仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

特定秘密保護法に反対する歴史学関係者の第2次緊急声明

2013-11-26 17:50:53 | 議論の豹韜
午前中、衆院国家安全保障特別委員会にて強行採決が行われました。政府や保守勢力はこの「批判」を一部政治団体、左翼勢力によるものと無視したいようですが、国内外から多くの批判の声が挙がっており、それが虚妄であることは明らかです。パブリック・コメント受付も福島での公聴会も建前に過ぎず、内容を精査・吟味する気さえない態度で、憤りを禁じえません。

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特定秘密保護法に反対する歴史学関係者の第2次緊急声明

 われわれが10月30日に特定機密保護法案に反対する緊急声明を出した後、すでに2000人を超える歴史学関係者から声明に対する賛同署名が集まるとともに、日本の歴史学者と文書館関係者をほぼ網羅する日本歴史学協会と日本アーカイブズ学会という2つの団体が同法案を批判する声明を出した。その重みを政府と国会は真剣に受けとめるべきである。
 伝えられる修正協議の内容は、まったく問題点を解決するものではなく、それどころか、かえって新たな問題を生じさせる内容さえ含まれている。
行政機関の長が恣意的に特定秘密を指定し、情報を隠すことができるという法案の危険な本質的内容は、まったく修正されてないこと。
たとえ行政の最高責任者たる首相や行政機関内部に設ける別組織が特定秘密指定の妥当性を監視する仕組みを設けたとしても、それは行政機関から独立した第三者機関による審査と呼べるものではなく、いずれも行政機関による恣意的な情報隠しを防止するものにはなり得ないこと。
特定秘密の指定が可能な期間を、基本的に文書作成から最長で60年までに限るという修正がなされているが、これは逆に60年間は特定秘密を解除しなくて良いと各行政機関に判断されるおそれがあり、歴史学の研究・教育にとってきわめて大きな障害をもたらすのが憂慮されること。
 日本の平和と安全に関する重大な情報を国民の目から隠す本法案は、歴史学の研究・教育にも大きな障害をもたらし、国の将来に禍根を残す稀代の悪法と言わねばならない。現在必要なことは、日本アーカイブズ学会が声明で指摘しているように「公文書管理法の趣旨にのっとって行政文書の適切な管理のための方策をとること」であり、米国の「国立公文書館記録管理庁」が持っているような文書管理全般に関する指導・監督権限を国立公文書館に付与すること、その権限に見合った規模に国立公文書館を拡充すること、そしてそれを支える文書管理の専門的人材を計画的に養成・配置することである。
 政府と国会が大局を見失わず、拙速な審議で悪法の強行成立を図ることを避け、情報を大切に扱い、行政文書の適切な管理を行うことを強く要請する。
2013年11月22日
歴史学研究会委員長 久保亨
日本史研究会代表委員 藤井譲治
歴史科学協議会代表理事 服藤早苗
歴史科学協議会代表理事 塚田孝
歴史教育者協議会代表理事 山田朗
同時代史学会代表 吉田裕
東京歴史科学研究会代表 中嶋久人
日本の戦争責任資料センター共同代表 荒井信一
国立歴史民俗博物館・前館長 宮地正人
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「特定秘密保護法案」に反対する緊急声明(日本歴史学協会)

2013-11-22 02:40:10 | 議論の豹韜
以下、日本歴史学協会の「特定秘密保護法案に反対する緊急声明」。念のため、ここにも載せておこう。

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「特定秘密保護法案」に反対する緊急声明


 去る10月25日、第二次安倍内閣は、「特定秘密保護法案」(特定秘密の保護に関する法律案)を閣議決定し、国会に提出した。
 本法案は、外交・安全保障等の国民の将来にかかわる広範な重要事項を、秘密の名のもとに国民の目から隠すものであり、国会・司法によるチェックさえも形骸化させて、事実上政権中枢のみで国政の行方を決定することを可能にする点で、国民主権の原則に背馳する。また安全保障(軍事)上の秘密の保全に力点を置く本法案が示す軍事優先の姿勢は、憲法の平和主義の原則とは本来両立し得ない。1950(昭和25)年の発足以来、戦前の軍国主義への反省の上に立って、平和で民主的な社会の建設を願い、歴史学の発展をめざしてきた日本歴史学協会としては、本法案が歴史学の発展を損なう恐れのある以下のような重大な問題点を含んでいることを看過することはできない。

