仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

家伝と易経

2005-09-29 10:36:36 | 生きる犬韜
昨日は、8月の夏休みを挟んで2ヶ月ぶりに、豊田地区センターにて「楽しい日本史の会」の講義があった。凄いサークル名だが、もう4年、毎月1回続けている生涯学習関係の勉強会である。平均年齢は70歳以上、皆さん多くの歴史系勉強会に所属する強者ぞろいで、なかには四書五経を漢文で読破したという猛者もおられる。最近の学生を相手にするより、よほど緊張感と充実感に溢れた時間である。

そこでは、昨年の秋頃から『家伝』鎌足伝をとりあげ、「漢籍による政治文化の創造」みたいなことをテーマに読み進めている。その準備のなかで発見したのが、『家伝』と『易経』との深い関わり。筮竹を購入し(この話はまた次回)、古代人による卜占をシミュレーションしようと思うきっかけにもなった。いま整理とさらなる考察を進めているところで、11月の早稲田古代史研究会、上智史学会などで報告の予定。関心のある方はご参集ください。

家を出る前、このあいだ原稿を提出した某誌編集委員会から封書が届いた。開けてみると、なんと400字詰め20枚も超過した原稿を受理してくれたらしい。「出してみるもんだな」とほっとして出講、しかし帰宅してみると委員のK氏より電話が……。不安は的中、やはり10枚分は削ってほしいという。仕方なく徹夜で作業、さっきようやく終えたところ。

いつものこととはいえ、本当に非効率的な論文作法である。さて、今日は埼玉の講義。これから3時間かけて出勤です。
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方法論懇話会例会@長野小諸

2005-09-26 18:43:48 | 議論の豹韜
方法論懇話会の例会が終わって、1週間が過ぎました。
最近、妻からも「あなたの記憶はたいてい不確かだ」と批判されているので、そろそろ感想を書かねばと思います。

すでに、メンバーの師さん野村さんのブログが公開されていますが、今回は第6クール・テーマ〈記憶〉の総括と、第7クール・テーマ〈デリダ〉の関連報告の2本立て。
1日目は後者で、師さん・稲城さん・私の報告。

師さんは、仏教学におけるデリダ研究についての紹介。一見関連なさそうな分野だけど、実はすいぶん比較研究が進んでいて、「脱構築など、すでに仏教がやっている」的な発言もあるもよう。比較という研究方法の意義について、あらためて考えさせられる。何を探求しようとして比較するのか? 今年の3月に出た「〈ケガレ〉をめぐる理論の展開」(『ケガレの文化史』)でも、「比較の効用」なんていう言葉を使った記憶があるけど、深い問題です。差異や認識自体にも関わってくるしね。

稲城さんは、柄谷行人『探究I』からみるデリダ論。柄谷は、実体論を批判するデリダこそが実体論に陥っていると批判したいらしい(?)。認識論をめぐる議論ではよくあるパターンだけど、「超越論的」という言葉に神秘主義を見出す論理展開がどうも気になる。確かに「ア・プリオリ」の絶対肯定はある意味神秘主義だけど、あまりにも日本語的解釈では?

私の報告は、言語論的転回以後の歴史学とデリダの現前性批判との関係を考えるもの。日本の歴史学界では、言語論的転回は「なかったこと」になってしまっているけど、歴史学批判の核心だったテクストと実体との関係については、なんら議論が深まらないまま。岸本さんは「個別研究への回帰」をプラグマティックに志向するけど、それこそが、理論研究と実証研究との有機的な繋がりを否定する見解に思える。自分の方法が成功しているかどうかは別として、〈史料〉を〈言説〉と捉えるだけで、ずいぶんと歴史的想像力は拡大すると思うんですけどね。
日本史の論文でも、最近はときどきデリダの名前を目にするけど、現前性批判を踏まえた内容のものはない。実体論を前提に構築されている近代歴史学とは、認識論的に対立するはずなんですけどね。まさにアメリカ流、つまみ食い的方法論。もっとも、そう考えてしまう私の思考こそが「全体性に回収」されており、「科学なんてみんなブリコラージュ」と言い放つデリダからみれば、まさしく批判の対象なんだろうけど。

