仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

雑ぱくに春を迎える:近況報告

2008-02-25 18:03:43 | 生きる犬韜
あっという間に3月になってしまった。長かった千代田学小冊子の編集作業(タイトルは、独断で『土地の記憶をひらく―千代田学入門―』とした)もようやく終了、先週からの1週間あまりはほぼその仕上げに費やした。今回もInDesign、Illustrator、PhotoshopなどAdobeのソフト群にお世話になった。『GYRATIVA』4号の作成にさまざまな不具合があったので、新しくPSプリンタを導入するなど(LP-S3000PS。さすがに、InDesignの重いデータを美しく速やかに印刷してくれる。ストレスほとんどなし)、資本も労力もこれまで以上に費やしている。それなりの出来になって貰わなければ困る。最終校正を入れながら、必要な場合は執筆者と連絡を取り、2/28(木)、豊田地区センターの講義を終えてから出校し、研究室で印刷の白峰社さんと折衝。当初のページ数を大幅に上回ったため、見積もりを出して貰ったところかなりの予算オーバーになった。発行元の公開学習センターやセンター長の豊田先生とも相談、なんとか予算をかき集めてもらったのだが、今度はもともとの発行部数150部では少ないという話に。詳しいことは書けないが、翌日までかかって、印刷費も発行部数も2倍という形で落ち着いた。皆さん、お疲れさまでした。出来上がりが不安でもあり、また楽しみでもある(白峰社のNさんから、「印刷所では、ここまでのデータ作りませんよ」と褒められる? DTP作業を始めて16年、実は年季が入っているのだ。寡作だけれども…)。

29(金)は、上の作業を終えた後、遅れていたモノケン・シンポの発表要旨を書き上げて高木信氏に送信。タイトルは、「死者の主体を語れるか―他者表象における想像力とジレンマ―」。以下が要旨。
言語論的転回以降の歴史学においては、〈テクスト外〉に依拠して支配的物語りを動揺させ、相対化・更新することこそ歴史学者の責務であると考えられるようになってきた。しかし一方で、外部を万能のブラックボックスとみなし、パラダイムの組み換え可能性を丸投げしてしまう傾向もみえる。それは、本来言語化を拒む周縁を〈境界〉や〈ケガレ〉、あるいは〈怪異〉と名付け、内部化する民俗的心理と同質の営みだろう。〈テクスト外〉を、外部性を保ったまま語ることはできないのか。失われた厖大な時間の流れに埋没し、対象として認識さえされてこなかった死者たち。彼らを物語りの主体とすることは可能なのか、またそれは要請されたとおりの救済に繋がるのか。このことは、高木信氏の提言する〈亡霊〉の位置づけとも関わってくる。列島社会の祖先崇拝、祟り神信仰の原型ともいうべき死者との関係を伝える、中国の先秦竹簡群を素材に考えてみたい。
ゆっくりものを考える時間がないなかでいろいろ悩んだが、結局、このブログでつらつら殴り書きしていたことをまとめるような形となった。ここまでたどり着くことができるか、少々不安である。他のパネリストと報告タイトル、コメンテーターは下記のとおり。
・一柳廣孝氏「幽霊から心霊へ―近代日本における「霊」言説の変容をめぐって」
・樋口大祐氏「軍記文学における「亡霊」的なるもの」
・長島弘明氏「『雨月物語』と怪異」
・コメンテーター:中丸貴史氏・西野厚志氏
ビッグネームばかりなので少々気後れする。
来年度シラバスの入力作業を終了し、この日は帰宅。

ところで、2/24(日)~27(木)までは、妻が韓国に旅行していて留守だった。ここぞとばかりに、少し体重を減らそうと決意。当然、瘠せなければいけないほどメタボなわけもなく、健康診断でも「好きなものを飲んで食べていて大丈夫」といわれているのだが、ストレスのためか間食が多いような気がしており、食欲をコントロールできるようにしておきたかったのである。1食を200kcalそこそこになるよう調整して1週間。最初はもう少しキツイかと思ったが、案外楽にこの状態を維持できている。一見ストイックにみえるが、実はそうではなく、自分を律する欲求に快楽を得ているだけなのだが。60kgそこそこになるまで落としておこう。
そうそう、唐突だが、坂本美雨の『朧の彼方、灯りの気配』はよい。とくに、1曲目の「オーパス&メイヴァース」は最近のテーマ曲である。「砂だらけの窓からのぞく 幼いころの僕の部屋 声をたてずに僕が泣いてた ぼろぼろのお気に入りの 二枚のタオルに名前をつけて 孤独と暗闇に 眠るまで立ち向かっていた」というくだりには、何か奮い立つものがある。夜が怖い子供は感受性が強く、想像力がある。がんばれ夜の子供たち、そのうち暗闇は味方になってくれるかも知れないぞ。
さて、やはり遅れている供犠論研論集の書評、古代文学会叢書の論文、ぼくもがんばって仕上げてしまわねば。
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異界研西へ:死と公共性

2008-02-19 13:50:56 | 議論の豹韜
18日(月)は大学院入試の試験監督、合否判定会議のあと、4月にコミュニティカレッジで行う「異界からのぞく歴史―江戸の街角に怪異をみる―」の準備会(通称「異界研」)があった。1~2月と極めて多忙で準備ができなかったため、先週金曜の夜に図書館で史料を集め、日曜になんとかプレ発表の体裁を整えた。まだ2ヶ月は先の話なので詳細は書けないが、ぼくは、上智大学の裏手に当たる紀尾井坂の頂上、〈喰違見附〉に関する怪異を扱う。現在は単なる「土手の切れ目」に過ぎないが、かつてここは、江戸城外郭の御門のひとつだった。しかし、高麗門と渡櫓門から成る一般の枡形門とは異なり、左右の土塁が前後に食い違って枡形と同じ機能を果たしたので、門は2本の柱に貫を通した冠木門が建つのみであった。また、門へ至る橋も木や石ではなく土橋で、隣接する赤坂御門や四ッ谷御門は枡形だったせいもあり、異質な印象の漂う地域であったらしい。しかも、周囲は尾張藩・紀伊藩・彦根藩の広大な武家屋敷に囲まれていたため、夜になるとまったく人気のない深い闇に沈んでしまう。明治初年には、実際にその闇の中で凶刃が振るわれ、岩倉具視、大久保利通が襲撃を受けた。そんなことから、喰違には多くの怪異が語られるようになり、実はつい10年ほど前も、隣接するある旧家で幽霊が何度も目撃されている(らしい)。その幽霊には不明確な部分も多いのだが(幽霊だから当然か)、幕末に語られた怪異と繋がる部分もあり、喰違という土地の怪しげな来歴を浮かび上がらせる。まだちゃんと調査が済んでいないのだが、〈漢籍幽霊〉の件(これが何かは乞うご期待?...というほどでもないか)も含め、面白い話ができそうだ。

一緒に輪講を担当する工藤健一さんは幕末新々刀の刀匠源清麿・四谷正宗について、佐藤壮広さんは〈境界〉なるものの概念とキリスト教会にまつわる怪異について、土居浩さんは都市周縁部に設定される公共墓地の来歴について話をしてくださる予定。これも現状の紹介はできないが、面白い内容になりそうである。ひとしきり進捗状況を報告しあってから、死体が積み重なってゆく場所に公共性が生まれる、というコアな話題に突入。ちょうど、佐藤さんと土居さんは沖縄から帰ったばかりで、とくに土居さんは、摩文仁での遺骨収集に従事されてきたところだったのだ。公共性とは、個的なものの剥奪された先に立ち現れるのか、あるいは、個を権力のもとに結び直したところに築かれるのか。死者は破壊の象徴なのか、それとも結縁の核なのか。帰りの電車のなかで思い出したのだが、縄文時代後期の関東において、幾つかの小集落が保持していた遺骨を持ち寄って合葬し、共同のモニュメントとすることで大集落を形成するという事例があった。以前、それらの問題を扱いながら〈祖先〉の誕生について論じたことがある。いつの時代も、共同性は骨によって作られるのかも知れない。

