仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

国会議事堂を「観」にゆく(8):七月の蝉

2015-07-31 09:36:23 | 国会議事堂を「観」にゆく
一昨日は、政治向きのことでも仕事回りでも癪に障ることが続き、毒々しい怒りに心のなかが支配されていた。議事堂周辺を歩いていても、そのことで頭がいっぱいになっていて、素直に思考することができない。結局、駅から自宅へ帰る間も憤りが治まらず、そのまま床に就いた次第。何と言い訳をしようが自分は主知主義であり、無知なることが赦せないのだと思い知った(こういうときは、自分のことは棚に上げている。いや、無知が赦せないのは自分に対しても同じか)。

翌日は会議の連続、9月以降に本格化するSGHの件でも学内を走り回ったが、学生センター時代の仲間たち(異動で種々の場所へ分散している職員さんたち)に、行く先々で助けられた。原則では×なことを、「大丈夫です!」と通してくれ、問題が生じてもすぐさま解決に至る。キャップを拝命しているジャパノロジーコースの運営会議でも、それぞれ機構長や学科長を務める多忙な先生方が、献身的に取り組んでくださっている。やはり自分は恵まれているのだなと、前日からのストレスがずいぶん軽くなった(ま、その代価はしっかりと支払わなくてはいけないわけだが。11月のシンポ、引き受けなきゃいけないかなー)。

少し力を得たので、昨日の議事堂「巡礼」は大回り。麹町、平河町を通って議事堂の裏側に回り、そのまま首相官邸前の坂を降って六本木通りへ。写真の1枚目はその坂下から官邸方面を撮影したものだが、実際はもっと斜面が急である。坂を挟んで反対側には内閣府・内閣官房の庁舎があるが、なぜこんな急坂にへばりついているのかと、やはり不思議になる立地だ。麹町台地の南側の縁になる六本木通りに沿って進むと、そこからみる台地上の景観は意外に地味で、写真2枚目のような昭和レトロ?な急坂もある。江戸の町割が踏襲されたものかもしれない。
かなり歩いたので、いつものとおり正門前交差点の石垣で一休み。このところしばらく求道者の姿をみないが、彼はもう「独り抗議」を諦めてしまったのだろうか。かわりにプラカードでも掲げるかと思ったが、彼のような安倍首相の顔にナチマークを刻印したそれは、同じヘイトの闇に堕ちることになるので断固しまい。ならばぼくならどうするか。やはり「彰往考来」が歴史家らしいかな、「崔杼弑其君光」でもよいな。
23:00になったので、腰を上げてもういちど議事堂を周回。前日はダークな気分で歩いていたので、同建物の警備態勢ばかりが気になり、監視カメラをずっとチェックしたりしていた。角という角、地下鉄の出入口など、当たり前だが、かなりの数が配されている。ほぼ毎日同じ時間、ぼくはこのカメラに何度も写っているのだな、ぼくが監視係だったら怪しむな、と実感した。いちばん注意を引いたのは、議事堂周囲の柵上全面に張り巡らされた2本の細いワイヤーで、これに触れると警報でもなるのかな、としばらく注視してしまった(当然、そのぼくを門衛の警官が注視していた)。昨日は、「ああ、ワイヤー」とまた歩きながらその流れを追っていたのだが、なんと途中で、その1本に掴まり脱皮しているアブラゼミの幼虫が…(写真3枚目、綱渡りしてきた、ということになる。セミの幼虫って、そんなに器用だろうか)。
麹町台地の権力が自然から遠ざかろうとしているものなら、それを許さず、取り込もうとしている巨大なうねりの象徴にもみえる。iPhoneではうまく撮影できず、何度もシャッターを押していたが、やはり警官に「ガン見」されてしまった。

今日はこれからオープン・キャンパスのブース詰め。朝から熱中症気味で頭痛が酷いのだが、がんばろう。
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国会議事堂を「観」にゆく(7):微地形断想1

2015-07-29 09:23:12 | 国会議事堂を「観」にゆく
さて、昨日ももろもろの会議のあとに永田町へ出発。湿度が異常に高く、街灯のまわりの空気も、まるでもやがかかったかのように煙っている。赤坂へ降りてゆくと、不快で息苦しく、まるで海の底へ沈んでゆくかのようだ。陽気のせいか、歩道を侵蝕してくる蔦植物と必死に戦う、酔った外国人青年とすれ違う。大丈夫か?

