仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

買った本、いただいた本、読んだ本

2011-10-22 12:42:11 | 書物の文韜
秋学期が始まって3週間。最初のうちは演習科目でも講義をしなければならず、輪講も入っていたために、週8コマのうち7コマ講義という恐ろしい情況が続いていたが、だんだんと改善されて通常の状態(週7コマうち1コマ講義)に落ち着いた。これでようやくシンポの準備、原稿執筆に時間が割けるが、果たしてそううまく事が運ぶかどうかはまだ分からない。文化財レスキューへの協力は一区切りついたような形だが、並行して7号館文学部フロアの危険度調査が始まる。オフィシャルに実施しようとしていたのがなかなか実行に移せないので、個人的にチームを起ち上げ、文学部学科長会議・教授会の承認を得て動き出したものだ。災害発生時や大人数避難時を想定して各フロアの危険性をチェックし、また3.11における固有の情況を聞き取り調査して有用情報を集積してゆく。最終的には年度末に研修会、あるいは報告書の形で公にし、文学部の危機管理のために役立ててもらう予定である。11月第1週目はソフィア祭だが、例年嬉しい秋休みになっているものの、今年は学生センター関係者なので仕事があるような気配だ。少なくとも、今日から気の抜けない日が始まることは間違いない(何せ、土日が連続して休日になることは、もう12月中旬までないんだもんなー)。

さて、ずいぶん更新に時間が空いてしまったので(どうもfacebookをやっているとこちらに手が回らない)、ここで標題どおりの整理をしておきたい。
まずは左の2冊。『震災以後を生きるための50冊』は、田中純氏の「歴史の不気味さ:堀田善衛『方丈記私記』」を、歴史学入門ゼミ(基礎ゼミ)の課題に使った。抽象的思考に慣れていない1年生には難解な文章だが、それゆえにこそ、まさに彼らが「震災以後を生きる」ために必要な内容といえるだろう。過去と現在を貫く視座をいかに確保してゆくか、なぜ「歴史」が不気味なものと感じるのか。この世の不条理を受けとめ、見極めた先に現れてくるものは何か。歴史学の方法論を模索してゆくうえでも、本当に重要なアイディアが詰まっていて読み応えがある。しかし、今回1年生に読ませて気になったのは、彼らは抽象的ゆえに理解できないと、「何でこんな難しい書き方をするのか」「もっと分かりやすい書き方をすべきではないか」と突き放してしまうこと。やはり「分かりやすさ至上主義」の影響かもしれない。
『思想地図β』2号は、震災以後の特集。震災と言葉との関係を問う論考、シンポジウムのまとめが多数収録されており、日文協シンポへ向けていろいろ考えさせられることが多い。しかし編集責任者でもある東浩紀氏の言動には、どうも違和感を拭えない。4月9日に大阪にて開催されたシンポ「災害の時代と思想の言葉」において、東氏は、今後の日本社会は「死者からみられているという他者性のモメントを持ってこないとだめだ」といいつつ、戦後日本が「戦没者を国家としてきちんと弔う、その必要性から目を逸らせて経済成長に向かって驀進してきた」「その限界がいま問われている」などと臆面もなく語る。彼のいう他者=死者は、国家によって葬送されたいらしい。共約不可能性とは、そんな簡単な、浅薄なものだったろうか。なお、5月22日に仙台で開催された「震災で言葉になにができたか」で社会学者の鈴木謙介氏が、震災で被害を受けた第一次産業は厖大な時間と手間をかけて成長してきたものであり、その喪失は単なる被害額・補償額に還元しえない重みを持つ、「そこで失われたものは、積み重ねられた時間です」とした発言には、歴史学者として大いに共感した。

左の3冊はいただきもの。『史料としての「日本書紀」』は、瀬間正之さんと水口幹記君より。最近、聖徳太子論争ばかりが中心になりがちな『日本書紀』研究だが、厳密な史料批判はより広がりをみせている。本書は、津田左右吉の思想・方法を継承・克服しようとするもので、今後の指針となる重要な論考が詰まっている。盟友の水口君のものは、春学期に儀礼研究会で報告を聞いたが、嵯峨朝日本紀講書の独自性・固有性を問うもの。嵯峨朝が文章経国思想のもとで新たな歴史叙述を生み出そうとしているとの視点は、『古語拾遺』や『霊異記』の位置の再検討にも繋がる。心して精読したい。
『天皇と宗教』は小倉慈司さんから。講談社で刊行している「天皇の歴史」の1冊である。書陵部で研鑽を積んだ小倉さんの独壇場ともいえる分野だろう。ぼくは天皇制を中心としたものの見方をずらそう、ずらそうと研究してきた人間なので、シリーズの編纂方針自体にケチをつけたいのだが、もちろん中心の研究がしっかりしていないと軸をずらすこともできない。さらに勉強させていただきたい。
『平家物語の読み方』は兵藤裕己さんから。ぼくも歴史叙述、歴史語りを研究の焦点のひとつに据えているので、最終的には『平家物語』や『太平記』に辿り着きたいと考えている。そのとき、多くを学んできた兵藤さんのお仕事と本格的に格闘しなければならないだろう。言語論的転回を実感させてくれる研究が、日本でも文学を中心に起こってきたことがあらためて思い起こされる。歴史学者が放棄してしまった物語りとの戦いは、現在もまだ継続されているのだ。

