わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
一つの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
〈宮澤賢治「序」(『春と修羅』)より〉
※ 最近、コメント・トラックバック荒らしが多いので、一度こちらで確認させていただいています。ご了承ください。
【最近発表した書きもの】
「中国における神仏習合:六朝期江南における原型の成立と展開」(2013年度皇學館大学研究開発推進センター神道研究所公開学術シンポジウム「東アジア及び東南アジアにおける神仏習合・神仏関係」)『皇學館大学研究開発推進センター紀要』1号、2015年
・中国六朝の江南地方において、政治・社会・経済的な混乱状態のなか、非業の死者を救済しようとする中国宗教の伝統的課題、死者の現実世界へのコンタクト、不老不死への希求などが交錯し、在来信仰や道教と密接に関わりつつ、神身離脱・護法善神の神仏習合形式が構築されてゆく過程を跡づけた。
「放光菩薩記注釈」小林真由美・北條勝貴・増尾伸一郎編『寺院縁起の古層:注釈と研究』法蔵館、2015年
・成城大学民俗学研究所の共同研究の成果として、醍醐寺本『諸寺縁起集』の注釈を行った。筆者の担当した「放光菩薩紀」は、これまでほとんど研究が進んでいなかったが、遼の『三宝感応要略録』や、敦煌文書にみえる宝誌関係資料の接合であり、背景には宝誌信仰や観音・地蔵を治水神と崇める中国的信仰があることなどを明らかにした。
「日本列島の人びとと自然:伝統的農村風景を疑う」
歴史科学協議会編『歴史の「常識」をよむ』東京大学出版会、2015年
・昔話「桃太郎」の初期形態を手がかりにしながら、現在、緑豊かな山林に囲まれたものと考えられている日本列島の伝統的な農村景観が、実際は低植生の柴草山に覆われていたことを、環境史・環境文化史の成果から論証してゆく。また、そのような記憶が忘却され、なぜ緑豊かな里山という幻想が生み出されるのかを問う。
「〈串刺し〉考:〈残酷さ〉の歴史的構築過程」(第4回環境思想シンポジウム講演)
『人と自然(安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター紀要)』4号、2014年
・『日本書紀』以降に度々現れる、動物を串刺しにする描写は、中世以降の仏教による思想的誘導を通じ、アプリオリに残酷なものだと認識されているが、もともとは動物に宿る精霊を他界へ送り返す祭儀の作法であり、動物に対する最も丁重な扱い方だった。人間が「自然」と信じる自らの感性が、実は歴史的・社会的に構築されたものであることを、上記の事例を手がかりに考えた。
「語ることと当事者性:災害における言説の暴力性と宗教者の役割」(龍谷教学会議第49回大会シンポジウム「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」報告)
『龍谷教学会議(龍谷教学会議研究紀要)』49号、2014年
・東日本大震災を受け、災害の現場、災害後の現場で宗教者はいかなる役割を果たすべきか、浄土真宗本願寺派の教学研究の場で問題提起。筆者は「語ることと当事者性―災害における言説の暴力性と宗教者の役割―」と題する報告を行い、被災した人々の心を周囲の言説がいかに傷つけてゆくか、宗教者がそれに対しいかに自覚的になり対抗しうるかを考えた。
「環境/言説の問題系―〈都邑水没〉譚の成立と再話/伝播をめぐって―」
『人民の歴史学』199号、2014年
・後漢から六朝の時代にかけて、中国江南地方で成立・展開した〈都邑水没〉譚が、他の洪水多発地域や少数民族文化圏、そして朝鮮半島や日本列島に伝播してゆく過程を跡づけ、当初重点が置かれていた危険感受性・避難瞬発力の醸成から、物語的面白さや、地域の人々が抱く自然環境への心性を反映するメディアとして拡大/形式化してゆく様子を考察した。
「人外の〈喪〉:動植物の〈送り〉儀礼から列島的生命観を考える」
『キリスト教文化研究所紀要』32号、2014年
・共生的と評価されることの多い日本列島の文化においても、当然のごとく、その衣食住の維持のために多くの動植物が殺戮されてきた。列島では、そうした動植物の喪葬をどのように行い、またそれを支える心性は、古代から現代に至るまでどのように変遷してきたのか。見逃されることの多い歴史事象を渉猟し、ステレオタイプの日本的生命観を再考する。
「浮動する山/〈孔〉をめぐる想像力:鰐淵寺浮浪山説話の形成にみる東アジア的交流」
三浦佑之責任編集『現代思想』12月臨時増刊号/総特集「出雲」、青土社、2013年
・中世の出雲鰐淵寺は、『出雲国風土記』に載る国引き神話を、「インドの霊鷲山から漂い出た山がスサノヲによって島根半島に繋ぎ止められた」との物語へ再構成した。このモチーフは中国杭州の古刹霊隠寺に起源し、梵僧・白猿・洞窟からなる豊かな伝承世界を有していた。この物語は、いつ、どのようにして日本へ将来され、鰐淵寺にまで至ったのか。忘れられた入宋僧覚阿の事跡を通じて考察した。 ※ 訂正表あり
「あるささやかな〈水災〉の痕跡:四ッ谷鮫ヶ橋とせきとめ稲荷をめぐって」
上智大学文学部史学科編『歴史家の窓辺』上智大学出版、2013年
・「帝都三大スラム」のひとつに数えられる四ッ谷鮫ヶ橋は、縄文期の入り江に由来する低湿地が、社会的に自己実現した姿であった。近世末期から近代にかけて、鮫ヶ橋に住む人々が経験した〈水災〉の様子と、湿地の不衛生に由来する病害を防ぐとされたせきとめ稲荷の由来を、可能な限りの史資料を渉猟して描き出した。実証主義に抗う「可能性を叙述する歴史学」の試み。
「〈荒ましき〉川音:平安貴族における危険感受性の一面」
三田村雅子・河添房江編 源氏物語をいま読み解く4『天変地異と源氏物語』翰林書房、2013年
・『源氏物語』宇治十帖は、宇治川の川音に関する記述を多く載せるものの、そのほとんどが不快や恐怖で彩られている。自然科学的には、水の音は人間に快適なものとして感受されるというが、なぜ宇治十帖では、それとは正反対の表現がなされているのだろうか。平安時代における宇治川の洪水をめぐる感性史・心性史を志向するとともに、平安貴族の日記類から洪水に関係する記事を抜き出し、「洪水の契機をどのように認識しているか」という危険感受性の一面を描き出した。
「野生の論理/治病の論理:〈瘧〉治療の一呪符から」
『日本文学』62巻5号、2013年
・下記「歴史叙述としての医書」の姉妹編。二条大路木簡に見出された瘧病除去の一呪符の起源を中国医書に探り、孫思�『千金翼方』に基づくとする定説を否定したうえで、疫鬼に対しその天敵に当たる神霊を呼び出して撃退するという形式の呪言がどのように形成されたのかを、医書・本草書・道教経典を著した六朝初期の道士たちの山林修行にまで遡って論じたもの。併せて、『源氏物語』若紫巻において、瘧に悩む光源氏が北山へ登り、海景を想う意味についても明らかにした。
「担い手論の深化/相対化」(神道宗教学会第65回学術大会シンポジウム「神々の神仏関係史再考」コメント)
『神道宗教』228号、2012年
・パネリストの各報告にコメントを付けつつ、〈神仏習合〉という宗教現象を僧侶の実践の問題として捉えなおすこと、列島固有という狭小な文脈ではなくアジア的観点から照射しなおすことを提案した。
「歴史叙述としての医書:漢籍佚書『産経』をめぐって」
小峯和明編 アジア遊学159『〈予言文学〉の世界』勉誠出版、2012年
・現在、歴史学者の〈科学的〉監視のもとに置かれている歴史は、前近代においては、より豊かで多様な相貌をみせていた。例えば、中国から日本に伝わった医書のなかには、過去を根拠として未来を予想し、現状への対処法を提示する〈歴史叙述〉を持つものもあった。漢籍佚書『産経』を題材に、未来を志向する歴史的言説の可能性を探ってゆく。
「環境と災害の歴史」
北原糸子他編『日本歴史災害事典』吉川弘文館、2012年
・環境史の視座から災害を捉えた概説。他の項目との差別化を図りつつ、開発に伴う二次災害や獣害の問題に特化して述べた。突然の依頼を受け極めて短い期間で執筆したもので、もう少し熟成期間が欲しかったと悔いが残る。
「禁忌を生み出す心性」
上杉和彦編 生活と文化の歴史学1『経世の信仰・呪術』竹林舎、2012年
・人間はなぜ禁忌を生み出すのか。タブーという用語の検討、人類学や精神分析学に跨る研究史の整理から始め、様々な歴史資料の分析から分節と実体化の実践プロセスを浮き彫りにする。
「神禍をめぐる歴史語りの形成過程:納西族〈祭署〉と人類再生型洪水神話」
『アジア民族文化研究』11号、2012年
・中国雲南省納西族の祭祀〈祭署〉と、その起源神話や関連経典の分析から、中国少数民族が広く共有する洪水神話の意味、その歴史的起源について明らかにした。六朝の仏教・道教において流行した洪水による終末説が、説話化、民間伝承化を通じて少数民族の神話にまで至る。納西族固有の問題としては、今後、東巴教と道教との関係においても論及する必要があろう。
「過去の供犠:ホモ・ナランスの防衛機制」
『日本文学』61巻4号、2012年
・書く前から評判の悪かった、昨年11月日文協大会シンポ報告の活字化。東日本大震災後に噴出した転換論的言説情況は、激甚災害後にみられる太古からの繰り返しであり、現状のストレスに対する〈糸巻き遊び〉的な防衛機制に過ぎないとの内容。
「先達の物語を生きる:行の実践における僧伝の意味」
藤巻和宏編『聖地と聖人の東西:起源はいかに語られるか』勉誠出版、2011年
・鹿島徹さんの〈物語り論的歴史理解〉を、東アジア史の枠組みで実証したもの。以前から神仏習合研究のなかで触れていた修行テキストとしての僧伝の使用を、ホワイトの"practical past"の概念と絡めて明らかにした。
「〈負債〉の表現」
渡辺憲司・野田研一・小峯和明・ハルオシラネ編『環境という視座:日本文学とエコクリティシズム』勉誠出版、2011年
・2010年1月に開催された国際シンポの記録。下記「御柱」「草木成仏」の総論。
「草木成仏論と他者表象の力:自然環境と日本古代仏教をめぐる一断面」
長町裕司・永井敦子・高山貞美編『人間の尊厳を問い直す』上智大学出版、2011年
・日本天台の主張になる、草木発心修行成仏説の概要。
「『日本書紀』と祟咎:「仏神の心に祟れり」に至る言説史」
大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年
・以前、『アリーナ』5号(2008年)に書いたもののリライト版。
「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
『アジア民族文化研究』10号、2011年
・下記、『諏訪市博物館研究紀要』5号に掲載のものの増補版。
「鎌足の武をめぐる構築と忘却:〈太公兵法〉の言説史」
篠川賢・増尾伸一郎編『藤氏家伝を読む』吉川弘文館、2010年
「生命と環境を捉える〈まなざし〉:環境史的アプローチと倫理的立場の重要性」
歴史科学協議会編『歴史評論』728号、校倉書房、2010年
「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
諏訪市博物館編『諏訪市博物館研究紀要』5号、2010年
「神仏習合と自然環境:心性・言説・実体」
水島司編『アジア遊学』136号/環境と歴史学、勉誠出版、2010年
「鎮魂という人々の営み:死者の主体を語れるか」
中路正恒編『地域学への招待 改訂新版』角川学芸出版、2010年
「神を〈汝〉と呼ぶこと:神霊交渉論のための覚書」
倉田実編『王朝人の婚姻と信仰』森話社、2010年
「〈神身離脱〉の内的世界:救済論としての神仏習合」
上代文学会編『上代文学』104号、2010年
「ヒトを引き寄せる〈穴〉:東アジアにおける聖地の形式とその構築」
古代文学会編『古代文学』49号、2010年
仮定された有機交流電燈の
一つの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
〈宮澤賢治「序」(『春と修羅』)より〉