昨日の投稿に盟友の工藤健一さんが、「”わけのわからないもの”を排除する、というのは、確かに近代の権力のあり方の特徴とは思いますが、日本の場合、その中枢に、”わけのわからないもの”を抱え込み、さらに、極めてエモーショナルな概念を強引に構築してきたのではないのかとも思ってしまいます。最たるものは”天皇”であり、”国体”ですよね」とのコメントをくださった。仰るとおりである。
何回か前のポストでも触れたと思うのだが、王権の孕む不気味さについては、水の噴き出す深淵を常に抱え込むものとして、論文に書いたことがある。古墳時代の湧水点祭祀から、水の王宮、阿修羅窟、桃源郷、洞天福地と来て、ロラン・バルトのいう皇居にまで繋げてゆく発想だったが(いま考えると、少しラブクラフト染みていた)、しかしぼくは皇居という空間そのものには、あまり不気味さを感じない。恐らく、水を濠という、人間にとってコントロール可能なものへ骨抜きにし、幽閉した空間に囲まれているからであろう。それでも、闇の多かった江戸時代には境界領域として認識されえたのだが、いまはもうそうした喚起力を失いつつある。王宮の持っていた空間的気味の悪さは、「象徴天皇制」という、これはもうそれ自体に底の知れない深淵を持つコトバに、とって代わられてしまったかにみえる。ゴジラが皇居を踏み潰せなかったのは、コトバに絡め取られてしまったからだ。
〈国体〉も同様の不気味さを発揮してきたが、近代のそれについては、その形成過程を跡づけることで自分なりに相対化することができた。解体する言説を構築しえたので、もうさほど恐ろしくはないといったところか。それでも、上智大学靖国神社参拝拒否事件などのことを考えると(現在に至る上智の「政治的鈍さ」を、決定づけた出来事のように思える)、当時の人々が感じた皮膚感覚の恐怖は共有しなければと思う。その3年後の1935年、岡田内閣が国体明徴声明を2度にわたって発し、文部大臣の諮問機関として設置された教学刷新評議会が、「天壌無窮の神勅」に基づく天皇の永遠統治を国体化する声明「教学刷新ニ関する答申」を打ち出すに至る。あの時代を繰り返してはならない。

しかし、何度も議事堂周辺を歩き回っていると、やはり細かいところが気になってくる。例えば下の写真は、国会図書館に隣接する北西隅の部分だが、一部のみ妙なカーブを描いている。続く写真、坂を下ってゆく北東隅の方はまっすぐになっており、対応する南西隅にも、このようなカーブは存在しない。地図をみると、246へ合流しようとする道路が緩やかな曲線を描いているので、交通力学的な配慮があるのかもしれないが、果たして、交通路に規制されたものか地形に規制されたものか。古地図を遡って考えてみたいところである。ちなみに繰り返すようだが、議事堂自体は南北軸を20度ほど西へずらした立ち方をしているので、地形に規制されていることは明らかであり、地図をみているとちょっと気持ちが悪くなる(このあたりは、ぼくが南北軸の徹底した古代を研究しているためだろう)。周辺の高低差も規則性がなく(前回の視点からすると、自然の反駁といえるだろうか)、何だかひどく軟らかい地面に立っているようで不安になる。今度、GPSを持ち込んで計測してみるか。

ちなみにこの日も、求道者の存在は確認できず。活動時間帯が変わったのか、身体の調子を崩しているのか、それとも心が折れてしまったのか。気になる。
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国会議事堂を「観」にゆく(6):水辺の権力

2015-07-28 06:38:48 | 国会議事堂を「観」にゆく
このところ、本調子でない身体を押してなるべく毎日議事堂へ通ってみて、ようやくこの権力のあり方に対する自分なりの批判の道、相対化の言葉がみえてきた気がする。環境史をやっているせいもあり、何度も赤坂の谷を上り下りし、麹町台地の縁辺を歩きながら、この地形のたどった変転のありさまがだんだんと実感されてきた。今日も喰違見附から赤坂へ下りたが、お濠から弁慶橋をなめて赤坂見附を遠望する景観が、あたかも内湾の先端のように感じられた。

