仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

秋学期開始前に

2011-09-30 12:18:37 | 生きる犬韜
今日9月30日(金)から、勤務校でも秋学期の開始となる。「え~、夏休み長いんですね」という声が聞こえてきそうだが、少なくともぼくは、ほとんど休みを取れなかった。とくに9月は、通常と同じくらいの頻度で出勤し校務をこなしていたのである。いきおい、研究上の生産性は極めて悪かった。こんなに勉強をしなかった夏は、これまでなかったというくらいだ。しかし、関係の皆さんのおかげで、東北学院大学博物館の文化財レスキューへの協力も滞りなく継続し、上智大学史学会大会シンポの設計図も描き、文学部初年次研修プログラムも無事開催し、来年度輪講科目「災害と歴史学」のカリキュラムも確定できたので、事務仕事のうえではがんばったといえるのではないだろうか。ただ、これから12月初旬まで死のシンポジウム・ロードが続くことになるので、8月・9月〆切の原稿が仕上がらなかったのは極めて痛い。ま、できることしかできないので、ボチボチやってゆくしかあるまいが…。ちなみに夏休みは、ゼミ旅行と学会の合宿以外、旅行はもちろん、映画にも何にもゆけなかった。はぁ…。

さていつもどおり、先~今週の出来事を備忘録的に綴っておこう。
先週からは、校務が通常どおりに動き出したので、学生センターの仕事の傍ら、26日(月)に控えた初年次教育プログラムの下準備を進めた。新宿区歴史博物館へ資料集めに行ったり、訪問予定のお寺へ寺宝の閲覧をお願いに伺ったり。とくに嬉しい出会いがあったのは、走井の遺構を校内に持つ四ッ谷中学校へ、その見学を許可していただきにあがったときのこと。校長のY先生自らご歓待をいただき、いろいろお話をして、中・大連携へ向けて協働してゆく運びとなったのである。Y先生はもともと言語学がご専門で、後に国語学、国語教育へ転じられたという。お茶をいただきながら大好きなソシュールの話題なども飛び出し、「教員志望の学生さんがいたら、ぜひ現場を体験してもらいたい。そのための受け皿にもなります」など、ありがたいご提案も頂戴した。さらに幸運なことに、同中学校では、麹町大通りの拡張工事で出土した玉川上水の木樋を保管しており、昇降口付近で展示していたのである! 清水谷公園で水揚げのための石升はみられるのだが、それに繋がっていた木樋・木管も何とか学生にみせたいと思っていたので、まさに僥倖というべき出来事だった。
また、さらに学生のためになるような珍しいところはないか探しているうち、母の実家近くの千日谷一行院で、なんと暦応2年(1339)の板碑が出土していることを初めて知った。中世の"江戸"をうかがい知ることのできる、大変に貴重な文化財である。千日谷は、例の鮫ヶ橋谷の一方の端に当たっており、他界との境界と認識された場所として相応しい。早速一行院へ伺ってみたところ、当日はお盆の最終日に当たるため確約はできないが、おみせできるよう考慮はしたいとのお言葉をいただいた。
台風の雨が酷くなり始めた頃研究室へ戻ってくると、校内には緊急放送が流れ、学生・教職員は原則退去との指示が出ていた。学生生活委員会も中止かと学生センターへ問い合わせると、緊急に承認の必要な事項が山積しているので敢行するとのこと。大丈夫かなと不安になったが、案の定、会議終了の時間帯には、四ッ谷を通るすべての電車がストップしてしまっていた。これは校内に泊まり込みになるかと覚悟を決めたが、何のことはない、帰宅定時の10:00頃には中央線もだんだんと動き始めており、滞りなく武蔵境へたどり着くことができたのだった。
しかし、安心したのも束の間、問題はなんと家のなかで起きていた。ぼくの書斎兼書庫は地下にあるのだが、1階のリビングとは吹き抜けで繋がっており、その部分の屋根はサンルーフのような構造になっている。以前もそこで雨漏りがあり大騒動になったのだが、今回は未曾有の雨漏りが発生し、折良く(悪しく?)家にいたモモが奮闘、何とかサンルーフ直下のMacや本・書類などを救出してくれたらしい。大感謝であるが、これから雨の恐怖に怯えて暮らさねばならないかと思うと大層萎える。すみやかに業者に連絡して修理をせねば…(しかし未だに対応できていなかったりする)。

