仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

原尻英樹さん、という文化人類学者

2016-09-19 06:05:28 | 議論の豹韜
幸いなことに、未だ授業は始まらないが、先週から今週にかけては、卒論合宿、カトリックAO入試、海外就学者入試などのイベントがあり、秋学期から来年度へのこまごました事務作業が目白押し。ジャパノロジー・コースの統括や学科カリキュラム再編を担っていると、会議や関係各所への連絡、書類作成だけでどんどん時間が取られる。『上智史学』の編集、文学部初年次研修のコース選定なども同時進行のため、睡眠時間を削って原稿に向かわざるをえないが、情けないことに、若いときのように捗らない、がんばれない。体力と集中力の衰えを感じる…。卒論や修論の追い込みにかかる学生、院生を叱咤激励しつつ、自身のこの為体はいかんともしたがい。

ところで昨日は、京都から畏怖すべき文化人類学者=武道家、原尻英樹さんが調査のために来京されていて、四ッ谷にて2年半ぶりに再会することができた。原尻さんはたいそうタフでパワフルな人で、とにかく語る言葉に途切れがない。会議が遅くまでかかったので20:00からの会食となったのだが、お目にかかって開口一番、「北條さん、昨日も徹夜しただろう。何度いっても無駄だと思うけど、もうだめだよ、それじゃ。早晩死んじゃうよ!」とお叱りを受けた。facebook上でもいつもご叱正をいただくのだが、今回は「このあいだも、あー北條さん京都でゼミ旅行か、学生引率して大変だな、と思っていたんだ。もう学生なんてほっときゃいいんだよ!いい顔ばっかりするからいけないんだ。死んだら残るのは業績だけだ、とにかく早く本書きなよ」ともっともなご意見。しかし、誰かがどこかで自分のことを心配してくれているというのは、本当にありがたいことだ。こんなに不義理な人間なのに。
原尻さんとは、やはりfbが繋ぐご縁というやつで、どこかのポストを通じて知遇を得て、メッセージ・スレッドで何度も何度も理論や方法論をめぐる議論をし、たくさんのことを教えていただいた。年齢は一回りも違うけれど、なぜか可愛がっていただき、実は直接には2回しかお会いしたことがないのに、忌憚なくお話をしてくださる。昨日は、コリアンとは異なるエトランゼとしての朝鮮族の、ナショナル・アイデンティティ、エスニック・アイデンティティとは無縁の自由さ、柔軟さ。移動した先の人々と生産的な贈与交換を行う、強靱な共生の技法。個別の顔と顔を接し、歌や踊り、山登りなどの身体技法を通じて構築されるネットワーク。ぼくが中国西南民族に見出している移動のセンス、メンタリティの豊かな展開について伺って、たいへん満腹になったのだった。途中からは工藤健一さんも加わって、武道の話、環境史の話、江戸の習俗の話なども。たった2時間だったが、非常に豊潤なときを過ごすことができた。今後とも、ご教導をお願いする次第である。

写真は、まず原尻さんの新刊。環東シナ海の交渉・交流を考えるうえで重要。あとの3つは、今回の初年次研修フィールドワークで訪れる場所のひとつ、四ッ谷大木戸跡に置かれた由来不明の八面石塔、太宗寺の塩掛け地蔵、正受院の奪衣婆。咳止めなどの効能があるが、京都のお地蔵さんが願の成就によって五色の真綿を重ねられてゆくのに対し、こちらは白い真綿を被せてゆく(表象はずいぶん違うが、地獄信仰としての構造は同じか)。塩掛け地蔵など、清めのごとく塩を掛けられてしまうわけだが、川越広済寺のしゃぶき婆を思い出す。あちらも咳止め、願成就には紐を結んでゆく形式だった。まさに江戸の境界:内藤新宿を象徴する道具立てだが、柳田国男「石神問答」に描かれた姥神伝承との関連でも面白い事例。1年生にどう説明するか、〈物語り〉を練っておかねば。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パブリック・ヒストリー研究会公開シンポジウム、終了

