仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ヤモリに野生をみる

2006-06-20 14:52:31 | 議論の豹韜
亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす

臨川書店

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古代文学会シンポ、供犠論研の報告も無事終了し、前期の山の過半は超えました。しかし再来週からは首都大のオープン・ユニバーシティも始まり、手元には複数の校正も来ています。学務・教務で、今月中に仕上げなければならない書類もある。まだまだ気が抜けません。ブログの更新も滞りがちで、おまけに、本当に書くべき話題は後回し。すべて「草稿中」としてあるありさまです。申し訳ありません。

ところで、いま私の住んでいる建物には、外から二階へと上がれる階段が付いています。一階は寺務所やら何やらあって来客が多いので、三階に住む私は、もっぱらこの外階段を使って出入りをしているのですが、この壁面には、春になると複数のヤモリたちが出現します。夜、階段を照らす外灯に集まってくる虫を待ちかまえ、捕食しているわけですね。なかには10数センチに肥え太ったヤツもいて、人が来ると腰を振り振り壁面を逃げる姿が、なんともユーモラスで可愛らしいものです。
このヤモリたち、いつもはどこに潜んでいるのかずっと疑問に思っていたのですが(だいたい巣を作るのだろうか?)、最近その謎がようやく解けました。いつものように階段を上がってゆくと、ヤモリが壁面を這って、なんと外灯のフードと外壁の隙間のなかに……。なるほど、外灯のなかならいつも暖かいし、食べ物の虫は飛び込んでくるけれども、脅威になる外敵は侵入できない。彼らはきちんと、この〈環境〉に適応していたんですね。

日曜の供犠論研でも話題になったのですが、里山が文化であるのは当然としても、自然でないといいきるのは傲慢であるかもしれない。自然/文化は互いに侵犯と融合を繰り返していて、はっきりした境界線を引くことはできない。文化のなかに自然あり、自然のなかに文化あり。今後、この相対的概念=語句そのものを再検討してゆくことが必要でしょう。ヤモリにとって、人間の作った建物の壁面は、自然/文化などといったカテゴライズの外側にある。彼らは、自身の生存志向性と身体的能力に従って、最適な形でその環境に順応しているだけ。建物も外灯も、岩も森も、ヤモリの認識においては同レベルなのです。そうした生き方こそが、まさに〈野生〉なのでしょう。
彼らをヤモリ=屋守と名づけた列島の人々の感覚も愛おしいですが、そうした意味づけの外側にある生態にも思いを馳せたいものです。

外階段の外灯、気を付けてみていると、なかにいるヤモリの影が映っていることがあります。今度みつけたら、写真を撮ってアップしておきます。ちなみに上の写真は、最近コラムを寄稿した亀卜の専門書。昨年三月に国学院で行われた、東アジア怪異学会主催シンポジウムの記録です。詳しくはこちらをどうぞ。
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古代文学会シンポ:動植物の命と人のこころ

2006-06-14 14:09:57 | 議論の豹韜
3日(土)、古代文学会の連続シンポジウムで、古くからの友人であり先達でもある中澤克昭さんと、「環境論:動植物の命と人のこころ」というテーマで報告させていただきました。その内容、議論の経過については、近日中に増補したいと考えておりますが、すでに司会をしてくださった岡部隆志さんが、ご自分のブログで当日の感想を書いてくださっています。「解決のないことを共有することによる解決」というのは深い言葉で、仰るとおり〈親鸞〉なのかも知れません。

私の報告タイトルは、「樹霊に揺れる心の行方」。樹木を生命として表象する列島生活者の想像力が、古代から現代へ至るまでどのように変質していったかを扱ったものです。具体的内容としては、まずは中沢新一の対称性論批判。対称性の楽園は互酬的にはなりえず、契約という人間主体の幻想によって、動物や植物は抵抗の可能性を奪われてしまうことを述べました。対称性の基盤である〈動物の主〉神話は、縄文~弥生の列島にも語られていた可能性が指摘されていますが、その後、中国からより暴力的な〈大木の秘密〉言説が入ってきます。その初見は東晋の『捜神記』、秦文公による梓樹伐採の物語で、以降、志怪小説類をはじめとする多様な文献に引用されてゆきます。秦には昭王による巴蜀開発、とくに李冰による都江堰の築造伝承も著名なものとしてあり、『華陽国志』や『水経注』に多様な記録を残してゆきます。『史記正義』や『括地志』はこれらを網羅、列島の平安期に太秦に蟠踞した秦氏は、自らの出自を秦の始皇帝にまで遡及させ、上記の文献を通じて太秦に疑似秦的世界を出現させます。その点で活躍したのは、秦氏出身の惟宗氏で、允亮編纂の『政事要略』には、秦氏構築の葛野大堰を都江堰に準えて賛嘆する記事が出てきます。また、神樹を伐ると水害があるという『捜神記』文公の物語にみえるような心性が、葛野地域に出現してくることになります。
一方、列島には、忌部に代表されるような木鎮め(樹木の生命を重視する祭儀のあり方)も存在しましたが、卜部の進出によって宮廷儀礼においても後退してゆきます。『今昔物語集』は列島における〈大木の秘密〉の初出を含みますが、ここでは中臣祭文が伐採の鍵となっており、幕末まで(原理上最も木鎮めを必要とする)伊勢の式年遷宮でも援用されていたことが確かめられています。この文言には木鎮めの発想はなく、樹木へのシンパシーはみられない。これこそが、中世以降の大開発の時代を支え、伐採を正当化する役割を果たしたのではないかと考えられます。しかし、中臣祭文は人間の罪を他界へと送る機能を持っているので、木を伐る人間の罪か、もしくは樹霊自身を他界へ送る役割を期待されていたのかも分かりません。
そして、里山的景観が広く伸張する近世には、樹霊と人間が結婚するという〈樹霊婚姻譚〉が成立します。一見人間と樹霊の豊かな交流を示すかにみえますが、その樹霊像は明らかに樹木を擬人化したもので、人間の側へ引き付けた他者表象に他なりません。豊かな感情の交流も、里山成立による樹木の家畜化を前提としているように思われます。
人間の樹木に対する想像力には衰退がみえますが、日常的交流のあり方を、種間倫理の構築にまでいかに高めてゆけるかが問題だと結論づけました。里山を基盤とする樹木との交流が〈新たな楽園〉であるなら、私たちは、樹木の抵抗しうる可能性を早急に措定しなければならないでしょう。