古来、日本の王権は、水辺に胚胎してきたといってもよい特徴を持っている。以前に論文に書いたことがあるが、飛鳥も、藤原京も、恭仁京も、長岡京も、平安京も、水の都であったといっていい(藤原京の「失敗」を受けて急遽長安城的に整備した平城京、大仏造立の薪炭材を得るため南山城の奥地に造営した紫香楽宮の場合は、やや異なる)。海浜都市ともいえる鎌倉、中世京都、そして江戸も類似の立地条件、景観を持っている。江戸を引き継いだ東京ももともと同様の性格の都市で、一国の首都がこれほど海浜に近い場所にあるのは珍しい、ともいわれている(それゆえ災害に見舞われやすいのだが)。ちょっと前に触れた気がするが、議事堂前を降りお濠に接したあたりが麹町台地の縁辺部で、日比谷公園以東は海へ続く沖積低地、もしくは埋め立て地ということになる。事実、日比谷公園の前身練兵場跡には幾つかの官庁が建てられる予定であったが、あまりにも地盤が悪すぎて工事が進捗せず、放棄され公園化されたという経緯がある。江戸城を皇居にしたことで都市の構造を踏襲したわけだが、霞ヶ関や永田町の権力は、そもそもやはり水辺に形成されたものだったのである。
しかし近代にあって、この権力は、水辺、海辺をできるだけ遠ざけるように展開してきた。埋め立てに継ぐ埋め立てによってウォーター・フロントは次第に遠ざかり、抱え込まれた低湿地も乾燥化が目指されてきた。現在、中国江南や東南アジアの諸都市に赴くと、豊かな水との共存のありようを実感できるが、東京にもかつてはそうした雰囲気が濃厚に漂っていたのだ。これも数年前に文章として書いたが、雨などが降ると坂下の低湿地は水に溢れ、家財道具が流れ出し腰まで水に浸かった人々の右往左往する様子が、どこでもみられたのである。しかし、それゆえに低湿地は非衛生的となり、疫病や貧困の温床として権力の忌避するところとなっていった。列島の近代的権力にとって、いわば水辺は葬り去らねばならない前近代の象徴であり、いいかえれば、水辺を払拭することで東京は近代都市になったといえるのかもしれない。
前近代としての水辺に焦点を当てると、やはり人々の畏怖/憧憬の両義性を一身に集めたものとして、〈海〉の存在を看過することはできない。かつて南方へ移り住んだ中原の漢人たちは、江南の海辺に立って東シナ海の広大さに圧倒され、巨大な龍蛇、怪魚、海獣たちの跋扈する世界を詩文に著した。ヨーロッパにおいても、それらを克服し娯楽化する過程が近代化であったことは、アラン・コルバンなどが論じている。そうした観点から、麹町台地の斜面に不安定に立地する国会議事堂、首相官邸などをみるとき、かかる海=前近代から遁走することで己を保っているような、再び襲いかかってくるかもしれない前近代に赤坂の崖っぷちまで追い詰められているような、奇妙な権力のありようを「観」ることができる。近代的特徴でもある議事堂の石造りの巨体は(その立地が古代的であることとも相俟って)、その恐怖に対する精一杯の虚勢であるかのように感じられる。近現代の列島における国家権力がおしなべて自然災害に弱いのは、麹町台地の官庁群がそうであるように、自然の力を前近代のカテゴリーに追いやって排除する臆病な頑なさに閉じこもり、逆に内包し自己のエネルギーとするしなやかな強靱さに欠けているからだろう。やはり、歪であるという印象を拭えない。史資料を博捜して、より精度の高い解体の言説へ錬磨してゆかねば。

いつものとおり、議事堂正門前の交差点の石垣に腰掛け、思索を巡らせていると、巡邏の若い警官が話しかけてきた。好機と捉え抗議運動に関する感想を訊いてみると、北関東のイントネーションだろうか、服務規程ぎりぎりのところで?多少話をしてくれた。
「いまの抗議運動は、皆さん普通の方というか、危なくはないですよ。9割くらいの方は、ルールを守ってくださいます。スピーチを聴いているかですか? うーん、ぼくら、この恰好をしている限りは、自分の意志はないので」
連日の警備が大変なことを暗に強調しつつ、「ごめんなさい、変な感じになっちゃって。それでは、お気を付けて」と去ってゆく後ろ姿は、極めて普通の青年だった。そう、前近代/近代、海/陸が区別されるように、権力とは境界を設定するものなのだ。君とぼくの間にも…(そこにどう連続性を回復させてゆくかが、解体の鍵になるのだろうか)。
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第17回 / "フィールド"とは何か1