 1.「特定秘密」に指定できる範囲があいまいで、しかも秘密指定の有効期間も延長でき、半永久的な秘密扱いが可能となっている。「特定秘密」文書の公開も担保されておらず、防衛省の「防衛秘密」が秘密保持期間を過ぎた後に廃棄されたとの報道に鑑みても、歴史の真実の検証が不可能になり、歴史研究にとって大きな妨げとなる。
 2.「特定秘密」を指定するのは行政機関の長で、漏洩者は重罰に科すと定めた本法案は、「特定秘密」文書を入手した際に重罰に科される可能性さえあり、また、歴史的に重要な文書が行政機関によって恣意的に選別される可能性が高く、歴史の真実を検証することが不可能になり、歴史研究や教育にとって多大な障害をもたらす。
 3.「特定秘密」を扱う者の適性評価制度を導入し、「特定秘密」を扱う者としてふさわしいかどうかの適性審査を行おうとしているが、個人のプライバシーおよび思想・信条の自由が侵害される恐れがある。

 以上のように、「主権者である国民が主体的に利用し得る」ために「行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図」るとする公文書管理法の趣旨にも逆行し、歴史研究や教育にとってきわめて深刻な障害をもたらす特定秘密保護法を制定することに、日本歴史学協会は強く反対する。

2013(平成25)年11月19日             
日本歴史学協会
会長 廣瀬良弘
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映画『ハンナ・アーレント』を観る

2013-11-19 12:05:47 | 劇場の虎韜
今日は、共立大の遠藤耕太郎さんのところへ、お預けしておいた中国の文献を取りにゆきがてら、岩波ホールで『ハンナ・アーレント』を観た。同ホールの座席は今や少々狭く、スクリーンにも何か違和感があって没頭できなかったが、次第に物語にのめり込んだ。
映画は、『イェルサレムのアイヒマン』をめぐる一連の騒動を中心に、アーレントの思考過程全般(すなわち、過去から紡がれてきた人間関係のなかでの、感情・感性の連なりも含めて)を描き出している。この問題は、昨年度の講義「歴史学のアクチュアリティ」で、歴史学の倫理と関連づけて取り扱った。「悪の凡庸さ」は、ぼくのように仏教的雰囲気のなかで育った人間には受け容れやすい概念だが(もちろん、〈根源的悪〉との対比のなかでは考えないけれども)、日本のように〈個〉が埋没しやすい社会(しかし誰かを生贄にしたがる社会)には常にはびこっている事象で、また自覚もしにくいかもしれない。アーレントのレポートは、日本の戦時体制やそれを容認・支援した社会のあり方、そして現在の情勢を分析する際にも有効と思える。1995年、上智で開かれたオウム真理教事件のシンポジウムで、当時の心理学科の有名教授F氏が、「今回の事件は、麻原彰晃=松本智津夫という特殊パーソナリティによって引き起こされたというに尽きる」と結論づけたことに、「こいつはアーレントを読んだことがあるのか」と激怒したことを想い出す。
また、今回は旧友クルト・ブルーメンフェルトとの会話のなかで使われていたが、有名なゲルショム・ショーレムへの書簡に表れる次の言葉は、やはり印象深い。
私は今までの人生において、ただの一度も、何らかの民族あるいは集団を愛したことはありません。…私はただ自分の友人〈だけ〉を愛するのであり、私が知っており、信じてもいる唯一の愛は個人への愛です。
上野千鶴子ではないが、やはり無自覚なアイデンティティ、自分を集団の〈正義〉と一体化させる心理武装、「何かを背負うこと」は危険である。しかし、帰属を拒否してひとりの足で立つことは、不安だし苦しい。とくにそれらの「集団」が提示する真実とは、異なる真実に向き合っている場合には…。先日、研究室に学問のあり方について相談に来た学生から、「先生は、自分の学問がパンドラの箱を開けてしまうような真実を見出した場合にも、臆せずに公表しますか」と質問を受けた。そのときは「するよ」と答えたが、やはりアーレントのような度胸はない。アーレントは「事実」に支えられていたと思えるが、言語論的転回を受容したぼくには、(映画でもちょっと描かれていたが)「事実」と「解釈」を峻別することができないためでもある。昨年度学生たちに語りかけたときにも感じたが、このあたり、非常に難しい問題になってきている。しかしやはりアーレント的にいうなら、思考することを放棄してはならないのである。
ドラマトゥルギーとして唸らされたのは、ラストへ向けてアーレントに感情移入し、彼女の反対演説に拍手喝采を送ったであろう観客を突き放す、親友ハンス・ヨナスとの対話・絶交。「ヨナスの分からず屋!」と思った人も多いだろうが、彼が悪いわけでも、アーレントを理解していないわけでもない。アーレントが正しいのと同じように、ヨナスもまた正しいのだ。世界はハリウッド映画のように単純ではない。
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『現代思想』臨時増刊/総特集「出雲」刊行(拙稿訂正表付)

