仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

前期終了1ヶ月前:今週もなんとか乗り切った

2007-06-29 21:56:15 | 生きる犬韜
乗り切ったというべきか、乗り切れなかったというべきか。
結局、27日(水)の大妻の講義は休講にしてしまった。実はこれまで、自分が受け持った授業を、体調のせいで休講にしたことは一度もなかった。最初に引き受けた日本女子大の講義など、前日に39度の高熱を出していながら準備をし、朦朧としつつも、ちゃんと最後まで話し終えた経験がある。しかし…声が出ないのでは、教壇に立っても如何ともしがたい。急遽ビデオを見せるなどの手はあるが、ちょっと詐欺っぽい。ここは正々堂々と休講にして、体力回復に努めようと決心した次第。
行きつけの個人病院へいって薬を貰うと、なんとか喉の痛みは緩和された。やはり医学の力はすばらしい。

しかし、その次にやって来たのが激しい咳き込みである。ふだんは何でもないのだが、ふとした拍子に突然襲ってくる。28日(木)の豊田地区センターの講義は、この咳き込みにやられた。飲み物を側に置いてなんとか凌いだが、途中、何度か中断して参加者の皆さんに心配をかけてしまった。ごめんなさい。
翌29日(金)、咳が止まらないものかと希望を抱いていたが、書類を作成していてほとんど睡眠もできなかったため、状態は変わらず。研究室で回覧書類の処理をしていると、4年生のEさんが卒論の相談にきたが、彼女の前でも思いっきり咳き込み、心配されてしまった。Eさんのテーマは、平安期の音楽のありようを、物語、儀式書、古記録等から復原してゆくこと。個性的な、いい問題意識である。今年の4年生は、古代の庭、肉食、東北の仏教と、テーマ選択がユニークでしっかりした意志が感じられる。もう進路の方は決定しているようなので、どのように仕上げられてゆくか、先が楽しみである。
咳を気にしてトーンを抑え、スピードもゆっくり目にしていたためか、特講の方は思うように進まなかった。『書紀』『古事記』の夢見記事で非常に面白いことに気づいたのだが、そこにあまり時間をかけすぎると、『更級日記』までたどり着けない。どこかでまた調整が必要かも知れない。

さて、先週、猪股さんから薦めを受けた「守人シリーズ」の番外編「賭事師」。短編だが、かなり気に入った。ネタバレになるので物語の要約は避けるが、作り込まれた〈ゲーム〉のルールと歴史、それを商売にする賭事師の生活、約束ごと、心意気に、彼らの生業を許している社会の仕組み。相変わらず、背景の描写に大変手が込んでいる。そして、それを舞台に展開される人間ドラマは、互いが互いを思いやる心の温かさとすれ違い。またそのすれ違いに、若年の男女と老年の男女との間では深みの差がにじみ出る、〈取り返しのつかない切なさ〉が現れる。しかし、登場人物のひとりひとりがどのような思いを抱いているか、どのような葛藤が存在するのか、それについてはほとんど言葉を尽くさず、ちょっとした間や仕草でサラッとみせる。もとは児童文学だが、非常に上品な筆致である(書きすぎるために場が恥ずかしくなり、読んでいられなくなるある歴史小説家T氏の作品とはまるで違う。あえて比較対象にしなくてもいいのだが)。それゆえに、様々な解釈も可能にしており、ゆったり読むことのできる佳品となっている。ぼくもお薦め、としておきたい。

ところで、4月からのクールで唯一観続けてきたドラマ、『私たちの教科書』が終わった。坂元裕二という脚本家は、今までまるで信用していなかったが(とくに最近の『西遊記』は目も当てられなかった)、今回は真剣に取り組んでいたようだ。こんな辛い話をどう結ぶのかと他人事ながら心配していたが、一応、救いのあるラストにはなっていた。しかしその分、死んだ少女の無念さは、かえって際立ってしまったのではないだろうか。登場人物みんなが、その少女の死が自殺ではなかったこと、彼女が力強く生きようとしていたことに救いを見出したようだが、それならばなお一層のこと、事故死なるもののやりきれなさが胸に迫る。まったく孤立した、否応のない〈死〉というものが立ち上がる。それを口にしえたキャラクターがいなかったのは、ちょっと消化不良であった。あえてそうすることで、「裁判を戦ってきた大人たちも、結局みんな自分が救われたかっただけなんだよ」と視聴者を突き放しているのだとすれば、それはそれで周到な演出といえそうだが。
深夜に放送していた、アニメの『のだめ』も終了。結局ドラマと同じところまでしか描かなかった。ヨーロッパ編こそ、アニメの本領発揮となったはずだが…第2シーズンはあるのだろうか。あるなら、もう少し演奏場面に高い志をみせてほしい(後半は少しはよくなってきたが、当初の止め画の多用は、アニメであることをすでに放棄していた)。後番組は、昨年大きな衝撃を与えた怪『化猫』(左の写真はそのDVD。一見の価値あり!)のシリーズ化作品『モノノ怪』。絢爛な画作りにスピード感とオリジナリティ溢れる描写、神話や祭儀を意識した展開はそのままか。大いに期待したい。
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弱音:異様に喉が痛む…