長くなったので、2日目の〈記憶〉についてはまた次回。
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原稿終了とうれしい誤解

2005-09-26 00:45:29 | 生きる犬韜
夜8時すぎ、ようやく原稿を書きあげて、クロネコ・メールで送る。
相変わらずの枚数超過。月刊誌なので、リライトがあるのではないかと戦々恐々。以前、『日本文学』誌の特集〈古代文学における環境〉に書いたときにも、相当迷惑をおかけした次第。なんとかなるかな。しなきゃいけないかな。

妻が、きのこ・野菜いっぱいのおみそ汁と、焼き鮭の大根おろし添えを作ってくれる。ご飯は玄米。大変おいしくいただく。ありがとうございます(読まれていることを意識)。

さて、明日の演習の準備にとりかかるか、と『講義要項』をめくってみると、「授業開始 9月30日(金)」とあるのが目に止まる。え、ほんと!だとすればありがたいけど、なんで勘違いしてたんだ? 慌てて大学HPの学事暦を確認。「後期開始 9月21日(水)」とあるが、これはどうやら後期日程が始まるということだけで、授業開始ではないらしい。よかった……!

それじゃ一休みして、次の原稿(〆切やぶり確実。最年少執筆者なのに……自己嫌悪)にとりかかるかな。水曜の生涯学習(『家伝』鎌足伝を自由奔放に読んでいる)の準備もしなきゃね。

そうそう。中国の水口君からメールをいただく。共通の知人をめぐる怖ろしい話題(とても書けない)があって、怯えながらやりとりする。『ノロイ』のスタッフが以前に作った『ほんとにあった呪いのビデオ』に、引っ越し前の水口家が「民俗学者の家」という設定で出ているのだそう。まだ観てないんだよね。こんど探してみるか。
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月夜

2005-09-25 06:51:51 | 生きる犬韜
いまお風呂からあがり、徹夜明けの頭をすっきりさせているところ。
昨日今日と3時間の仮眠で原稿書き。それにしてはなかなか能率がよい。なんとか夕方までには原稿を仕上げたいところ。明日の夜からは大学の演習が始まるので、そちらの方の準備もしておかなくてはならない。

お風呂に入りながら、演習1日目に話す内容を考える。
あったかい湯船に浸かっているのが気持ちよくなったな~、などと脱力していたら、先週行った小諸の露天風呂を思い出す。景色が遠くまで開けていてなかなか心地よく、ついつい長湯してのぼせてしまったのでした。
それにしても、長野の夜空は暗く、星もはっきりみえた。中秋の1日前で、月もきれい。そういえば、太陽暦で生きる現代人は、「今日の月の形」なんて考えもしませんね。でも古代では、朔から望、望から朔に至る過程がけっこう重要。朔には月が出ないから、闇夜に紛れて夜襲をかけたりする。暦の違いというのは、それをもって生きる人々の時空の分節の仕方の違い、世界の捉え方の違いなんですね。
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夜寝なくていいや、と考えるようになったのは……

2005-09-23 22:08:52 | 生きる犬韜
今日はお彼岸のお中日。お昼から秋季彼岸会を勤める。
少し風邪になでられていたけど、なんとか声は出る。ご住職は法話の準備で寝不足なのか、お経をあげながら眠気に襲われている気配。ときどき声が小さくなっている。大丈夫か?

彼岸会を終えて机に向かう。某誌依頼論文のラストスパート。
今回は時間もなく、おそろしく難産だったけど、なんとか明日中には仕上がる予感。……というか、脱稿できないとドミノ倒し的にまずいことになる。もう講義も始まっているし、次の原稿にもかからなければいけない。その次には、11月の研究報告の準備が控えている……。

数日間寝なくて済む身体がほしい。
しかし、毎日徹夜して当たり前、的な日々を送るようになったのはいつからだろう?子供のときは寝られないで苦労したり、試験勉強で12時回ったりすると冷や汗が出てきたのに……。ま、身体にはよくないだろうけどね。

妻は知り合いのお宅で研究会。発表にあたっているそうで、昨日は遅くまで準備をしていたけど、うっかり熟睡してしまったもよう。8時に起こすと、慌てて飛び起き、ひと騒動起こして出ていった。
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刑務所へいってきた

2005-09-21 13:39:55 | 生きる犬韜
恒例のお彼岸のお勤めで、刑務所へいってきた。
今朝は夜明けすぎに倒れて寝てしまい、妻を送り出すこともできず寝坊。
8時前に寺から電話が入り、刑務所へゆく予定だったのを思い出す。急いで身支度を整え、9時半には、前住職のお供で某刑務所のなかに入っていた。

いつもながらの厳重な警備。建物の出入り口すべてには電子ロックがかかっており、刑務官が付いていなければ開閉できない仕組み。しかし、最近は刑務官の人員が削減されて、警備会社が補っている箇所もあるとか。とうぜん、その人は鍵の携帯を許されていないわけだけど、いろいろ不都合もありそう。

1時間ほどの法要とお説教のあと、お茶を頂戴して帰る。
あまり、こういうところで書いてはいけないようなお話を承る。
ところで、暴力団関係の幹部クラスが入っている刑務所には、慰問に来る芸能人も一流が多いとか。刑務所側ではなく、暴力団関係から手が回って、一流どころが名乗りをあげるんだって。あくまでも噂ですが……。

帰ってみると、"カミソリ"後藤田正晴死去のニュースが。学生運動を撲滅した警察官僚だけど、いちばん骨のある護憲派の政治家でした。残念。忌部の子孫ということでも親近感があったのに。
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再開;映画『ノロイ』について

2005-09-21 02:29:31 | 劇場の虎韜
先週の土日は、長野県小諸で方法論懇話会の前期例会に参加。
PCに詳しい方々が大勢いるので、刺激を受け、デザインの自由度の低さから書く気を失っていたyahooのブログをやめ、gooで再開する。

方法論の議論はなかなか盛り上がったけれど、今日は疲れているので別の話題を書きます。

先々週、研究会の飲み会を途中で抜け出し、『ノロイ』なる映画を観た。中国へ赴任してしまった水口君の友人が関係しているので、「観ろ」といわれていたんだけど、なかなかに「おぞましい」恐怖映画でしたね。
以前話題になった『ブレアウィッチ』的な、架空のドキュメンタリー作品なんだけど、題材が「禍倶魂(かぐたば)」と呼ばれる民俗神をめぐる怪異現象。中世、京都の呪術師集団「下陰流」が移り住んで生まれた長野県のある村では、下陰流呪術の秘伝で生み出されながら、制御できなくなったために封じ込められた鬼神、かぐたばを鎮める「鬼祭」が連綿と続いている。しかし、ダムの建設で村が湖底に沈むこととなり、鬼祭も廃止が決定。最後に行われた鬼祭で、かぐたば役を演じた神職の娘がトランス状態となり、十数年後……といった内容。「傑作だ!」とまではいかない出来だけど、「開けてはいけない扉の前に立った」といった感覚は何度か味わった。『リング』とはまた違った恐怖で、『エクソシスト』以来、感じることの少なかったものですね。

「この映画はぼくに何をもたらしたのか」などど考えながら、映画館を出、零時に近い深夜のみなとみらいを歩いていると、外灯の間をゆらめきながら飛ぶ「こうもり」を目撃。この瞬間にこうもりとは……と、思わず易を立てたくなった。こんなことを書いていると、また、「神秘思想のイアンジン」っていわれそうだなあ。
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