2015-07-25 22:34:54 | ※ 四谷会談
5月からずいぶんと間が空いてしまいましたが、人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」の第17回をお届けします。
今回は、第16回でとりあげたオオカミ表象の復讐から始め、学問にとって、あるいは生きるということにおいて、「フィールド」「フィールドワーク」とは、何を意味するのかを考えます。昨年の同時期、ぼくらは場所論を通じ、同じ問題に迫ろうとしたわけですが、今回は他者表象という観点のもとに考察を進めてゆきます。ヒントになるのは、人類学者 菅原和孝さんの監修のもとで編まれた『世界の手触り:フィールド哲学入門』。必ずしもフィールドワークの専門家ではない参加者が、フィールドとは何か、フィールドワークとは何かについて語り合います。しかし、今回は繁忙期かつ気候的にもきつくなる7月とあってか、みな少々疲れ気味。言葉もやや途切れがちになりますが、どうぞご容赦のうえお付き合いください。

《第17回収録関係データ》
【収録日】 2015年7月10日(金)
【収録場所】 上智大学四谷キャンパス北條研究室
【収録メンバー】 是澤櫻子(司会:歴史学・アイヌ史・口承文芸論)/山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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国会議事堂を「観」にゆく(5):そもそも、なぜ国会議事堂が

2015-07-25 22:31:21 | 国会議事堂を「観」にゆく
ちょっと遅れてのポストになるが、水曜日の国会議事堂である。この日も、翌日の生涯学習の授業の準備を終えて、22:00からの深夜行。しかしどうにも体調がよくなかったために、ズルをして往きは地下鉄で。いつもより早く議事堂前に着いたが、今夜は求道者がいない! あれれ、今日は休みかなと思ってしばらく待っていると、南西の方角から横断歩道を渡ってくる彼の姿が。いつものプラカードを手提げに入れ、いつものとおり交差点の石垣に腰掛けて、独り安倍首相退陣を体現していた。その姿を眺めつつ、こちらは、何やら安心して帰途に着いた。

ところで、この1週間議事堂を「観」ながら考えて、幾つか気がついたことがある。前にも書いたとおり、この国会議事堂は、古代王宮を思わせるような立地を利用して、視覚的に権威を表現する形式で建てられているといってよい。しかしこの民主主義の現代日本にあって、「国民」の代表が集う議会の場が、そのような建築様式で許されるものだろうか。やはりこれは、帝国日本の負の歴史遺産といっても過言ではない。戦後日本のスタートともに解体し、「国民」のひとりひとりが気軽に集合しうるような、国民主権を体現する建築物に改めるべきだったのではないだろうか。実際、1954年の東宝映画『ゴジラ』では、戦争の惨禍を象徴するゴジラが議事堂を破壊する場面があり、その折劇場内は拍手喝采に包まれたという逸話が残っている。このハナシが事実とすれば、当時、戦争を抑止できなかった国会に対する怨嗟が、人々の間に渦巻いていたといえるだろう。「歴史的建築物を破壊など」と躊躇する向きには、帝国日本の惨禍を後世に伝えてゆくための負の歴史博物館として、明確な意図をもって残してゆく道を提案したい。

なお、ゴジラが国会議事堂を破壊してから踵を返す「1954年のターン」については、以前から多くの評論が発表されてきた。川本三郎は、第二次大戦の死者の集合体であるゴジラも皇居は踏みつぶせず、未だ天皇制の呪縛は強かったと論じた。また赤坂憲雄は、皇居に住まう天皇はもはや現人神ではなく、英霊を見捨てアメリカに従属する存在になってしまったためだ、と指摘した。いずれも優れた考察だが、堀田善衛の『方丈記私記』で描かれた、慰問に訪れた天皇に土下座して詫びる焼け跡の人々を想起するとき、川本説の方が当時の実感に近かったのではないかと思えてくる。恐らく、1954年のゴジラがもし皇居に足を踏み入れていたら、東京の真ん中に空いた巨大な穴のなかへ、ずぶずぶと引きずり込まれ断末魔の悲鳴を上げていたことだろう。彼は、その危険を野獣の本能で察知したのだ。いま、安倍政権を憎悪するあまり天皇や皇后の民主的思想を喧伝する人々は、ぼくには、同じ穴のなかへ引きずり込まれつつあるようにみえる。
もともと、日比谷周辺は地盤が悪いのである。自分の足もともしっかり確認しておきたい。
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国会議事堂を「観」にゆく(4):群れへの忌避