2013-11-12 18:08:36 | 書物の文韜
拙稿掲載の、『現代思想』12月臨時増刊/総特集「出雲」が刊行されました。三浦佑之さん責任編集のもと多彩な執筆者が集っており、充実の内容です。どうぞお手にとってご覧ください。
私は鰐淵寺について書けとの依頼を受け、「浮動する山/〈孔〉をめぐる想像力―鰐淵寺浮浪山説話の形成にみる東アジア的交流―」と題した文章を書きました。国引き神話が中世化した鰐淵寺の浮浪山説話(インドの霊鷲山から漂い出た島嶼を、スサノヲが杵で島根半島へ繋ぎ固めたとするもの)の起源、将来・変容の経緯を探ったものです。しかし、月刊誌ゆえの厳しいスケジュールであったにもかかわらず、1度しかない校正で大量の赤を入れてしまったため、こちらの指示が充分に反映されず下記のような誤りが残ってしまいました。ここに、あらためて訂正させていただきます。
編集の方々ではなく、私の責任です。関係各方面の皆さま、どうぞご容赦下さい。

【訂正表】
242頁下段13行目 (誤)『咸淳臨安志』
           (正)『臨安志』
244頁上段14行目 (誤)…の起源は、杭州霊隠寺の…
           (正)…の起源は杭州霊隠寺の…
244頁上段19行目 (誤)二 入宋覚阿の宗教活動と…
           (正)二 入宋僧覚阿の宗教活動と…
244頁下段23行目 (誤)…『普燈録』には覚阿が…
           (正)…『普燈録』には、覚阿が…
246頁下段18行目 (誤)覚阿とが忠通の…
           (正)覚阿と忠通の…
247頁上段16行目 (誤)…リマリティ…
           (正)…リアリティ…
247頁下段5行目  (誤)…錫丈…
           (正)…錫杖…
248頁下段25行目 (誤)…東アジア環境史…
           (正)…東アジア環境文化史…
※ ご覧のとおり表現に関する細かいところが多く、現行のままでも大勢に影響はありません。赤は本当に厖大な量だったので、むしろこれだけ直していただいてありがたい限りです。
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環境/文化研究会秋季例会

