仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

宗教と科学/修行と世界認識

2011-03-29 13:25:00 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
24日(木)は、久しぶりに環境/文化研究会(仮)の例会があった。当初はいつもどおり上智を会場に行う予定だったのだが、先の地震により教職員以外に入構制限がかかってしまったので、考えた挙げ句、信濃町にある母の実家の林光寺さんにスペースを貸していただくことになった(あらためて感謝申し上げます)。

今回は土居浩さんによる、岡田正彦著『忘れられた仏教天文学』の書評会。18~19世紀、西洋天文学の流入に危機感を抱いた天台僧円通をはじめとする人々が、須弥山世界の実在を訴える梵暦運動を開始する。これが伝統勢力による単なる保守運動でないのは、西洋の科学的知識や方法を一部吸収して展開された点で、地球儀に対応する須弥山儀縮象儀が実際に製作されているのだ。土居さんは各章の内容を手際よく整理し、西洋と日本との出会いの問題、近代化の問題、西洋風の機械論的世界把握に宗教者が施注することを環境学的にどう捉えるかなど、重要な論点として提示された。
個人的には、実証的な部分、言説分析の方法に関することなど、幾つか批判したい点はある。しかしそれ以上に本書は魅力的で、とくに近年考え続けている修行論について大きな刺激を受けた。岡田氏は、この梵暦運動が最終的に忘却されてゆく理由について、仏陀が天眼によって把握する展象=宗教的真理と凡夫が肉眼によって把握する縮象(経験的事実)を混同したため、経験的事実が西洋科学の描いた世界観に沿って実証されてゆく過程で、沈黙せざるをえなくなったのだと説明する。このような現象は未だ現在進行形で生じており、アラヤ識を深層心理学の用語で説明したり、縁起を生態学的に言い換えてみたり、あるいは修行経験が精神面に及ぼす影響を臨床心理実験によって解明しようとする試みを各所でみかける。世界を把握するという点において、かつて宗教と科学は一体であった。それがいつからか分離し、やがて抗争する関係になる。現在は住み分けがなされているようにみえるが、オウム真理教のような宗教が出現したり、ドーキンス『神は妄想である』といった本が書かれることを考えると、実はまだ多くの領域で複雑に交錯する分野なのだと気づく。質疑応答の席で野村英登さんが、「宗教的真実/経験的事実の二項対立図式で把握されているが、修行によって得た世界認識も〈経験〉のはずだ」と指摘したとおり、宗教はよく聖俗の二項対立を利用するものの、最終的には聖の観点へ一元化してゆくベクトルを持つ。岡田氏のいう「混同」は、宗教のあらゆる局面で常に起きていることなのだ。円通や高弟の環中は、彼らが描いたり作成に関わったりした須弥山儀と同じイメージを、修行を通じて感得することができていたのか。宗教と科学との関係を考えるうえでは、そのことが最も重要な問題ではないかと思われる。あとはやはり、岡本さえさんらの中国における同様の研究と結びつければ、アジア的規模でもっと複雑かつ多層的な様相が浮かび上がってくるだろうという点。いわゆる近代化の問題は、そのなかで相対化されてしまうのではないだろうか。

研究会の後は、信濃町駅前のプロントで飲み会。気の置けない仲間どうし、溜まっていたストレスを大いに発散した。報告者の土居さんと、こんな情況のなかで集まってくださったメンバーに感謝したい。
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エア卒業式!

2011-03-26 22:58:59 | ※ 雑感
恥ずかしながらまったく情報を得ておらず、こちらで拝見して初めて知りました。感動。ぼくも参列したかった。
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卒業生へ

2011-03-23 16:58:51 | 生きる犬韜
本日23日(水)は、上智で卒業証書授与式があった。厳密には式典は中止で、証書を渡す学科集会があるのみ。学生たちは寂しげではないかと思ったが、いたって元気で、かえってアットホームないい会になった印象である。いずれ、学科単位でもゼミ単位でも、卒業パーティーなり追いコンなりを開ける日が来ればいいと思う。

