仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

富士見丘学園とのコラボ:環境史フィールドワーク2

2015-09-26 04:45:28 | 議論の豹韜
昨日の四谷会談終了後、ある程度の予習をして仮眠をとり、そのまま京王線の代田橋駅へ。8:30頃から、暗渠化した神田川笹塚支流の踏査を行った。まずは、もはや住宅地化してまったく往時を想像できない(確かに周辺よりかなり低い地形ではある。現在の地名「和泉」も、水が出るからなんだな、とあらためて認識)鶴が久保から始めて、暗渠に沿って笹塚まで。家々の間を細い道が抜けてゆく。途中環状七号線を渉るのだが、この道路の地下には巨大な調整池があり、その建設によって、80年代に頻発した周辺の浸水被害が劇的に減少した。環七を乗り越えると、周囲より一際高く盛り土した道路が甲州街道に沿って北東へ伸びてゆくが、これがいわゆる水道道路で、現在富士見丘学園のあるあたりを最高点に、再び牛窪の低地へと下ってゆく。ふんふんと、そのありようを地図をみながら確認した。女子校の付近をうろついていると不審者扱いされるので、今度は甲州街道を越えて南へ降り、幡ヶ谷取水口跡や(明治時代には、周辺農民が旧上水より水を盗むために偽装した弁天池が掘られたという。京王線の線路との間に、やはり抉られたように低い場所があった)、玉川上水の開渠・暗渠、橋跡などを確認した。写真の「南どんどん橋」は、上水が南へ大きく迂回する地点で、豊かな水量がどんどんと音を立てたという由来がある。水路の流れ、周辺の土地利用のあり方など、往時の景観に思いを馳せた。実はこの周辺、かつてモモが学生時代に暮らしていたところで、よく通ったものだが、そのときはこうした歴史性について考えもしなかった。面白い。
10:30からは、ゼミ生と待ち合わせ、もう一度富士見丘高校へ伺って、高大連携の授業。高校生から、笹塚の地名由来、笹塚支流の歴史、暗渠化の諸問題などレクチャーを受け、やはり高校生の案内で、学校周辺のフィールドワークも行った。暗渠はみるからに水はけが悪く、富士見丘の校地も含めて、やはり未だに浸水があるという。橋の欄干その他が道路に埋め込まれる形で残されているなど、かつての川の姿を彷彿とさせる景観もあり、非常に勉強になった。富士見丘の生徒さんが、緊張しながらもみごとな説明でリードをしてくれ、うちのゼミ生たちもずいぶん勉強になったのではないかと思う。いまちょっといっぱいいっぱいなのだが、近いうちに、報告それぞれに講評を付けて、御礼とともにご返事しておきたい。
なお、なかば妄想であるもののあらためて思ったのが、笹塚という地名の持つ物語。笹の生えた塚があったとする地名起源は江戸期からあるのだが、弁天池といい、竹生島との関わりが気になる。不忍池も井の頭池も竹生島をモデルに弁財天が置かれるのだが、付近に天台宗の寺院が影響力を持っていたりしたのだろうか。「笹」と「竹」の繋がりは気になるところだし、池に勧請された弁財天は神仏分離時に「市寸島姫社」と名称変更している。市来嶋姫といえば宗像、そして厳島、松尾で、とくに松尾は月読と結びつき、桂地名、竹林、月見との観念複合をなしている。もちろん、どこにでも適用できるわけではないが、いろいろ想像をかきたてられた。
さて、帰宅すると、某雑誌の特集「記録の戦略」について原稿依頼あり。
「〈記録する〉ことにまつわる〈意識的な欲望/無意識の欲望〉、あるいは〈記録を文学として読む/文学を記録として読む〉といった問題を掘り下げ、〈記録の戦略〉を炙り出してみたい。……伝えたい〈記憶〉と〈記録〉の葛藤を見出すことができそうだ」云々、とのこと。面白そう。先日のケガレに関するシンポの依頼は、「いまなぜ」とモチベーションが高まらなかったが、今回は集合的アムネジアとの関係で考えられそうだ。安倍政権下の学校教育に対する圧力のもと、企業やメディアからもステレオタイプの日本像が生成されて、まさに石見銀山世界遺産化を典型とするような、負の歴史的記憶の封じ込め、クリアランスとでもいうべき集合的アムネジアが作動している。「崔杼弑其君」のエピソードとも関連するな。全力を傾けて、撃たねばならない
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