ところで、秦文公による梓樹伐採伝承のところで挙げた睡虎地木簡「日書」甲種、ざんばら髪が鬼霊を撃退するという処方。これをみつけたときは、「文公の伝承は戦国秦の文化に根差したものなんだ」と本当に大喜びしたのですが、最近、すでにその件に言及した研究があるのを発見しました。高木智見さんの『先秦の社会と思想―中国文化の核心―』(創文社、2001年)に所収の「古代人と髪」がそれ。中国古代人にとって頭髪が生命エネルギーの象徴であり、それゆえに髪を露にすることが忌まれ、頭髪を剃り落としが刑罰としての意味も持ってきた。また、過度な生命力の発露は異常視され、被髪は異民族や狂人、鬼神の髪型であって、「毒をもって毒を制す」の論理から魔除けの効力も担った……といったことが詳しく述べられています。この本には他にも、「人間と植物の類比的認識」「歴史と『老子』」「天道と道(「史官なるもの」「シャーマンから史官へ」などの節を含む)」といった無視できない論考群も収められており、本当にためになる一冊です。以前、書店で手に取ってぱらぱらめくり、「ふーん、老子の本なのね」と浅薄なカテゴライズをし、棚に戻してしまった過去が悔やまれます。高木さんは、他にもたくさんの面白い宗教社会史的研究を発表されていて、関心のベクトルがかなり重なっているように思われます。また、大形徹さんの『魂のありか―中国古代の霊魂観―』(角川選書、2000年)にも言及がありました。やっぱり、気づいている人は気づいている。他の領域へ踏み出すということは容易ではないですね。

長くなりましたので、質疑応答や飲み会での議論については、また別に書きたいと思います。
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豪華絢爛、史敏降臨

2006-06-10 16:16:13 | 劇場の虎韜
4日(日)、待ちに待った上海京劇院の日本公演『楊家女将』を、お昼から夜までの通し狂言(!)で観てきました。以前、こちらのブログでも触れましたが、私も妻も、この劇団の看板女優〈史敏〉の大ファン。武旦・青衣なんでもござれ、向かうところ敵なしの女優さんなのです。

さて今回のお話は、京劇の名演目『楊家将』の後日譚的なストーリー。遼や西夏の攻撃から身を捨てて宋を守ってきた楊家一族も、三代宗保の戦死によって、幼い文広を除きすべての男子を失ってしまいます。武官に人材のない宋では、侵略してきた西夏と和議を結ぶ方向へ衆議が傾きますが、そこで立ち上がるのが楊家の女たち。すべて寡婦といえど、かつては男性と同等、もしくはそれ以上の武技を誇った女将軍たちが、敢然と西夏へ戦いを挑むのです。
物語としては、単純素朴なハッピーエンド。西夏に敗れた文保が、実は楊家でいちばん弱かったんじゃないかと思わせる結末。しかし、豪華な色彩ときらびやかな衣装のオンパレードで、そんなことを考えている余裕はありません。前半の最後、決戦へ赴くために鎧を着込み、勢揃いした女将軍たちの絢爛豪華さといったら、ほんとに宝塚の比ではありません。いやあ目の保養。
ちなみに史敏が演じたのは、宗保の妻にして文広の母、かつて「天門の陣を単騎で破った」経歴を持つ穆桂英。夫や息子への細やかな愛情表現、滑らかで張りのある歌声はもちろん、華麗な武技もふんだんに披露してくれました。騎馬で槍を振るい、敵陣に突入する姿が目にみえるようでしたね。ほかに、初代継業の妻にして楊家の長老、大元帥余太君を演じた胡〓(王+旋)・王小磚(ダブル・キャスト)も、力強くよく通る歌声でみごと。100歳の老女とあってほとんど動きのない役ですが、歌とセリフだけで観る者をぐいぐいと引き込みます(いちばんの豪傑にみえました)。演出も兼ねた厳慶谷の、いつもながらの軽妙な演技にも魅せられました。