2015-07-21 23:50:50 | 国会議事堂を「観」にゆく
春学期最後のプレゼミとゼミを終え、臨時の教授会のあと、研究室で木曜の生涯学習の授業を準備。書類が溜まってきたが、木・金で一気に片付けねばなるまい。同僚の先生から11月のシンポジウムへのお誘いがあったが、今年は授業も原稿も過剰にあるので、さてさて、どうしたものか。いろいろ考えあぐねているうち、22:00になったので、例のごとくに国会議事堂へ出発した。

今夜は、赤坂擂り鉢へ下りず、麹町台地の中心を半蔵門方面へ抜けて、台地の縁を迂回してゆくルートを選択。時間はかかるが、アップダウンは少ないので、存外に楽かもしれない。国立劇場の前を通ると、9月からの演目は「妹背山女庭訓」、入鹿誅滅の場面までしっかりやってくれるらしい。浄瑠璃はみたことがあるが、歌舞伎は未見なので、行ってみるかな。
そうこうしているうちに、正面から議事堂を捉えられる場所に入った。やはり、かつての海岸線からだと、台地上の議事堂は大きく聳えてみえる。それなりに視覚的権威を強調した設計になっているようだ。ふむふむと、通りをまっすぐに登って正門前交差点に来てみたが、今日も抗議活動はお休み。学生たちも、テストやレポートに忙しい時期かもしれない(農繁期に兵が解散するようなものか)。人影はというと、60~70代の女性が2人、何やらお話をされている横に、予想どおり、くだんの求道者が座っていた。今日は、安倍首相の顔にハーケンクロイツが重なった写真を、しっかりと身体の正面に掲げている。何度か目が合い、話しかけてみようかと迷ったが、もう少し距離を詰めるべきかと諦めた。お互い、不審者にみえないこともない。
ところで、何人かの方からコメントをいただき、仲間うちでも意見交換ができたので、誤解を恐れずにぼくのスタンスを書いておく。とにかくぼくは、「群れ」のなかに入るのが嫌いなのだ。デモの必要性、連帯の必要性、多くの人々を喚起してゆく必要性は、もちろん認識している。だから、そうした活動に参加をしている仲間たちを批判はしないし、むしろ心から応援したい。しかし、抗議活動の理想としては、やはり、ひとりひとりが本当に自分に合った表現を探し出し、それぞれ独自の方法で展開をしてゆくのが望ましいと考えている。数の多さを振りかざす権力に対して、数を集めて対抗してゆく選択はしたくない。澤地久枝さんの提案したコピーを一斉に掲げるといったパフォーマンスがあり、知人からお誘いのメッセージも寄せられてきたが、(へそまがりなのでご容赦願いたいが)全体主義とどこが違うのかと思ってしまう。掲げるのであれば、それぞれが、それぞれの思いを言葉にすればよい。若者たちが政治参加を表明し、運動も盛り上がってきているので、それに対し水を差すことはしたくない。しかし、みんながみんなそちらの方向へ吸い寄せられてゆくのは、何かが違う気がする。ゆえに、棹を差す発言も絶対にしない。もしこうした抗議活動が成功し少し状態が落ち着いたら、運動の長所や短所、課題や問題点を落ち着いて検討してゆくこともできるだろう。また、抗議活動がまったくの失敗に終わり一面焼け野原のようになってしまっても、いずれ「何が悪かったのか」検証する機会が生じるだろう。そのときのために、弱く小さな声ではあるけれど、何らかの違和感を表明しておきたいのだ。大多数が流れる方向とは、異なる選択肢を模索しておきたいのだ。「国会議事堂を『観』にゆく」は、そうした試行錯誤の場として位置づけておきたい。

