22日(月)から、休日の一切ない2週間が始まった。昨日・今日と土・日が入試のうえに、ふだん研究日にしている木曜に、全学共通の輪講科目「環境と人間」が入ってきているためだ。とうぜん、23日(火)の祝日も通常授業。相変わらず消耗の激しい日常を送っているが(そのため、院ゼミでのぼく自身の報告のクオリティが、だんだん下がってしまってきている。参加者の院生諸君には申し訳ない限り)、それでも、今週は幾つか心に残ることがあった。
まず火曜日。盟友工藤健一さんの結婚パーティーが開かれ、ちょうど上智の授業の日だった中澤克昭さんと、19:00前、飯田橋のカナルカフェに駆け付けた。会場にはすでにモモも来ており、会の推移を見守りつつ美味しい料理に舌鼓を打ったが、それにしても招待客の多彩なこと。研究者はぼくらを含めて4人しかおらず、あとは花嫁さんの勤めるM証券の関係者のほか、寿司職人やアーティスト、アナウンサーらが勢揃い。ロックで平家語りも行う、工藤さんの多才ぶりを反映した顔ぶれだった。花嫁さんも文句なくお美しい。どうぞお幸せに。
…などと願っているうち、前日まで名古屋で歴史科学協議会の大会に参加していたモモの、座骨神経痛(ヘルニア・脊椎間狭窄症併発)が一気に再発した。レストランから一歩たりとも動けない様子のモモのためにタクシーを捕まえ、そのまま高速に乗って一路三鷹の自宅へ。着飾った男女がレストランからタクシーに乗り込み、後部座席で寄り添って高速をぶっ飛ばしてゆくのだから、端からみるとまるでバブル時代のトレンディードラマのようだったろう(役者が美形かどうかはともかく)。しかし内実は、痛みにひぃひぃいう女房を支え、なけなしの1万円を支払ってブルーになっているだけだったのである。帰宅後も痛みは一向に治まらず、救急病院を探して再びタクシー移動。まさにてんやわんやの一日であった。
そして土曜日。公募制推薦入試の採点・面接・判定会議終了後、中村生雄さんを偲ぶ会に駆け付けた。残念ながら、第1部のシンポジウムはほとんど聞くことができなかったが、ラストの30分だけでも、どれだけ濃密な(潜在的なものを含めれば、なおさら)空気が流れていたかは窺い知ることができた。三浦佑之さんへお送りした『歴史評論』の拙論が資料として配付されていたのには、本当に恥じ入るばかりだったが、ひとつの物語の終わり/始まりには多少なりとも寄与できたのかも知れない。二次会・三次会では、主催者である三浦さん、供犠論研の赤坂憲雄さん、原田信男さん、中路正恒さん、岡部隆志さん、パネリストを務められていた兵藤裕己さん、中村さんのお弟子さんのcocon12さん、吉村晶子さん、村田小夜子さんらと、親しくお話ができたのもよかった。とくに初対面だった赤坂さんに、長年の『叢書・史層を掘る』愛を打ち明けられたことはありがたかった。卒論を書いているときあのシリーズを手に取らなければ、ぼくは研究者になっていなかったろう。なっていたとしても、今のような道へは進んでいなかったはずだ(中澤さんやmonodoiさんも、きっとそうだろうと思う)。「怠けないで、本を書いてね」と激励のお言葉を頂戴し、がっちり握手を交わした。
ぼくらの学問は、本当に、たくさんの先学の「格闘の結果」によって支えられている。最初は、「偲ぶ会」に何となく腑に落ちない印象を持っていたのだが、集まったたくさんの皆さんが、中村さんのお仕事によって結びつけられていたのは確かだろう。そのことをみんなが目の当たりにした、自覚しただけでも意味があったのだと思う。死者の言葉の簒奪になるのでここには書かないが、中村さんの最期の言葉をそのブログで知って、ぼくはその「教育者」としての姿に戦慄した。中村さんからぼくが勝手に背負ってしまった負債は、最初から返済不可能なものだけれど、せめてその重さは常に忘れずに感じていたい。あとは、それとは比べものにならないくらいに深い痛み、喪失感を抱えている皆さんに、早く安らかな日常が戻ることを願うばかりだ。
