ものすごく、久しぶりの投稿である。読者の皆さんのなかには、もはやぼくの存在を忘れかけていたひともいるだろう。申し訳のないことである。ひとまず、この冬のことについて簡単に記しておくことにしよう。詳細はまた、いずれ。今年は、昨年度や一昨年度より、実のある内容を頻繁に更新できる予定である。なぜか、というと、この2年携わっていた「役職」を、3月いっぱいで無事退任することができたからだ(関係の皆さんには、言語に尽くせないくらい本当にお世話になった。このこともまた、いずれ書くことにしよう)。そして今年度は、待望のサバティカル。これまでできなかったことを、しっかりと進めてゆかなければ。
…と固く決心したのはいいが、4月に入ってはや半月近く、新たな研究を進めてゆく態勢はまったく整っていない。原因のひとつは、大学教員にとって最繁忙期である1~2月に新たな委員やワーキンググループ的なものを幾つか引き受け、役職の最終業務や引き継ぎ作業のなかで手を焼いたこと。そしてもうひとつは、同時期に複数の原稿の〆切が重複してしまったことである。とくに後者は、今までどこにも報告したことのない新ネタを一から築きあげる作業だったので、新鮮な驚きに満ちていた反面ずいぶん骨が折れた。投下した資本も相当なもので(つまりその分野に関する研究文献や史資料がほとんど手許になかった)、また例のごとく〆切を大幅に超過したため関係各方面に迷惑をかけ、自分自身も精神的にきつい時間が続いた。刊行されたらまた紹介したいと思うが、書いていたのは以下のようなものである。
1)「あるささやかな〈水災〉の痕跡:四ッ谷鮫ヶ橋とせきとめ稲荷をめぐって」
母の実家がある四ッ谷鮫ヶ橋は、かつて、東京最大のスラム街のひとつだった。それがもともとどのような景観の場所で、そこに生活する人々がどのような心性・感性を抱いていたのか。数年前から学生たちを連れて何度か訪れ、周辺のお寺さんにも話を伺っていたのだが、今回本格的に史資料を集めて考えてみたわけである。使用したのは、幕府の記録類から近世文人の随筆・地誌、切絵図、明治期のルポルタージュや文学等々。これまで知らなかった多くの事実が分かり、昨年秋から追いかけてきた医書・病気史の問題、動物史との関連も出てきて、想像だにしながった展望が開けてきた。校正が遅れて顰蹙を買っているのだけれども、乞ご期待といえよう。
2)「野生の論理/治病の論理:〈瘧〉治療の一呪符から」
昨秋に出た「歴史叙述としての医書」の続篇。平城京二条大路から出土した〈唐鬼〉祓除の呪符が孫思邈『千金翼方』に依拠したものだとする通説を、葛洪『肘後備急方』から陸修静・杜庭光『太上洞玄素霊真符』まで多数の事例を挙げて否定。瘧鬼を喰らう天敵を掲げて退散させるという禁呪の形式を遡り、道士たちが山林修行のなかでさまざまな生態的知識を獲得、治病の薬方や呪術を構築していった現場について考えた。この作業を通じて、初めて道教史に自分なりの展望が持て、漢籍の山に耽溺して大きな充実感を味わった。また、『抱朴子』の重要性を再認識し、医書についてさらに追究してゆく必要性を痛感したほか、『源氏物語』若紫巻の一場面に対し、これまでとはまったく異なるアプローチを提示することもできた。
3)「〈荒ましき〉川音:平安貴族における危険感受性の一面」
『源氏物語』宇治十帖には宇治川の水音に関する描写が目立つが、そのほぼすべてが、不安や恐怖を掻き立てるような否定的な表現となっている。それは一体なぜなのか。誰もが「洪水多発地帯」と認識していながら、意外にも史資料が少ない宇治川の水害の具体相を復原し、併せて史書や古記録における平安京の洪水記事を渉猟して、平安貴族たちの危険感受性のありようを追究した。「伊勢・熊野への道」以来久しぶりに古記録と向き合い、文体に至るまである程度丁寧にみたが、古代において災害を伝える語彙・表現の形式性、画一性をあらためて実感した。これでは、社会に蓄積される災害情報は、極めて乏しいものになる。しかし、例えば「大同元年の洪水は…」「永祚元年の大水は…」などと過去の事例が引き合いに出されることからすると、災害の記録・記憶は、口承はもちろん、後世には残らなかった何らかの形で共有されてはいたのだ。「残っていない」ことから明らかになる「実在」もある。
1・3は現在校正中だが、未だ昨年度からの負債の原稿が数編あり、単行本の執筆に全力を傾注するのはそれからになりそうだ。あとは…考えてみたら、書いておかねばならないことは意外とたくさんある。しかし、しばらくアップを怠っていたせいかうまく整理できないので、とりあえず箇条書きにして、冒頭に述べたとおり追々まとめてゆくことにしよう。
・3月1~2日、奥三河の民俗行事花祭りを夜明かしして見学。
・3月7~10日、東北学院大学にて文化財レスキューに参加、遠野にて次年度調査の準備。
・3月17日、環境/文化研究会春季例会。
・3月下旬、ゼミの追いコン・卒業式・院生慰労会その他。
・4月1日、入学式。
・4月2~4日、10回目の結婚記念日を祝って、妻と天橋立・亀岡・京都を旅行。3日には斎藤英喜さん、師茂樹さんと久しぶりにあって深夜2:00頃まで語らい、4日は6月に行う龍谷教学会議の大会シンポ「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」に関する打ち合わせ。
・4月13日、上智史学会の新入生歓迎講演会のため出勤。ついでに映画『舟を編む』を観て帰宅。