3.11からの数日のなかで、このような危急のときに人文学がいかに無力か、歴史学の存在意義とは何なのかを考えることが多かった。しかし、今回のような自然災害も、実はすぐれて歴史的な事象なのだ。災害は人との関わり合いがあるから災害なのであって、そうでなければ単なる自然現象にすぎない(ぼくらの構想する環境文化史においては、人間だけでなく、動植物等の他の生命も対象になるが)。今時の報道でよく「想定外」「想像を絶する」との言葉を聞いたが、その「想定」は過去の事象の積み重ねによって組み立てられている。今回は、そのうえでなされる判断に誤りがあったということになるが、歴史学が防災や減災に提言できることは少なくないはずだ。原子力発電所の問題もそうである。この原子力を安全だと頭から思い込んでいた人は、日本にもそれほど多くはいなかっただろう。それを企業が安全だといい、政府が安全だといって、社会全体でそう信じ込もうとしてきた。なぜそうなってしまったのか。列島の自然環境、エネルギー事情等々さまざまな要因があるわけだが、チェルノブイリの大事故以降、一時期原子力の安全性を再検討する機運も間違いなくあったのだ。環境問題の勃興もあり、ヨーロッパなどでは2000年前後から、風力発電や水力発電、太陽光発電などのクリーン・エネルギーの開発に力が入れられていた。しかし一方で、同時期に「原子力ルネサンス」と呼ばれる動きもあり、アメリカ・ヨーロッパを中心に停滞していた原発建設の動きが活性化した。その一翼を担っていたのが、安全神話を標榜する日本の技術力だったのである。被爆国である日本が、なぜそれほどまでに原子力発電に固執し、宣揚するに至ったのかは、ひとつ現代史のみに関わる問題ではない。太古から連綿と続く列島での人と自然環境との関わり、その一帰結として理解しなければならない。この問いに解答を与え未来へ提言してゆくことは、歴史学の背負った重大な課題であり、喫緊の責務であるといえよう。

4年間歴史学を学んだ学部卒業生、6年以上研究してきた大学院修了生は、上記のことをよく考えてほしい。半ば自己のポジションの正当化である点は否めないが、それでも歴史学的なものの考え方(「歴史学が」ということではない)は、これからの時代を生きてゆくための重要なツールとなりうる。学んだことを大切にして、一社会人として立派に成長し、活躍してほしい。

…そのようなことをつらつら考えつつ卒業生との別れを終え、研究室に戻ってPCを開くと、「東京の浄水場から放射性ヨウ素検出 乳児の基準値2倍超「飲用控えて」」とのニュース記事が。上智は早稲田や成城のように新学期を1ヶ月遅らせることなく、多少の日程変更はするものの4月からスタートすることに決めた。しかしこのような状態で、本当に大学を正常に運営できるのだろうか。里帰りしている外国人教員が、戻ってくるかどうかも分からない。学期を始めてみたはいいが授業ができない、ということにもなりかねない。まだまだ前途多難である。
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ストレスが多い

2011-03-19 11:47:24 | 生きる犬韜
東北学院大学に勤める仙台の知人から、ようやく16日(水)、無事である旨の連絡が入った。実は彼の肝入りで、5月に仙台で環境史の講演をすることになっていたのだが、延期はもちろん中止もやむをえない状態だろう。東北学院は4月下旬まで休校ということだが、学生たちが通常どおり勉強できる日が、できるだけ早く来ることを願ってやまない。

18日(金)は、突如、震災対応の学科長会議が開かれるというので、久しぶりに出勤した。三鷹までは中央線も総武線もある程度動いているので、ラッシュや極端な本数減の時間帯を外せば、あまり混雑に巻き込まれることもなく四ッ谷まで来られる。上智では、半ば自宅待機もやむなしという扱いだった職員にも、17日(木)頃に全員登学命令が下ったようで、ようやく日常への復帰へ動き出した印象である。しかし、構内は安全確認が充分できないということで学外者の立ち入りを制限しており、結局卒業式も中止になってしまった。ふだんは面倒な式典だが、4年生の気持ちになってみれば中止は残念である。彼らには、いつか埋め合わせをせねばなるまい。
ところで式典といえば、研究室の方へ、4月以降に開催される各種式典への出席依頼が届いていた。「役付き」になるとはこういうことなのか…!と、少々ストレスが増した。今後は、嫌いなネクタイを締める日が多くなりそうである。

命に関わる苦痛を経験されている東北、北関東の方々の比ではないが、しかしこの無意識に蓄積されるストレスは厄介だ。ほとんど暖房を使用していないので身体的にキツいということもあるが(とくに夜間)、集中力が極端に弱まり疲れやすくもなっている。山積した仕事が進まないので、焦りや苛立ちも増す一方である。阪神淡路大震災の折にはトラウマの問題が大きく浮上し、以降大事件や大事故が起きると心理的ケアの対策が必ず取られるようになったが、社会全体に蔓延するこの不安感を払拭する術を探してゆかねばならないだろう。各所で聞かれた「想定外」「想像以上の」という言葉も、自然環境と人間との関係を考察している立場からすれば極めて重要な意味を持つ。国内外における様々な言説生産・発信の分析も、これらの事象との関連において注視しておかねばなるまい(義姉が、今回の災害に関する海外報道の重要記事を翻訳紹介する活動に関わっている。関心のある方はこちら)。自分のやるべきことを探しながら、気力を高めてゆくしかない。

※ 写真は、日光東照宮への参道前にかかる神橋。橋の朱塗りと、雪解け水の清冽な青とのコントラストが美しかった。
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とりあえず元気を出す

2011-03-17 10:41:04 | 生きる犬韜
地震のあった11日(金)から、ちょうど1週間が経とうとしている。10日(木)は、卒業判定会議を終え学部の打ち上げ・退職者歓送会を行ったのだが、当然のように、翌日あのような事態が生じるとは夢にも思わなかった。現在は、メールでできる会議案件はメールで済ませ、ほとんど自宅待機の状態が続いている。この時期の大学教員の仕事などまさに不要不急なのだから、節電の意味でもその方がよいのだろう(この数日電気暖房はまったく使用せず、ヤシマ作戦展開中である)。リアルタイムで変化する東北・北関東の被害情報、福島原発の状態に心を奪われるが、これが無自覚な部分でかなりのストレスとなっているのか、何をやるにも能率が上がらずに困っている。実は、「こういうときこそ学問」と、11日の避難時も徹夜で研究論文のノートをとり、原稿を書いていたのだが、だんだん集中力が落ちてきて予定どおりに事が運ばなくなった。出版社も動いていないだろうと高を括っていたら、吉川弘文館のI氏に電話すると出勤して働いているという。ムム、と自分を奮い立たせてPCに向かっているところである。冷静になって考えてみると、不急とはいえ大学の事務仕事、学会の仕事(投稿論文の査読など)、締切を過ぎた原稿は山積しているのだ。とにかく、被災地の人々、復旧や援助に命がけの人々に思いを致しつつ、こちらは日常を懸命に生きるしかない。元気出そう。

ところで、この数日当ブログへのアクセス数も急増している。テレビをみたくない人たちや自宅待機の人たち、あるいは学生たちがネット・サーフィンを繰り返しているのだろう(モモも同じである)。余震・原発の正確な情報や対処法などをまとめておく柄ではないので、せめて能天気な話題をとも思うが、それも何か不自然な気がして、こうしていつものように無意味な文章をだらだらと綴っているわけだ。そのうち、結婚記念日旅行?で日光へ骨休めに行った話なども書きましょう(写真は、そのときの宿から撮った雪中の中禅寺湖。美しかった)。しかし、卒業パーティーや追コンなどが尽く無期延期になっていて、悶々としたまま部屋に閉じこもっている人も多いのではないかと思う。このストレスを吹き飛ばすためには馬鹿騒ぎも必要な気がするが、教員の立場からはそうした無責任な発言はできない(不謹慎という意味ではなく、未だ予断を許さない情況なので)。来週には環境/文化研究会の例会、古代史ゼミOB有志の研究会が予定されているが、こちらは可能な限り実施して淀んだ頭脳を活性化させたいと考えている。
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石原発言

2011-03-14 20:11:58 | 生きる犬韜
石原慎太郎の「天罰」発言には、怒りを通り越して呆れ、しかしそれでも憤りがおさまらない。かつてスマトラ島沖地震の際、アメリカの某ラジオ局やキリスト教原理主義が同様の発言をしたが、他者に対する想像力がまったく欠如しているとしかいいようがない。三鷹に越してきて1年近くになるが、本当に東京都民であることが恥ずかしい。被害にあった人々ひとりひとりのことを考えられない政治家が、芸能人集団を動員して選挙に勝ち抜き、暴言や差別発言を繰り返しながら自治体の長におさまっているのだ。情けない。
また、ふだん、その豊かな知識の恩恵に浴している某メーリング・リストでも、スマトラ島沖地震の死者数に比べれば、今回の震災でいわれている「数万人も驚くほど少ない数字」との発言がなされていて驚いた。ぼくには「少ない」とは思えない。人がひとり亡くなるというのがどういうことか、こういうときこそ考えてほしい。

※ 上記メーリング・リストに関する文章中、やや誤解を招く表現がありました。お詫びして、該当部分を削除しておきます。
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地震

