仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ウィンター・カウントから

2017-05-29 01:32:13 | 議論の豹韜
この土日は学会などもろもろあったが、仕事が終わらず自宅を出られなかった。月曜の概説「歴史学の歴史」の準備と、概要提出の〆切が迫った古代文学会シンポジウム報告の準備、および学会や校務の細々した作業だが、それらを通じて、それなりに思考も深められてよかった。
シンポのテーマは、ヴァリアントを並存させる古代的エピステーメーを問うという大変なもので、一応セミナー委員の意向を考慮し、ぼくは「宇宙を渡る作法―パースペクティヴィズム・真偽判断・歴史実践―」というタイトルを出した。まだ、海のものとも山のものともつかない状態だが、まずは、パースペクティヴィズムを通したシャーマニズム論の再検討を進めなければならない。神話の語り、文字の出現による変質、文字表記・書承に対する忌避伝承、論理学の成立などが主要な内容になってくるので、なんとなく概説「歴史学の歴史」とも重なる。
この概説、明日は、古代オリエントにおける文字記録の開始からアウグスティヌス『神の国』、オットー・フォン・フライジング『年代記』までを一気に語り倒すが、準備段階でいちばん気を惹かれていたのは、参考資料として掲出する北米ラコタ族の年代記「ウィンター・カウント」だったりする。ラコタ語では「ワニエトゥ・ウォワピ(waniyetu wowapi)」というが、「ワニエトゥ」は「最初の雪から最初の雪まで(すなわち冬)」、「ウォワピ」は「平らなものに書かれたり描かれたりしたもの」を意味するらしい。すなわち、毎冬、1年に起きた部族にとって忘れがたいイベントをひとつ、絵文字1文字にして描き連ねてゆくものである。その年は同事件で呼称されるというから、古代世界に普遍的にみられる以事紀年、大事紀年の一種といえるだろう。
この写真は、1860年代、モンタナ領ヤンクトナイ・バンドのローン・ドッグ(Lone Dog)という人物が所持していたもので、バッファローのなめし革に、1800〜1871年までの71年間に及ぶ出来事が記録されている。中心から渦巻状に連ねられた「歴史」は、まさに円環的時間認識を図示するかのようだが、始点は終点と一致はしない。その意味でウィンター・カウントは、ラコタ族が歴史記述を通じて直線的・不可逆的時間認識に至る、過渡期の産物なのかもしれない。
東アジアの歴史叙述は、獣の肩胛骨や亀甲に刻まれた甲骨卜辞に由来するが、そこには動物霊への信仰が潜在していた。文字は、動物霊の示す卜兆を介して出来するもので、すべて人間の恣意のみによって生じるわけではない。ウィンター・カウントの絵文字の持つ意味は口頭によって伝承されたはずだが、それは必ずや何らかの神霊によって支持されていたに違いない。しかし果たしてその神霊は、口頭の言葉に宿るものだったか、それとも文字に宿ると考えられたものだったか。中島敦「文字禍」が思い出されるが、あれも文字表記忌避伝承の一種といえるものの、口承への注意に欠ける点が不満だ。
パースペクティヴィズムのもとでは生じえない神話の真偽判断は、恐らくは文字の導く論理的思考によって実現される。文字の持つ呪術性に幻惑され、口承から抜け落ちてしまうものがあるのだ。理論的枠組みとしては予見しうるのだが、果たしてどの程度実証できるか、そのあたりが鍵になりそうだ。
ちなみにウィンター・カウントについては、スミソニアン博物館が、西暦のもとに複数のそれを対照して確認できるデータベースを公開している。ちょっと設計が古いようだが、観ていると時間を忘れる。
ほんと、いいな(http://wintercounts.si.edu/flashindex.html)。
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シンクロニシティ

2017-05-23 01:28:52 | 書物の文韜
写真は、昨日の講義終了後、上智の購買で手に入れた本たち。シンクロニシティについては、まあ科学的に考えるよりも妄想したほうが面白いので、「ほんとにあるんだな!」と思っておくことにする。というのは、昨日の講義「歴史学の歴史:メタヒストリーによる俯瞰と展望」で年代記の発生過程を論じる際、起居注の起源ともいうべき甲骨卜辞を久しぶりに扱ったのだが(まあ史料はこれまでの自分の研究から抽出してきたもので、自分自身の勉強にはなっていないのだけれど)、その数十分後に購買で椿実の新刊を見つけることになったのだ。椿実は、中井英夫や吉行淳之介の盟友たる幻想文学の書き手であり、日本神話の研究者でもある。とくに、東大の修士論文が東大本『新撰亀相記』の研究であることからも分かるように、卜占に対して造詣が深く、氏文の現場から原古事記の存在を追求したひとでもある。2002年に心筋梗塞で亡くなったが、この本は1982年に刊行された『椿実全作品』の「拾遺」という位置づけで、今年の2月に限定1000部で出版されていたようだ(すべてナンバー入りで、手に入れた本は603番)。2月に出ていたのならもう少し早く目に触れてもよさそうなものだが、卜占の講義をしたあとに出逢うというのは、やはり何かの縁か。
椿については、世紀が変わる前後、卜占の研究を集中的にやっていたときに、故増尾伸一郎さんから教えてもらった。増尾さんはほんとに文学青年で、研究に関することはもちろんだけれど、それ以外の文学全般、思想、マンガなどに関する知識が並外れていた。確か、エリアーデの『ホーニヒベルガー博士の秘密』の話をしていたときだったか、「折口もそうだけどさ、日本にもね、神話研究しながら、その関係の小説書いていた人がいるんだよ」と教えてくれたのだ。いま考えると、ちょうど椿実が亡くなった頃だったのかもしれない。ぼくの卜占研究は、殷代以前から少数民族、日本のそれにまで及ぶ通史的なもので、その実践を通じて生まれる歴史叙述に注目した厖大な内容だったが、寄稿予定だった論集が出なくなってしまい、宙に浮いた形となった。その後、老舗の出版社が選書として引き受けてくれたのだが、ぼくの怠惰、渡り鳥的性格(研究対象を変えて回る)が災いして未だに脱稿できていない。「ちゃんと書け!」といわれているのだろうか。先週も小峯さんと増尾さんの話をしたばかりだったので、ちょっと背筋が伸びた。

川田順造の『レヴィ=ストロース論集成』も、そうした意味では感慨深い書物。なんと、ぼくの肉食忌避慣行を決定づけた論考、「狂牛病の教訓:人類が抱える肉食という病理」が採録されている。いままで『中央公論』のコピーを大事に持っていたが、これで、書物の形でいつでも読み返せる。ほかにも、「論」というより、実際に彼に師事した川田さんの、愛しさと尊敬に溢れた「想い出」が詰まっていて涼やかだ。月曜は、自分の来し方を振り返る巡り合わせになっているのだろうか? 死亡フラグでないといいけれど。
「キーワードで読む中国古典」の最新刊は、『治乱のヒストリア:華夷・正統・勢』。渡邉義浩「華夷について」、林文孝「正統について」、伊東貴之「勢について」という3つの主要論考は、それぞれ50ページ余りに及ぶ決定版。ワクワクする。

いい買い物をしたので、自分の研究もがんばらないとな。
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