※ 最近、コメント・トラックバック荒らしが多いので、一度こちらで確認させていただいています。ご了承ください。
【最近発表した書きもの】
「中国における神仏習合:六朝期江南における原型の成立と展開」(2013年度皇學館大学研究開発推進センター神道研究所公開学術シンポジウム「東アジア及び東南アジアにおける神仏習合・神仏関係」)『皇學館大学研究開発推進センター紀要』1号、2015年
・中国六朝の江南地方において、政治・社会・経済的な混乱状態のなか、非業の死者を救済しようとする中国宗教の伝統的課題、死者の現実世界へのコンタクト、不老不死への希求などが交錯し、在来信仰や道教と密接に関わりつつ、神身離脱・護法善神の神仏習合形式が構築されてゆく過程を跡づけた。
「放光菩薩記注釈」小林真由美・北條勝貴・増尾伸一郎編『寺院縁起の古層:注釈と研究』法蔵館、2015年
・成城大学民俗学研究所の共同研究の成果として、醍醐寺本『諸寺縁起集』の注釈を行った。筆者の担当した「放光菩薩紀」は、これまでほとんど研究が進んでいなかったが、遼の『三宝感応要略録』や、敦煌文書にみえる宝誌関係資料の接合であり、背景には宝誌信仰や観音・地蔵を治水神と崇める中国的信仰があることなどを明らかにした。
「日本列島の人びとと自然:伝統的農村風景を疑う」
歴史科学協議会編『歴史の「常識」をよむ』東京大学出版会、2015年
・昔話「桃太郎」の初期形態を手がかりにしながら、現在、緑豊かな山林に囲まれたものと考えられている日本列島の伝統的な農村景観が、実際は低植生の柴草山に覆われていたことを、環境史・環境文化史の成果から論証してゆく。また、そのような記憶が忘却され、なぜ緑豊かな里山という幻想が生み出されるのかを問う。
「〈串刺し〉考:〈残酷さ〉の歴史的構築過程」(第4回環境思想シンポジウム講演)
『人と自然(安藤百福記念自然体験活動指導者養成センター紀要)』4号、2014年
・『日本書紀』以降に度々現れる、動物を串刺しにする描写は、中世以降の仏教による思想的誘導を通じ、アプリオリに残酷なものだと認識されているが、もともとは動物に宿る精霊を他界へ送り返す祭儀の作法であり、動物に対する最も丁重な扱い方だった。人間が「自然」と信じる自らの感性が、実は歴史的・社会的に構築されたものであることを、上記の事例を手がかりに考えた。
「語ることと当事者性:災害における言説の暴力性と宗教者の役割」(龍谷教学会議第49回大会シンポジウム「宗教者の役割:災害の苦悩と宗教」報告)
『龍谷教学会議(龍谷教学会議研究紀要)』49号、2014年
・東日本大震災を受け、災害の現場、災害後の現場で宗教者はいかなる役割を果たすべきか、浄土真宗本願寺派の教学研究の場で問題提起。筆者は「語ることと当事者性―災害における言説の暴力性と宗教者の役割―」と題する報告を行い、被災した人々の心を周囲の言説がいかに傷つけてゆくか、宗教者がそれに対しいかに自覚的になり対抗しうるかを考えた。
「環境/言説の問題系―〈都邑水没〉譚の成立と再話/伝播をめぐって―」
『人民の歴史学』199号、2014年
・後漢から六朝の時代にかけて、中国江南地方で成立・展開した〈都邑水没〉譚が、他の洪水多発地域や少数民族文化圏、そして朝鮮半島や日本列島に伝播してゆく過程を跡づけ、当初重点が置かれていた危険感受性・避難瞬発力の醸成から、物語的面白さや、地域の人々が抱く自然環境への心性を反映するメディアとして拡大/形式化してゆく様子を考察した。
「人外の〈喪〉:動植物の〈送り〉儀礼から列島的生命観を考える」
『キリスト教文化研究所紀要』32号、2014年
・共生的と評価されることの多い日本列島の文化においても、当然のごとく、その衣食住の維持のために多くの動植物が殺戮されてきた。列島では、そうした動植物の喪葬をどのように行い、またそれを支える心性は、古代から現代に至るまでどのように変遷してきたのか。見逃されることの多い歴史事象を渉猟し、ステレオタイプの日本的生命観を再考する。
「浮動する山/〈孔〉をめぐる想像力:鰐淵寺浮浪山説話の形成にみる東アジア的交流」