22日(木)は台風一過の秋晴れとなり、鎌倉の豊田地区センターで生涯学習の講義。23日(金)~25日(日)は事務仕事に明け暮れ、26日(月)文学部初年次プログラムの本番となった。服部隆先生による懇切丁寧な「レポート作成」レクチャーの後、国文・史学の1年生は4班に分かれ、それぞれ街へと繰り出した。ぼくの班の後方支援は、井上茂子先生と三田村雅子先生。30名弱の学生を引き連れて、江戸の坂を上ったり降ったり。2時間強歩きづめに歩いたため、なかにはハイヒールを履いてきた女子もいて、解散地の信濃町駅に到着した頃には、みんな疲れてぐったりしているありさまだった。しかし、ちゃんと根回ししたのが功を奏して、西念寺でもご本堂で半蔵の槍を拝見できたし、一行院では貴重な板碑をベタベタ触らせてもいただけた。学生も、それなりに満足はしてくれたようである。しかし、運動靴を履いてきなさい、等々の指示はあらかじめ出しておくべきだったかな。
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東北ゼミ旅行(3):東北学院大学博物館文化財レスキュー活動参加

2011-09-19 19:19:50 | 生きる犬韜
ちょっと間が空いてしまったが、ゼミ旅行の続き、最終日9月3日(土)の行程を書いておこう。

やはり3時まで続いた飲み会のため、ほとんど寝られていないゼミ生もいただろうが、この日は9:30厳守で仙台の東北学院へ到着しておく必要があったので、早朝6:30にホテルのロビーへ集合となった。ぼくも、ほとんど徹夜で6:00過ぎにロビーへ降りたが、やはり未だゼミ生は1人も出てきていない。大丈夫かなとちょっと心配になったが、若いとは大したもので、6:30前にはきちんとほとんど全員が顔を揃えた。駅まで走り、なんとかギリギリで東北本線に乗り込んで、一路仙台へ出発。車中ではほとんどのゼミ生が爆睡していたが、ぼくはMacBookAirで原稿執筆。ときおり車窓を流れる緑の水田をみながら、「やっぱりきれいにみえちゃうなー」と呟いたりしていた。
ところで先にも書いたが、この日は台風12号が四国から紀伊半島に迫りつつあり、関西の天候は大荒れ、関東や東北でも悪天候が予想された。前日には、東北学院の加藤さんから、「明日はどうあっても雨なので、屋外でのクリーニング作業は中止し、館内での資料整理を手伝っていただきます」とのメールが届いていた。学院博物館の方では、このところ文化財から発生するカビとの戦いが続いており、木製民具については、水洗いもできるだけしない方がいいだろうという情況の変化が生じていた。せっかく楽しみにしていたゼミ生たちには可哀想だが、文化財は少しの雨にも濡らしたくないところだろう。しかし、それまでのところ何とか天候は保っていたので、もしかしたら…と一縷の希望を抱きつつ博物館に入った。現地では、やはり上智からボランティアとして参加した法律学科のOさん、東北学院の男子学生2人とも合流した。

当日はちょうど学芸員課程の研修が入っており、上智の後輩の河西君や中世史の七海雅人氏の姿もあって、幸運なことに、彼らに近代史や中世史の展示史料を直接解説していただくことができた。そのあとは、加藤さんに文化財レスキューの意義や経緯について説明していただき、収蔵庫のなかも見学させていただいて、まずは館内作業として資料整理のお手伝いをした。文化財クリーニングの過程で撮影した写真と、それぞれの文化財のカルテを貼り合わせる、いわば作業台帳の作成である。みんな真面目に、黙々と作業をしてくれた。いやー、うちの学生たちは、こういうときには本当に誠実だと思う。必要なこと以外ほとんど言葉を発さず、てきぱきと仕事を片付けてくれた。感謝感謝。
館内作業を終えたところで、何とか天候も保ちそうにみえたため、加藤さんの判断で、文化財クリーニングを開始することとなった。気を遣っていただいたかと申し訳なく思いつつ、一方では、ゼミ生たちに貴重な経験を積ませることができるとホッとした。しかしどうにも間が悪いというか、それぞれが1つめの洗浄を終えたあたりで突然の降雨。何とか作業に一区切りはついたが、急いで撤収作業を行い館内に駆け込んだ。洗浄の済んだ文化財を保管庫へ運んでいったメンバーを待って、みんなで一休みのお茶会を開いた。学院博物館には、ほとんど協力という名に値するような仕事はできずご迷惑をおかけしたが、学生たちにはそれなりに充実感を味わってもらえたようで何よりだった。