2016-09-12 22:10:18 | 議論の豹韜
昨日の「パブリック・ヒストリー」公開研究会、無事終了。思ったより多くの方々にお越しいただき、懇親会も含めていろいろな話が聴け、得がたい経験をした。菅豊さんの力こもりすぎのイントロダクション、岡本充弘さんの現状を浩瀚に俯瞰する周到な講演があり、自分はあまりコメントすることがないなあと思っていたが、岡本さんのお話の多少分かりにくい部分を明確にするよう、ディフォルメを心がけて質問し、また今後のパブリック・ヒストリー研究の論点になりそうなことも、2〜3指摘したつもり。 ちなみに、ホワイトのいうヒストリカル・パスト(historical past、「歴史的な過去」と訳されている)をプラクティカル・パスト(practical past、「実用的な過去」と訳されている。ぼくは「実践的過去」という訳語を使用)に対置されるものではなく、近代科学主義民族(modern scientism tribe)の歴史実践に過ぎないと規定した議論、特権的なものでもなんでもないのだと主張した点は、それなりに玄人ウケした。
しかし、このところの言語論的転回をめぐる動向で、極めて気になっている点については、あまりこの会の趣旨にそぐわないだろうとは思いつつ、質問せざるをえなかった。すなわち、00年代後期に停滞を迎えた言語論的転回をめぐる議論が昨今また復活してきたこと、それはそれで歓迎すべきなのだが、その方向性やインパクトが、90年代当初と比較して希釈されてしまっている点である。具体的には、「言語の世界構成機能」に関する論点の捨象。ぼくからすれば、バルトの「作者の死」も、デリダの「テクスト外というものはない」というテーゼも、この論点をもとにしてこそ理解できるものだ。歴史学がこれを踏まえてテクストを論じようとすると、さまざまな仮定や想定を幾重にも積み重ねねばならないことになり、極めて面倒くさい。方法論懇話会で議論していた折、これらの難問に立ち向かうために、クリサート・ユクスキュルの議論から始めて、認知物語論に至るまで勉強し、人間が自らの環境を構成するその方法について、自分なりに理論構築していった。いまのぼくの環境文化史は、そのあたりのことが基底になっている。環境史に大きく踏み出せたのも、言語論的転回の「質問状」に、具体的に応えようとしたからだ(このとき書いた論文は、『史学雑誌』回顧と展望で、「北條は言語論的転回を思想史の範疇に押し込めようとしている」と、まったく逆ベクトルの読み方をされて〈というか読んでいなかったのだろう〉一蹴されたけれども)。しかし一般的には、これは「歴史学の議論ではない」。それゆえに歴史学では、言語論的転回を自学の俎上に載せるために、希釈に希釈を重ねてほとんど別の問題に作り変えてしまった。そこでの中心的論点である「言語が対象を正確に把握できるか」なんて、アリストテレス的言語観で、ソシュール以降の考え方にはそぐわないだろう。ヒストリカル・パストの特権性を剥奪し、下位の歴史構成や歴史の担い手をとりあげるなどといった傾向も、むしろ社会史の議論であって(すでに、セニョボス/シミアン論争にみられる)、言語論的転回とは本質的な関係がない。7月の長谷川さんの書評会の際にも、その違和感は拭えなかった。
これについて、岡本さんからは納得のゆく答えを引き出すことはできなかった。会場には鹿島徹さんもいらっしゃっていたので、コメントをいただきたかったが、「疲れたから今日は帰るね」と懇親会にはおみえにならず。懇親会の場でいちばん詳しそうな内田力さんとは、概ね理解が一致したと思うが、「希釈したから扱えるようになったので、そこはポジティヴに評価してもいいのでは」と。まあ、それもそうかもしれないが…結局、言語論的転回は歴史学を開こうとした、ある意味ではその可能性を拡大しようとしたのだが、大部分の歴史学者はその実践の困難に耐えきれず、逆に閉塞し、「強烈な毒ゆえに薬にもなりえた液体を、甘い水になるくらいまで懸命に薄めてきただけではないのか」。まあ、ぼくの議論も到底完成されているとはいえず、水を注いでいるばかりかもしれないのだが。そんなことも考えた1日だった。
なお懇親会では、民俗学その他の関係の方々から、理論や方法論に関するさまざまな著作を頂戴し、新たな課題をみつけだすことができた。感謝、感謝である。また思いもかけず、尊敬する川本喜八郎氏と一緒にスタジオで作品を作っていたという!方にお会いし、かなり長い時間お話を伺うことができた。あの優しげな川本さんが、全身に刺青をされていたとか…! ほとんど聞き取り調査だが、またあらためてきちんとお話を伺いたい。歴史学と映像との関係を考えるうえでも、貴重な体験となりそうだ。

※ 質疑応答での発言のうち、斎藤英喜さんの「保苅実はカスタネダになったのか否か」という議論、上智の学生Y君の「歴史戦における公正さをめぐる議論は、結局事実性を基準とせざるをえないのか」という質問、武井基晃さんの「自分とインフォーマントを同レベルの歴史実践主体と把握した場合、相手の〈誤り〉を指摘し、こちらの〈答え〉を示すのは、保苅的には適切なのか否か?」という議論は、歴史学者としてはかなり本質的な問いと感じられた。cross-culturalizing historyが、実際はどれだけ困難かも指し示しており、その問題意識の幾らかは、ぼくも共有している。今後も、できれば一緒に考えてゆきたい。また、保苅実が本当に目指したこの理想が、日本の関連分野でほとんど言及されないのは、やはりポストモダン民族誌の議論が充分咀嚼されず、定着しなかったからなのかもしれない。すなわち未だ日本では文化相対主義が主流で、それは客観主義的対象把握の裏返しなのだという議論が、歴史や文化を考える際の前提とはなっていないのだろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする