仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

休みなしの日々、しかし。

2010-11-28 23:00:21 | 生きる犬韜
22日(月)から、休日の一切ない2週間が始まった。昨日・今日と土・日が入試のうえに、ふだん研究日にしている木曜に、全学共通の輪講科目「環境と人間」が入ってきているためだ。とうぜん、23日(火)の祝日も通常授業。相変わらず消耗の激しい日常を送っているが(そのため、院ゼミでのぼく自身の報告のクオリティが、だんだん下がってしまってきている。参加者の院生諸君には申し訳ない限り)、それでも、今週は幾つか心に残ることがあった。

まず火曜日。盟友工藤健一さんの結婚パーティーが開かれ、ちょうど上智の授業の日だった中澤克昭さんと、19:00前、飯田橋のカナルカフェに駆け付けた。会場にはすでにモモも来ており、会の推移を見守りつつ美味しい料理に舌鼓を打ったが、それにしても招待客の多彩なこと。研究者はぼくらを含めて4人しかおらず、あとは花嫁さんの勤めるM証券の関係者のほか、寿司職人やアーティスト、アナウンサーらが勢揃い。ロックで平家語りも行う、工藤さんの多才ぶりを反映した顔ぶれだった。花嫁さんも文句なくお美しい。どうぞお幸せに。
…などと願っているうち、前日まで名古屋で歴史科学協議会の大会に参加していたモモの、座骨神経痛(ヘルニア・脊椎間狭窄症併発)が一気に再発した。レストランから一歩たりとも動けない様子のモモのためにタクシーを捕まえ、そのまま高速に乗って一路三鷹の自宅へ。着飾った男女がレストランからタクシーに乗り込み、後部座席で寄り添って高速をぶっ飛ばしてゆくのだから、端からみるとまるでバブル時代のトレンディードラマのようだったろう(役者が美形かどうかはともかく)。しかし内実は、痛みにひぃひぃいう女房を支え、なけなしの1万円を支払ってブルーになっているだけだったのである。帰宅後も痛みは一向に治まらず、救急病院を探して再びタクシー移動。まさにてんやわんやの一日であった。

そして土曜日。公募制推薦入試の採点・面接・判定会議終了後、中村生雄さんを偲ぶ会に駆け付けた。残念ながら、第1部のシンポジウムはほとんど聞くことができなかったが、ラストの30分だけでも、どれだけ濃密な(潜在的なものを含めれば、なおさら)空気が流れていたかは窺い知ることができた。三浦佑之さんへお送りした『歴史評論』の拙論が資料として配付されていたのには、本当に恥じ入るばかりだったが、ひとつの物語の終わり/始まりには多少なりとも寄与できたのかも知れない。二次会・三次会では、主催者である三浦さん、供犠論研の赤坂憲雄さん、原田信男さん、中路正恒さん、岡部隆志さん、パネリストを務められていた兵藤裕己さん、中村さんのお弟子さんのcocon12さん、吉村晶子さん、村田小夜子さんらと、親しくお話ができたのもよかった。とくに初対面だった赤坂さんに、長年の『叢書・史層を掘る』愛を打ち明けられたことはありがたかった。卒論を書いているときあのシリーズを手に取らなければ、ぼくは研究者になっていなかったろう。なっていたとしても、今のような道へは進んでいなかったはずだ(中澤さんやmonodoiさんも、きっとそうだろうと思う)。「怠けないで、本を書いてね」と激励のお言葉を頂戴し、がっちり握手を交わした。
ぼくらの学問は、本当に、たくさんの先学の「格闘の結果」によって支えられている。最初は、「偲ぶ会」に何となく腑に落ちない印象を持っていたのだが、集まったたくさんの皆さんが、中村さんのお仕事によって結びつけられていたのは確かだろう。そのことをみんなが目の当たりにした、自覚しただけでも意味があったのだと思う。死者の言葉の簒奪になるのでここには書かないが、中村さんの最期の言葉をそのブログで知って、ぼくはその「教育者」としての姿に戦慄した。中村さんからぼくが勝手に背負ってしまった負債は、最初から返済不可能なものだけれど、せめてその重さは常に忘れずに感じていたい。あとは、それとは比べものにならないくらいに深い痛み、喪失感を抱えている皆さんに、早く安らかな日常が戻ることを願うばかりだ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

びっくりした

2010-11-20 23:12:11 | 生きる犬韜
いきなり停電ですよ。

20:00過ぎだろうか、夕食を摂って一服していたら、突然あらゆる電気が消えた。一昨日にも三鷹・武蔵野地域で同じような停電が起きていたので、「これはまたか」と思って外に出てみると、案の定、周辺一帯のすべての電気が消えている。気のせいか、十五夜に近い月がいつもより明るくみえた。

近くの天文台通りへ出てみると、偉いもので、交通量の多い西野の交差点には、早くもパトカーが来て交通整理を行っていた。コンビニもTSUTAYAも真っ暗だが、もの珍しいのか心配なのか、この時間帯にしてはありえない数の人が道に溢れだしている。子供ははしゃいで自転車を乗り回し、お年寄りも集まって、そこかしこで立ち話をしているありさま。暢気なもので、まるでお祭りである。

こちらはPCが使えないと仕事にならないのだが、外をうろついていても寒いだけなので自宅に戻り、ノートに残っていた昨日のファイルを使って、出来るところから作業を再開した。そういえば、昔は台風だ大雨だとしょっちゅう停電があって、家族で蝋燭を囲んでいたな…と、懐かしい気分に浸っていたのはわずかの間。真っ暗闇だと異様に目が疲れるし、暖房が効かないので寒くもなってくる。困ったなあと思っていると、1時間半くらいで電気が戻った。

一昨日の停電は工事中に誤って地下ケーブルを破損したとのことだが、今度もそうだろうか。まったく、気を付けてもらいたいものだ。環境環境と叫びつつ、大いに電力文化に依存している私であった。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報告ラッシュ一段落

2010-11-19 13:34:05 | 生きる犬韜

身体の調子は、良くも悪くもならず相変わらず。ふだんはどうということはないのだが、時々、堰を切ったように咳が出る。病院にゆくと喘息との診断なのだが、どうも咽の奥が炎症を起こしている自覚症状がある。それから、勤務校の健康診断では一気に血圧が上がった。昨年までまったく何の問題もなかったのに、いろいろ身体に問題が出始めているようだ。気を付けねば。

先週から今週にかけて、明治大学の情報コミュニケーション学科での講演、上智史学会大会での部会報告、儀礼研究会での研究発表をとりあえずこなした。これほど詰め込んでいては粗製濫造に陥るのはやむをえないが(と自分が云ってはいけないな)、何とか一定の責任は果たせたように思う。

明治大学での講演は、「場所の記憶と怪異の想起」というタイトル。何度も現場に足を運び、折に触れて文献的にも調べ続けている、喰違見附の問題を扱った。今回は河野哲也さんとのアフォーダンスをめぐる意見交換に応えて、場所を構成する諸要素の喚起する感性的・知識的諸情報が、個人の経験や物語創出、あるいは物語読解にどのように関連してくるかを考えた。とくに念頭にあったのはダイクシスで、アフォーダンスを物語に構造化するダイクシスが、喰違周辺へ怪異を集積することになるプロセスを追った。その仕組みは書かれたものだけでなく、語られたものにもあるはずである。また類似のアフォードは、対応するダイクシスを介して類似の記憶を想起し、異なる場所の感覚を結びつけてゆく。恐らく喰違周辺を訪れたことのないハーンが、幾つかの素材からその場所の恐ろしさを正確に認識し、『怪談』に書き留めえたのもそれゆえだろう。講演の性格上、煩瑣になる認知物語論的な整理はしなかったが、アフォーダンスが自然/文化の区別を相対化するように、語り/文章の境界を架橋しうる手応えは得られた。コーディネーターの須田努さんに感謝。

上智大学史学会での部会報告は、「毛皮をめぐる種間倫理」。報告者が足りないので誰かやってくれとの依頼を受けたため、立教の「交感論」シンポでかけたネタを、毛皮を中心にまとめなおして発表した。まあ、90分で話す内容を30分に整理したので、聴いている方々は大変だったろう。案の定、思い切りアウェイな雰囲気を味わってしまった。来て下さった方(とくに学部1年生)、ごめんなさい。あれは、プレゼンの見本にはなりませんよ。

儀礼研究会での報告は、「霊を送る祭儀の形式と具体相」。やはり適任者がいない間の「埋め草」なので、4月に開かれた御柱シンポジウムでの発表内容を、儀礼研究の方法論を考える形に再構成して話した。薙鎌の由来については『諏訪市博物館研究紀要』5(本年10月刊)にまとめたので、今回は動物・植物、そして人間の〈送り〉を比較することに主眼を置いた。大雑把な話だったが、参加者には一定の材料を提供できたようだ。緻密な発表より、粗が目立つものの方が、議論が弾むこともある(言い訳?)。とくに、今回から参加の三田村雅子さんには、『うつほ物語』をはじめとする物語世界の植物や動物、音楽、牽引モチーフなどについて多くの刺激をいただいた。『うつほ』については、『古代文学』49号(本年3月刊行)掲載の拙論(「ヒトを引き寄せる〈穴〉」)で少しだけ触れたが、樹木の問題としてもちゃんと書いておかねばならないだろう。あとは、猪股ときわさんが注目されているように、やはり樹木と音楽の関係は追究せねば。楽器が動物の骨・皮や樹木の肉体を素材とすることを考えると、音楽とは異類から教示してもらうものだったのだろう。分節言語を手にするかわりに鳴き声を失ったヒトが、楽器を介して再び野生のリズムに戻ろうと生み出したもの。そう想像すると、神話と音楽の関係を重ね合わせた、レヴィ=ストロースの思考にも近づいてゆけそうだ。

さて、あとは来月の古事記学会まで研究報告がない。環境関係の輪講等々があるので余裕はないが、滞っている原稿をできるだけ進めなければ。

※ 写真は最近ご恵送いただいた文献。自身の不勉強を痛感するものばかり。また精読させていただきます。三浦さんの新著からは、『古事記』を扱うための覚悟を痛感させられる。後輩の渡辺滋君、研究仲間の土居浩さんからは、いつも突き上げにあっているので気を引き締めねば。三田村さんからは夢の本をいただいたが、夢については一昨年、中国と日本の比較研究を講義で扱ったまま文章化していない。かなり深くまで追究したつもりだが、やり残していることは多い。なお、『歴史評論』12月号は特集「古代の生命と環境」を組んでおり、最新の拙稿「生命と環境を捉える〈まなざし〉」も掲載されている。
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの連休

2010-11-03 12:49:27 | 書物の文韜
勤務校が学園祭なので、祝日も併せて久しぶりに連休となった。合間に学科長会議・教授会の議事録作成、『上智史学』の念校作業、来年度宗教史懇話会サマーセミナーの事務作業などもこなしつつ、前半は専ら書庫=書斎の整理に費やし、後半は原稿執筆と11月の講演・報告の準備を続行。11日に明治大学情報コミュニケーション研究科主催特別連続講義「情報社会の諸相―性・聖・生―」(「場所の記憶と怪異の想起―喰違見附を中心に考える―」)、13日には上智大学史学会大会(「『毛皮』からみる種間倫理―東アジアにおける神話の一祖型―」)、18日に発足したばかりの儀礼研究会例会(「霊を送る祭儀の形式と具体相―比較の有効性と問題点―」)と、10月のシンポ・ラッシュに引き続き講演・発表が控えている。全学共通科目の輪講「環境と人間」でも、仏教における自然・人間・生命の捉え方について話をしなければならない。さらに論文や書評の依頼も来ているが、ありがたいとは思いつつ、返事を出す気も起こらない日々である。喘息の発作はようやく治まってきたので、この休みの間に元気を取り戻そう。

さて、過日次兄よりとても高価な『社会学事典』(丸善)をいただいた。弘文堂や有斐閣のものに比べて、概念や方法を解説した「読む事典」のニュアンスが濃い。社会学を専門にする研究者だけでなく、ウェーバー、デュルケーム、ジンメル、パーソンズ、ギデンズ、ブルデューなど、その思想自体を対象とする哲学者・歴史学者、彼らの提示した概念を援用している隣接諸科学の研究者にも、利するところが大きいだろう。ちなみに、兄はブルデュー関連の項目で「再生産」などを執筆している。参照されたい。
その右は、つい最近勤務校の購買で仕入れたもの。恐らくナイトメア叢書と同じデザイナーの装幀だろう、それらしい雰囲気になってしまっているが、本草学を核に据えて説話や民間伝承、そして民俗学の枠組みを照射しようとする優れた書物である。環境文化論としても重要だろう。手に取ったのは、第1章「『山人の国』の柳田国男」が最近の関心と直結するからだが、他の収録論文も面白そうだ。ぼくにとって未だに見通しの利かない江戸期の言説世界を照らす、灯台のひとつになってくれそうである。しかしこの人、南台科技大学の教員で本草学に詳しいのに、論のうえで漢籍との繋がりがほとんど示されない。あえてそちらの方には意識を向けていない、ということだろうか。

その他、ローレンツの名作『人イヌにあう』を新版で読み直し、東方書店で楊宝玉『敦煌本仏教霊験記校注並研究』も購入。トマス・ピンチョンの完訳シリーズにも手を出したいのだが、小説なのにあまりに高いので二の足を踏んでいる。古本屋で安く仕入れるか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする