3月の福島原発事故直後、「終わりなき日常は終わった」といった言説をよく目にしたが、「ぼくはそもそも、終わりなき日常など生きてはいなかった」と大いに反発を覚えたものだ。しかし気がつくと、目の前にある問題を何とか片付けているうちに1週間が終わってしまうという、「ループ」にはまりこんでいる。相変わらず、1つの問題についてじっくり考えたり、1本の論文、1冊の本について、充分吟味しながら読み進めるという時間が確保できない。いや、もしかしたら時間はあるのかも知れないが、それを作る精神的余裕がないのだ。そういうときに原稿依頼やシンポジウムの依頼を受けたりすると、自分をループの外に連れ出してくれるような気がして飛びつくわけだが、一方では意識や関心が活性化して新しい情況への手かがりを掴めるものの、一方では精神的にも身体的にも自分を追い込んでゆくことになってしまう。5月になって、新しい依頼を3つ頂戴し、1つは辞退して2つはお引き受けした(辞退したのは、単純にスケジュールが調整できなかったからである)。これで今年度の予定は、上半期に書き下ろし単行本1冊、7月末に環境史の論文と東北での講演、9月末に禁忌に関する論文、11月にシンポジウム2本、3月に歴史学理論についての論文1本、空いているところで他の書き下ろし2本を進める、といったスケジュールになる。現在の校務の情況からすると、これくらいが限界だろう。年末年始にはシンポジウム報告の論文化作業が入ってくるはずなので、恐らく他の2冊の単行本は延び延びになるに違いない。次から次へと本を出してゆく人たちは、いったいどのような時間配分で書いているのか。やや不思議である。とにかく、これ以上は何も増やさぬようにして、着実に仕事をこなしてゆかねば。
ところで、27日(金)にはおかげさまで41歳となりました。ちょうど院ゼミの日だったので、院生が散財してケーキや音楽CD(上の「e.s.t」。北欧のグループだそうだが、ぼくの描く北欧の印象とはかなり違う楽曲。どちらかというとニュー・オリンズである)などをプレゼントしてくれた。ありがたいことであるが、学生に気を遣わせてしまうというのは、やっぱり悪しき風習だな。皆さん、今後はどうぞお気遣いなく。そういえば、3月からこっちずっとperfumeを聞いていたのだが、4~5月は椎名林檎ルネッサンスだった。やはり、「丸の内サディスティック」はすげえ。
『東アジアの記憶の場』は、ノラの『記憶の場』の枠組みを東アジアで考えようとしたもので、序文を開くとまず「記憶論的転回」の言葉が目に飛び込んでくる。先週の土日は歴研の大会で、書籍コーナーをつらつら眺めて回っていたのだが、その日最も食指が動いたのは、帰りに寄った一般書店でみつけたこの本だった(「なんとかターン」という類似名称の大量生産はやめてほしいが…)。3月までに、久しぶりに歴史学理論の論文を書くことになったのだが、「言語論的転回」にしても、ここ数年はぼくのなかで深まりをみせていない。ちゃんと勉強しなおしたいところである。
『蛇と月と蛙』は、田口ランディさんの最新刊。小説のほかにエッセイも収録されているが、「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかった。女性が自らの性を引き受けるということは、否応なくその時代、社会そのものを引き受けることになってしまうのかも知れない。だからこそ、シャーマンは女性が多いのだろう。語り手がルーマニア人の女性編集者と意気投合する場面では、なぜか中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』を想い出した。しばらく記憶の海に沈んでいた想い出がふとしたきっかけで蘇り、書き留めてゆくたびに次から次へと繋がってゆくということは、ときおりある。「想起とは創造である」という留保は付けねばならないにしても、自動筆記とはそれと似たような経験なのではないか…などと想像を働かせてみたりした。
ところで、27日(金)にはおかげさまで41歳となりました。ちょうど院ゼミの日だったので、院生が散財してケーキや音楽CD(上の「e.s.t」。北欧のグループだそうだが、ぼくの描く北欧の印象とはかなり違う楽曲。どちらかというとニュー・オリンズである)などをプレゼントしてくれた。ありがたいことであるが、学生に気を遣わせてしまうというのは、やっぱり悪しき風習だな。皆さん、今後はどうぞお気遣いなく。そういえば、3月からこっちずっとperfumeを聞いていたのだが、4~5月は椎名林檎ルネッサンスだった。やはり、「丸の内サディスティック」はすげえ。
『東アジアの記憶の場』は、ノラの『記憶の場』の枠組みを東アジアで考えようとしたもので、序文を開くとまず「記憶論的転回」の言葉が目に飛び込んでくる。先週の土日は歴研の大会で、書籍コーナーをつらつら眺めて回っていたのだが、その日最も食指が動いたのは、帰りに寄った一般書店でみつけたこの本だった(「なんとかターン」という類似名称の大量生産はやめてほしいが…)。3月までに、久しぶりに歴史学理論の論文を書くことになったのだが、「言語論的転回」にしても、ここ数年はぼくのなかで深まりをみせていない。ちゃんと勉強しなおしたいところである。
『蛇と月と蛙』は、田口ランディさんの最新刊。小説のほかにエッセイも収録されているが、「4ヶ月、3週と2日」がすばらしかった。女性が自らの性を引き受けるということは、否応なくその時代、社会そのものを引き受けることになってしまうのかも知れない。だからこそ、シャーマンは女性が多いのだろう。語り手がルーマニア人の女性編集者と意気投合する場面では、なぜか中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』を想い出した。しばらく記憶の海に沈んでいた想い出がふとしたきっかけで蘇り、書き留めてゆくたびに次から次へと繋がってゆくということは、ときおりある。「想起とは創造である」という留保は付けねばならないにしても、自動筆記とはそれと似たような経験なのではないか…などと想像を働かせてみたりした。