仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

落とし前をつける物語

2013-09-30 21:40:45 | テレビの龍韜
この上半期に話題を集めたドラマが、『あまちゃん』と『半沢直樹』であることは、衆目の一致するところだろう。ところで、まるで対極にあるかのようにみえるこの二つのドラマには、共通点がある。両者とも、過去の世代が生んださまざまな矛盾や軋轢に対し、新しい世代が「落とし前をつけてゆく」構造になっているということだ。半沢直樹は、銀行に融資を断られたために自殺した父親の無念をバネに、その銀行において自らの理想を実現すべく奔走する。天野アキは、海女からアイドルへと転身してゆくなかで、祖母と母の間に生じた確執を解きほぐし、また母が理不尽にも背負ってしまった挫折を解消してゆく。しかし両者が異なるのは、半沢が亡父、あるいは類似の境遇にある人々の怨みや哀しみを「背負って」ゆくのに対し、アキは祖母や母を大切に思いながらも、あえてその情念を「背負おう」とはしない(「果たせなかった夢を託す」といった言葉は出てくるが、実践はされない)、ただ自然体で自分の本当にやりたいこと、信じることに邁進しているだけで、それに突き動かされた周囲が自ずからわだかまりを解いてゆくに過ぎない、ということである。半沢が次から次へトラブルに巻き込まれてゆくように、その報復は何ら根本的な解決を導かず、かえって新たな困難を生じることになるが、アキはあくまで能天気に、夢と希望に溢れた未来へ突き進んでゆく。かつてポストモダンの思想家たちが指摘してきたように、背負うこと、代弁することは、それ自体が「生きる主体」に対する暴力になってしまう。世のサラリーマンが「倍返し」に感じるカタルシスは、正義の遂行によってもたらされる快感ではなく、哀しい自慰行為以外の何ものでもないのである。
9月以降、『あまちゃん』の震災に対する描き方(とくに原発事故の欠落)について、賛否両論の意見が飛び交った。しかし以上のような意味で、『あまちゃん』は明らかに震災後の未来を志向している。生き残った罪責感の渦巻くこの世界で、死者に対してどのような距離をとるのか。彼らを大切に思いつつも、「無念を晴らす」以外に採るべき道があるのではないか。なかなか言葉では分節しえないが、その答えのひとつを、アキの軽やかさが体現していたのだろう。
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韓国における輪廻転生の想像力

2013-07-04 23:23:37 | テレビの龍韜
6月は、5日の龍谷教学会議大会シンポジウムから始まって、11日の寺院縁起研究会例会、23日の上智大学キリスト教文化研究所連続講演会、28日の法苑珠林研究会と、ほぼ毎週講演や研究会報告があり、気持ちの休まらない月だった。しかしまあ、報告の準備を通じて自分のこれまでの考えを整理できたり、新しい検討材料を得られたりしたので、おかげさまで実りの多い月であったことも確かだ。7月末、8月半ばにはまた講演があり、前後に各種学会や研究会の合宿があるほか、8月末には雲南の調査が始まる。その諸準備を考えると、7月後半から2ヶ月はまた余裕のない日々になるだろう。現在も原稿に追われて焦燥感ばかりが募っているが、6月を乗り切り精神的にちょっと余裕ができたので、久しぶりにブログを更新しておくことにしたい。