ところで、今回ぼくらのする話は、すべて江戸城の西側と関係がある。西は五行でいえば金気の方角だから、日本刀とは密接に関わると思われる。墓は日没の方向、ということだろう。怪異は何か関係があるのだろうか?
※写真は、去年「千代田学入門」の野外散策時に撮影した喰違見附跡。
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たんたんと:落語と採点と私

2008-02-15 20:23:30 | 生きる犬韜
後期の授業を終え、入試その他の事務、および自分の原稿をたんたんとこなす日々が続いている。学部卒業後15周年ということで「銅祝実行委員」なるものを引き受けることになり、さらに組合の広報紙からも原稿を頼まれて、相変わらず仕事は増え続けるばかりだが、まあ前向きに片付けてゆくしかないだろう…ぅぅ。

先週いちばん苦しかったのは、やはりレポートの採点だ。いくら面白いものもあるとはいえ、200通を超えるともう苦行である。全学共通日本史については、「楽に取れる単位」という噂が広がっているようで、ほとんど出席もしないのにレポートを提出してくる学生が多くいたため、今回はかなり厳しく採点した。ふだんはC以下を付けることなど滅多にないのだが、今回はD・Fがごろごろ出ている。安易に単位を与えてしまうことは、学生の現在と未来を軽んじ、冒涜することになってしまう。自業自得ということで、再履修に意欲を燃やしてもらいたい。ぼくらが読んでいて心を動かされるのは、単に「勉強してある」だけでなく、課題を自らの問題として引き受け生の声を絞り出しているレポートである。例えば今回では、アイヌの伐採儀礼を扱った優れた作品の「まとめ」に、こんな文章が書かれていた。
……同時に、人間は自らが樹木伐採に対して抱いた思い、言い換えれば、「伐採されたくない」という「木の思い」を想像することによって抱いたためらいの感情を振り返ることを忘れてしまったようである。だから「木の思い」とは、様々に人間の自然に対する思いを映し出す鏡だったのではないか。それゆえ「木鎮め」は、単に伐られゆく木を鎮めるだけの儀式ではなく、うしろめたさと伐採の欲望を併せ持つ人間が、自らの心を鎮めるために行った儀式でもあったのではないか。
 では、私たちが多くを知ってしまった今、もはや木は何も「しゃべる」ことはないのだろうか。そうではない。人間は、常に自分を世界の中心におき、そこから見える世界が全てだ思い込んでいる。しかし、それで全てを知ったことになるのだろうか。私たちは世界に語りかけること、つまり疑問を持つことを忘れ、目の前にあるものを無批判にひたすら享受するか、別方向に逃避しようとする傾向にある。高校時代の友人と再会した時、彼女が放った「大学の勉強のように難しい話はわからないから、もっと楽しい話をしよう」という言葉は、私に大きなショックを与えた。その態度が、世界に積極的に語りかける姿勢をも失わせているように思う。歴史は、向き合うだけですべてを教えてくれそうなものである。しかし、自分で質問表を作り積極的に語りかけなければ、歴史が「しゃべり出す」ことはない。同様にして、もはや人間に語りかけられることのない樹木も「黙って」しまったのだろう。……
長い引用になってしまったが、無言で伐り倒されてゆく樹木と、すれ違い隔たってゆく友人、そして時間の彼方に消え去ってゆく過去が、彼女のなかでは同じ次元で捉えられている。これこそが学問をする姿勢だろう。もちろんここで語られているのは、彼女の固有の言葉であり、固有の経験だが、同じような思いを何度も抱きながら、ぼくもここまでやって来た(「私に大きなショックを…」のところに限定すれば、教員という職業はそうした経験の繰り返しでもある)。大切なのは、閉じてしまった相手(友人であり、過去であり、植物。すなわち他者である)を前にこちらも閉じてしまわないことだろう。そうした姿勢を維持するにはかなりの体力が必要だが、それを支える喜びもきっと待っているのだ。

11~12日は完徹して18時過ぎに採点表を提出、そのまま大学に居残って『歴史家の散歩道』の校正を終えた。最近は11時近くまで研究室に詰めていることもしょっちゅうだが、なんと、運転免許を取得した妻が駅まで迎えに来てくれるので心強い。14日は修士論文の口頭試問の後、法蔵館の論集の校正を終えるべく居残ったがかなわずまた徹夜。未明にようやく投函して今日は一般入試の二次試験だった。ところで、朝方、家を飛び出すときに放映しているNHKの『ちりとてちん』は、何だか最近とてもいい話になっている。とりとめもなくて恐縮だが、ぼくは小学生の頃から落語が好きで、志ん生・文楽・円生のテープを聞き(お気に入りは志ん生の「鰒のし」と円生の「掛取萬歳」だった)、幾つかはコピーして友人の前で演じてみせたりしていた。今となっては恥ずかしい話だが、結婚前によく妻に長電話をして、電話口で何席か披露したことだってある。研究仲間にも落語ファンは多く、古代文学の武田比呂男さんは昇太のファン、近世史の須田努さんは先代の馬生のファンである。学部時代に日本美術史を教えていただいた故佐藤昭夫先生も、確か志ん生のファンで、よく研究室で落語談義をした覚えがある。そんなこんなで『ちりとてちん』は楽しみに観ているのだが、それにしても和久井映見はいい女優になったものだ(ぼくらの年代では『夏子の酒』のイメージが強い)。狂言公演の前説ですでに落語家のようだった茂山宗彦もよい。あまり知識のなかった上方落語の演目も分かって、勉強にもなる。せわしない毎日の清涼剤である。今週の草若師匠が逝くエピソードは、最初は唐突過ぎて「また病死パターンか」とげんなりしたが、あの世への主観を落語的に「陽気に!」表現していて出色だった。落語的陽気さとは、庶民感覚のはかなさ、悲しみに支えられた強がりであり、開き直りであり、そして逃避でもある。徒然亭の家紋は「硯に向かひて…」でひぐらしだが、そうした切なさを踏まえて設定されたのだとしたら、なかなかに凝った伏線だ。
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草木成仏:良源と樹木と長谷寺観音の意外な関係?

2008-02-08 15:02:25 | 議論の豹韜
入試関係の業務に携わりながら、200通にもなるレポートの採点、『狩猟と供犠の文化史』の書評、某氏還暦論集の校正、『歴史家の散歩道』の校正、千代田学小冊子の編集を並行して進めている。みんな12日(火)が締め切りなので、大変だけれども仕方ない。

レポートの方は、今のところ非創造的ブリコラージュ(すなわちコピペのツギハギ)には当たっていない。割合に読ませる文章が多く、安心しているところである。ついこの間も、特講のレポートに面白いものがあった。東洋史専攻にもかかわらず、ずっとぼくの講義に出てくれている3年生のY君のものだ。先日も書いたとおり、特講では古代から中近世に至る藤原鎌足像の変遷を扱ったが、とくに、藤原仲麻呂が漢籍を駆使して作り上げた『家伝』の分析に力を注いだ(「大織冠伝」は、仲麻呂が過去をデザインし直すことによって、現在・未来のあるべき姿へ繋げようとした歴史叙述なのだと)。Y君はまず、中沢新一の『僕の叔父さん網野善彦』に言及するが、その視線はやはりブログに書いた中沢新一作品=シャーマニズム文学説に重なる。そのうえで彼は、「大織冠伝」について、「この書物は『僕の曾祖父さん藤原鎌足』だったのではないか」と結論するのである! 大笑いしたが、まさに我が意を得たり、の感がある(シャーマニズムや占いとの関わりを通して、東アジアにおける歴史叙述の前近代的特性を明らかにするのが、講義の隠しテーマだったのだから)。

ところで某氏還暦論集に掲載される「長谷寺縁起」の分析だが、ある必要があって浄土論との接続を試みていたところ、祟る木霊の解脱が日本天台の「家説」〈草木成仏説〉に関係することに思い至った。気づいてみると当たり前のことなのだが、なぜ今まで思いが及ばなかったのかと不思議でならない(恐らく長谷寺が、華厳や法相との関連でのみ把握されてきたためだろう)。徳道が祟りなす樹木に語りかける、「礼拝威力、自然造仏」との言葉は、今まで観想行の範疇でしか捉えていなかったが、非情発心修業成仏との関連で考えた方が理解しやすい(しかし「成仏」でなく「造仏」としているところが、未だ仏や有情の供養を前提とする「非」発心的体裁で、過渡期の不安定な解釈ともみられよう)。またもしそうだとすれば、やはり『三宝絵』長谷寺縁起の記述は、天平五年の「観音ノ縁起并ニ雑記」そのものというより、為憲の述作にかかる割合が高くなろう。彼が参加していた勧学会は『法華経』と念仏を勉強・実践し詩文をなす、天台僧と文人貴族(大学寮文章院の学生ら)からなるサロンであった。とくに、『三宝絵』の形成には、尊子内親王への授戒の師となった良源が大きな影響を与えていると考えられるが、彼は応和の宗論で法相の仲算と論を戦わせ、草木発心修行成仏説(単に草木も真如の発現でありそのままで仏であると捉えるのではなく、草木自体が主体的に発心・修行して成道するという考え方)を展開した。没後、弟子の覚運がその論旨をまとめた『草木発心修行成仏記』も残っている(もちろん仮託との説もあるが)。彼を輩出したのは近江国浅井郡の〈木津〉氏だが、『新撰姓氏録』によれば東漢氏系渡来氏族で、高島郡木津郷を本貫としたらしい。高島といえば、かつては造東大寺司関連の高島山作所が置かれていた。材木の切り出しや運搬、水上での管理を担っていた氏族とすれば、良源が草木成仏説を宣揚したのも頷ける(源信が二上山の麓で生まれ、『往生要集』を書いたように…というのは極論かな)。そして、十一面観音となる祟りなす樹木こそは、その高島に現れ、木津川ルートを介して(文章には陸路と記されるが)初瀬に至るのである。「縁起」前半部の巨樹の遍歴譚自体、良源の周辺から出たものなのかも知れない。

『狩猟と供犠の文化誌』にも、草木成仏に関わる論文が複数ある。大変だが並行してこなしていると、お互いの作業が思わぬところで関連して化学反応を起こし、停滞していた思考が大きく進展することも多い。

※写真は、京都の八坂神社境内にあった神木。昨年6月に撮影。
Comments (2)
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体調崩す:仕事も心配も増える

2008-02-04 06:09:48 | 生きる犬韜
2/3(日)、早朝にハッと気づいたら雪景色になっていた。ここ数日、中野区区民サークル〈あけぼの会〉での講演、卒論の口頭試問などがあり、準備で四谷近辺に泊まり込んでいたりしたので、ニュースや天気予報をみる機会がなく、かなり驚いた。ぼくはたぶん精神的に子供に近いので、雪だの台風だのが来るとワクワクしてしまう。とくに、自分に外出の用事がなければなおさらである。しんしん…というよりかなりの勢いで降ってくる雪を、こたつのなかよりしばし堪能。自坊の境内もすっかり白く埋もれた。

それはそうと、このところ体調が芳しくない。昨年の急性胃炎ほどではなかったが、金曜の晩にも酷い胃痛に襲われた。〆切間近の厖大な仕事を前に根を詰めて作業をしていた(しかしあまり進捗がない)せいもあるだろうが、どうやら風邪に撫でられているようで頭痛も覚える。おまけに、土曜の学科会議でさらなる仕事が舞い込んだ。3月のFD委員会で史学科代表として報告をせよとのこと、報告書作りにはさほど時間を要さないだろうが、余裕のない精神状態なのでストレスがかかる。胃痛、頭痛もストレスのせいかも知れない。しかし、その報告の内容「学生のモチベーションをいかに向上させるか」は、ぼくにとっても極めて重要な問題なのでやりがいはある。このブログでも時々構想を述べているように、自分では細々と工夫しているつもりなのだが、充分に効果を得られていないこと、学部や大学全体で取り組んだ方がよいこともある。折しも東大教育学部の調査結果が公表され、授業に関心が持てず勉強をほとんどしない学生の実態が明らかになった(もちろんそんなことは前から分かっているのだが)。「一生懸命やっている子もいるんだよ」とか、「学生側の問題でしょ」で済まされることではない。

…しかし、物研シンポの報告はどうしようかな。FD委員会はシンポの5日前だし、考える時間がまったくないぞ。
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