26日(土)、大山誠一さん主宰の『日本書紀』を考える会に参加し、井上亘さん「古代音韻による『日本書紀』成立論の問題点-森博達氏の新説をめぐって」、瀬間正之さん「『百済弥勒寺舎利奉安記』および崔鉛植氏の『校勘大乗四論玄義記』(七世紀初頭撰)について」、蔵中しのぶさん「『七代記』の成立と鑑真一行」、増尾伸一郎さん「行信の法隆寺東院伽藍創建と聖徳太子」という4本の報告を伺った。非常に充実した内容で、お腹がいっぱいになった。
瀬間さんの話は前もってある程度伺っていたのだが、近年百済の宗教文化、とくに百済仏教に関する出土文字資料が次第に豊富になってきており、日本の古代文化の成り立ちも従来とは異なる側面から検証が可能になってきたことにまず注意を惹かれる。とくに、新出の百済弥勒寺「金製舎利奉安記」にある「下化蒼生」という表現が、『大正新脩大蔵経』では『維摩経義疏』にしか出て来ないという指摘は重要だ(瀬間さんの資料紹介に対する石井公成氏の指摘による)。また、現在ぼくの追究している問題からいうと、神祇に対する「蒼生」の起源も大きな問題である。蔵中さんの報告では、仏教東漸を示す言説形式の整理・分析が必要であることを痛感した。『集神州三宝感通録』にみえる日本からの留学僧会承の記録といい、『法苑珠林』にみえる西域への視線といい、やはり玄奘・王玄策から道宣・道世に至る西明寺周辺のラインで整えられたものが、日本へ伝来している可能性が高い気がする。飲み会では蔵中さんと、「王玄策の研究会をやろう!」と盛り上がった。
これで今年の研究会は終わり。…といっても、もう2週間後には授業も始まっており、立教大学のシンポもあるのだから、「一段落だ~」などというのは幻想(環境文化だね)にすぎないわけだが。帰りは瀬間さんと一緒に四ツ谷まで(いろいろと恐ろしいことを聞いた…)。高崎へ帰る瀬間さんと別れて、もはや誰もいない研究棟に寄り、10時過ぎまで史料チェック。だんだんと執筆も波に乗ってきたところなので、皆さん、年賀状は遅れます。ご容赦を。
ところで、25日(金)深夜の、小田和正「クリスマスの約束 2009」には感動した。一応毎年観ている番組なのだが、今年はいつものように若手を招いてジョイント・コンサートを行うだけではなく、財津和男から生きものがかりに至る総勢21組34名のアーティストが、それぞれの代表的楽曲を協力してメドレーする「22分50秒」なる企画があったのだ。この番組では、これまでゆずとユニットを組んだり、スキマスイッチと一緒に曲を作ったりという試みも行っていて、小田と若手が音楽を介し世代を超えて理解してゆくさまなどがみられたが、今回はその最たるものであろう。単にひとりひとりが自分勝手に自己主張するのではなく、また集団のために実存を殺すのでもない。ひとりひとりが充分に個性を発揮しながら、なおかつ「みんなの歌」として成り立つ世界。まさに、現代を生きるキーワードである「多様性」を体現した内容だった。言葉で抽象的に説明を加えることはできてもすぐ実現はしえないが、しかし実際にそれぞれが生の声を発しつつ、個体として関わってゆくことで新しいものが生まれる(例えば20人以上にも及ぶ結衆で声明をしていると、時折それが感覚的に理解できることもある)。〈身体性〉を看板のひとつに掲げて研究している立場からすれば、いろいろ納得するところが多かった。最後に小田和正の語っていた、「あれはたぶん、奇跡みたいなことだったのかも知れない」という言葉も、実感として理解できたように思う。YouTubeなどにもアップされるだろうが、いい音質・いい映像でもう一度観てみたいものだ(ま、初見と同じ感動が得られるとは限らないが。それが「奇跡」なのだろうし)。
多様性といえばレヴィ=ストロースだが(強引?)、そういえば彼は代表作『神話論理』の構成を音楽のそれに喩えていた。アプローチの仕方は違うが、何か同じ世界を垣間見たような気がする。
瀬間さんの話は前もってある程度伺っていたのだが、近年百済の宗教文化、とくに百済仏教に関する出土文字資料が次第に豊富になってきており、日本の古代文化の成り立ちも従来とは異なる側面から検証が可能になってきたことにまず注意を惹かれる。とくに、新出の百済弥勒寺「金製舎利奉安記」にある「下化蒼生」という表現が、『大正新脩大蔵経』では『維摩経義疏』にしか出て来ないという指摘は重要だ(瀬間さんの資料紹介に対する石井公成氏の指摘による)。また、現在ぼくの追究している問題からいうと、神祇に対する「蒼生」の起源も大きな問題である。蔵中さんの報告では、仏教東漸を示す言説形式の整理・分析が必要であることを痛感した。『集神州三宝感通録』にみえる日本からの留学僧会承の記録といい、『法苑珠林』にみえる西域への視線といい、やはり玄奘・王玄策から道宣・道世に至る西明寺周辺のラインで整えられたものが、日本へ伝来している可能性が高い気がする。飲み会では蔵中さんと、「王玄策の研究会をやろう!」と盛り上がった。
これで今年の研究会は終わり。…といっても、もう2週間後には授業も始まっており、立教大学のシンポもあるのだから、「一段落だ~」などというのは幻想(環境文化だね)にすぎないわけだが。帰りは瀬間さんと一緒に四ツ谷まで(いろいろと恐ろしいことを聞いた…)。高崎へ帰る瀬間さんと別れて、もはや誰もいない研究棟に寄り、10時過ぎまで史料チェック。だんだんと執筆も波に乗ってきたところなので、皆さん、年賀状は遅れます。ご容赦を。
ところで、25日(金)深夜の、小田和正「クリスマスの約束 2009」には感動した。一応毎年観ている番組なのだが、今年はいつものように若手を招いてジョイント・コンサートを行うだけではなく、財津和男から生きものがかりに至る総勢21組34名のアーティストが、それぞれの代表的楽曲を協力してメドレーする「22分50秒」なる企画があったのだ。この番組では、これまでゆずとユニットを組んだり、スキマスイッチと一緒に曲を作ったりという試みも行っていて、小田と若手が音楽を介し世代を超えて理解してゆくさまなどがみられたが、今回はその最たるものであろう。単にひとりひとりが自分勝手に自己主張するのではなく、また集団のために実存を殺すのでもない。ひとりひとりが充分に個性を発揮しながら、なおかつ「みんなの歌」として成り立つ世界。まさに、現代を生きるキーワードである「多様性」を体現した内容だった。言葉で抽象的に説明を加えることはできてもすぐ実現はしえないが、しかし実際にそれぞれが生の声を発しつつ、個体として関わってゆくことで新しいものが生まれる(例えば20人以上にも及ぶ結衆で声明をしていると、時折それが感覚的に理解できることもある)。〈身体性〉を看板のひとつに掲げて研究している立場からすれば、いろいろ納得するところが多かった。最後に小田和正の語っていた、「あれはたぶん、奇跡みたいなことだったのかも知れない」という言葉も、実感として理解できたように思う。YouTubeなどにもアップされるだろうが、いい音質・いい映像でもう一度観てみたいものだ(ま、初見と同じ感動が得られるとは限らないが。それが「奇跡」なのだろうし)。
多様性といえばレヴィ=ストロースだが(強引?)、そういえば彼は代表作『神話論理』の構成を音楽のそれに喩えていた。アプローチの仕方は違うが、何か同じ世界を垣間見たような気がする。