2007-06-25 22:44:00 | 生きる犬韜
数日前から様子がおかしいな、とは思っていたのだが、やはり本格的に風を引いたらしい。ここ数週間の無理が祟ったのか、あるいは髪の毛をざっくり切ったせいだろうか?
朝から体がだるく、声が出にくい。4限の講義を終えると、妙な汗が出て来た。ガラガラ声でなんとか5限も終えたが、帰りの駅のホームでは少々意識が朦朧としている。電車内では何もせずに休み、帰宅してから熱を測ると、37度の微熱。まったく大したことはない。しかし、講義中はもっとあったろうという印象である。…そして今。喋れないほどに喉が痛んできた。すり切れたようにしみて、むせる。
頭痛も激しい。明日、出勤できるだろうか。
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講演旅行と…:ぼくにも固定客がいるそうな。

2007-06-23 01:28:45 | 生きる犬韜
少し話は遡るが、先週の土曜(6/16)には、京都で仏教史学会主催の講演会「いま、仏教史が面白い !?」があり、大谷大学の大内文雄先生と2人で講演をしてきた。ぼくの論題は、「神仏習合と自然環境」。中国から輸入された神身離脱の言説が、祟り神の物語を前提に、天候不順や災害の説明原理として作用する過程を概説したもの。「1時間」という括りがいちばん不安だったのだが、新幹線のなかでシミュレーションしただけあって、なんとか5分超過で収めた。ほっと一安心。
一方の大内先生のお話は、「石経・目録と類書―中国仏教史学と中国学―」。中国学と仏教学との用語、視角、方法の違いと、それに拘泥することの無意味を説く越境の論。茅山道教の陶弘景など、確かに道教的視点だけでも、仏教的視点だけでも理解することはできない。最近、雑誌『東方宗教』もどんどんコアな様相を呈していて、それはそれで楽しいのだが、よそ者を排除していると受け取られかねない点もあるのだろう。
質疑応答も、かなり突っ込んだ質問が活発に出て面白かった。中国の神仏習合のありようについて質問された方が、後から唐招提寺のお偉いさんだと聞かされ、すーっと冷や汗。やはり京都は恐ろしい。
イベント終了後は、東館委員長はじめ、牧さん、安藤さん、大田さん、櫻木さんら、お世話になった委員の方々(ぼくも委員だけれども)、一部の参加者の方々と懇親会。方法論懇話会でずっと一緒にやってきた師さん(そうそう、稲城さんも会場に来てくださっていました。感謝感謝)、4月から京大の院に進んだ東城君とも久しぶりに再会できた。参加者のアンケートをみせてもらうと、「北條さんの話が目的で来ました」との奇特な学生さんがちらりほらり…。どうやら、龍谷の中川修さんが声をかけてくださったようです。若い人に聞いていただけてよかったよかった。若いといえば、懇親会に参加した関係者にも若手が目立っていた。有望な人材が確実に育っている様子。東城君は、師さんにそそのかされて?方法論懇話会 ver.2.0のトップバッターをやらされるという。ぜひ、がんばってほしいものである。なおなお、この飲み会は夕方17時頃から夜の23時頃まで続いたが、その席には愛妻の高松百香氏も参加していた。家族の看病疲れの気晴らしにと、一緒に上洛してきていたのである。どんな環境にもいつの間にかとけ込んでいる不思議な才能を発揮し、二次会では完全に主役となって、関東の学界の〈アヤシイ噂〉をばらまいていた…。