16:00前、台風も接近してきていたので、ゼミ生たちには注意を与えて早めに現地解散とした(数回前のエントリーでも述べたが、うち何人かとは、その後野蒜へ入ることとなった)。以上で、2011年度のゼミ旅行は全行程終了となったが、今回は夜中の勉強会など、ゼミ生の頑張りが目立ったよい旅行になったと思う。院生たちも大いに指導力を発揮してくれた。反面、彼らの健康管理にきちんと目を配れなかった、ぼく自身の不甲斐なさも際立った。やはりぼくは、あまり指導的な立場で仕事をすべき人間ではないのかな、と今さらながら痛感した次第である。
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facebook はなかなかよい

2011-09-19 00:34:07 | 生きる犬韜
今週はとにかく、校務に始まり校務で暮れた。13日(月)はAO入試の書類審査、14日(火)は大学院入試と学科会議、15日(木)・16日(金)は文化財レスキューの説明会、17日(土)はAO入試の面接、18日(日)はAO入試・海外就学者入試の学科試問・合否判定会議。16日には儀礼研究会(大妻女子大にて服藤早苗さんのご報告)、17日には上智史学会大会シンポの企画会議もあった(戸川さん、安孫子さん、藤本さん、ありがとうございました)。この間、11月日文協大会シンポの報告要旨も作成し、上智史学会大会シンポの開催趣旨や進行メモを書き終え、幾つかの原稿にも拍車をかけているが、夏の疲れが溜まっているのかなかなか夜更かしができない。10:30頃に帰宅して遅い夕食を摂ると、だんだんやる気がなくなってきてしまうのだ。やはり歳だな。

さて、そんながんばりのきかない生活を送るなか、モモの勧めで、いままでちょっと敬遠していたfacebookを始めてしまった(遅ればせながら…)。困ったことに、これがけっこう面白い。分野の異なる友人の情報が次々に入ってきて勉強になるし、こちらの未だ熟しきらないつぶやきにも貴重な意見をもらえる。ブログはやはりオフィシャルな性格が強いメディアなので、双方向性をより重視した内容などはfbにアップしてゆくことになりそうだ。以前、学生センターの内部掲示板に、「デジタルハリウッドがfacebookを利用した補習・復習システムを導入した」との記事が載せられていたが、確かにブログより使い勝手がよい。現在、うちのゼミではブログを補習・復習用に活用しているのだが、facebookの可能性を検討してみる価値はありそうだ。ま、あらゆる講義に援用するとなると、こちらの時間がまったくなくなってしまうことは目にみえているが…。

さあ、授業開始はまだちょっと先だが、事務方は明日から秋学期の開始となる。会議・委員会も通常どおりに動き出し、各種イベントも頭を擡げてくる。とりあえず今週は、26日(月)開催の文学部初年次研修における「町歩き」のコース確定(今年のテーマは、「災害と江戸・東京」)に、全力を傾注しよう。
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facebookを始める。

2011-09-16 13:50:42 | ※ 雑感
モモに誘われて始めた。確かに、ここに書き込んでいるとブログを書かなくなるかも知れない。
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被災地域の景観に「美」を見出すベクトルについて

2011-09-14 00:04:01 | 議論の豹韜
誤解を招く恐れがあるので、ずっと書こうかどうか迷っていた問題だったが、今日、右の『Newsweek 日本版』9・14号を捲っていて、これはやはり論じておくべきかなと思い至った。風景をまるでミニチュアのように捉える本城直季氏の被災地域写真を紹介した、「リアルな被災地の薄れゆく実像」という記事が気になったのである。ぼくは別に、本城氏の写真技法をどうこう論じるつもりもないし、「一人一人が違う見方で多様な記録を残せば、多くの人の記憶に残ってゆく」という方法論を否定しようとも思わない。「目を凝らせば、破壊された被災地の街並みや陸上に横たわる船の無残なディティールが見えてくるが、それでも偽物を見ているような感覚は消えない。やがて、それは記憶の奥底へ押し込められつつある大災害の心象風景ではないかと気付かされ、思わずギクリとする」という、記者の解説にはなるほどとさえ思う。しかし、その加工された写真を眺めると、やはり微妙な違和感のようなものを拭えないのだ。本城氏は、4×5の大判カメラでこの構図を切り取ろうとしているとき、写真にデジタル加工を施しているとき、いったいどのような気持ちで作業をしているのだろうか。