まず火曜日。盟友工藤健一さんの結婚パーティーが開かれ、ちょうど上智の授業の日だった中澤克昭さんと、19:00前、飯田橋のカナルカフェに駆け付けた。会場にはすでにモモも来ており、会の推移を見守りつつ美味しい料理に舌鼓を打ったが、それにしても招待客の多彩なこと。研究者はぼくらを含めて4人しかおらず、あとは花嫁さんの勤めるM証券の関係者のほか、寿司職人やアーティスト、アナウンサーらが勢揃い。ロックで平家語りも行う、工藤さんの多才ぶりを反映した顔ぶれだった。花嫁さんも文句なくお美しい。どうぞお幸せに。
…などと願っているうち、前日まで名古屋で歴史科学協議会の大会に参加していたモモの、座骨神経痛(ヘルニア・脊椎間狭窄症併発)が一気に再発した。レストランから一歩たりとも動けない様子のモモのためにタクシーを捕まえ、そのまま高速に乗って一路三鷹の自宅へ。着飾った男女がレストランからタクシーに乗り込み、後部座席で寄り添って高速をぶっ飛ばしてゆくのだから、端からみるとまるでバブル時代のトレンディードラマのようだったろう(役者が美形かどうかはともかく)。しかし内実は、痛みにひぃひぃいう女房を支え、なけなしの1万円を支払ってブルーになっているだけだったのである。帰宅後も痛みは一向に治まらず、救急病院を探して再びタクシー移動。まさにてんやわんやの一日であった。
そして土曜日。公募制推薦入試の採点・面接・判定会議終了後、中村生雄さんを偲ぶ会に駆け付けた。残念ながら、第1部のシンポジウムはほとんど聞くことができなかったが、ラストの30分だけでも、どれだけ濃密な(潜在的なものを含めれば、なおさら)空気が流れていたかは窺い知ることができた。三浦佑之さんへお送りした『歴史評論』の拙論が資料として配付されていたのには、本当に恥じ入るばかりだったが、ひとつの物語の終わり/始まりには多少なりとも寄与できたのかも知れない。二次会・三次会では、主催者である三浦さん、供犠論研の赤坂憲雄さん、原田信男さん、中路正恒さん、岡部隆志さん、パネリストを務められていた兵藤裕己さん、中村さんのお弟子さんのcocon12さん、吉村晶子さん、村田小夜子さんらと、親しくお話ができたのもよかった。とくに初対面だった赤坂さんに、長年の『叢書・史層を掘る』愛を打ち明けられたことはありがたかった。卒論を書いているときあのシリーズを手に取らなければ、ぼくは研究者になっていなかったろう。なっていたとしても、今のような道へは進んでいなかったはずだ(中澤さんやmonodoiさんも、きっとそうだろうと思う)。「怠けないで、本を書いてね」と激励のお言葉を頂戴し、がっちり握手を交わした。
ぼくらの学問は、本当に、たくさんの先学の「格闘の結果」によって支えられている。最初は、「偲ぶ会」に何となく腑に落ちない印象を持っていたのだが、集まったたくさんの皆さんが、中村さんのお仕事によって結びつけられていたのは確かだろう。そのことをみんなが目の当たりにした、自覚しただけでも意味があったのだと思う。死者の言葉の簒奪になるのでここには書かないが、中村さんの最期の言葉をそのブログで知って、ぼくはその「教育者」としての姿に戦慄した。中村さんからぼくが勝手に背負ってしまった負債は、最初から返済不可能なものだけれど、せめてその重さは常に忘れずに感じていたい。あとは、それとは比べものにならないくらいに深い痛み、喪失感を抱えている皆さんに、早く安らかな日常が戻ることを願うばかりだ。