデオで借りてダビングしたビデオもあったはずだが、DVDで残しておきたかったのだ。確か単館ロードショーだった公開当時、テアトル新宿まで、独りで観にいったのを覚えている。あれは幸せな時間だった。
タイトルからも分かるように、この作品は、日本漫画界においては聖地ともいえる伝説の安アパート、トキワ荘を舞台にした青春群像劇である。住人であった手塚治虫の手によって様々な名作が生み出され、彼を追うようにして、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫らの巨大な才能が集まった。しかし、創作にかける情熱と真摯さでは誰にもひけをとらないのに、その舞台を降りてゆかざるをえなかった若者たちもいた。藤子らの兄貴分であり、トキワ荘を描いた作品には必ず登場する新漫画党党首・寺田ヒロオもそのひとりだろう。映画はこの寺田を主人公に、日本漫画の青春時代、その情熱と希望、不安、狂気、挫折を淡々と、青春モノにあるまじき静謐さで描いてゆく。文学でも漫画でも映画でも音楽でも、いちど創作という仕事を志した人間には分かる何かが、そのフィルムにははっきりと刻印されている。ぼくのなかでは間違いなく、市川準の最高傑作に位置づけられている作品である。
主人公の寺田ヒロオを演じるのは本木雅弘。いつもはケレン味のある役柄が多い彼だが、この作品では、自らの目指す創作のありようと時代の求める娯楽との間で苦悩する若者を、極めて誠実に演じている。冒頭のシーンで、礼儀正しく画用紙に向かい、写経でもするかのように漫画を描き出すその仕草、形を表し始めたキャラクターに思わずもらす笑みなど、本当に漫画が好きで好きでたまらないという気持ちが自然に伝わってくる。10年前のぼくは、このシーンですでに泣いていた。藤本弘を演じた阿部サダヲは、これが映画デビューだったはずだ。自主映画時代(というより「そとばこまち」時代か)から目にしていた生瀬勝久の演技も光っていたし、手塚治虫役の北村想も非常に「それらしかった」(NHKの「まんが道」で手塚を演じた江守徹よりは数段に)。思えば、本木以外の主要キャストはみな新興劇団の若手たちで、ちょっと前までの自分たちの境遇を、将来の不安を夢だけで乗りこえようとしていた当時の漫画家たちに、重ね合わせながら演じていたに違いない。それゆえに、市川準の作り出す作為を排したリアリズム世界にも、まぶしいくらいの輝きが生まれていたのだろう。

公開当時、この映画を観ていた自分(確か博士課程の2年だった)が、学界における将来をどう思い描いていたのか、今となっては思い出せない。でも、不安と希望、楽観と諦めとが、交互に押し寄せてきていたことは確かだろう(研究者として大成してゆく先輩たち、逆に研究を諦めてしまう先輩たち、次々と入学してきて頭角を現してくる新しい才能…。院生室は、ちょっとトキワ荘のイメージに近いかも知れない)。就職という枠組みを除けば、それは今だって続いているのだ(どちらかというと、年々、マイナス要素の方が強くなってきているが)。卒業を控えた学生たちなど、そのあたりの葛藤はもっと深いに違いない(そうあってほしい)。自分の将来、夢、現実…、そうしたものと真摯に向き合っている若者には、ぜひ観ておいてほしい作品である。
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夏の終わり:風情も感じずもろもろのことをやる

2007-08-27 02:23:31 | 生きる犬韜
ようやく、ひとつの論文が書き上がった。早速に編集担当のKさんに連絡、ものすごく〆切を過ぎてしまい、1ヶ月前にいちど寄稿を辞退したのだが、もしかすると受領してもらえるかも知れない(もしだめならば、他のところとの交渉である)。一息ついたが、気を抜く暇はない。すでに、別の二つの本の件で出版社より催促が来ており、うちひとつは電話で、寄稿可能日を明言させられた。8月いっぱいで終わるかどうか分からないが、とにかく書き続けるしかあるまい。
また、執筆作業の合間に(自然に空くわけではなく無理矢理空ける)、三つの雑誌・小冊子の編集作業を進めている。うち二つは上智大学関係(『上智史学』と「千代田学」関連の小冊子)、もうひとつは方法論懇話会の『GYRATIVA』最終号である。『上智史学』は印刷屋さんとの協同作業だが、「千代田学」と『GYRATIVA』は版下作成までぼくが担当、9月中には刊行しなければならないので忙しい。あちこちへメールを送って態勢を整え、あとはAdobeを駆使して黙々とDTPのデータ作成。目が疲れてしょうがない。