なお、サバティカルとはいえ、ゼミを放ってもおけないので、プレゼミはきちんと週1回、ゼミは集中講義あるいは合宿形式で後日まとめて、院ゼミは月1回の研究会形式で行うことにした。シンポや講演会も4つほど予定があり、8月には世話人を務める宗教史懇話会サマーセミナーもあるので、実は、けっこう忙しかったりするのである。
…と固く決心したのはいいが、4月に入ってはや半月近く、新たな研究を進めてゆく態勢はまったく整っていない。原因のひとつは、大学教員にとって最繁忙期である1~2月に新たな委員やワーキンググループ的なものを幾つか引き受け、役職の最終業務や引き継ぎ作業のなかで手を焼いたこと。そしてもうひとつは、同時期に複数の原稿の〆切が重複してしまったことである。とくに後者は、今までどこにも報告したことのない新ネタを一から築きあげる作業だったので、新鮮な驚きに満ちていた反面ずいぶん骨が折れた。投下した資本も相当なもので(つまりその分野に関する研究文献や史資料がほとんど手許になかった)、また例のごとく〆切を大幅に超過したため関係各方面に迷惑をかけ、自分自身も精神的にきつい時間が続いた。刊行されたらまた紹介したいと思うが、書いていたのは以下のようなものである。
1)「あるささやかな〈水災〉の痕跡:四ッ谷鮫ヶ橋とせきとめ稲荷をめぐって」
母の実家がある四ッ谷鮫ヶ橋は、かつて、東京最大のスラム街のひとつだった。それがもともとどのような景観の場所で、そこに生活する人々がどのような心性・感性を抱いていたのか。数年前から学生たちを連れて何度か訪れ、周辺のお寺さんにも話を伺っていたのだが、今回本格的に史資料を集めて考えてみたわけである。使用したのは、幕府の記録類から近世文人の随筆・地誌、切絵図、明治期のルポルタージュや文学等々。これまで知らなかった多くの事実が分かり、昨年秋から追いかけてきた医書・病気史の問題、動物史との関連も出てきて、想像だにしながった展望が開けてきた。校正が遅れて顰蹙を買っているのだけれども、乞ご期待といえよう。
2)「野生の論理/治病の論理:〈瘧〉治療の一呪符から」
昨秋に出た「歴史叙述としての医書」の続篇。平城京二条大路から出土した〈唐鬼〉祓除の呪符が孫思邈『千金翼方』に依拠したものだとする通説を、葛洪『肘後備急方』から陸修静・杜庭光『太上洞玄素霊真符』まで多数の事例を挙げて否定。瘧鬼を喰らう天敵を掲げて退散させるという禁呪の形式を遡り、道士たちが山林修行のなかでさまざまな生態的知識を獲得、治病の薬方や呪術を構築していった現場について考えた。この作業を通じて、初めて道教史に自分なりの展望が持て、漢籍の山に耽溺して大きな充実感を味わった。また、『抱朴子』の重要性を再認識し、医書についてさらに追究してゆく必要性を痛感したほか、『源氏物語』若紫巻の一場面に対し、これまでとはまったく異なるアプローチを提示することもできた。
3)「〈荒ましき〉川音:平安貴族における危険感受性の一面」
『源氏物語』宇治十帖には宇治川の水音に関する描写が目立つが、そのほぼすべてが、不安や恐怖を掻き立てるような否定的な表現となっている。それは一体なぜなのか。誰もが「洪水多発地帯」と認識していながら、意外にも史資料が少ない宇治川の水害の具体相を復原し、併せて史書や古記録における平安京の洪水記事を渉猟して、平安貴族たちの危険感受性のありようを追究した。「伊勢・熊野への道」以来久しぶりに古記録と向き合い、文体に至るまである程度丁寧にみたが、古代において災害を伝える語彙・表現の形式性、画一性をあらためて実感した。これでは、社会に蓄積される災害情報は、極めて乏しいものになる。しかし、例えば「大同元年の洪水は…」「永祚元年の大水は…」などと過去の事例が引き合いに出されることからすると、災害の記録・記憶は、口承はもちろん、後世には残らなかった何らかの形で共有されてはいたのだ。「残っていない」ことから明らかになる「実在」もある。
1・3は現在校正中だが、未だ昨年度からの負債の原稿が数編あり、単行本の執筆に全力を傾注するのはそれからになりそうだ。あとは…考えてみたら、書いておかねばならないことは意外とたくさんある。しかし、しばらくアップを怠っていたせいかうまく整理できないので、とりあえず箇条書きにして、冒頭に述べたとおり追々まとめてゆくことにしよう。
・3月1~2日、奥三河の民俗行事花祭りを夜明かしして見学。
・3月7~10日、東北学院大学にて文化財レスキューに参加、遠野にて次年度調査の準備。
・3月17日、環境/文化研究会春季例会。
・3月下旬、ゼミの追いコン・卒業式・院生慰労会その他。
・4月1日、入学式。
・4月2~4日、10回目の結婚記念日を祝って、妻と天橋立・亀岡・京都を旅行。3日には斎藤英喜さん、師茂樹さんと久しぶりにあって深夜2:00頃まで語らい、4日は6月に行う龍谷教学会議の大会シンポ「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」に関する打ち合わせ。
・4月13日、上智史学会の新入生歓迎講演会のため出勤。ついでに映画『舟を編む』を観て帰宅。
なお、サバティカルとはいえ、ゼミを放ってもおけないので、プレゼミはきちんと週1回、ゼミは集中講義あるいは合宿形式で後日まとめて、院ゼミは月1回の研究会形式で行うことにした。シンポや講演会も4つほど予定があり、8月には世話人を務める宗教史懇話会サマーセミナーもあるので、実は、けっこう忙しかったりするのである。