仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

久しぶりに映画を観た夏

2012-09-13 03:43:20 | 劇場の虎韜
さて、ブログを更新しないでいるうちに、いつの間にか季節が変わってしまいそうである。いい加減、何かを書かなくてはなるまい。ここまで、別に書くことがなかったわけではない。facebookの方には、それなりにいろいろ投稿している(とくに意味のないことばかりだが)。やはり、まとまったことを考える精神的余裕がなかったというべきだろう。春学期の授業が終わってからこっち、8月下旬までは校務が山積しており(大学の一斉休暇期間も、自宅に持ち帰って仕事をしていた)、下旬はゼミ旅行と研究会・学会などで暮れ、9月になるともう校務再開。つい昨日まで、昨年の秋からかかりきりだった、「7号館文学部フロア災害危険度調査」の報告書を作成していた。それらが終了してようやく一段落、こちらも山積している依頼原稿を書ける時間が持てるようになったわけだ。上の各種イベントについては、また追々記事にしてゆくとして、まずは久しぶりにサブカルネタを繰り出すことにする。

かつては映画好きを自称し、自主映画も撮っていたぼくだが、このところは校務が繁忙化したため、劇場からまったく足が遠退いてしまっていた。三鷹に引っ越したことで、映画館は以前より近所になったはずなのだが、なんと2011年度は1度も映画を観にゆかなかった。〆切の遅れた原稿を複数持っているのに、映画なんぞ観ているわけにはいかない、という罪悪感があったためだろう。しかし、今や仕事帰りにちょっと寄り道し、テレビドラマを観るように気楽に映画鑑賞のできる時代。それはそれでちょっと淋しいわけだが、「若い感受性」を維持するためにも必要と無理矢理理屈を付けて、今夏は久々によく映画を観た。愛用したのは、新宿ピカデリーと立川シネマ・シティ。ともにシネコン形式で、近くに巨大書店があり、大学からの帰りに立ち寄るのにちょうどよい立地なのだ。問題は何を観たかだが、7月末から、『ダークナイト・ライジング』『グスコーブドリの伝記』『プロメテウス』『桐島、部活やめるってよ』『るろうに剣心』の5作品。マニアックなチョイスではまったくないのだが、それなりに楽しめた。以下、雑駁な感想を記しておこう。

最初に足を運んだのは、クリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』。正直、いまひとつだった。『ビギンズ』から観ていないと分からない展開もあり、往年のバットマンファンを喜ばせるシーンもあるので、その意味では集大成といえるかもしれないが、うまく整理できていない印象だ。フェイクとはいえ、ベインの志向する革命のあり方や、市民と警官隊との関係など、書き込み方が曖昧で、何に重点を置いているのかよく分からない。核の扱い方もステレオタイプ。オキュパイ運動の世界的展開や、福島原発事故以降の原発再検討の風潮のなかでは、「現実に追い抜かされてしまった映画」といえるかもしれない。押井守『パトレイバー2』のパロディではないかと思われるシーンも散見、オマージュといえないでもないが、オリジナルの緊張感には遠く及ばない。ノーランは評価の高い監督だが、もともと、正攻法過ぎて面白くないのだ。遊びもないし、オリジナリティも希薄な気がする。やはり、ティム・バートンのような「変態」でないと、バットマンの棲む暗闇は表現できないのかもしれない。ただひとつ、アン・ハサウェイのキャット・ウーマンはよかったかな。

