境内の紅葉もようやく色づいてきました。この秋、足かけ5年19巻にわたって書き継がれてきた長大な物語が完結したわけです。そう、北方謙三の『水滸伝』ですね。
研究会の後の飲み会でも発言し、場合によっては講演や講義の際に喋ったりもしているのですが、私は北方のファンです。といっても、ハードボイルド小説はまったく読みません。時代小説専門です。歴史研究者のなかには、吉川英治や司馬遼太郎は愛読しても、「北方なんて……」と小馬鹿にしているひとが多いのではないでしょうか。私にいわせれば、まったくの見識不足です。北方は凄いですよ。
北方作品の魅力。まず、文章がよい。硬質にして簡潔、しかしその下には情熱が秘められている。この文体に慣れてしまうと、他の作家の叙述は恥ずかしくて読めなくなってしまいます。高橋某など、冗長でキレも悪く、何でもかんでも書きたいという幼さが目に付きます。いまや巨匠の扱いを受けている津本某も、ほとんど推敲されていない稚拙な文章で、読むに値しません。
それから内容的なこと。第一に戦争の描写。現在、日本の時代小説作家で、彼以上にリアルに戦闘を描けるひとはいません。騎馬や歩兵といった兵種の役割や動かし方、槍・戟・弓など武器の特性と使いどころ、戦車や船など兵器の構造・製作技術・操練の方法まで、あらゆる点を熟知し消化している。その勉強量は、恐らく並の研究者以上でしょう。兵糧の確保・供給の問題(戦争を起こすとなると、国家財政の何割を軍費に割けるか、足りなければどのように調達するか、といったことが議論されたりします)、兵の調練・練度の問題を重視しているのも、他の小説には類をみない周到さです。彼自身が武道家であるためか、後者は求道的な武術修行のモチーフへも発展、登場人物の哲学的な自己省察とも絡んできます(『三国志』では馬超、『水滸伝』では王進と弟子たちが、そのような存在の典型として登場します)。もちろん、諜報戦も大きな比重をもって描かれていますので、「このキャラはもしかして、ここでやられちゃうの?」と、平時にもかなりの緊張感をもって読むことができます(『三国志』にも『水滸伝』にも登場する致死軍など、象徴的な存在でしょう。作者のお気に入りのようです)。
第二に思想性。彼が最初に描いた時代小説は日本中世の南北朝もの(確か『武王の門』)。それから幕末、中国の『三国志』『水滸伝』『楊家将』の世界。最近では平安期、承平天慶の乱なんかも扱っていますね。みんな、政治・社会の中心となる秩序が動揺している時代。なぜこれらが扱われるのかというと、全共闘時代以来(一部隊を率いて機動隊と戦っていたそうです)、彼の永遠のテーマが天皇制の価値(侵されざる秩序の中心は、国家や社会の平安にとって必要なのか?)を問うことだからでしょう。南北朝や幕末の内乱は、天皇制に向けられた疑問そのもの。『三国志』の方は、絶対的価値を持つ秩序の中心を創出・維持しようとする劉備と、それを否定する曹操との〈くにのかたち〉をめぐる思想的争いとなっています。『黒龍の柩』や『絶海にあらず』によれば、北方自身は、多焦点的な秩序のあり方こそ健全で発展的である、と考えているようですね。前者で坂本龍馬が提案する蝦夷地独立論(間宮林蔵以来培われてきた幕府の調査資料をもとに、勝海舟と小栗上野介、一橋慶喜が準備し、榎本武揚と土方歳三が実現へ向けて奔走する)など、非常にリアルです。
第三は急転直下の悲劇、あるいは滅びゆく理想。この点がいちばんハードボイルドっぽいところですが、いやあ、掛け値なしに泣けますよ。『三国志』にしろ『黒龍』にしろ、どこからみても完璧な計画で夢が実現されてゆく、あともう一歩のところで完成する、そこまで物語を盛り上げておいて、伏線として張ってあった綻びから、いつの間にかすべてが瓦解していってしまう。その展開が実に巧妙で、そして潔く、高橋某のようにセンチメンタルではない。絶賛です。
前から北方についてコメントしようと思っていたのですが、書きたいことがありすぎて、うまくまとめられませんでした。『水滸伝』自体についてまったく書いていませんし……。とりあえずは完結を祝いましょう、ということでご容赦を。けれども個人的にお薦めしたいのは、南北朝ものなら懐良親王の『武王の門』と北畠顕家の『破軍の星』、幕末ものなら土方歳三の『黒龍の柩』、中国ものなら『三国志』ですね。どれも最高傑作、司馬遼太郎や吉川英治を超えています(『水滸伝』は、いままでの作品の集大成的な性格がありますね。逆にいうと新鮮味はない。登場人物が多すぎるためか、キャラの書き分けが統一されていない部分もあります。言葉の使い方、話し方が巻によって変わっていたりとか……)。ぜひお試しあれ。