2011-03-12 11:24:22 | ※ 告知/参加予定
昨日、研究室で今年度最後の学科長会議・教授会議事録を作成していると、突然研究棟が揺れ出した。すぐおさまるかと思いきや次第に酷くなり、ついには倒壊しそうな勢いになったので、他の教職員と声をかけあって階段を降り、建物の外へと避難した。以降も余震は続いたが、その度にみあげる校舎、メインストリートの木々が大きく震動するのが分かる。学生の携帯でワンセグ・テレビを観ると、思った以上の規模の地震で、東北~関東の各地に甚大な被害を生じているらしい。2時間弱の後、ようやく建物に入る許可が出たので各研究室の情況を確認したが、本棚が倒れ収納物が溢れ出て、扉さえ開かない部屋もあるほどだった。幸い、もとから内容物の少ないぼくの部屋は軽微な被害に止まったので、すばやく片付けをしてゼミ生の安否を確認。東大にいた妻の無事も確認できたため、一時四ッ谷の親戚宅へ避難し明け方再び登校、1年生やプレゼミ生、昨日出勤していなかった先生方、東北・関東近辺の友人たちへメールを送った。キャンパス内の建物には目立った被害はないが、一部天井が落ちたり壁にヒビが入ったりということはあったらしい。学生や教職員にも大したけが人は出ず、今のところは無事に済んでいるようだ。

被災された方々には、心よりお見舞いを申し上げます。行方不明の方々のご消息も、早く明らかになるよう祈ります。危険な現場で救助や復旧の作業に当たられている皆さんも、どうかお気を付けて。
ご心配くださった方々、とりあえず私は無事です。
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ツィート3件

2011-03-08 21:09:00 | ※ 雑感
先日、角川書店から「角川財団学芸賞」「角川源義賞」の推薦依頼が送られてきた。へー、こういう風に決まるものなんだ。初めて知った。

今日、大学のメインストリートのベンチで独りコーヒーを飲んでいたら、雀が餌を探して頻繁にぼくの周囲を飛び跳ねる。何度も飛んできてはうろうろしていた一羽が、ついにすぐ側までやって来て、ベンチについた右手の人差し指を3回ほど噛んでいった(つついたのではない)。「君たちって、そうなの?」と訊いたら、首を傾げていた(ほんとに)。学生たちに、しっかり餌付けをされているんだろうなあ…。

「三田村雅子検定」なるものがある。恥ずかしながら満点でした(当然か)。
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入試に思う

2011-03-08 11:46:06 | 議論の豹韜
「住宅借入金等特別控除」の申請のため、いつもより余計面倒だった確定申告の作業をようやく終えた。これで執筆に専念できる…と思ったとたん、学会の査読論文やら校正やらが送られてきて、溜まっている原稿がなかなか片付かない情況となっている。このところは中年の身体に響くので幾らか睡眠をとっていたが、今日は久しぶりに完徹(しかし寒い!)。今年度も残りわずかなので、何とか頑張ってゆかねば。

ところで、京大入試におけるカンニング騒動の件。ようやくマスコミの報道も鎮静化してきたようだが、耳に入ってくる評論家のコメント等を整理してみると、「カンニング自体はしてはいけないことだが、京大は騒ぎすぎではないか。未然に不正を防げなかった大学側にも責任がある」との同情論が多いように思う。そのうえで、「単純に知識のみを問うのではなく、もっと考えるタイプの入試を実践すべきだ」と、入試における現行制度の批判、改革へと話を結びつけてゆく論説がうかがえる。まあ、確かに京大は軽々に動きすぎたかも知れない。恐らく、近年中国などでみうけられるような、組織的犯罪の可能性を疑ったのだろう。ところが、蓋を開けてみると実行犯は予備校生1人で、方法自体も直接的で幼稚なものだった(1問5分程度での左手打ちなど、同世代の若者なら誰でも可能という)。事実を知って、京大側も「しまった!」と思ったのではないだろうか。しかし、だからといって大学側の責任を問うのは本末転倒で(大学人だから弁護しているわけではない)、それは、「犯罪が起きるのは社会・行政の監視が行き届いていないからだ」と非難するのと何ら変わらない。不正を行わないのが最低限のルールなのだから、たとえ試験官が1人も監視していなくとも、それを破った方が悪いに決まっている。大学側を批判できるとしたら、やはり軽々に事態を公にし警察沙汰にしてしまった点だろうが、しかし公権力の力を借りなければ早期に違反者を特定できなかった可能性もあり、なかなか難しい問題である。