次は、杉井ギサブロー『グスコーブドリの伝記』。評判の悪さは伝わってきていたので、あまり期待はしていなかったが…うーん、あのラストはどういう決断だったのだろうか。
宮澤賢治による同名の原作は、科学と自己犠牲により自然環境を改変することにテーマが置かれている。貧しい木樵の家で育ったブドリは、父や母、妹を奪ったイーハトーヴの寒冷な気候に、火山の炭酸ガスを利用した大気温暖化計画をもって立ち向かう。賢治は盛岡高等農林の出身だが、彼が在学した当時の同校は、初代校長の玉利喜造、賢治の恩師関豊太郎教授を中心に、冷害気象の予知と克服を主な課題に掲げ情報を発信していた。肥料設計をはじめとする後の賢治の農業支援実践は、このなかで培われたものといえるだろう。双子的関係にある傑作『銀河鉄道の夜』が、賢治の経験や思想を幻想性に昇華しているのに対し、『ブドリ』は現実との葛藤や懊悩を生々しく抱えた、ある意味では「未消化」(成立途上)の物語といえるかもしれない。
このアニメ化自体はずいぶん以前から進められていたようだが、内容からして、『不都合な真実』全盛期には実現が困難だっただろう。かといって震災以降も、自己犠牲や自然の描き方がストレートな分だけ、どう映像化すべきか慎重な判断が必要であったと推測される。そこで製作陣が選んだのは、『銀河鉄道』と同じような幻想性を導入すること。物語のなかに、現実と拮抗する他界を設定し、その超自然の力を介在させることで、災害のなかで発生する人間社会の醜さや、ラストの自己犠牲、自然の改変の問題を曖昧化したのである。以前、『銀河鉄道』の映像化にみごと成功した杉井ギサブローには、自然な選択だったのかも分からない。しかしその結果、主人公ブドリの主体性はどこかへ消し飛んでしまった。彼のラストカットが、他界の力に呑み込まれて叫び声をあげる場面というのは、どうも唐突で残酷すぎる。「自己犠牲」以上に何かの「供犠」のようであり、人々を呑み込む津波さえ連想させた。
前作『銀河鉄道』の成功には、脚本に参加した別役実の功績も大きかったのだろう。製作陣が原作の解釈にまで立ち入ることは、「いかに映像化するか」という一点を除き、極力避けられていた。しかし今回の『ブドリ』では、作品の根幹そのものが、現在の価値観に照らして変質させられてしまっている。もちろん、原作/映画の関係においてそれが奏功する場合もあると思うが、この作品ではうまくゆかなかったようだ。アニメーション自体にも、技術の未熟さが目立っていたし、動き・構図・カット割とも意欲的なカットはなかった(ジブリへの迎合かと疑われるシーンもあった。とくに『千と千尋』色強し)。ただし、これもどうしても前作の細野晴臣と比べてしまう小松亮太のBGMは、もの悲しくて意外によかった。

続いて、リドリー・スコット『プロメテウス』。9歳(10歳だったかも)のときに『エイリアン』を劇場で観て以来監督のファンなので、「人類はどこから来たのか」というコピーに踊らされて観にいった(初日に)。しかし、内容的には『エイリアン・エピソードゼロ』、それ以上でもそれ以下でもない。開始直後の映像には世界の広がりを感じてワクワクしたが、あとは物語もヴィジュアルも常套的なものに終始した。宇宙と人類との繋がりを描こうとする物語には、『2001年宇宙の旅』や『コクーン』のようにその神秘性を保持するものと、『スターウォーズ』や『スタートレック』に代表されるようにこの世界を宇宙全体へ投影したものとがある。前者を神話、後者を歴史といいえかることもできるだろう。『プロメテウス』は、人類の起源を他の生命体の歴史に接続した点で、両者の中間に位置する。日本列島一国史観が、アジアやヨーロッパとの結節点を得て、「世界史化」したようなものである。そう考えると、『エイリアン』が「探検もの」である点は興味深い。かつて評価されたような、フェミニズム映画としての位置づけとは別の見方ができるかも知れない。

それから、吉田大八『桐島、部活やめるってよ』。小品だが、極めて完成度の高い映画だった。とくに、昔自主映画を撮っていた人間からすると、万感胸に迫るものがある。しかしこれは、神木隆之介主役じゃないよな。

最後に大友啓史『るろうに剣心』。もういろいろなところでいわれているが、アクションがその登場人物の性格、人生をきちんと物語っている日本映画は、初めて観たかもしれない。大河ドラマに、しっかりしたキャラクターデザインを採り入れた、大友監督らしい演出である。アクション自体もなかなかによかった。武侠映画の観すぎで、かつて『グリーン・ディスティニー』に出会ったときのような感動は得られなくなっていたが、アクション・シーンに高揚感やカタルシスを覚えたのは久しぶりである。そこまで持ってゆく、必然性のある演出が巧みなのだろう。ちょっとわざとらしいシーンもあるにはあったが(「あ、猫ちゃんだ!」)、概ね、今夏観た映画のなかではもっともエンターテイメントとして成立していたように思う。続篇にも期待。しかし、エンドロールの直前、やはり『そばかす』か『1/2』の流れてくることを期待してしまうな。
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