三浦佑之責任編集『現代思想』12月臨時増刊号/総特集「出雲」、青土社、2013年
・中世の出雲鰐淵寺は、『出雲国風土記』に載る国引き神話を、「インドの霊鷲山から漂い出た山がスサノヲによって島根半島に繋ぎ止められた」との物語へ再構成した。このモチーフは中国杭州の古刹霊隠寺に起源し、梵僧・白猿・洞窟からなる豊かな伝承世界を有していた。この物語は、いつ、どのようにして日本へ将来され、鰐淵寺にまで至ったのか。忘れられた入宋僧覚阿の事跡を通じて考察した。 ※ 訂正表あり
「あるささやかな〈水災〉の痕跡:四ッ谷鮫ヶ橋とせきとめ稲荷をめぐって」
上智大学文学部史学科編『歴史家の窓辺』上智大学出版、2013年
・「帝都三大スラム」のひとつに数えられる四ッ谷鮫ヶ橋は、縄文期の入り江に由来する低湿地が、社会的に自己実現した姿であった。近世末期から近代にかけて、鮫ヶ橋に住む人々が経験した〈水災〉の様子と、湿地の不衛生に由来する病害を防ぐとされたせきとめ稲荷の由来を、可能な限りの史資料を渉猟して描き出した。実証主義に抗う「可能性を叙述する歴史学」の試み。
「〈荒ましき〉川音:平安貴族における危険感受性の一面」
三田村雅子・河添房江編 源氏物語をいま読み解く4『天変地異と源氏物語』翰林書房、2013年
・『源氏物語』宇治十帖は、宇治川の川音に関する記述を多く載せるものの、そのほとんどが不快や恐怖で彩られている。自然科学的には、水の音は人間に快適なものとして感受されるというが、なぜ宇治十帖では、それとは正反対の表現がなされているのだろうか。平安時代における宇治川の洪水をめぐる感性史・心性史を志向するとともに、平安貴族の日記類から洪水に関係する記事を抜き出し、「洪水の契機をどのように認識しているか」という危険感受性の一面を描き出した。
「野生の論理/治病の論理:〈瘧〉治療の一呪符から」
『日本文学』62巻5号、2013年
・下記「歴史叙述としての医書」の姉妹編。二条大路木簡に見出された瘧病除去の一呪符の起源を中国医書に探り、孫思�『千金翼方』に基づくとする定説を否定したうえで、疫鬼に対しその天敵に当たる神霊を呼び出して撃退するという形式の呪言がどのように形成されたのかを、医書・本草書・道教経典を著した六朝初期の道士たちの山林修行にまで遡って論じたもの。併せて、『源氏物語』若紫巻において、瘧に悩む光源氏が北山へ登り、海景を想う意味についても明らかにした。
「担い手論の深化/相対化」(神道宗教学会第65回学術大会シンポジウム「神々の神仏関係史再考」コメント)
『神道宗教』228号、2012年
・パネリストの各報告にコメントを付けつつ、〈神仏習合〉という宗教現象を僧侶の実践の問題として捉えなおすこと、列島固有という狭小な文脈ではなくアジア的観点から照射しなおすことを提案した。
「歴史叙述としての医書:漢籍佚書『産経』をめぐって」
小峯和明編 アジア遊学159『〈予言文学〉の世界』勉誠出版、2012年
・現在、歴史学者の〈科学的〉監視のもとに置かれている歴史は、前近代においては、より豊かで多様な相貌をみせていた。例えば、中国から日本に伝わった医書のなかには、過去を根拠として未来を予想し、現状への対処法を提示する〈歴史叙述〉を持つものもあった。漢籍佚書『産経』を題材に、未来を志向する歴史的言説の可能性を探ってゆく。
「環境と災害の歴史」
北原糸子他編『日本歴史災害事典』吉川弘文館、2012年
・環境史の視座から災害を捉えた概説。他の項目との差別化を図りつつ、開発に伴う二次災害や獣害の問題に特化して述べた。突然の依頼を受け極めて短い期間で執筆したもので、もう少し熟成期間が欲しかったと悔いが残る。
「禁忌を生み出す心性」
上杉和彦編 生活と文化の歴史学1『経世の信仰・呪術』竹林舎、2012年
・人間はなぜ禁忌を生み出すのか。タブーという用語の検討、人類学や精神分析学に跨る研究史の整理から始め、様々な歴史資料の分析から分節と実体化の実践プロセスを浮き彫りにする。
「神禍をめぐる歴史語りの形成過程:納西族〈祭署〉と人類再生型洪水神話」
『アジア民族文化研究』11号、2012年