息抜きに、NHKの『世界里山紀行』第2回を観る。ポーランド北東部のビエブジャ・ナレフ湿地帯を舞台に展開される、水鳥・牛・人間の共生関係。「自然が恵んでくれる以上のものは望まない」とのフレーズが印象的だったが、人間が刈って牛の飼料としなければ湿地ゆえに植物遺体が重なり草が生えにくくなる、だから「人間がこの地の自然を守っている」のだというナレーションには違和感を持った。植生は極相へ向かって遷移するもので、人間は自らの利益になるように、その流れに手を加え留めているに過ぎない。それが豊かな生態系を作り出すのは、個々の動植物が当該情況に適応した結果であって、別に人間のおかげではないのだ。手を加えなければ別の状態が出現し、また異なる適応によってそれなりの生態系が営まれるだけだろう。…と文句をいいつつも、植物や動物に向けられた人々の眼差しには素直に感動した。人間が牧草を刈り集めるそばから飛来し、草の下から顔を出す蛙をねらうコウノトリは、田起こしの際に土中から飛び出す虫を目的に降りてくる、日本の〈穂落とし神〉=ツル、サギを連想させる。彼らが稲魂を運んでくると考えられたのと同じく、コウノトリには子供を運んでくるという伝承がある。両者の信仰が成立する背景には、やはりよく似た人間と環境との関わりがあったのだ。

そういえば、最近、家の周囲でサギをみかけることもずいぶん少なくなってきた。里山の諸々の風景は、テレビ画面を通してしかみられなくなっているのだ。一昨日、今年初めてツクツクホーシの鳴き声を聞いたが、まだ虫の声で季節の移り変わりを知ることができるとは、本当にありがたいことだろう(子供の頃には名古屋くらいまでしか生息していなかったクマゼミが、いつの間にか毎年境内で鳴いているが…)。忙しいが、自分の感受性まで荒廃させないよう気をつけねば。
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東北逍遥 (4):農村はいまやファンタジーの世界

2007-08-21 19:09:07 | 議論の豹韜
東北逍遥の記録の更新が遅れてしまった。ようやくお盆が終わったところに採点の〆切が近づき、また急遽環境/文化研究会(仮)8月例会の報告準備もしなければならなくなったからである。例会のことはまた今度書くことにするが、前期の採点も本日午前中にめでたく終了し、教員生活でいちばん嫌な仕事からも(一時的に)解放された。これでようやく、原稿の執筆にもとりかかれる(ちょうど某出版社からも督促状が届いたところである。恐ろしい…)。ま、並行して片付けなければならない事務仕事はあるのだが…、とにかくがんばりましょう。

さて、ゼミ旅行3日目の記録である。この日の目的地は、遠野ふるさと村。本来なら、地域全体を視野に数日かけてフィールドワークすべきだろうが、我々歴史学者は遠野初体験なので、いちおう初心者向けコースを選んだわけである(ぼくみたいなことをやっていれば、もっと早くに来ていなければいけないのだろう。いくら手垢が付いているといわれようが、ディズニーランド化しているといわれようが、「トーミ村」なのである)。旅館からタクシーで移動し(このあたりも観光的)、いざ村内へ。
しかし、恐らくは農村というものを知らないいまの学生たちにとって、ふるさと村は充分にファンタジックな世界だったようである。曲り家の土間、竈、囲炉裏、奥座敷を珍しげに眺め、馬屋から顔を出す馬に歓喜して(蹄の跡を一生懸命にたどっている学生もいた)、水車小屋に注目する(水車はどのようにして回っているのか?)。売店に改造された直家「こびるの家」では、冷たい甘酒やくるみまんじゅうに舌鼓を打つ。きれいなトマトを頬張っているものもいた。この日も非常に暑かったが、学生たちはそれなりに満足したようである。
しかし惜しむらくは、せっかく遠野に来ているというのに、独自の民俗に目を向ける態度が少なかったことだろうか。幾つかの曲り家の床の間にはオシラサマが置かれていたが、ほとんどの学生がその何たるかを知らないのだ。ちゃんと栞も配られているのだから、予習はしておいてほしいものである。自主性を重んじようとこちらから口出しすることは控えていたが、仕方ないので、像を前に座っていた何人かにはその場で簡単に説明をした。ちなみにこの家々を巡っていて気づいたことだが(つまりぼくも不勉強なのだが)、遠野では竈神も山神も男性だった。列島の他の地域では、両者とも女性と伝承しているところが多いのではなかろうか。オシラサマでも、馬=神/娘=嫁との見方に従うなら、神性を帯びているのは男性の方である。この宗教ジェンダーの形成については、少し考えてみたい気がする*1
ところで、村の入り口にかかる二つの橋のうち、曲り家にゆく方ではない橋には左のような名前が付けられていた。う~む、この先にゆくと本当に椀貸しの家があるんだろうか。なかなか手が込んでいる。

正午頃にふるさと村をあとにして、列車の時間まで駅近くにある市立博物館へ移動。「どんど晴れ!」の影響か、企画展は「ザシキワラシ」であった。図録はなぜか9月にならないとできないとのことだったが、展示自体は、佐々木喜善/柳田国男のやりとりのなかでどのようにザシキワラシが屹立してくるかを丁寧に追っていた。常設展示もなかなかよく、とくに、ふるさと村の農具展示室でもみた「亀甲を用いた銃の火薬入れ」、東方朔伝授という農業書が注目された。亀甲の方は、中国に7000年前から同様の袋(占いの道具という説もある)があるので、直接繋がっているはずはないものの驚いたわけである。なぜ亀なのだろう。機能論だけで使用されたわけではないと思うのだが、これも少し追いかけてみたい問題である。農書の方は、恐らくは近世陰陽道、大雑書などと関連があるのだろう。確か歴博の小池さんに論文があった。

博物館を観終わったあとは、なぜか蛾の大発生している(尋常な数ではなかった。家々の壁面、並木、道路、すべてに無数の蛾が張り付いていた。女子学生にとっては恐怖だったろう)大通りを駅へ向かい、新花巻駅を経て新幹線で東京へ。車内では学生たちはまたもや爆睡、ぼくは論文を読もうとしたが、さすがに疲れてうとうと、集中できなかった。いまから考えると、夜の飲み会やこの車内で、反省会みたいなものをできればよかった。学生は疲れ切ってそれどころではなかったろうが(やろうと思っても、結局はレクリエーションに流れてしまっただろう。それも悪くはないのだけれど)、もう少し「ゼミ旅行」としての体裁を整えてはおきたかった。せっかく貴重な体験をしたのだし、その意味を深く考える機会は設けておくべきだったろう。すべて来年度の課題である。次年度ゼミ長、どうぞよろしく。

*1 先行研究をまるで調べていないので、適当な立論で申し訳ない。確かに、竈神については火男説もある。しかし火男は火吹き男だから、本来は竈に奉仕する男性ではなかったろうか。
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向こう側:送り火をみながら噛みしめる

