亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす臨川書店このアイテムの詳細を見る |
古代文学会シンポ、供犠論研の報告も無事終了し、前期の山の過半は超えました。しかし再来週からは首都大のオープン・ユニバーシティも始まり、手元には複数の校正も来ています。学務・教務で、今月中に仕上げなければならない書類もある。まだまだ気が抜けません。ブログの更新も滞りがちで、おまけに、本当に書くべき話題は後回し。すべて「草稿中」としてあるありさまです。申し訳ありません。
ところで、いま私の住んでいる建物には、外から二階へと上がれる階段が付いています。一階は寺務所やら何やらあって来客が多いので、三階に住む私は、もっぱらこの外階段を使って出入りをしているのですが、この壁面には、春になると複数のヤモリたちが出現します。夜、階段を照らす外灯に集まってくる虫を待ちかまえ、捕食しているわけですね。なかには10数センチに肥え太ったヤツもいて、人が来ると腰を振り振り壁面を逃げる姿が、なんともユーモラスで可愛らしいものです。
このヤモリたち、いつもはどこに潜んでいるのかずっと疑問に思っていたのですが(だいたい巣を作るのだろうか?)、最近その謎がようやく解けました。いつものように階段を上がってゆくと、ヤモリが壁面を這って、なんと外灯のフードと外壁の隙間のなかに……。なるほど、外灯のなかならいつも暖かいし、食べ物の虫は飛び込んでくるけれども、脅威になる外敵は侵入できない。彼らはきちんと、この〈環境〉に適応していたんですね。
日曜の供犠論研でも話題になったのですが、里山が文化であるのは当然としても、自然でないといいきるのは傲慢であるかもしれない。自然/文化は互いに侵犯と融合を繰り返していて、はっきりした境界線を引くことはできない。文化のなかに自然あり、自然のなかに文化あり。今後、この相対的概念=語句そのものを再検討してゆくことが必要でしょう。ヤモリにとって、人間の作った建物の壁面は、自然/文化などといったカテゴライズの外側にある。彼らは、自身の生存志向性と身体的能力に従って、最適な形でその環境に順応しているだけ。建物も外灯も、岩も森も、ヤモリの認識においては同レベルなのです。そうした生き方こそが、まさに〈野生〉なのでしょう。
彼らをヤモリ=屋守と名づけた列島の人々の感覚も愛おしいですが、そうした意味づけの外側にある生態にも思いを馳せたいものです。
外階段の外灯、気を付けてみていると、なかにいるヤモリの影が映っていることがあります。今度みつけたら、写真を撮ってアップしておきます。ちなみに上の写真は、最近コラムを寄稿した亀卜の専門書。昨年三月に国学院で行われた、東アジア怪異学会主催シンポジウムの記録です。詳しくはこちらをどうぞ。