研究会の後の飲み会でも発言し、場合によっては講演や講義の際に喋ったりもしているのですが、私は北方のファンです。といっても、ハードボイルド小説はまったく読みません。時代小説専門です。歴史研究者のなかには、吉川英治や司馬遼太郎は愛読しても、「北方なんて……」と小馬鹿にしているひとが多いのではないでしょうか。私にいわせれば、まったくの見識不足です。北方は凄いですよ。
北方作品の魅力。まず、文章がよい。硬質にして簡潔、しかしその下には情熱が秘められている。この文体に慣れてしまうと、他の作家の叙述は恥ずかしくて読めなくなってしまいます。高橋某など、冗長でキレも悪く、何でもかんでも書きたいという幼さが目に付きます。いまや巨匠の扱いを受けている津本某も、ほとんど推敲されていない稚拙な文章で、読むに値しません。
それから内容的なこと。第一に戦争の描写。現在、日本の時代小説作家で、彼以上にリアルに戦闘を描けるひとはいません。騎馬や歩兵といった兵種の役割や動かし方、槍・戟・弓など武器の特性と使いどころ、戦車や船など兵器の構造・製作技術・操練の方法まで、あらゆる点を熟知し消化している。その勉強量は、恐らく並の研究者以上でしょう。兵糧の確保・供給の問題(戦争を起こすとなると、国家財政の何割を軍費に割けるか、足りなければどのように調達するか、といったことが議論されたりします)、兵の調練・練度の問題を重視しているのも、他の小説には類をみない周到さです。彼自身が武道家であるためか、後者は求道的な武術修行のモチーフへも発展、登場人物の哲学的な自己省察とも絡んできます(『三国志』では馬超、『水滸伝』では王進と弟子たちが、そのような存在の典型として登場します)。もちろん、諜報戦も大きな比重をもって描かれていますので、「このキャラはもしかして、ここでやられちゃうの?」と、平時にもかなりの緊張感をもって読むことができます(『三国志』にも『水滸伝』にも登場する致死軍など、象徴的な存在でしょう。作者のお気に入りのようです)。
第二に思想性。彼が最初に描いた時代小説は日本中世の南北朝もの(確か『武王の門』)。それから幕末、中国の『三国志』『水滸伝』『楊家将』の世界。最近では平安期、承平天慶の乱なんかも扱っていますね。みんな、政治・社会の中心となる秩序が動揺している時代。なぜこれらが扱われるのかというと、全共闘時代以来(一部隊を率いて機動隊と戦っていたそうです)、彼の永遠のテーマが天皇制の価値(侵されざる秩序の中心は、国家や社会の平安にとって必要なのか?)を問うことだからでしょう。南北朝や幕末の内乱は、天皇制に向けられた疑問そのもの。『三国志』の方は、絶対的価値を持つ秩序の中心を創出・維持しようとする劉備と、それを否定する曹操との〈くにのかたち〉をめぐる思想的争いとなっています。『黒龍の柩』や『絶海にあらず』によれば、北方自身は、多焦点的な秩序のあり方こそ健全で発展的である、と考えているようですね。前者で坂本龍馬が提案する蝦夷地独立論(間宮林蔵以来培われてきた幕府の調査資料をもとに、勝海舟と小栗上野介、一橋慶喜が準備し、榎本武揚と土方歳三が実現へ向けて奔走する)など、非常にリアルです。
第三は急転直下の悲劇、あるいは滅びゆく理想。この点がいちばんハードボイルドっぽいところですが、いやあ、掛け値なしに泣けますよ。『三国志』にしろ『黒龍』にしろ、どこからみても完璧な計画で夢が実現されてゆく、あともう一歩のところで完成する、そこまで物語を盛り上げておいて、伏線として張ってあった綻びから、いつの間にかすべてが瓦解していってしまう。その展開が実に巧妙で、そして潔く、高橋某のようにセンチメンタルではない。絶賛です。
前から北方についてコメントしようと思っていたのですが、書きたいことがありすぎて、うまくまとめられませんでした。『水滸伝』自体についてまったく書いていませんし……。とりあえずは完結を祝いましょう、ということでご容赦を。けれども個人的にお薦めしたいのは、南北朝ものなら懐良親王の『武王の門』と北畠顕家の『破軍の星』、幕末ものなら土方歳三の『黒龍の柩』、中国ものなら『三国志』ですね。どれも最高傑作、司馬遼太郎や吉川英治を超えています(『水滸伝』は、いままでの作品の集大成的な性格がありますね。逆にいうと新鮮味はない。登場人物が多すぎるためか、キャラの書き分けが統一されていない部分もあります。言葉の使い方、話し方が巻によって変わっていたりとか……)。ぜひお試しあれ。