2013-11-09 13:30:00 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
昨日は、環境/文化研究会の例会。他のイベント等と重複してあまり参加者が多くなかったが、その分、いろいろ突っ込んだ議論ができた。
報告は、堀内豪人君「漢字の輸入と感覚の変容―嗅覚を中心に―」と、三品泰子さん「『古事記』における対称性原理の破れと歌―倭建命の刀易え説話と歌を中心に―」。堀内君はウチの院生なので、つい最近も修論について面談をしたばかりだが、環境×感覚×言葉の相互関係・緊張関係を捉えようとする研究で、かなりの論理構築力がないと説得的な議論にならない。古代中国から日本の平安期に至るまでの資料を渉猟して頑張っており、ハッとするような視点も提示されているが、やはりまだその「論理」に曖昧さ・粗雑さが残る。修論完成へ向けて、あとはじっくり思考する時間が必要だろう。三品さんは、研究会発足時の志を視野に入れつつ、対称性原理の破綻を歌により修復しようとする『古事記』の特性を捉えた内容。対称性原理からいかに垂直性志向が生じるのかという国家・王権の発生論に関わる問題、各神話のあり方に複数のレベルの対称性/垂直性が重層的に存在すること、対称性と文字使用の問題など、「交換」「交感」を考えるうえで極めて重要なアプローチが多数提示された。
研究会終了後は、長年の付き合いになる、気の置けない仲間(というか先輩)たちとの飲み会。大理の話から始まって、環境文学とSF・ファンタジーとの関連性など、いつものように広範囲に話題が及び、「読まねばならない」作品を多く教えていただいた。帰宅後、とりあえず村田喜代子『蕨野行』をamazonで注文。いわゆる姥捨がテーマのもので、話を出した猪股さんは、深沢七郎「楢山節考」についても力説されていた。学生時代に毎月買って集めた「ちくま日本文学全集」の深沢の巻は、そういえば中沢新一が解説を書いていたな…と想い出したりしたのだった。対称性の問題、いままとめている文章にも深く関わってくるので、もう一度理論的にしっかり考えておかないとな。
Comments (2)
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天皇制を生きながらえさせるもの

2013-11-02 11:52:13 | 議論の豹韜
皇后の五日市憲法草案をめぐる発言(文書)が、さまざまなところで話題になっている。改悪へ盲進してゆく憲法論議を牽制する意図があったのは明白で、それ自体には個人の心情として非常に感銘を受けた。しかし同時に、天皇・皇室関係者の発言は、その内容の如何にかかわらず著しい政治性を発揮してしまうこと、天皇制の象徴権力が未だ社会に根強く機能していることに恐怖を覚えた。

以前、当時東京都教育委員会委員だった米長邦雄が園遊会に招かれ、天皇に「すべての学校に国旗を掲げさせ、国歌を斉唱させることが私の義務です」と述べたところ、「強制にならないようにするのが望ましい」と返されたときもそうだった。いわゆる右の人たちもいわゆる左の人たちも、みなこの問答を我田引水し、自分の政治的文脈に繋げて語ろうとした(それは、天皇制が機能し始めて以降の日本列島のなかで、さまざまな政治勢力が〈玉〉を奪い合い大義名分を得ようとした歴史の再現でもあろう)。とくに注意したいのは、左系の人たちが、この天皇の発言を歓呼して賞賛したことである。ぼくもいわゆる左系だし、現在の天皇・皇后が、平和主義者かつ民主主義者であろうと信じている人間である。心のなかでは天皇に喝采を送り、米長ざまあみろと叫んだものだ。しかし、天皇・皇室関係者の発言が政治的な意味で重みを持つことは、その内容によらず民主主義に逆行するベクトルを生じてしまう。天皇・皇室関係者の発言を政治的文脈において喝采することは、天皇制そのものを肯定してしまうこととイコールなのである。

今回の皇后の発言をめぐる言説情況も、同じ様相を呈してきている。これを受けて安倍内閣の方向性が変化すればいい、あわよくば退陣してくれないだろうかと思っている左系の人がいるかもしれないが、そのような事態の出来は、自分たちの掲げる政治的理想と正面から対立するものであることを自覚すべきだ。山本太郎議員の天皇への直訴など、そういう意味では、自分は天皇制肯定論者であると宣言したようなものである。アジア的生産様式論を持ち出すまでもなく、王を慕う気持ち、良き王に悪臣を糺してもらいたいと思う気持ちは、日本列島に生きる人々の心に根強く存在する(すなわち、歴史的に構築されてきた)。それが、天皇・皇室関係者自身へも暴力的に機能する天皇制を維持し、生きながらえさせているのだということを、もっと真剣に考えてもらいたいものだ(もちろん、王制賛成、君主制賛成という人もいるでしょうが、それはそれとして)。
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