適度に風もあり、気持ちもよかったので、帰りも同ルートで四谷まで戻ってきたが、往復90分も費やしてしまった。さすがに少し疲れたな。しかし国会議事堂、このアングルからみると、鎧兜を着けた武人にみえるのだな。そういうデザインなのだろうか。
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国会議事堂を「観」にゆく(3):休日でも「観」にゆく

2015-07-20 23:46:18 | 国会議事堂を「観」にゆく
三連休って、何の話?というわけで、昨日も今日もふつうに出勤。桓武から後一条まで90分で駆け抜けた「日本史概説」を終え、幾つか書類を作成、事務処理メールをほうぼうへ送って22:00。いつものごとくに、徒歩で国会議事堂へ向かった。

喰違見附から紀国坂を下り、赤坂のすり鉢を登って、平河町から自民党本部前へ(今夜はまったく灯りがついていない)。いつもならこのあたりで集会の反響が聞こえてくるのだが、今日は街灯に騙されて鳴く蝉の声ばかり。国会議事堂の脇へ来ても、各門を警備している警官がいるくらいでのどかそのもの、彼らから「こんばんは」と挨拶されてしまう始末だ。ふだんどおり、憲政記念館の前を曲がり議事堂正門前へ向かったが、やはり海の日は抗議行動もお休みなのか、誰も集まってはいなかった。

ふーん、こんなものかね……と思いきや、正門前交差点の街灯の下に、たったひとりだけ、「安保法制反対」の垂れ幕を掲げた若者が立っている。俯き加減で、何も言葉を発さず、ただ街灯の柱にもたれるようにして、垂れ幕を身体の前に掲げている。彼のことは、ぼく以外、誰もみている人がいない。確かに抗議行動としては、まったく意味のない行為だろう。思い切り不審者にみえないこともない。しかしぼくの目にはその姿が、マスコミや群衆の前でマイクを握り、直線的な言葉を投げかける人々より、よほど清々しく映ったのだった。彼が相対しているのは、政府でもメディアでも仲間たちでもなく、自分自身かもしれない。今夜も来てよかった。

写真は、ほとんど警備のない正門の正面で撮った議事堂。何となく、鉄格子のなかにいるようだ。
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国会議事堂を「観」にゆく(2):灯台としての議事堂?

2015-07-19 03:29:22 | 国会議事堂を「観」にゆく
久しぶりに、『産経』(某タカ派新聞ではなく、6世紀頃の中国医書)などを軸に「臨床歴史学」を謳った特講を終え、敦煌文書の観音霊験譚を読み込んだ院ゼミを終え、知人のFさんの話を研究室で伺ってから、22:00頃、のこのこ歩いて国会議事堂前へ。台風の影響で未だ風は強かったが、湿度はかなり高く、喰違見附から紀国坂を下り(狢には会わずに済んだ。いや、現在の狢は永田町にいるのかな?)、赤坂見附から平河町へ登ってゆく間には、すでにかなりの汗をかいていた。自民党本部を過ぎたあたりから、周囲の建物に反響しつつ、かすかにスピーチの声やシュプレヒ・コールが聞こえてくる。今日は、そのまま国会図書館前を通過し、議事堂の前から外務省、首相官邸側へと大きく迂回することにした。

憲政記念館前から正門側へ出ようとすると、警官に呼び止められ、「集会に参加されますか。こちら側を奥へ進まれますと行き止まりになりますので、向こう側の歩道へ出てお進みください」と非常に丁寧に説明された。職務質問は何度か受けた経験があるし、とある事件に巻き込まれ?事情徴収を受けた際、自分の話していない言葉で調書が作られてゆく恐ろしさも味わったことがある。しかし、知人にも警察官がいるし、檀家さんには警視庁のお偉いさんもいる。父は『赤旗』を定期購読するリベラル知識人だったが、同時に地域の「有力者」として長く交通安全協会の会長を務め、警友会にも所属していた。警察機構は国家の暴力装置だが、警官ひとりひとりが嫌いなわけでもない。知らず彼らの会話に耳を傾けていると、「○○って叫んでるの、どういう意味ですかね?」「知らん」という声が聞こえてくる。○○は、「ホニャホニャラン」といった感じで、何をいっているのかよく分からなかったが(本人もきちんと再現できていなかったと思う)、しばらくして入ってきた学兄中嶋久人氏のポストに、「警官が『ノーパサランってどういう意味っすかね?』と立ち話をしていた」との情報があった。この情報を流した人物がぼくの隣にいたわけではなかろうが、そういえば「ノーパサラン」と云おうとしていた気がする。きっと、同じような会話がそこかしこでなされていたのだろう。戦争反対を表明する抵抗の合言葉として使われているのだろうが、しかし、スペイン内戦のようなトラウマ的事態が生じることは誰も望んではいまい。警官が、運動側の言葉に関心を持ってくれるのはいいことだろう。