2007-08-17 06:08:26 | 議論の豹韜
17日(金)の夜が明けた。さっきまでは窓を開けていても蒸し暑かったが、今は涼しげな空気が入り込んできている。
それにしても、この1週間の気温の高さは尋常ではなかった。ちょうどお盆の時期であり、毎日10軒前後の檀家さんのお宅を回っていたが、昨日や一昨日は本当に熱中症にかかるかと思った。今季は10~11日、11~12日にご葬儀が2件入ってきたので、寺全体のスケジュールはかなりキツかったと思う。ぼくも、月参りやお盆のお勤めのほかに、火屋・収骨・還骨初七日の勤行を1件、納骨勤行を2件受け持った。13日に倒れたのは、そのせいもあったのかも知れない。生/死の境目の儀式に立ち会うことには未だに慣れないし、火葬場での斎行自体ずいぶん久しぶりだったので、多少の精神的ストレスがあったのだろう。…しかし、それも一応は終了、16日(木)夜には、NHKで京都五山送り火の生中継を観た。列島に暮らす人々の何パーセントになるのかは分からないが、いま現在、各地の盆行事に参加し、あるいは家々の風習に従いつつ、〈向こう側〉へ、〈向こう側にいってしまった誰か〉へ思いを馳せている人が確実にいるのだ。そう考えると、非常に厳粛な気持ちになる。暗闇に浮かび上がった舟形の送り火が、装飾古墳に描かれた冥界への船に重なってみえた。
そういえば、今日採点し終えた「日本史特講:夢見と夢解きの古代文化論」のレポートに、まさに「向こう側」を扱った印象深い一編があった。歴史学の課題というと史料や参考文献に客観的分析を試みたものがほとんどで、今回も古代から中世へ至る夢の民主化の問題(酒井紀美説)を採りあげたり、分析の果てに残る夢の不可思議さに(現在に至る)夢占の存在意義を見出したりするものが多かった。もちろんそれが悪いわけではないのだが、上記のレポートはそんななかでまったく歴史学擦れしておらず、その指し示す思想に激しく共感できるものがあった※1
この地も手足も空も、全てが太極の中で繋がっている。輪郭など存在しない。人も山も海も石も砂も、空であり地であり土であり、巡る五行であり、陰であり、陽であり天でもある。全てが溶け合って、触れ合って、互いを見つめあっている。……どれくらい前のことだろうか、人はきっとこのことを覚えていたはずなのに、いつのまにか忘れてしまっていたのだ。そうして忘れるうちに、対に位置する存在と自分の間に壁を立て、壁の向こう側を異界と名付けた。……混沌を求めるのは人が混沌から生まれた自分を思い出せないからなのかもしれない。異界と同じように、人という名の壁の向こうにいる自分を知りたいと願うのである。混沌へ手を伸ばすのは、その答えが混沌の中にしかないからだ。
これを書いた学生は、恐らく、こちら側/向こう側の狭間で揺れ動いているのだろう。社会科学系の学問は、多くの場合、こうしたベクトルとは相容れない。人文科学との境界に位置する歴史学も然りである。しかしぼくは、常にこの〈向こう側〉を意識しながら研究を続けてきた。それが許されたのは、同じ関心を共有する先達や仲間たちがいたからである(古代文学会の方々など、まさにそうだろう)。上記のような学生が、近代合理性至上主義のなかで安易に〈向こう側〉を否定することのないよう、現在の視角を大切に展開してゆけるように見守りたい。
ちなみにこの特講のレポート、ゼミ生はなかなか出来がよかったので一安心。しかし、オリジナリティある問題意識を展開し、インパクトのある結論を導き出す作法は充分ではない。みなさんがんばってください。

※1 拙稿「自然と人間のあいだで」(増尾・工藤・北條編『環境と心性の文化史』下, 勉誠出版, 2003年)は、ある国文学研究者に「他者に読まれることを拒否している」と評された文章だが、実は下記の学生のそれとほとんど同じことをいっているだけだ。ぼくなりに言い換えれば、壁を設けることによって、人は人になり、異界は異界になるということになるが。しかし確かに、「答えは混沌の中にしかない」。
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東北逍遥 (3):君はこの豚が食えるか

2007-08-16 19:07:34 | 議論の豹韜
ゼミ旅行2日目。朝7:30の朝食だが、思いっきり夜更かししていた学生たちは、ただ黙々と食べ物を口に運んでいる。こちらは2時間しか寝ていないが、それなりに元気である。目覚める直前、某先生から「北條先生にはがっかりしました」といわれる恐ろしい夢をみたが…。

さて、この日の最初の目的地は、えさし藤原の郷。東北本線水沢駅を経由して、タクシーで現地に向かった。同乗したのは、3年生の勘定奉行(つまりゼミ旅行実行委員の会計。このひとのおかげで旅行が成り立っている)Sさんと、4年生の王朝文化マニア?Eさん。大学では聞くことのできないゼミ生の性格、学生生活の話などを聞き、ようやく学生たちひとりひとりの姿にピントが合ってきた。やはり、旅行というのは貴重な機会である。

そうこうしているうちに藤原の郷に到着。最初は「たかが映画のセット」と軽くみていたが、奥州藤原氏の歴史が様々に再現されていて意外に楽しめた。ぼくは軽薄な分かりやすさには否定的なわけだが、それが高い教育的効果を持つことはある。学生たちは再現された陸奥国庁の様子に感嘆し、甲冑や十二単衣を着込んで喜々とし、弓矢の試射に子供のように夢中になっていた(ちなみにぼくも王朝コスプレに挑戦し〈半ばさせられ〉Eさんと記念写真をとり、鎌倉武士の伝統を背負って矢を放ったりしたが…)。こういう遊びをきっかけとして、学問的にインスパイアされることだって多いのだ。施設内はけっこう広く、藤原経清の館、清原清衡の館、伽羅御所、安宅関などが建ち並び、なんと金色堂まで存在する。館を訪ねてゆくと歴史上の人物が語りかけてくるのだが、どことなく間が抜けていて妙におかしかった。
ところで、藤原の郷には、駐車場を挟んで「えさし郷土文化館」が隣接している。暑さにぼーっとしていた教員に頼ることなく4年生が交渉、館長の千葉俊一氏に直接説明をいただけることになった。予定を少々変更して学生を召集、時間もあまりないなか、千葉氏に個々の展示をご説明願う。まさに簡にして要を得た語り口で、無駄に長くなってしまうぼくなどとは大違いである。館の「奥の院」には、列島各地の霊場観音を一所に礼拝できるという中善観音が安置されており、圧巻であった。また、黒石寺の薬師如来像のレプリカが展示されていて、卒論で東北の仏教をとりあげるTさんは大喜び。千葉氏より、東北仏像を特集した雑誌記事のコピーも頂戴し、執筆に意欲を燃やしていたようだった。

藤原の郷から次の目的地宮澤賢治記念館まではタクシーと電車の乗り継ぎ。花巻駅までの車中では、学生たちは疲れて爆睡していた。ぼくとEさんは悪趣味にもその様子を観察、3年ゼミ長のN君だけは、しきりに車窓を通りすぎる風景にシャッターを切っていた(この旅行の運営責任を一身に背負っているというのに、元気である)。駅で簡単に遅い昼食を摂ったあとはバス移動。しかし停留所を降りてからがまた坂道で、学生たちは辟易していたようである。小雨が降り出したにもかかわらず列のスピードが遅くなってきたため、老骨に鞭打ち若者を牽引して頂上へ。賢治フリークとしては恥ずかしいことながら、18年ぶりくらいに訪れた眺めである。入り口には「企画展 童話『フランドン農学校の豚』展」の立て看板が…。おおっ、ぼくの大好きな童話のひとつじゃないの、やった!と、坂道の疲れもなんのその、年甲斐もなくはしゃいでしまうのだった。
館内は自由行動。展示自体は学生時代に訪れたときとさほど変わってはおらず、ふんふんと眺めて現役学生たちの様子を観察。みんなひとつひとつのパネルを丁寧にみつめていて感心、側によって蘊蓄を披露するようなヤボはせず、賢治の生きざまから何かお土産を貰ってくれればいいなあ…と念じた(そういえば、昨日の宝物館見学では思わなかったよ)。2年プレゼミ長のI君は、今回の旅行で知ったのだが、なんと石マニアなのだという。聞いたとき即座に「石っこ賢さんかいな」と思ったが、案の定、この記念館では岩石標本の展示に長くへばりついていた。ところで企画展は、「フランドン」の世界を分かりやすく視覚化したパネル、ジオラマに、ありがたいことに生原稿を展示してくれていた。賢治の筆跡を目で追いつつ、ぼくの肉食拒否は、直接的にはレヴィ=ストロースの提言に従った形だが、やはり根底にはこれがあったな…と、自分の歩んできた道のりを少しだけ再確認した。病床の賢治に母親が用意してくれた鯉の肝を、「母親にこんなことをさせてまで生きていたくない」と拒んだ逸話や、「ビジテリアン大祭」と本気で格闘した昔が蘇った※1。3年生のUさんが食い入るように童話の流れを追っていたので、あとで感想を聞いてみたが、現代の食文化システムに疑問を持ってくれたようである。そうそう、別に肉を食べてもいいから、命を絶つ痛みも経験せずに食の快楽だけを享受し、場合によってはその痛みを背負っている他者を差別する、そういう食の供給体制のなかで自分が生きていることに気づいてくれればいいのだ(ちょうど〈四谷会談〉のブログで、と”ゐさんが豚の頭部を解体する技をアップしてくれているので、リンクを張っておきます)。昨年の全学共通「日本史」では、人と動植物の種間倫理を問題としたが、「今年もちゃんとやろう」と意を強くした。

賢治記念館をあとに、ここで東京へ帰るUさんを見送り、残った面々は一路新花巻駅へ。1時間に1本しかない列車への乗り換え時間が10分と短く、しかもバスが遅れてくるものだからみんな大慌て。遠野駅へゆく列車の着くホームへ向かって疾走したが、勘違いと分かって一気に脱力。次の列車は1時間後だというので、疲れ切った学生たちを喫茶「山猫軒」でねぎらった。遠野までの2両編成の車内は非常に混雑していたため、3年生のM君とドア付近で歓談しながら移動。将来の夢を聞き、映画やテレビの話で盛り上がった。運良く座席に座れた学生たちは、またまた爆睡していたようである。
7時過ぎに遠野駅に到着、薄暗がりの駅前を旅館へ移動。夕食にはハンバーグが出たが、別段「フランドン」が話題にのぼるでもなかった(…)。深夜にはまた飲み会が開かれたが、無理もないことながら、みんな昨日ほどの元気はない。しかし、貴重な!プライベート情報が次々と明らかにされ、おお、これこそ学生旅行の醍醐味だよなあ!ともはや40路間近のぼくはひとり納得するのだった。