こちらは、給料日であった昨日に大学の購買で手に入れたもの。『現代思想』11月臨時増刊の宮本常一特集は、3.11.以降を考えるうえで重要な論考も多く収められているが、いちばん気になったのは岩田重則氏の「宮本常一とクロポトキン」。クロポトキンは19世紀後半~20世紀前半に活躍したロシアのアナーキストで、『相互扶助論』などの著作が有名である。階級闘争を歴史展開の主軸に置くマルクス=レーニン主義とは違って、共同性こそ動物・人間の進歩において中心的な役割を果たしたと考えた。宮本は、青年時代に大杉栄訳でこの本を読み、大いに感銘を受けたらしい(思想形成の原点ともいいうるとのこと)。岩田氏は触れていないが、ほぼ同じ頃、中国では毛沢東がその思想に感銘を受けて五四運動に加わり、後の共産党独裁とは異なる横の連帯に変革の希望を見出していた。宮本民俗学の思想史的位置づけ、学問と思想の関係を考えるうえでも、精読しておきたい文章である。
上でも他者=死者の問題を出したが、数年前に物語研究会のシンポで「死者をめぐる想像力の臨界」について発表して以降、若いときには敬遠していたフロイトが気になっている。日文協のシンポでも、「快感原則の彼岸」が重要な意味を持ちそうで、周辺の論考を集め検証しているところである。上の『〈死の欲動〉と現代思想』もそのひとつで、テーマ的にはそのものズバリの内容(シンクロニシティな訳出に感謝!)。歴史学と精神分析との関係については、日本の歴史学者はまったくといっていいほど手を出していないし(フロイトを読んでいるという歴史学者に会ったことがないし、みたこともない)、かつてはセルトーが挑み、ピーター・ゲイが積極的に研究を展開していたが、00年前後からほとんど情報が入ってこなくなってしまった。デュルケームが批判したごとく、個人/社会という対象・方法論の質的差異は大きいが、後期フロイトの宗教論・文化論などは(その方法的批判はともかく)内容的に再評価したいところである。ぼくのなかでは、なんとなく柳田とデュルケームが、折口とフロイトが重なっている。2人はほぼ同年齢だが(デュルケームが2歳年長)、フロイトの方がずいぶん長生きしている。トーテム論の比較研究もしてみたいが、ドイツ語もフランス語も手に余るなあ。
ところで、アジア民族文化学会の大会シンポジウムでは、災害と神の関係、洪水神話の起源を探りながら、アニミズム論も再考したいと考えている。キーになるのは、「主託神」という概念。拙稿「草木成仏論と他者表象の力」で扱ったが、平安時代の天台僧安然が、著書『斟定草木成仏私記』のなかで触れ、「草木に樹木神=主託神の存在を認めることは、草木自体の生命を否定することになる」との論を展開している。これぞ、アニミズムをエコロジー思想として宣揚している人たちの盲点であり、草木成仏論に安易に接続できない重要な問題なのだ。しかし、INBUDSをみてもCiNiiをみても、「主託神」に関する専論が引っかからない。どうも、一から自分でやらないとだめらしい。

最後は、このところブログでは触れていなかった、マンガネタで締めくくっておこう。『無限の住人』はいよいよ佳境、『ベルセルク』はまだまだ続く気配。ともに圧倒的な画力を誇るが、アクションについていうと、前者はアクロバティックで後者は正統派。しかし、どちらも文脈がちゃんと終えるのは、やはり技巧の高さゆえ。『トライガン』や『シドニア』とは違う。『アサギロ』は最近その存在に気付いてまとめ買いしたのだが、新撰組モノとしてはいちばん好きな作品かも知れない。今のところ剣の道を突き詰めてゆく群像劇となっているが、血みどろな描写にもかかわらずシャープな絵柄で爽やかに読める。内容的には、「これが少年サンデーコミックス?」と、『デスノート』がジャンプコミックス所収だったのと同じくらいの衝撃があった。歴史もの好きにはおすすめ。
SF好きには溜まらないのが、この2冊。双方とも流行にながされず、独自の路線を走る。『第七女子会彷徨』はセンス・オブ・ワンダー。ぼくらの世代でいうと、吾妻ひでおの『ななこSOS』などを想い出す。最近では『電脳コイル』かな、と思うがそれほどシリアスな内容ではない。『SFマガジン』なんかに連載したらいいのではと思う短編で、まだこういう文化が残っていたんだなと嬉しくなる。『外天楼』はよくねられたシナリオで、やはり短編好きの心を奪う。石黒作品としては、『それでも町は廻っている』よりこっちの方が好みかな。同じようなネタでは沙村広明の『ハルシオンランチ』があるけど、『無限の住人』の絵で『うる星やつら』を描いているようなもので、ミスマッチは面白いがやはり殺伐とする。
『BEAST OF EAST』は何年ぶりかの完結。山田章博のマンガはうまいとはいえないが、皇なつきと並び、やはり美麗な絵には惹かれるものがある。今回の衣紋の線やコマ割りの仕方などには安彦良和が入っている気がするが、筋肉の描き方はやはりフランク・フラゼッタだろうか。藤原カムイや大友克洋がクローズアップされるまんが史の語り方で、どうもメビウスの影響ばかりが注目される感があるが、アメリカのファンタジー・アートや『ヴァンピレラ』などアダルトなアメコミの影響は、未だ充分論じられていないように思う。そのあたり、誰かちゃんとやってくれないかな…と『STARLOG』世代のぼくなんかは切望したりする。
Comments (2)
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