とにかく、大満足の贅沢な時間。今度はいつ来日してくれるのか、いまから待ち遠しい気分です。それにしても、完全平和主義の私が、「そこは闘うのが筋でしょう」と主戦派に染まってしまう……げに恐ろしきは物語りなり、ということでしょうかね。
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星の鼓動は悔恨:『Z-GUNDAM』について

2006-06-10 07:01:17 | 劇場の虎韜
久しぶりの更新です。ちょっと前の話になりますが、富野由悠季監督:Z-GUNDAM a new translationの最終作、『星の鼓動は愛』を観にゆきました。

ぼくらはちょうど、ファースト・ガンダムの本放送を観ていた、いちばん下の世代ということになるのでしょう。この作品については、「本放送では評判が良くなかったけど、再放送で人気に火がついた」なんて神話が語られていますが、少なくとも物語が佳境に入る頃には、アニメ・ファンのあいだでは本当に評価が高かった。確か、『アニメージュ』誌の1980年のベストテンでも、堂々の1位に入っていたと記憶しています(『カリオストロの城』が5位くらいだったかな)。ぼくは3人兄弟の末っ子で、兄たちに引っ張られてSFにのめり込み、小学校低学年から『STARLOG』日本語版を講読しているようなマセた子供でしたから(アッカーマン・ツルモトルームの申し子だったわけです……なんて書いて分かる人がいるのかな)、ガンダムにも割合と早めにはまっていた気がします。しかし、いくらマセていようとそこは小学生。作品をどれくらい理解できていたかは疑わしく、いまから考えると、一種のお祭りであったようにも感じられます。きっと、ガンダム・ブームに呑み込まれていた低年齢層の大半が、同じような感覚(大人への背伸びとしてのガンダム?)を持っていたのではないでしょうか。

そんなぼくらの世代が、ちょうど主人公と同年齢になり、思いっきりシンクロしてしまったのが『Z-GUNDAM』。「物語としての完成度が高いのはファーストだけど、思想的に好きなのはゼータ」と、まるで『ウルトラマン』より『セブン』がよろしいという言説と相似形に、非常な好感を持ったのでした(本当はこのあいだに、『イデオン』という最高傑作があるのですが……)。内容的には『STAR WARS』と同じく〈神話〉ですから、同じモチーフの繰り返しで新鮮味には欠けるのですが、なんといっても印象的・衝撃的だったのはラストシーン。宿敵シロッコを倒した主人公のカミーユは、シロッコに「魂を持っていかれて」精神に異常を来してしまう。戦場を離脱するゼータ・ガンダムのコクピットで、人の死んでゆく爆発の光が閃くたびに、流れ星だとはしゃぐカミーユ。その様子をスピーカーで聞き呆然とする仲間たち、絶望的な嗚咽をもらす幼なじみのファ。そんな救いようのないラストをみせられて、しかし、「いかに正しかろうとも、これがたくさんの人の命を奪った代償なんだ」と妙に納得した覚えがあります。

その『Z-GUNDAM』が、20年ぶりに映画として蘇る。もはやかつてのような思い入れはなかったものの、「テレビとは異なるラスト」という宣伝文句に引かれて、劇場へと足を運びました。テレビからの援用カットと新作カットのギャップはいかんともしがたく(表現方法自体が違ってしまっている)、絵的には「これ劇場にかけていいのかなあ」と首を傾げる場面もありましたが、かつては相当にひねくれていたカミーユの性格を素直に、前向きにしたところには安心感がありました。しかしその安心感は、印象の薄さでもあります。彼を観るたびに感じたいやにザワザワする感覚、恥ずかしくて目を背けてしまうような印象が、新たなカミーユからは抜け落ちてしまっていました。
そして問題のラスト。死んだ仲間たちの意志に支えられてシロッコを倒したカミーユは、肉体を持った、紛れもない実体であるファを抱きしめ、その感覚に心の底から喜びを感じる……。確かに、その描き方も分かるんですよ。『エヴァンゲリオン』を体験しようがどうしようが、富野由悠季の思想は実感への回帰にある。ファーストでアムロがララアと一緒に行かなかったように。でも、死者の意志という正当性を得てシロッコを殺し、そこに何の後ろめたさも覚えないカミーユには、やはり違和感がありました。確かに、その方が戦争のリアルを表現していることになるのかも知れないですけど……(後ろめたさが正当化の道具に使われる、という物語構成もどうかと思いますしね)。
ま、これはぼくの性格なんで仕方ないですが、吹っ切れちゃっている人は信用できないんですよね(だから、岩田慶治さんも好きになれない)。霊体になっても生前のこだわりから解放されず、なかなか目覚めることのできない『イデオン』のコスモとか、常に「しこり」のようなものを抱えているキャラクターに魅力を感じます。そういう意味では、今回の『Z-GUNDAM』は思いっきり薄味でした。
Comments (2)
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