※1 ぼくは浄土真宗の寺に生まれ、僧侶の資格も取得している。賢治が真宗とどのような関わりを持ったか、「ビジテリアン大祭」にどう描いているかを知っている人なら、このあたりの葛藤は分かってもらえるだろう。
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初体験:救急車で運ばれる

2007-08-13 22:10:30 | 生きる犬韜
昼間は法務の月参り、夜はレポートの採点という日々が続いている。山積している仕事はひとつひとつ片付けてゆくしかないのだが、頭のなかで遂行プランを立ててゆくと気の遠くなるような感じである。「できるわけがない」という諦めとともに、「少なくともこれとこれはやっておかねば」という計算が働く。そのあたりの重圧が自分のなかに蓄積されているのか、いないのかについてはあまり自覚がなかったが、今朝、実は再び急性胃炎で倒れてしまい、今回は救急車で病院へ運ばれることになった。検査の結果、胃癌や心臓疾患でないことが確認され、点滴を受けただけで正午には解放されたが(人騒がせな話で済みません)、やはり自分はデリケートな人間だったようである。仕事をキャンセルするわけにはいかないので、極力、胃に物理的な負担をかけないよう生活してゆくしかあるまい。
点滴を受けている1時間ほどの間、ベッド脇にいてくれた妻に「いま何考えてるか分かる?」と話しかけたところ、「レポートがあれば読めるのにって、考えてるでしょ」との答えが返ってきた。さすが、ぼくの性格をよく把握していらっしゃる。義母の看病で疲弊しているはずなのに、余計な心配をかけてしまった。申し訳ないことです。
ところで、初体験の救急車の乗り心地は悪くなかった。隊員の方々も、救急外来の方々も優しく、大変にお世話になった。ありがとうございました。しかし、常に天井をみているような姿勢では、周囲の情況はほとんど把握できないものだなあ。
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東北逍遥 (2):平泉の中心で暑いと叫ぶ

2007-08-10 18:14:39 | 議論の豹韜
東北から帰宅した翌日8日(水)には、自坊で盂蘭盆歓喜会*1 法要があり、その翌日からは月参りに歩いている。大学は休みになっているがぼくには休みがない。原稿を書いている時間もあまりない(月末の高野山ゆきは断念しようか…)。しかし身だしなみは整えねばならず、今朝は帰宅中の妻に連れられ、生まれて初めて美容院なるものに足を踏み入れた。実は6月末に恐ろしい場所で髪を切ってしまい、以降、微妙な髪型が続いていたのである。「これを機会に、理容室生活とは縁を切れ」と勧められ、このような仕儀となった。まあ、大して変わらないのだけれど。

それはそうと、東北逍遥の続きである。5日(日)は8時過ぎに秋田駅を発ち、新幹線・東北本線を経由して平泉へ。前日の涼しさはどこへやら、怪しい空模様に蒸し暑い空気だったが、現地に着く頃には青空もみえだした。途中、昼食を摂る時間のなかったぼくが駅売店で「豆パン」なるものを食べていると、一の関の方から下り列車が到着、ゼミの学生たちが降りてきた。男子4名、女子9名の13名。とても華やかだが、女子より男子の荷物の方が多いのが不審である。いったい何が入っているのか…。ま、その疑問はとりあえず措いておいて、荷物を旅館に預けてから毛越寺へと向かった。

平泉には学部1年生の頃いちど訪れたことがあるのだが、毛越寺は、何かまるで印象が違ってしまっていた。本堂や宝物館の整備が進んだためらしいが、まずは本来の遺跡である浄土庭園を散策。各所に美しい景観を見出すことができ、また、これだけの規模の伽藍を作りあげた奥州藤原氏の恐ろしさも垣間みた。そりゃ、頼朝にとっては目の上の瘤だろう。比叡山西塔よろしく建っていた法華・常行の三昧堂は、円仁開山を伝えるよすがか。
暑さに疲弊した身体をかき氷で回復させ、今度は中尊寺へ。急な参道を汗をかきかき登りきり、宝物殿たる讃衡館と金色堂を拝観。こちらも20年近く前に訪れたときと、ずいぶんと雰囲気が異なっている。讃衡館は2000年の完成らしいが、これが建ったために金色堂下の様子が変わってしまったようである。以前は、藤原三代のミイラを調査した際の記録映画(確かNHK製作)を上映する小屋があったが、もはや撤去されてしまったのだろうか。古いが出来のいい作品だったので、学生にみせられず残念。
しかし、平泉についての印象の変化は、古代と現在を直結してしまう〈現地〉なるコトバの魔法が、いかにまやかしに過ぎないかを痛感させてくれた(当たり前だが、ついつい忘れがちになってしまうのだ)。同時に、歴史研究者にとって、過去を想像する力の習得がいかに大切で難しいかも。