・中国雲南省納西族の祭祀〈祭署〉と、その起源神話や関連経典の分析から、中国少数民族が広く共有する洪水神話の意味、その歴史的起源について明らかにした。六朝の仏教・道教において流行した洪水による終末説が、説話化、民間伝承化を通じて少数民族の神話にまで至る。納西族固有の問題としては、今後、東巴教と道教との関係においても論及する必要があろう。
「過去の供犠:ホモ・ナランスの防衛機制」
『日本文学』61巻4号、2012年
・書く前から評判の悪かった、昨年11月日文協大会シンポ報告の活字化。東日本大震災後に噴出した転換論的言説情況は、激甚災害後にみられる太古からの繰り返しであり、現状のストレスに対する〈糸巻き遊び〉的な防衛機制に過ぎないとの内容。
「先達の物語を生きる:行の実践における僧伝の意味」
藤巻和宏編『聖地と聖人の東西:起源はいかに語られるか』勉誠出版、2011年
・鹿島徹さんの〈物語り論的歴史理解〉を、東アジア史の枠組みで実証したもの。以前から神仏習合研究のなかで触れていた修行テキストとしての僧伝の使用を、ホワイトの"practical past"の概念と絡めて明らかにした。
「〈負債〉の表現」
渡辺憲司・野田研一・小峯和明・ハルオシラネ編『環境という視座:日本文学とエコクリティシズム』勉誠出版、2011年
・2010年1月に開催された国際シンポの記録。下記「御柱」「草木成仏」の総論。
「草木成仏論と他者表象の力:自然環境と日本古代仏教をめぐる一断面」
長町裕司・永井敦子・高山貞美編『人間の尊厳を問い直す』上智大学出版、2011年
・日本天台の主張になる、草木発心修行成仏説の概要。
「『日本書紀』と祟咎:「仏神の心に祟れり」に至る言説史」
大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年
・以前、『アリーナ』5号(2008年)に書いたもののリライト版。
「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
『アジア民族文化研究』10号、2011年
・下記、『諏訪市博物館研究紀要』5号に掲載のものの増補版。
「鎌足の武をめぐる構築と忘却:〈太公兵法〉の言説史」
篠川賢・増尾伸一郎編『藤氏家伝を読む』吉川弘文館、2010年
「生命と環境を捉える〈まなざし〉:環境史的アプローチと倫理的立場の重要性」
歴史科学協議会編『歴史評論』728号、校倉書房、2010年
「樹霊はどこへゆくのか:御柱になること、神になること」
諏訪市博物館編『諏訪市博物館研究紀要』5号、2010年
「神仏習合と自然環境:心性・言説・実体」
水島司編『アジア遊学』136号/環境と歴史学、勉誠出版、2010年
「鎮魂という人々の営み:死者の主体を語れるか」
中路正恒編『地域学への招待 改訂新版』角川学芸出版、2010年
「神を〈汝〉と呼ぶこと:神霊交渉論のための覚書」
倉田実編『王朝人の婚姻と信仰』森話社、2010年
「〈神身離脱〉の内的世界:救済論としての神仏習合」
上代文学会編『上代文学』104号、2010年
「ヒトを引き寄せる〈穴〉:東アジアにおける聖地の形式とその構築」
古代文学会編『古代文学』49号、2010年
なかなかが深い詩だと思います。
「風景やみんなといつしょにせはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」という部分が印象的です。
宮澤賢治『春と修羅』は難しい内容が多く、言辞ひとつひとつを分析してみても面白いのですが、論理的な意味内容を超えて訴えかけてくるものがあります。それこそが、文章を〈詩〉たらしめている核なのでしょうが、近代的学問のパラダイムに取り込まれてしまうと、そうしたものへの感受性が鈍くなってしまうのが問題です。それは想像力の衰えへと直結してゆきますが、面白いことに、学問の基盤もその想像力なんですね。
学問に邁進してゆくためにも、学問自体の枠組みを自覚し相対化すること、〈学問的でないもの〉への関心を失わないことが大切だと思います。