数日前のエントリーで、ぼくは、七ヶ浜町で撮った幾つかの写真のデータを、結局消去したと書いた。それはひとつには、何の目的で撮影をしているのか分からなくなってしまったから(自分の行為を正当化する大義名分がみつからなかったから)であり、もうひとつには、無意識のうちに撮影へ美的感覚を動員してしまっている自分に気付いたからにほかなからない。ファインダーを覗くと、どうしても洗練された意味のあるパース、アングル、フォーカス等々を追求してしまうのである。ぼくがかつて自主映画の製作をしていたからどうしてもそうなってしまうのか、あるいは誰でもそうなるのかどうかはわからない。いや、普通に友人たちのスナップを撮るときでさえ、誰もが「いい写真」を求めるだろうし、そこには大なり小なり美的スケールが作用している。もちろんぼくは、眼前に広がる悲惨で空虚な光景を「美しい」と感じたわけではなく、むしろ通常の感覚で撮影を行うことに嫌悪感を抱いたのかもしれない。

以前環境/文化研究会で、「景観と美」に関するミニ・シンポジウムをやろうと話し合ったことがあった。ちょうど廃墟を美学的な視角で捉えようという議論が出ていた頃だったし、直接的には、monodoiさんやもろさん、nomuraさんたちが金生山を訪れたことが契機になっていたかと記憶している。人間は、生態系が消滅し生命が絶えてしまった荒れ野をも、「美しい」と感じることのできる生き物である。ヒトに固有の美的感覚はそれゆえに文化の象徴であるともいえるが、しかしそれは、生態系に適応すべき生命体の持つ能力として正常なのだろうか(アフォーダンス的な意味では同じ「文化」でも、それはビーバーの行うダム作りとは根本的に異なっている)。かかる美的認識は、どのように生じてくるのだろうか。我々が緑の水田を「美しい」とみる感性は、稲作農耕社会の豊穣イデオロギーによって構築されてきたものだろうが、生物の生存本能とは必ずしも矛盾しない。廃墟に美を見出す感性は、もっと人間の業の深いところに関わる根本的問題のような気がする。東日本大震災の風景を「美」をもって語ろうとすることは、もちろん現段階ではタブーであり、その暴力性においても(個人的には)容認することができない。しかし、メッセージを効果的に伝えるべく洗練された報道写真も含め、実際の撮影現場では常に何かしらの美的感覚が作用しているのだ。それらを抑圧・隠蔽することなく議論の俎上に載せ、人間を問う視点を豊かにしてゆかねばならないだろう。

本城氏はあるサイトで、「今度は戦争を撮ってみたい」と発言しているが、ヘリコプターから眼下を睥睨する彼の視点は、キャパのような現場への参与性とはまったく対照的に感じられる。氏の写真に現実感が乏しいのは、氏自身が対象にリアリティを感じていないからではないか。もしそうならそれは、ファインダーの向こうに生活している/生活していた命をも直視していないということではないのか。我々が映像や言説を介して抱くリアリティは、他者認識、他者に対する想像力の問題と根本的に繋がっている。11月のシンポジウムヘ向けて、じっくり考えたいテーマである。
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東北ゼミ旅行(2):花巻・平泉疾走

2011-09-11 09:07:51 | 生きる犬韜
9日(金)からモモが秋田へ帰っており、独り暮らしの日々である。公務上でも、学生センター長がカンボジアへ出張中なので代行業務があり、学部長会議へ出席して文化財ボランティアの現状報告をしたり、書類に決裁の印を捺しまくったりと忙しない。10日(土)には、退院したばかりの父に代わって法事を行うため、日帰りで自坊に帰宅。しばらく「説教」なるものを作っていなかったので、時間がかかった割には浅い内容の法話となってしまって大いに反省(ごめんなさい)。あとは終日、小学生の姪たちの相手をしてカロリーを消費し(トランプから始まり、将棋や相撲を経て異種格闘戦に発展した)、世のなかのお父さんは大変だ、と痛感した。
そうそう、8日(木)のTBS「ひるおび!」で、2ヶ月間延期を繰り返していた文化財レスキューのリポートが、ようやく放送された。ところが、東北学院大学博物館の活動もかなり取材されたはずなのに、完パケの編集では、鮎川地区の文化財が「仙台の大学に大切に保管されている」との語りがあっただけで、大学名さえ表示されない始末。もちろん、取材した内容を使うか使わないかはテレビ局の自由だが、やはり何か割り切れないものが残る。レスキュー活動を周知するという意味では一定の効果が期待できるだろうが、博物館の皆さんの落胆ぶりを考えると恨み言をいいたくもなるのである。