中尊寺を降り、続いて義経堂、柳之御所跡へ。義経堂付近では、近くにいた学生とさんざん義経の悪口をいっていた。当時のルールを無視して攻撃した〈手段を選ばない〉戦法だから、そりゃ勝って当たり前だ…などなど。しかし、そんなことをいって義経の亡霊が枕元に立ったらコトである。名乗りもせずに、いきなり斬りつけそうだし。
それにしても、堂の付近からみえる北上川の流れは圧巻。3年生のUさんが、藤原氏はこの景観を京都の東山、賀茂川に見立てていたのではないかといっていたが、ありうる話である。しかし、こちらの方が明らかに雄大だろう。
柳之御所跡は、その北上川がやや東へカーブする自然堤防上に建設されていたらしい。資料館の開館時間に間に合わず、遺跡の説明板を前に学生たちと意見交換することになったが(それはそれで面白い)、現在の情況からすると氾濫の影響を直接に受けそうな立地も、院政期には川との高低差が充分あったのかも知れない。水をうまく逃がすような溝も縦横に掘られていたようである。古代の政庁には水運を押さえるべく川沿いに建てられたものも認められるが、この御所もそうした目論見のもとに配置されていたのだろう。

この後、北上川の流れに沿って宿舎まで戻ったが、学生たちは炎天下の強行軍でへとへとだったようである。熱射病が心配されたが、幸いなことに具合の悪くなった学生はいなかった。夕食後は3時頃まで飲み会。仕入れてきた伊勢堂岱のリーフレットと、宮澤賢治の資料を配付したが、勉強の話はそこまで。秋田の義父・義母からいただいた地酒、果物は、若者たちがものすごい勢いで平らげた。彼らのいろいろな本音も聞け、教え子としての愛情もより湧いて、なかなかに有意義?な時間となった。会がはねた後、ぼく自身は部屋に戻って論文読み。6時過ぎには起きなければいけないので、あまり作業を進められず4時過ぎには眠った。
それにしても、やっぱり事前の勉強会はやっておいた方がよかった。日程が前期試験終了後間もなくだったのでこっちで遠慮してしまったが、ある程度知識と問題意識があれば、現地に立ったときの視角や理解度が変わってくる。分担して目的地のことを調べ、栞を作ってきてもらったのだが、どれくらいの意味があったか。スケジュール的に厳しくても、勉強会を開いた方が学生のためになっただろう。来年に向けての反省である。

*1  浄土真宗の場合、盂蘭盆法要は〈施餓鬼〉ではなく〈歓喜会〉と呼ぶ。本願他力による往生が間違いない以上、祖先が餓鬼道に落ちていることはないわけだし、往生自体は歓喜すべきことだからだ。
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東北逍遥 (1):竿燈祭からストーンサークルへ

2007-08-08 08:36:36 | 生きる犬韜
3日(金)~7日(火)、所用があって東北を逍遥してきた。前半は秋田にいる義母の見舞い、後半は平泉・江刺・花巻・遠野におけるゼミ旅行のためである。これから何回かに分けて、その顛末を記してゆきたいと思う。

さて、実は2日(木)までに書き上げておきたい(というか、そうでなければならない)原稿がひとつあったのだが、とくに予定はなかったはずのこの日に緊急の会議が入り、結局徹夜で作業をしたものの終えることができず、そのまま10時ちょっと前の新幹線に飛び乗り秋田へ向かった。車内で1時間仮眠をとったが、あとは原稿執筆の続きと、その次の原稿のために数本の論文を斜め読み。4時間かけて現地へ到着、義理の妹夫婦と合流したが、当日の北陸~東北地方は、台風とフェーン現象の影響で35~36度の炎天下。東京よりも暑かった。
見舞いについては、プライベートなことなので記述を控えたい。夕方、義妹夫婦と、近くの料亭「割烹 玉井」にて、凝った造りのおいしい料理をご馳走になる。とくにお刺身(大間産本マグロ)のおいしさといったら、今まで経験したことのない味だった。この席をセッティングしてくださった義父に感謝しつつ、肉は食べないが魚は食べる、レヴィ=ストロース主義の自分の矛盾を確認。ふだん、懐石になるとほとんど箸を付けることができない妻も、今回は食べられるものがけっこうあったようだ。
食事が終わってからは、この日が初日の竿燈祭に繰り出した。南西から台風が迫ってきていたが、どうやら天候は保っている。稲穂に擬した幾つもの提灯が行進し、支え保つ担ぎ手が、額に立たせたり腰に立たせたりと様々な妙技をみせる。妻にいわせると、やはり伝統を担っている町内の集団は "うまい" のだそうだが、宣伝広告が目的の企業のなかにはみていられないものもある。確かに、ぼくらの席の前に回ってきていた幾つかの企業は、何度も前後に迷惑をかけて竿燈を倒しつつ、初日にしてぼろぼろになった提灯を、幽霊屋敷のごとくに掲げているありさまだった。
祭りがはねてからは、ジャンクフードが食べたいという妻に屋台の焼きそばを買い、ぼくも秋田名物ババヘラアイス*1 を舐めつつ帰路についた。家では義父を交えてもう一度酒宴、深夜まで盛り上がったのだった。


翌4日(土)は、義父がぼくのために前もって計画を立てておいてくれた、大湯万座・伊勢堂岱ストーンサークル見学ツアー*2 へ出発。しかし、台風の影響で秋田は深夜から暴風雨、気温も昨日に比べ10度以上低く22度ほど。遠方の大湯万座へゆくのは断念せざるをえなくなり、とりあえず伊勢堂岱へと向かった。まずは大館駅付近にある文化会館の資料室で、出土遺物や復元模型を見学。学芸員の配置されていない小規模の展示だったため、詳細を訊くことはできなかったが、三角型土偶やイノシシ型土製品など、興味をひく遺物を実見することができた。ゼミ生に配布すべく、旅行参加者14名分の解説資料も入手、その後は一路問題の遺跡へ向かった。
伊勢堂岱遺跡は縄文後期前半の祭祀遺構で、秋田北空港へのバイパスを建設する予定だった、標高40~45メートルの丘陵上より出土した。今年も「日本史概説I」では紹介したが、直径30メートルほどのサークルを複数持ち、墓地としての環状列石が、純粋な祭祀の舞台へ展開した姿を示している。どのような行為が行われていたか、具体的な部分で不明なことは多いが、喪葬儀礼より一段階先へ展開した祖先祭祀であったことは確かだろう。遺跡自体の整備、看板による説明だけでは分かりづらい部分も多かったが、展示室の出土遺物を想起しつつ、別々の系統であったと思われる動物や土偶(大地母神)の祭祀と祖先祭祀が、環状の石組み舞台でひとつのものになってゆく瞬間を幻視した。
ところで、現在の整備された遺構は森林に囲まれ、敷地内部にも多くの切り株が目立った。遺跡を発掘・保存するために多くの木が伐られたのだろうし、それは縄文後期当時にあっても同じことだったろう。日本列島の場合、祭祀・神観念と自然環境との関係は無視できないが、このような負の側面にも充分注意する必要があるだろう。もちろん、正/負と区別を付けるのは近代的視点にすぎないが、そう排除してしまう前に、伐木と自然崇拝とが各時代でどのように繋がっていたか充分考えねばならない。

帰宅後、夕食をいただいてまた酒宴。明5日(日)よりのゼミ旅行のため、義父から秋田の地酒高清水、銘菓さなづらなどを頂戴した。ありがたい限りである。ちなみに左の写真は、ゼミ旅行1日目に柳の御所跡付近の水田でみつけたミステリー・サークル。ま、偽物だろうが、つくづく〈円〉に〈縁〉のある東北逍遥だと思った次第である。

*1 ババヘラアイスは、秋田の主要道路沿いに数キロおきにみかける、農家のおばあさんが売っているコーンアイスの通称(お婆さんがヘラで盛ってくれるのでババヘラ、という失礼なネーミングである)。近年はテレビでも紹介されて話題になったが、早朝、元締めのトラックがお婆さんたちを載せ、主要道路に点々と配置してゆくらしい。美味しいというより懐かしい味。
*2 義父はこのために、仕事の合間を縫って分厚い資料を作ってくれていた。感涙である。
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