翌日は、愛妻と共に簡単な京都周遊。10年ぶりに嵐山を経て松尾さんに参詣、市内中央に戻って祇園で買い物し、八坂神社にも寄った。左の写真は、その際に渉った西東の大河川、桂川と賀茂川。これから川床の季節である。夏の京都は人間の生活を拒絶する蒸し暑さだが、それを和らげる工夫に救われる。

さて、関東に帰ってきてからは淡々と仕事をこなしたが、今週は「固定客?」というものの存在を知って気恥ずかしい一週間だった。京都しかり、非常勤先の大妻でも、ぼくの書いた小難しい文章を一生懸命に読んで知らせてくれる学生がいる。極めつけは今日22日(金)、ゼミ生のI君からの要請で、史学科2年生の女子3人とタリーズでお茶をした。みんな去年講義した「日本史概説」を誉めてくれるので、ありがたいやら恥ずかしいやら。いわゆる〈物語〉が好きな学生たちらしく、なかにはアニメーター養成の専門学校に通っているという強者も。創作活動に明け暮れていた10代~20代の頃に戻って、楽しく話をさせていただいた。本質的に人と会話をするのは大好きなので、今度また誘ってください。

午前様で帰宅してみると、猪股さんに薦められてamazonに注文しておいた、『ユリイカ』6月号/上橋菜穂子特集と、ミシェル・ペイヴァー『オオカミ族の少年』が届いていた。前者は〈守り人〉シリーズ外伝の「ラフラ(賭事師)」という短編がいい出来で、後者は〈動物の主〉神話を地でゆくファンタジー。来週の通勤・帰宅車内のお供となるでしょう。
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他者の刺激:〈夢見の文化誌〉スタート

2007-06-21 12:04:33 | 議論の豹韜
久しぶりの投稿。先週・今週・来週・再来週と、もろもろの仕事がピークを迎えている。講義は7コマに増え、他に作成しなければならない書類も山積み。もうすでに体が追いついていないので、やはりブログの更新などは滞ってしまう。依頼原稿などを書く余裕も、当然のことながらない。いただいた本や論文への礼状も書けない。皆さん、ごめんなさい。

ところで、先週から首都大学東京オープン・ユニバーシティ、「夢見の文化誌―東アジアの中の日本文化―」がスタートした。すでにこのブログにも何度も書いているが、いろいろなところでお世話になっている日本文学研究の仲間、猪股ときわさんに誘っていただき、一昨年から、三品泰子さんや舩田淳一君らと関わっている企画である。初年は「交渉し合う神と仏」、2年目は「夢見の古代誌」を開講。今年は夢の第2弾で、猪股さん・三品さん・ぼくに、宗教学者の佐藤壮広さんが加わる(おかげでよりコアな展開となりそう)。

現在のところ、猪股さんの分2回と、三品さんの分1回が終了。
猪股さんは、『万葉集』『古今和歌集』、そして平安仮名日記が対象。和歌の回には出席できなかったが、仮名日記の方はしっかり拝聴。政務や儀式の覚書(主に自分の子孫の参考として)を暦に書き込む男性貴族の日記と違って、女性貴族の仮名日記は、晩年になってから回想録として記述されたものがほとんど。猪股さん曰く、「死に直面し、自らの死を思う壮年から晩年に、現実が夢のようだ(はかない!)と感じる状況に立ったとき、『夢』を見ることや『夢』というものが、クローズアップされてくる。それは、日記を書く行為自体が開始されるときでもある」。どうやら、『和泉式部日記』は歌をインデックスとして、『更級日記』は夢をインデックスとして記憶が引き出され、物語へと再構成しているらしい。歌は天・地・人との感応によって読まれるもの、夢は他界からのメッセージ(とくに『更級』の場合、必ず「声」を伴うのが特徴という)。どちらにしてもシャーマニックだが、後者は宗教書といってもよいくらいのものかも知れない。当たり前だった現実/夢の境界が崩壊したとき、生の記録が始まるということは、夢と歴史叙述との関係を重視するぼくの観点とも交差する。
三品さんの1回目は、明恵の『夢記』が対象。厖大に記録された夢のなかには、彼を取り巻く人々が次々と現れ、神仏として位置づけられてゆく。僧侶でありながら、女性に大事にされる夢を多くみて、それを正直に記録してしまうところも面白い。しかし、非常に穏和な宗教的世界で、ダークな部分がほとんどみえないのが気になるところ。夢のなかで現実の存在を宗教的に浄化し、神仏として位置づけ記録してゆくのは、実は明恵独特の宗教的実践だったのではないか。仏教に価値付けられた夢をフィルターに、現実を改変していたのではないか。心理学、夢を利用した精神医療などとも関わる領域。

講義終了後は、集まったメンツで食事をしながらの議論(上記のような話題)。気の合った?仲間と、ああではないか、こうではないかと無責任に意見を交換しあうのは、本当に楽しい。最後の方は必ずファンタジー世界にベクトルが向いてしまうのだが、目下の話題はアニメ版『精霊の守り人』の出来のよさ。昨年はアニメ版『蟲師』が讃歎されていたが、どちらも「原作を超える」完成度であるのが共通点。一人の完結した世界から、複数の他者の目が入ることで、作品は大きく変貌を遂げる。それはたぶん、学問研究においても同じことだろう。幸せな出会いになるか、不幸な出会いになるかは未知数だが…。

※ 上の写真は、永楽屋 細辻伊兵衛商店の手ぬぐいで作ったオリジナルののれん。わが研究室の入り口に登場。ふむ、こうしてみると「ねこじゃねこじゃ」が真ん中の方がいいだろうか? 明日並べ直そう。
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淡々とした一週間:しかし確実に追い込まれている

2007-06-10 07:46:11 | 生きる犬韜
5日(火)は、ゼミ終了後、麻疹騒動のために延期となっていた新歓コンパ。うちの場合は、どういうわけかプレゼミ生から新入ゼミ生扱いとなる(決して、そのままゼミへ上がるよう強制しているわけではない)。2年生の女子はなかなか強烈な個性の持ち主で圧倒される。名付けて、霊感少女・天然少女・体育会少女トリオ。霊感少女は、修学旅行に訪れた寺院で霊に襲われたり、自宅の部屋ででも金縛りのうえ霊に耳元で囁かれたりするらしい。う~ん、ちょっと聞き取りしたい。飲み会終了後は、もはや恒例となっているカラオケ大会。3年生のT君の19系雄叫びは相変わらずすごい(若い)。初参加の2年生、I君もなかなかに美声(しかし、なぜ歌う曲が80~90''sのJ-POPばかりなのか?生まれたばかりだったろうに)。

6日(水)は、カラオケで帰りが遅かったことが災いし、徹夜で準備をして大妻の講義をするはめに。やはり完徹だと頭が働かず、いまひとつリズムに乗り切れない。しかし学生から、「先生のゼミは楽しそうでいいですね、うらやましいです」とのコメントが…。どうだろう、ゼミ生連中はけっこうキツい思いをしているのではないだろうか。
夕方は成城大学で三宝絵研究会。もはや研究発表はなく、論集刊行のための会議である。13日が最終〆切なのだが、恐らく寄稿はできないだろう。4~5月はいろいろイレギュラーなことがあり、妻も実家に帰ったままの状態が続いていて(喧嘩して出ていったわけではないです、念のため)、うまく時間を作って原稿を執筆することができなかった。投稿を辞退しようかとも思ったが、ぼくなどよりよほど多くの原稿を抱えている増尾さんに励まされ、ギリギリまで粘ってみることに。割り当てられた仕事ではないので、もちろん書きたい気持ちはあるのだ(長谷寺縁起のオーソリティーである藤巻さんからも資料提供を受け、いや書かねばならぬ、という思いを強くした)。問題は時間。とにかく時間。
帰りは増尾さんと一緒に小田急線で。増尾さんのアドバイスに従って藤沢に出たところ、なんと、すでに東海道線上り電車は終了してしまっていた。父に車で迎えに来てもらったが、申し訳ないことであった。

7日(木)は、自宅で『三宝絵』論集の執筆と特講の準備。夜、今クールいちばん真剣にみているドラマ、『わたしたちの教科書』がいよいよ佳境に。イジメに関わる子供たちの心が、いじらしくも切ない。教育というものの無力、矛盾に打ちのめされ、そして未来、可能性についても考えさせられる。

8日(金)の特講で、中国における夢のコードの完成体〈邯鄲の夢〉までたどりつく(実はこの日も徹夜した。さすがに40歳近くなると、週2回の完徹は応える)。原型の『幽明録』逸文「楊林」と比較しつつ、この「枕中記」が、単なる夢落ちではなく、荘子の夢論を正統に継承した周到な物語であることを確認した。小説を書ける人間はそれなりの知識と教養、文章力を身につけた存在でなければならず、史官的職務に就いている者が多くなるのも当然なのだが、殷代から丁寧にみてくると、どうしても夢と歴史叙述の本質的関係を想起せざるをえなくなる。「楊林」で異界の女性との間に生まれた子供たちがみな「秘書郎」に任官すること、「枕中記」で主人公が「秘書校書郎」や「起居舎人」を歴任することは、その暗示でなくて何であろうか。
夜は、今クールでいちばんくだらない、しかし最高に楽しかったドラマ『時効警察』の最終回。脚本には、テーマも真剣さも緻密さもあったものではないが、登場人物の魅力、そのあいだで交わされる軽妙なかけあいには強く惹き付けられる。もはやドラマという枠組みを逸脱した、キャラ=俳優の饗宴(競演?それとも狂演?)といったところか。

9日(土)朝は、いつものように『精霊の守り人』を視聴。いまだにまったくクオリティが落ちない、恐るべき作品である。この回では、主人公の王子チャグムが市井の風俗をみて歩く。特産の菓子の焼き方、規定の料金をまけさせる不思議な職業、コインを使った博打のルールとイカサマの仕組み。民放のアニメでは決して描かれないであろう細かい設定、しっかりした世界観。そしてそれらを殊更に強調せず、物語のなかで自然にみせ、しかも飽きさせない展開と演出力。ふつう、マンガやアニメにおいてSFやファンタジーを作る人間は、こうした日常的営みに一切関心を示さないので、描かないし、描こうと思っても描けない(ゆえに薄っぺらな内容にならざるをえない)。それができるのはホンモノの証拠である。
昼からは、上智史学会の6月例会。発表の様子は同会のブログに投稿しておいたが、吉野恭一郎君の報告、豊田先生の発表とも、なかなかに面白い内容だった。吉野君の〈規定のオチ〉を求めない姿勢は昔の自分をみるようだったし、豊田先生の〈講義〉も20年ぶりくらいに受け感慨深かった。次回はぼくの番。昨年は時間配分に失敗したので、今年はちゃんとせねば。

しかし、やっぱり仕事を引き受けすぎだ。講義が始まると、ほかに何もできなくなってしまう。今後は長期休暇中に書ける量のみ引き受けたいが、まあそういうわけにもいかないだろうな。
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ひとつ山を越す:将門と列子とアミターバ

2007-06-02 05:04:58 | 書物の文韜
先週と今週の2週間で、前期の4ヶ月間に幾つか存在する山のひとつを越えた。山の正体は、上智大学オープン・ユニバーシティの「千代田学入門」。これが木曜日に入ってくるので研究日がなくなり、さらに月末にかぶったため豊田とのダブル・ヘッダーも起こってしまった(普通の講義のダブル・ヘッダーは、別に大変でもないけれども。移動に時間がかかったりするとね……)。なんとか乗り切ったものの、2週間後には第二関門の「仏教史学入門講座」、6月末には第三関門の「書物文化論」(上智文学部の輪講)、7月初めには第四関門の「夢見の文化誌」、同月下旬には上智史学会での報告もある。それからようやくの夏休み…といっても、最初から最後まで原稿執筆期間だが。

さて、あらためて今週の話。5/28(月)~30(水)は普通に講義や仕事をこなした。27(日)が誕生日だったことは前回書いたが、それを知った(知らされた?)ゼミ生たちが、29(火)のゼミ終了後にバースデーケーキを用意してくれた。苺のたくさん入った巨大なショートケーキで、16等分して美味しくいただいた(ケーキカットは結婚式の前方後円墳ケーキ以来か?)。ありがとうございました。
31(木)は「千代田学入門」。先週は防人歌に関東の自立性を(無理矢理)確認したが、今回はその路線に乗りつつ将門の乱へ。しかし、ぼくがやるのだがら、普通に乱の経緯を追ったり、背景を考えたりはしない。それらは年表類で簡単に済ませて、本題は御霊化の過程、そして千代田への鎮座の理由である。実は、このテーマは昨年も扱ったのだが、今年も新しい史料や考えを加えて再挑戦した。中央貴族における将門観、物語のなかで超人的に変容を遂げてゆく将門像、そして自家の正当化のために利用される坂東武者の祖としての将門の姿……。面白いのは千葉氏で、一族をとりまとめるために妙見信仰を利用しているのだが、その妙見は祖・平良文が将門から受け継いだものだという(『源平闘争録』)。しかし、近年の川尻秋生さんの研究では、良文は貞盛・秀郷方に与していたらしく、千葉氏の動きの政治性が際立つ。ところで、神田明神の原型は中世江戸氏に遡ると考えられるが、この一族は千葉氏の系統を標榜している。恐らくは祖神のような存在として将門を祀ったのだろうが、もし良文が本当は敵方であったとの記憶が繋がっていたとすれば、その祭祀は当初より御霊信仰的色彩をまとっていたのかも知れない(殺した対象からの祟りを受けまいとする……そこまで史料から実証することはできないが、だとすれば神田明神の存在や、やはり将門の首をご神体に祀るという築土明神などの存在にも納得がゆく)。幕末の剣客千葉周作は千葉氏の末裔を標榜しているらしいが(ゆえに「北辰一刀流」。元々は相馬中村藩の剣術指南役の家柄。曾祖父や父の名にはちゃんと「胤」の字が付く)、将門にはどういう思いを持っていたのだろう? 玄武館は今の都営新宿線岩本町駅のすぐ近くだから、神田明神に近いといえば近いのだが……。

6/1(金)の「日本史特講」は、諸子百家の夢観の続き。王朝の占夢とは一線を画し、夢を哲学的対象に据える方向性を〈論夢〉と名付けて解説。前回は孔子・荘子を扱ったので、今回は列子。『列子』は老荘に先行する道家・列御寇の書と銘打っていながら、実は漢代以降の神仙思想や仏教思想まで取り込み、列子に仮託されて成立した偽書らしい。よって、随所に矛盾や一貫性のなさが目立つ。論夢についても、荘子が夢/現実を区別する知自体を否定するのに対し、夢の世界/現実の世界が厳然と存在することを前提に論理を展開しており、より単純かつ世俗的な印象を受ける。『列子』の論夢を考えるうえでのキーワードは「神遇」の解釈で、古くから「精神が睡眠中に身体より離脱し、様々な経験をすること」と考える説がある(最近のアジアの夢観に関する大部な研究書、河東仁『日本の夢信仰』もその立場に立つ)。しかし、『列子』の夢に関する言及を総覧すると、身体を介した経験である「形接」と対句的に用いられる、純粋な精神上の現象とみなしていることが分かる。唯一、華胥氏の国を説く黄帝篇のみに「神游」(睡眠中に精神を飛ばすこと)が語られるが、これは夢/現実を区別することができる聖王・黄帝だからこそ可能な行為であり、夢/現実の区別さえつかない一般の人間には叶うべくもない。こうした夢=精神現象とする荘子・列子の説によって、占夢の非合理性が批判されるが、彼らも夢が陰陽五行の動きに基づいて生じること、他界と繋がりを持ち、それゆえに予兆性を具備することは否定しない。そこから、夢を回路のひとつとして神仙修行に役立てる、茅山道教のようなベクトルが生まれてゆくのだろう。

最後に本の紹介。今週電車の中で読んだ小説、玄侑宗久の『アミターバ―無量光明』である。真宗の僧侶であるぼくにとっては、日常的に耳にする言葉……アミターバ・アミターユス、光明無量寿命無量、無量寿無量光仏、すなわち阿弥陀如来のこと。玄侑宗久の本は、彼が直木賞?をとった頃から読みたいと思っていたが、その後江原的な動きもみられたので知らず知らず遠ざかっていた。しかし、今月左の本が文庫化されたので手にとってみる。解説の中沢新一が書いているように、確かに「日本人の死者の書」というに相応しい。人間は死んだらどうなるのかという永遠の難問を、一人の老女の主観を通して描いてゆく(主人公の娘婿として慈雲なる僧侶が登場、老女の問いに答える形で最新の科学的知識を用い、死後の世界や心霊現象などの実在を解説しようとするのだが、その姿勢が真摯で好感が持てる。というより、僧侶として彼の気持ちが大変よく分かる。彼は玄侑宗久自身なのだろう)。少しずつ死に向かってゆく老女の意識の変成が非常にリアルに、細やかに描写されているため、老女への感情移入がすんなり出来て、ラストの臨死体験も奇異なものとは感じない。癒しを振りまく新興宗教系の本、最近のスピリチュアルな本(これはスピリチュアリズムの本じゃなくて、スピリチュアルな本と表記すべきなんだよね)と類似の題材を、純文学にまとめた力量はなかなかである。エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』ほどの衝撃はなかったが、いい本だな、という印象を持った。
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