正門前へ出ると、時間が遅かったからかもしれないが、今日は割合に行儀のよいスピーチ、抗議行動となっていた。60代らしき女性の姿もある。しばらく集会の様子をみて、何度も行き止まりにぶつかりつつ、南側へ回り込み、外務省から衆議院南門側へ移動していった。写真は、そこから「観」た今日の国会議事堂で、一昨日よりははっきりした姿で屹立している。それにしても、国会周辺を回っているといつも思うのだが、時々自分がどの場所にいるのか分からなくなることがある。正門前広場から南北へ伸びる道が斜めについているので、方形に回っているつもりが別の方角へ連れて来られているからか、あるいは議事堂の顔がどこからみても同じに映るからか。麹町台地から八重洲の海岸線へ落ち込む、ちょうどへりの部分に建っている形になるが、それに規制されたためか微妙に南北軸がずれている。正門前通りから議事堂を取り囲む道もすべて放射状に傾斜しており、どこかに人間の地理的感覚を狂わせる要素があるのかもしれない。

古来、「王宮」には視覚的に権威を誇示しうるような、種々の趣向がこらされてきた。奈良時代など、各地から調を担って幅10メートルに及ぶ石敷の直線道路を歩いてきた(このこと自体、支配の身体化といわれている)運脚夫たちは、平城京の入口たる壮麗な羅城門に立って、幅80メートル、長さ3.7キロに及ぶ朱雀大路が一直線に伸びる遙か彼方に、平城宮が展開しているさまを目の当たりにしただろう。羅城門と平城宮内裏との高低差は、25メートルほど。彼らは、初めてみる光景に圧倒され息を呑んだかもしれない。以降、列島における権力の府は、その実用性とは無縁の部分で、被支配者を睥睨しうる高みを目指してゆく。近代日本においては、皇居はそのタブー化(バルトが指摘した〈穴〉である、「王宮」といううより「神宮」に近い)により視覚とは異なる権威を発揮したので、伝統的な威圧的建築は他の公的機関に譲られることになった。国会議事堂はその最たるものだろうが、そもそも民衆の代表が集う議論の場が「王宮」の系譜に連なるというのは、大きな矛盾を抱えているといえよう。しかもこの「王宮」は、関東大震災の惨禍に耐えたとはいえ、地理的にみるとやや不思議な場所に立地している。かつてこの地域は、日比谷入り江が深く入り込んだ海岸だった。もともと官庁をまとめて建設する予定だった練兵場跡は、あまりにも地盤が悪かったため公園化(日比谷公園)し、やや麹町台地へ上がった西側に裁判所、大蔵省、通産省、文部省などの建物を建てていったらしい。首都がこのような海岸至近にある国は珍しく、そのため多くの災害リスクを抱え込んでいるというわけである。この地域のデジタル地形図などをみてみると、議事堂はほどんと灯台のような位置どりだ。

海岸で漁をする人々、ぬかるむ低湿地にぬかづく人々、それを台地のへりに立つ神宮、王宮が睥睨している。少々奇妙の感を拭えない想像図である。灯台の発するあかりが誤った示唆を投げかければ、闇夜の海に浮かぶ船は危地に赴くことになるだろう。
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国会議事堂を「観」にゆく(1)

2015-07-16 08:59:53 | 国会議事堂を「観」にゆく
政府の世論操作装置となったNHKが中継を見送るなか、安保関連法案が衆議院で強行採決された。いつも、一部の政党や団体が、あたかも「国民の総意」を体現しているかのように振る舞うことには、たとえそれが平和運動であっても違和感、拒絶感を抱いてしまう。しかし今回は、同法案への懸念・反対や、首相が説明責任を果たしていないとする不満が社会の大勢を占め、御用新聞である読売の調査などでも同様の結果が出始めていたので、これは文字どおり民意を蔑ろにする暴挙だといえそうだ。もはや、右も左も関係ない。民主主義国家としての約束ごとが、次々と反故にされているのである。

この間、知人や友人がデモや集会に参加するなか、自分が自分としてなしうる反対の意志表明とは何なのか、ずっと考えてきた。自分の非力を恥じるが、政治アレルギーの蔓延する教室でいくらがなったところで、その言葉は学生たちには届きそうにない。ありとあらゆる署名はしてみたものの、それにどのような力が宿りうるのか心許ない。すでに裁決の終了した現在、ぼくらがしなければいけないのは、今までどおり現政権のあり方を監視し批判の声を挙げ続けることと、この憤りを次の選挙までずっと保ち続けることだろう。「終わらせてはならない」。最近読み返した、ルース・ベハールの言葉が力強く浮かぶ。「続けること」。東日本大震災後の情況をみていると、メディアをコントロールするこの国の政府は、〈集合的アムネジア〉情況を醸成するのが巧みだ(強行採決の直後に、国立競技場全面見直しの報道が流れたり)。選択的に開示される目くらましの情報、情況に惑わされず、しっかり「引っかかり」を持ち続けたい。

政府を批判する強靱な言葉も、その機会も持たないぼくだが、持続させることは割合に得意かもしれない。肉食拒否だって、10年続けて習慣化した。とりあえずこれから、出勤日にはできるだけ永田町へ足を運び、国会議事堂を「観」てやろう。「観」て、そのつどの思考を綴ってゆこう。研究室には連日22:00頃まで詰めているが、それから出かけても1時間弱、わけはない。『周易』上経/賁卦/彖伝には、「天文を観ては以て時変を察し、人文を観ては以て天下を化成す」とある。聖人は、天文をみて時節の変化を読み取り、人文をみて人民の情況を察しこれを教化成育する。「観」とは天文、その反映である地文、反映でなければならない人文を洞察する行為である。もちろん、ぼくは聖人でも何でもないが、乱れた人文が最も顕著に現れるのが国会議事堂なら、その姿を観察して文章に焼き付けておかねばならない(人文を「観」ようとする人文学を解体するのは、天文・地文を「自明」とし、自己を投企して人文を推し量ろうとする試みを否定する傲慢さからだろうか)。「崔杼弑君」、と大書した古の斉の史官に準えるには自己陶酔が過ぎるが、東アジア的史官の伝統に連なる者としては、何を措いても果たすべき義務といえる(宮崎駿が、「歴史に名を残したいのだろうが、愚劣だ」と安倍政権批判をしたという。歴史に残るとは、本来、一族や国家の行く末を左右する緊張孕むものだ、という点を充分に自覚すべきだろう。なぜなら、記録とは多く称賛のみに止まらないからだ。「直筆」「筆誅」は、王権から独立し天に直結したという史官の根本的職務であった)。単なる自己満足の感は否めないし、まったく意味のないことかも分からない。ほとんど文章を書けない日もあるだろうが、とりあえず、続けていってみよう。

というわけで、今日の国会議事堂。正面は喧噪状態だが、背後は案外に静謐であった。小雨の降り出すなか、少し霞んでみえる。周囲には警官たちの群れ。一説では、「警」とは神に祈り戒めること。彼らが誰に祈り、何を戒めているのか分からないが、「警」なるものが、ぼくらの代表が集い議論を重ねる国会という場を、ぼくらから分断しているのは確かだ(警察批判ではなく、構造に対する批判である)。「戒」とは、境界なのだから。国会は境界の向こう側にあるのだと、ぼくらはしっかり自覚しておくべきかもしれない。他界とは、概ね現実世界と価値観が転倒しているものだ。また白川静は、「警」を構成している「敬」の旁について、羌族を犠牲に供して神に祈る呪儀という。白川説の正当性についてはひとまず措くとして、甲骨文字を用いた古代殷帝国が、羌族を捕縛して供犠に用いていたことはよく知られている。だとすると、日本の「警」において犠牲とされているのは何なのか。殷代後期、その羌が殷の最大の敵対勢力のひとつになったことを、併せて考えておきたい。
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