さて、ゼミ旅行の続きを書いておこう。今回は昨年度とは違い「夜の企画」はなかったが、O君の案内で「賢治が愛した蕎麦」(ホントかよ)に舌鼓を打ち、闇に耀く「銀河鉄道壁画」もみた。天気がよければ夜のイギリス海岸まで足を伸ばしたかったが、北上川の増水の恐れもあるので断念。前回も少し書いた勉強会と飲み会のみ行ったが(阿鼻叫喚の詳細はここでは触れない)、ほとんど眠らずに朝を迎えた学生もあったらしい。案の定、体調を崩したものもいて、翌日の日程はすべて全員で消化というわけにはゆかなかった(私の不徳の致すところです)。

翌2日(金)は、まず午前に宮澤賢治記念館を見学。4年ぶりだが、遠野市立博物館と違ってまったく変わっていなかった。ちょうど、賢治と遠野との関係に触れた特別展を行っていたが、いつもながら内容は「家族向け」で、もう少し専門的な追究をしてもよいのではないかなと感じた。数年前に遠野の博物館で開催していたものの、ピックアップ・焼き直しにすぎない印象である。しかし、個人作家の記念館としてはやはりものすごい集客力で、この日も社会科見学の小学生たちでごった返していた。賢治強し。学部3~4年生の頃、毎日校本全集の賢治の詩を一編読んで、自分なりに解釈しノートを取っていたことを想い出した。自分の研究者としての原点には、確実に賢治がいる。歴史研究に埋没しているとそのことを忘れがちになるが、折に触れて立ち帰らねばならない大事な場所である。
なお、学生たちのお気に入りは圧倒的に「銀河鉄道の夜」で、もちろんぼくもそうなのだが(ほかに「猫の事務所」「フランドン農学校の豚」など)、冥界訪問譚としてのこの物語を、時代的文脈のなかで「怪談」として読み直すと、また面白い何かがみえてくるかも知れないとふと考えた。

午後からは平泉に移動し、歩いて毛越寺・中尊寺周辺を散策。天気は小康状態で、やや晴れ間もみえ気持ちがいい。世界遺産に登録された浄土庭園を、かつての威容を想像しつつ経巡り、ソフトクリームで一休みしてから平泉へ(ずんだ味はなかなかよかった!)。このとき初めて聞かされたのだが、学生が知人を頼って、中尊寺の師僧さんに寺内解説をお願いしているのだという。約束の時間まで30分の間に移動しなければいけないということで、ペースメーカーよろしく先頭を切って歩き出した。自慢ではないが、ぼくは歩くのが速い。持久力もそれなりにある。先頭にいると学生を置いていってしまうため適役ではないのだが、今回は院生も2名付いているので安心してアクセルをかけた。涼しかったおかげもあり、学生もなんとか付いてきて、約束から数分の遅れで師僧さんにお会いすることができた。あとはそのご案内で、宝物殿・金色堂を堪能(ありがとうございました)。ようやく悪化しだした天候の下、高館や無量光院を経て電車で移動、一関での宿泊となった。
これも、夜の勉強会でOさんからの質問を受けて気付いたのだが、どうも平泉には、京都の西方浄土信仰に対するカウンターカルチャーとして、東方薬師瑠璃光浄土を志向するベクトルがあったようだ(常識?)。もともと東北仏教には薬師信仰が強く、勝常寺や黒石寺などにも平安期の名仏が残っている。それらを基盤としながら、現世成仏の王道楽土へ再構成を図っていたものかも知れない。浄土への入り口である雄島が、西方ではなく東方へ設定されているのも、その関係で説明することができるだろう。やはり勉強は必要である。

夕飯は、S君が探してくれた郷土料理ふじせいで、名物の餅御膳を堪能。これは、本当にきれいで美味しい料理だった。旅行に来たら、コンビニでばかりカロリーを補給するのではなく、やはり郷土のものを食べなければならない(みかけによらず大食漢のSさんは、昨夜の食事でも天ぷら蕎麦とそばむすを平らげていたが、また何か盛り沢山のお皿を並べていたようだ。女子は強い)。部屋に戻ってからの飲み会は、翌朝の集合が6:30だというのに、やはり3:00頃まで続いていた(沈没する上級生の男子を尻目に、ここでも体育会系女子の「健闘」が目立つ)。学生のいろいろな話が聞けてよかったが、持っていった仕事はまったく捗らなかったのであった…。
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めでたい!