噴出した「入試改革」の意見も聞こえはいいが、外部からの浅薄な視線では分からないような困難が伴うはずだ。私立大学では、単純に知識を問う一般入試にも独自の論述問題を課すほか、推薦入試やAO入試などで趣向を凝らした設問を試みている。上智史学科のAO入試はプレゼンテーションが主で、予め発表したテーマに基づき受験者が調査・考察・資料作成を行い、当日試験官の前で発表して質問を受ける。受験者の学力が如実に表れるため、開始した時点では最良の方法にみえたが、近年は合否の判断に迷うことも少なくなくなった。調査や考察、資料作成の時点で高校教員や予備校講師が深く関わり、受験生の能力を大きく補完してしまうからである。小論文などはこの傾向が顕著で、前もって課題を発表しておくとほとんど同じような答案が並ぶことになり、読む方は辟易してしまう。高校や予備校とのいたちごっこだが、向こう側が想定しえないような質問を試みて、受験生の実力をあぶり出せるよう努めるしかない。
「知識ではなく考察を問うような問題を」との見解には同意するが、しかしその場合、採点には大変な労力を要する。数百人の考察を、短期間に同一の基準でどのように評価し、優劣を付けるのか。講義で教えた学生にレポートを提出させるのとは訳が違い、かなりのグレーゾーンを抱え込まねばならないだろう。それは受験生にとって、必ずしも有益ではないはずだ。また、「単純に知識を問う」という試験が、絶対に「悪い」というわけではない。今回の事件をきっかけに、「単純な事実は調べれば済むわけだから覚えなくてもいい。あらゆるものを持ち込み可能にして考えさせる問題を」との意見も出て来ているようだが、人間の記憶はHD等々の記録メディアとは違うので、その事実は多くの他の概念、言説と関連をもって保存されたり、一定の理解の結果として定着している。想起も単なる再生ではなく、新たな創造として行われるのであり、記憶・知識と思考とは切り離せないのだ。ゆえに、外部記憶装置に依拠した解答と、自分の記憶を駆使して構築した解答とは、質的に大きな相違を生じることになる(情報検索さえ本来的には考察なのだから)。『説文解字』を暗記した碩学の文字解釈と、漢和辞典を引き引き行う素人学者の文字解釈とは、やはり大きな隔たりがあるのである。大学生における単純な知識の欠如が問題化し、リメディアル教育や初年次教育の必要性が叫ばれている現状においては、その知識を問うことこそが重要なのだともいえる。ただし、その設問のあり方には工夫が必要だろう。
人文系科目の場合、試験の問題を作成する際には、できるだけ受験する者の頭をフルに回転させられるような問題構成を考えたい。頭のなかにある教科書や参考書の記述と対照させれば、すぐに解答が出せるような問題にはしたくない。しかし、センター入試も含めた現在の大学入試の大勢は、「できるだけ受験生の頭を悩ませない」簡易な問題を大量に出すという方向に向かっている。それは、ある意味で出題ミスとそれへの対応を怖れた結果で、学生の質を下げるばかりだという気がしてならない。いつかは、異なる方向へ大きく舵を切らねばならないだろう。
理想は、アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーに有機的に関連した受験制度だが、高校教育自体の改革も不可欠だろうから容易ではない。課題は山積している。

さて、写真は久しぶりに出た古代史の小説で、藤原時平と菅原道真の関わりを、王朝国家成立の政治的・社会的胎動のなかで捉えている。作者の奥山景布子さんは『とはずがたり』の研究で学位を取った文学者で、さすが、「史料」や研究文献をしっかり読み込み消化して物語を構築しているようだ。数ページ読み進めて「おや」と思い、巻末の参考文献リストを開くと、案の定筆頭に「平田耿二著『消された政治家菅原道真』」が掲げられていた。確かにこの本は、道真と時平の相克のドラマを構想するうえでは非常に魅力的だろう。しばし、恩師の顔を想い出した。
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七段飾り

2011-03-06 14:35:18 | 生きる犬韜

うちには娘はいないが、先月末の27日、一応、秋田高松家伝来の七段飾りを組み立てた。ぼくには男兄弟しかいないので、実家でひな人形を飾った覚えはないが、月参りをしていると、2~3月には多くの檀家さんの家でひな飾りを観ることになる。しかし、三鷹へ越してきてからはそれも叶わなくなったため、自宅で眺められるというのはそれなりに趣があってよい。「箱から外に出さないと、夜中に騒ぎ立てる」との伝承?(亡くなった義理の祖母がいっていたらしい)があるだけあって、なかなか精巧な作りである。ワインや煎餅を供えてみたが、翌朝唇の回りが紫色に…なっているようなことはなく、少々残念であった。
ちなみに、とうぜんひな人形を組み立てたのは初めての経験であったが、その装束・小道具類から調度品まで、やはり家父長制イデオロギーにおける女性の位置を強化し、それを喜びとするよう喧伝する装置なのだなあとあらためて感じた。恐るべし。
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