2011-09-07 21:38:39 | ※ 雑感
公私ともに親交のある花園大の師茂樹さんが、第53回日本印度学仏教学会賞を受賞したようだ。いやー、めでたい!おめでとうございます!お祝いしようお祝い。師さんがいなくてもやろう。
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東北ゼミ旅行(1):遠野にて

2011-09-07 00:08:43 | 生きる犬韜
今年は、恒例のゼミ旅行も東北に設定した。9月1~3日の3日間で遠野・花巻・平泉を回り、最終日は東北学院で文化財レスキューのお手伝いをさせていただく予定となっている。しかし、台風12号がゆっくりしたスピードで北上してきており、恐らくは、降雨ではできない被災文化財のクリーニング作業は中止、直撃さえ避けられればよいが…と不安な気持ちでの出発となった。

東北では、在来線で移動しようとすると、どうしてもその本数の少なさがネックとなる。なるべく多くの場所を回ろうと思ったら、早め早めに行動するに越したことはない。初日も、7時過ぎには新幹線で東京を発ち、10時過ぎには新花巻に到着。釜石線が来るまで少し時間を潰してから、弁当で昼食を摂りつつ遠野まで移動した。まずはと、遠野駅から市立博物館へ歩き出したところ、それまで何とか保っていた天気が突如崩れだし、それなりに強い雨が降ってきた。「先が思いやられるな」と溜息をつきながら中央通りを直進してゆくと、途中の街並みは何となく元気がない。夏休みが終わったためなのかと思っていたが、市役所が倒壊したことに象徴されるように、遠野も当然のごとく震災の被害を受けているのだ。別に「物語」を作る気はないが、もしかすると未だその影響はあるのかも知れない。
博物館では、学芸員の前川さおりさんに大変お世話になった。想像していたよりパワフルな人で、盛り沢山の常設展示をリズミカルに説明してくださった。昨年リニューアルされた館内は、2007年にやはりゼミ旅行で訪れたときとはまったく違っていて、タッチパネル等々最新の機器が駆使されなかなかに興味深かった。冒頭、真っ白な遠野の地形模型に『遠野物語』の伝承地が映し出されるフロアは、地理・考古・歴史・民俗の総合を難なくなしとげる力業で、非常に感心した。物語・情報の伝播をドラマ仕立てで解説するパネルも、『伴大納言絵巻』の噂が広がるシーンを髣髴とさせるようで分かりやすく、四方の流通が結節する遠野の地域的特性があらためてよく理解できた。しかし、前川さんの語りにとくに力が籠もったのは、やはり文化財レスキューに関する特別展示であろう。共同作業の多かった陸前高田の博物館では、すべての学芸員が津波のために亡くなった。震災そのものへの対応でなかなか文化財行政に復帰できなかった前川さんは、それでもたった1人でレスキュー作業を開始し、古文書を中心とする被災文化財の救出・洗浄に奔走したという。これまでも同様のフロア解説は何度かされているのだろうが、それでも時折言葉を詰まらせる前川さんのお気持ちは、察して余りある。学生たちは、その思いを汲み取ってくれたろうか。
続いて、博物館から少し離れた収蔵庫に移動、エア・ストリーム法を用いた被災文書の洗浄・乾燥作業をみせていただいた。エア・ストリームといっても、ここでは高価な器財などは一切使われていない。東北学院博物館と同じくありあわせの日用品を駆使した、まさにブリコラージュの作業が展開しているのである。エタノールを塗布し固定した文書を水洗した後で、新聞紙やキッチンペーパーに刳るんで束にしたものを専用の乾燥装置(ラックにサーキュラーを取り付けたもの)にかけ、空気を安定的に送り込んで急速に乾燥させる。布団乾燥の方法を援用したスクウェルチ・パッキング法からさらに発展させた方式で、手順や装置は、東京文書救援隊がWeb公開している方法に近い。…と思ったら、東文救自体が遠野へ導入したシステムだったらしい。不勉強なぼくらの知らないところで、さまざまなネットワークが築かれ協働が展開されているのだ。

前川さんには、陣中見舞いということで、地元武蔵野のお菓子と三鷹のキウイワイン(ジブリのラベルが付いているもの)を差し上げてきた。ワインはもう季節的に品切れの時期で、自宅周辺の酒屋を虱潰しにして見つけてきたものだ。ちょっと甘いようだが、お口にあったろうか。

さて、前川さんにお礼をいい、一行は伝承園、常堅寺、カッパ淵の散策へ。カッパ淵へゆく途中では、学生たちと、「カッパは何類なのか」という話題に花が咲いた。図像学的には爬虫類もしくは両生類だが、伝承学的には猿と同じものである。しかしそうしたステレオタイプな位置づけは、民俗の地域的固有性、多様性を無視した見方ともいえる。最近、首長竜が胎生だったというニュースが流れて注目されたが、「恐竜」という枠組みのなかで構築され、ぼくらが思い描いているイメージと、実際の恐竜とはまったく別物なのかもしれない。例えば、鳥に進化していったという二足歩行の肉食恐竜の類と、爬虫類や哺乳類への流れのなかにある四足歩行の草食恐竜、そして今回の海の首長竜とは、系統的にまったく別の生物であった可能性もある。遠野のカッパは赤いというが(キジムナー?)、あまり我々の持つ固定的なイメージで考えない方がいいかも知れない…などといった議論になった。
ところで、ちょっと気になったのは、カッパ淵の脇にある稲荷社の傍らに、奪衣婆らしき像の入った祠が立っていたことだ。『遠野物語』くらいしか予備知識のないぼくは、なぜここに奪衣婆?と首を傾げたが、花巻のホテルへ移動、夕食後に行われた勉強会(今年はちゃんとできていた!みんないい子だ!感激である)で、その疑問は氷解した。常堅寺を担当したYさんの報告によれば、カッパ淵のカッパを狛犬にしたという同寺には、十王信仰があるというのだ。とすると、あの小川は三途の川で、カッパ淵は他界への入り口ということか。このあたりの習合が、歴史的にどのように進んできたのかは知らないが、同淵のカッパが乳の神として祀られているというのも、賽の河原等々のイメージと関連があるのかも分からない。

さてさて、花巻のホテルでの勉強会=飲み会は、10時半頃から3時近くにまで及んだ。まさに、よく学び、よく飲みという言葉が相応しい「修羅場」であったが、該当人物はそろそろ自分の限界を見極めるように。身体を悪くしますよ。(つづく)
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それでも、…

2011-09-04 22:06:03 | 議論の豹韜
8月末から9月初めにかけては、宗教史懇話会のサマーセミナー、上智古代史ゼミのOB研究会、得度の同窓会、ゼミの研修旅行など、イベントが盛り沢山であった。校務も、文化財レスキュー関連の説明会やら災害関連の会議やら幾つかあり、それなりに多忙かつ充実していた感がある。逆に原稿や研究は進捗しなかったが、学生の成長を感じられる機会が多かったので、それなりに教師冥利に尽きる日々だった。まあ、それらは追々紹介してゆくことにして、今回は印象が新鮮なうちに書き留めておきたい事柄を綴ってゆこう。なお、これはあくまでぼく自身の内面の記録であって、客観的な記事ではないことをお断りしておく。

3日(土)ゼミ旅行の最終日、東北学院大学博物館での文化財レスキュー作業を終えたぼくは、希望の学生数名と、院生のO君の案内で東松島市野蒜地区に入った。四国に上陸した台風12号は紀伊半島周辺へ甚大な被害をもたらしつつあったが、東北地方への影響は断続的な降雨に止まり、ぼくらのゼミ旅行には大きな障害になりえなかった。学生を引率している立場上、関東・東北への直撃は勘弁してほしいと願い続け、雨天では実行できない被災文化財のクリーニングを、少しでも学生に体験させられたときには幸運に喜んだが、いざ関西での被害情況が具体的に報道され始めると、相変わらずの自分の身勝手さに暗澹たる思いがした。よって、仙石線と代行バスを乗り継ぎ、17:00頃に野蒜駅前に降り立ったときには、すでに気分はかなり落ち込み始めていた。そのうえでの、あの光景である。同地区の被害についてはいまさらいうまでもないが、真っ直ぐに伸びた海浜部に打ち寄せた津波は松の美林と家々をなぎ倒し、鳴瀬川からかなりの内陸部まで到達し一面の廃墟をもたらした。駅前に立ったぼくは、しかしその全体像すら思い描くことができず、半ば思考停止した状態で海浜部へ歩みを進めた。

台風の影響を受けた風雨はもはや小康状態にみえたが、海からは激しい波浪のゆえと思われる轟音が、一瞬も弱まることなく鳴り響いていた。それは、大気全体の震動を視覚化させるような圧力を持っていたが、「あのとき」には、その数十倍、数百倍の海鳴りを伴い巨大な水壁が押し寄せてきたのだろう。台風のおかげか、ぼくの拙い想像力でも、その茫然とする光景の一端、何千分の一、何万分の一かは思い描くことができた。
かつて賑やかな人の暮らしがあったところに、その僅かな痕跡だけが残る景観とは、これほどまでに静謐なものなのか。海鳴りさえも忘れる廃墟に立ちすくんでは進むうち、これまで穏やかだった天候が突如その相貌を変え、激しい風と横殴りの雨が打ち付けてきた。こういう書き方は好きではないが、まさにぼくらを拒むように襲い来る風雨に思わず背を向けると、目の前に黒々とした石碑が建っている。海岸の風景を称賛する歌碑でもあるのかと目を凝らすと、どういう皮肉か、それは東松島の「開拓記念碑」だった。被災地域の撮影にはずっと後ろめたさを覚えていたが(7月末に七ヶ浜町に入ったとき、欲求に勝てずに何枚かの写真を撮影したが、後悔して消去した)、このときには記念碑自身が何かを訴えているように感じ、暴風に震える身体を何とか支えながらその姿を捉えた。自然への勝利を誇らしげに体現すべく生まれてきた「彼」は、どのような思いで「あのとき」を受けとめ、いまこの廃墟に佇んでいるのだろうか。不思議なことに、撮影を終えてふと気付くと、雨も風も嘘のように止んでしまっていた(果たしてこの「物語」を、伝統的な形式に沿って受け取ってもよいものだろうか?)。

防波堤から駅へ引き返す道では、少し冷静に考えをまとめてゆくことができた。それは結局、これまで何度も自分に問い続けてきたことの答えを、確認する作業に過ぎなかったのだが…。ひとつは「この景観を前にして、それでも自分は、人外の側に立とうという言説を紡ぎ続けることができるのか」、二つめは「自然の脅威を再認識した向こう側に巻き起こるヒト中心主義を、どのように相対化してゆくか、相対化してゆけるか」、三つめは「津波にさらされたのは人間だけではない。例えば多くなぎ倒された松林の松の生命については、一体誰が語ってゆけるのか」ということ。震災後、環境史や災害史の認知度は高まり、その必要性も「正義感を持って」主張されてきたように思う。しかしぼくには、かかる種類の歴史を叙述することの困難さが、一層高まったように感じられてならない。かつてぼくは、『環境と心性の文化史』の総論に、自然環境と文化との二項対立は恣意的に構築されてきたものであって、両者を両者たらしてめている本源的な関係態を見据えなければならないと書いた。両者の宿命的対立を説く論調もあるが、それは、自らが創りあげた幻に束縛されているにすぎない。いま、その言明を出発点として、もう一度慎重に歩みを進めてゆきたい。

なお、東北学院の加藤幸治さんは、すべてが押し流されてまったくの荒野と化した仙台平野の光景を、「厖大な情報量」と逆説的に表現している。しかし、あらゆる生活痕跡が消去されたそこには、事実、我々の認識・処理限界を超える示唆が内包されているのである。そのうえにまったく別の、新しい空間を建設しようとする復興プランは、人々の記憶さえも消し去ってしまう危険を持ち、ある意味で津波よりも恐ろしい。歴史に携わる者が立ち向かうべきなのは、そうした"リセット"の力かも知れない。

※ 野蒜海岸では、開拓記念碑と松の写真を数枚撮らせていただいた。建物の跡にはカメラを向けることができなかった。冒頭の航空写真はGoogleMapより。
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