さて、今回話題にしたいのは、6月までのクール、TBSの地上波で午前中に放送されていた韓国ドラマ、『屋根部屋のプリンス』についてである。韓国ドラマはそれなりに好きで、時代劇を中心によく観ている方だ。「一応は」史実に沿った真面目な作品だけでなく、『イルジメ』や『成均館スキャンダル』など、伝奇色やファンタジー色の濃い作品も楽しんで観ている(日本の大河ドラマなどでもそうだが、ぼくは、歴史ドラマに対し「史実に沿っていない」などと文句を垂れるのは、近代歴史学の生み出した弊害以外の何ものでもないと思っている)。ところで『屋根部屋のプリンス』は、転生とタイムトラベル、そして韓国ドラマお得意のすれ違い、親族の愛憎、隠された血縁関係などが複雑に絡み合う筋立て。内容はまあ他愛ないラブコメなのだが、興味を引くのは、物語の主軸となる〈転生〉の扱い方である。10年以上前、ようやく『シュリ』で韓国映画が一般化した直後に、『シュリ』と同じカン・ジェギュ監督による『銀杏のベッド』というファンタジー映画が公開された。単館ロードショーの映画館に観にいったものの、詳細はほとんど覚えていないのだが、時空を超えて転生し続ける恋人たちとその恋敵との愛憎劇だったと思う。続篇『燃ゆる月』も観にいったが、こちらはさらに過去の古代の物語で、ほとんど神話的な内容だった。この転生へのこだわりには、韓国文化特有の、宗教的もしくは土俗的なリアリティがあるのだろう。日本と何が違うのか。当時からその点を不思議に思ってはいた。『屋根部屋のプリンス』では、朝鮮王朝時代の人々がみな同じ姿で現代に転生していて、しかも同じような人間関係を取り結んでいる。前世の因縁が、現世でもそのままに作用しているといったところだろうか(つまり、「歴史は繰り返す」)。そのため、過去に解けなかった事件の鍵が、転生後の現代で紐解かれてゆくことになる。設定としてちょっと受け容れがたいところもあるのだが、韓国ではすんなり腑に落ちる土壌があるのだろう。日本でもかつて、戦国武将の転生譚である『炎のミラージュ』などがカルト的人気を博したが、概ね前世の因縁との葛藤を経てそれから解放される道を模索するものだったように思う。この相違は、日本のドラマツルギーが欧米化されているということなのだろうか。興味は尽きない。
なお『銀杏のベッド』では、かつての恋人たちが2株の銀杏に転生している。一方は恋敵の妨害で落雷に遭って枯れてしまい、一方もやがて切られてベッドに作りかえられる。恋人どうしのうち男の方は、その前の世では、伽椰琴を奏でる宮廷楽士だった。樹木への転生、落雷、琴、寝台…いまから考えると、この話、樹木伝承を研究する人間には垂涎の要素が詰まっている。このことをFBで呟いてみたところ、近代文学専門のFさんが、萩原朔太郎にも草木との恋愛を幻想する作風があると教えてくれた。早速『月に吠える』などを読み返してみたが、確かに草木の姿を官能的に捉え、口づけや愛撫する表現が散見される。このあたりの近代文学の想像力も、樹木婚姻譚の系譜に組み入れて考察する必要があるかもしれない。
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二項対立を超えてゆこうとする物語

2013-02-20 09:52:26 | テレビの龍韜
あっという間に年があらたまり、1ヶ月が過ぎ、2月も終わろうとしている。今日〆切の原稿が上がっていない。じゃあなぜそんなときにブログを更新しているのか(いつもほとんど更新しないのに…)と詰問されそうだが、まあ仕方ない。こちらでしかお会いしていない皆さま、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

「まおゆう魔王勇者」TVアニメ公式サイトところで、上の原稿を急ピッチで仕上げているところなのだが(来週までかかりそう)、そのBGMとしてヘビーローテーションになっているのが、「向かい風」という楽曲。テレビ東京で金曜深夜に放映しているアニメ『まおゆう魔王勇者』の主題歌である。この作品については、ネットでの公開、紙媒体での出版という経緯をたどっている段階から、知人が話題にしていたので気になってはいた。しかしライトノベルはあまり読まないタチなので、食わず嫌い、まったく手を着けずにここまできてしまったのだ。よって、小説とアニメはどのように違うのか、根本的に異なる物語なのか、設定が多少違っているだけなのか、そのあたりのことはまったく分からない。しかしアニメの方については、「はまっている」とまではゆかないものの、毎週それなりに楽しみに観ている。何が気に入っているのかというと、それは、「二項対立を超えてゆこうとする物語」であるからにほかならない。正義vs悪という二項対立的構図の典型たるヨーロピアン・ファンタジーの枠組み、RPG的な剣と魔法の舞台設定を借りて、一方の代表である勇者と一方の代表である魔王が手を結び、戦争のもたらす種々の利益によって成立している世界を変えようと奮闘する。キャラクターは類型的だし、作画やアニメートに工夫があるわけではないし、個々のエピソードも成功しているかというとそうでもないのだが、やはり「二項対立を超えようとする」悲壮な努力に惹きつけられてしまう。

ぼくも、もう20年近く論文を書いてきたが、大学院の後半あたりからは、いかに世界を二項対立の枠組みから外してゆくかを意識して研究を進めてきた。方法論懇話会での仕事や『環境と心性の文化史』の総論などは、歴史学を基盤に据えながら、その試みを実践してゆく可能性を模索したものである。しかしこの20年で、いかに人間が二項対立的構造に安寧を覚えるか、容易にその魔力に囚われてしまうかも思い知った。9.11の教訓を突きつけられてもその傾向は変わらず、かえって勢いを増していることは、昨年からの日本の政治状勢をみても明らかであろう。このブログでも何度か同じことを書いているが、二項対立的構造は人間が「世界」という認識を構築してゆく基本であるため、強固なのは当たり前ともいえるかもしれない。しかしだからこそ、その解消へ向けて挑んでゆかねば、早晩人間の「文明」は立ちゆかなくなるに違いない。「向かい風」ではないが、ぼくだって「向こう側にあるものがみたい」のだ。

蛇足だが、『まおゆう』の対極を突っ走っているのが、『仮面ライダーウィザード』である。先週の回では、敵であるファントムと心を通わせようとした女性刑事が、逆にファントムに利用されてしまい、主人公に救出された果てに笑顔でこう語る。「今回のことで、ファントムの怖ろしさがよく分かった。私はもう迷わない。」敵は敵、心を通じさせる必要などない危険な存在なのだから、殺して排除してしまうしかない。こんな危険な話、子供にみせていいのかと唖然とした。主人公の決めゼリフは「おれが最後の希望だ」なのだが、まったく絶望的な番組というしかない。
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サブカルの帝国

2012-05-19 16:42:57 | テレビの龍韜
金曜は、通常特講「歴史学のアクチュアリティ」と院ゼミがあるが、今年も上南戦(南山大学とのスポーツ交流戦)が近付いており、昨日(18日)は授業のあいまに結団式なるものが行われた。課外活動を支援している立場でいうべきことではないのだが、こういう「共同体」意識が前面に押し出される行事は、どうも居心地が悪い(ふだん、それを積極的に相対化するような研究をしているのだから、当然だろう)。先週から、上南戦の調印式、オリエンテーションキャンプ担当教員・ヘルパーの懇親会、ホフマンホール運営の会議等々が立て続けに入っているので、ちょっと自分が自分でないような気になっている。ま、学生のためには誠心誠意働くべし。
ところで、結団式で形だけいただいたビール(コップに1センチほど)にクラクラしつつ、院ゼミも終えたが、終了後、発表者の深澤瞳さん・院生A君と交わした会話が面白かった。A君は日本近世史が専門だが、中国に関する知識も半端ではない。この日は『法苑珠林』観仏部から、壁に描かれた菩薩諸像が壁を塗り替えても湧出してくる、壁を壊しても目を瞑るとみえるというエピソードを採り上げたのだが、A君は、これが『三国志演義』に描かれる孫策の死のモチーフに関わりがあるのではないかというのだ。話はさらに進み、『閲微草堂筆記』や『子不語』を持ち出して「怪談のパラダイム」をめぐる意見交換へ。『子不語』をあらためて読んでみると、さすが史官袁枚、神仙や霊体になった過去の偉人との会話を通じて、正史の記述を批判するという物語を多く収めている。かかる歴史叙述のあり方は、いつ頃成立したのだろう。ちょうどいま特講で話をしている、storyからnarrativeへの転換にも関わる。近世の「ポストモダン」とでもいうべきか、今後も少し調べてゆきたい。

ところで、ここ最近はマジメな話題が多かったので、久しぶりにサブカルの話をしておきたい。情けないことに映画にはまったくゆけておらず、ゲームをやる時間的/精神的余裕もないので、あくまでマンガやテレビについてなのだが…。
最初はマンガ。単行本はそれなりの量を買い込むが、毎巻本当に楽しみにしているのは、『無限の住人』『刻刻』『ヒストリエ』『アオイホノオ』『アサギロ』『GANTZ』『ベルセルク』『3月のライオン』『テルマエ・ロマエ』『百鬼夜行抄』『昭和元禄落語心中』『乙嫁語り』など。それから、鶴田謙二の新作が出れば必ず買う。4~5月は、割合に豊作だろうか。
まず、鶴田謙二のエマノン・シリーズ最新刊、『さすらいエマノン』。梶尾真治の原作にはまったく興味がないので、鶴田作品だから購入しているようなもの(ベルヌを連想させる『冒険エレキテ島』も、途中で止めないで早く描いてね)。時空を超えてさまよい続けるひとりの少女が主人公なのだが、今回は、なぜ彼女がいつの時代にも少女のまま存在するのか、という種明かし。主人公の内面を描き込むためには必要な設定だと思うが、エマノン自身の魅力は確実に薄れてしまったように思う。しかし、かつてのNHK少年ドラマシリーズ、ジュブナイルSFの香りを漂わせる佳作であることは間違いない(例えば筒井康隆の、『七瀬ふたたび』みたいなイメージはある)。しかしこの絵の、粗雑さと精密さと複雑さと単純さの絶妙なバランスはどうだろう。筆舌に尽くしがたい。イイなー。
『乙嫁語り』第4巻。最初はアミル・カルルクの2人の物語かと思ったが、巻を追うごとに舞台は広がり、人類学者のヘンリーを狂言回しにキャラクターが拡大、群像劇の様相を呈してきた。日常を力いっぱいに生きる人々の背後で、ロシアの中央アジア侵攻という、歴史の大きなうねりがみえかくれし始めている。やがて訪れる惨禍のなかで、登場人物たちの人生が大きく狂い、また転回/展開してゆくのが想像できる。しかし森薫の、衣服やアクセサリー、調度品などを描く手腕は相変わらずすごい。それによって、物語のリアリティも際立つ。個人的には、ヘンリーの目線や葛藤について、もう少し扱ってほしい気もする。また、今回はちょっと定型的な「お涙頂戴」に話が流れるところがあったが、まあそれもこの作品のいいところかも知れない。
島本和彦の『アオイホノオ』。ぼくらよりちょっと上の世代だが、観ていたもの、考えていたことはほぼ共有している。ぼくが『少年サンデー』に投稿し、専用原稿用紙をもらってマンガ修行をしていた頃には、確か『月刊サンデー』の方で「風の戦士ダン」を連載していた。このあと『週刊サンデー』の方で、伝説的名作「炎の転校生」が開始される。8巻は、その原型となる最初の投稿作品ができるまで。いろいろ懐かしい。しかし、「傷をなめあう道化芝居」が分かった人間がどれだけいるかな。いや、これを愛読書にしている連中はみんな分かるか。戸田恵子もビッグになったもんだよ。ちなみに、このマンガに登場する山賀博之は、現在GAINAXが製作、『リンダリンダリンダ』の山下敦弘が手がける奇妙な短編ドラマ、『エアーズロック』に関わっている。併せて必見。
続いて、今季のドラマやアニメ。ちょっとクールが遅れてしまったけれど、最初に触れておきたいのは、フジテレビ『最後から二番目の恋』。ちょっと前までは、こういうオフ・ブロードウェイの会話劇のようなドラマが、けっこうあった。脚本、演出、俳優陣がみな絶妙で、「物語に引っ張られる」ことなく、肩の力を抜いてみられる久しぶりの作品だった。岡田恵和が以前に手がけた名作『彼女たちの時代』と、ちょっと雰囲気は違うけれど、深津絵里らの演じた当時のキャラクターが、ちゃんと大人になっていたのをみられたという感慨、安堵感のようなものがあった。ところで、今月号の『ユリイカ』を読んでいて初めて知ったのだが、この作品を手がけた演出家の宮本理江子は、山田太一の娘さんだそうだ。このひとの作品は大好きでかなり観ているだけに(『夏子の酒』『アフリカの夜』『彼女たちの時代』『優しい時間』『拝啓、父上様』『風のガーデン』、そして、昨年『鈴木先生』と並んでの最高作品『それでも、生きてゆく』)、恥ずかしいったらありゃしない。
4月に入ってはまったのは、韓国時代劇の『善徳女王』。これまでBSでは何度も放送していたようだが、地上波では初お目見え。専門としている時代にかぶるので観始めたが、暦を王の神権の根拠とする設定など、いろいろこちらの琴線に触れるものがある。とくに、現在問題とされているのは史書編纂、歴史の改竄で、目が放せない。日本の時代劇、大河ドラマでは、史書編纂というモチーフはほとんど重視されない。それが、韓国時代劇では頻繁に現れてくる。これはやはり歴史認識の相違なのだな、と溜息が出てしまう。折しも、質的に大健闘している大河ドラマ『平清盛』の視聴率が低迷し、バカな「時代劇評論家」が、「皆が見たいのは名場面。何度描かれても、その都度、花形役者がどう演じるのか、視聴者は胸を躍らせる。子供にも分かるような面白さも大事だ」などと語っているのを目にすると、日本の歴史ドラマが発展するわけはないなと絶望的な気分になる。『清盛』、がんばれ。
それから、まったく期待をしていなかったのだが、テレビ東京『クローバー』が意外によくできている。いわゆる『少年チャンピオン』系のマンガはまったく読まないタチなのだが、そのマッチョな展開になぜかはまり、毎週金曜日が待ち遠しくなってしまっている。こんな私に誰がした。しかし考えてみれば、監督にはあの入江悠が起用されているのだ。面白くないわけはない。侮っていてごめんなさい。
アニメーションでも、『エウレカセブンAO』『峰不二子という女』など、魅せる作品が多い。とくにノイタミナ枠は今回も実験的で、渡辺信一郎の『坂道のアポロン』、中村健治の『つり球』とも期待を裏切らない。前者はオーソドックスな作りだが、渡辺の相変わらずの音楽センスのよさが心地よい。オープニング、菅野よう子とYUKIのコラボレーションが聞けるとは思わなかった。中澤一登の作画・演出との相性も絶妙。エンディングは秦基博、オーガスタ・ファンとしては涙が出る。ちなみに渡辺は、今期『峰不二子という女』の音楽プロデューサーも務めているが、こちらも素晴らしい。後者は相変わらず独特のセンスだが、なぜか泣ける(中村の『化猫』『怪』は、未だにぼくのアニメ・ランキングのなかでは上位を占めている)。やはりオープニング・エンディングが秀逸で、とくにED、さよならポニーテールの歌う「空も飛べるはず」は、楽曲のよさを再認識した。毎回のラスト近く、前奏が流れ始めると、モモと2人、画面に合わせて思わず口ずさんでしまう。

こうして書いていると、まるで仕事を一切怠けてテレビにかじりついてばかりいるようだが、ちゃんと働いております。早く報告書を出せ、原稿を書け、というお叱りが聞こえてきそうなので、今日はこのへんで。
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みんないい加減だなあ

2011-01-07 23:42:33 | テレビの龍韜
大山誠一さんから、「かなりいいたい放題喋ったのでみて」といわれていたので、今年一番の寒さに震えながら帰宅し、ちょうど平城京の話に差しかかっていた「たけしの新・世界七不思議」を観た。
大山さんの説は、主に『天孫降臨の夢』をなぞったものだが、これに対する異論の一部は「鎌足の武をめぐる構築と忘却」(『藤氏家伝を読む』収録。鎌足と中大兄の邂逅する打毬の場面の典拠は、『三国史記』より『史記』や『漢書』の張良伝が重要)に書いたし、続きは今年上半期に刊行予定の拙著『歴史叙述としての〈祟〉』に詳述したのでひとまず措く(中臣氏は単なる祭祀氏族ではなく、神話=歴史を記述・管理し、それに基づいて卜占・祭祀をなす中国的史官をモデルに創出されたもの。まさに「史」の名を持つ不比等が田辺史に養育されたのは、不遇であったわけではなく英才教育である)。『多武峰縁起』を事実のように語る演出も、まあバラエティだから許すとしよう。問題は、井上和人氏が、8世紀前半には存在しない「陰陽道」を平城京遷都の依拠思想として述べたり(四神の山・川・池・大道比定も10世紀以降のもの)、千田稔氏が、「天皇に関わりのある紫色の冠をほしいままにしたのが、蘇我氏の専横の最たるもの」と述べるなど(本当は、大王の授与すべき冠を蝦夷が私的に入鹿に授けたのが問題)、専門家による不正確な発言が繰り返されたことだ。『日本書』を「日本書」としたり、「徳天皇」を「徳天皇」としたり、テロップに誤字が目立ったのもマイナス。
まあ、たまたまそういうところを切り取ってしまった結果なのだろうが、それがすべてのように残ってしまう(陰陽道云々は、文献史家でも知らずにいる人が多いので、単なる不勉強かも知れない。自分のことは棚に上げておくけれども)。テレビというのは恐ろしいものだ。
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2011-01-03 01:27:02 | テレビの龍韜
「マジ歌選手権」すげえ。でも、角田ってやっぱり水口幹記に似てるな。
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死に片足を突っ込んでいる男

2010-09-18 02:51:58 | テレビの龍韜
9月も追い込みに入り、秋学期に入る前に倒れそうな毎日が続いている。
今週は、27日(月)の初年次生研修会の準備をしつつ(知人のIさんのご紹介で、於岩稲荷を祀る陽運寺さんの副住職先生とお会いしました)、『上智史学』の編集、大学院入試、学科会議、学科長会議、教授会などの校務が満載。15日(水)の会議では、ある案件でまたまた瀬間正之さんにお世話になり、「北條君の文章を読んでいると、身を削って学問をやっている息苦しさを感じる。今後は『断る勇気』を持って、ゆっくりものごとにとりくんでほしい」とのお言葉を頂戴した。ご心配いただいていることをありがたく感じるとともに、最近の粗製濫造ぶり、ケアレスミスの増産ぶりを戒めていただいたようで、身の引き締まる思いがした。自戒の念のなかで研究室に戻り、10時近くまでかかって『歴史評論』の原稿を脱稿。締切をかなり超過してしまったものの、やはりゆっくり構想を練ることのできなかった憾みはある。レヴィ=ストロース、平野仁啓、斎藤正二、中村生雄各氏の業績を、環境史研究と接続するという当初の課題は一応達成?できたが、紙幅の関係もあり現状の整理としては不充分になってしまった。校正で、少し調整できるだろうか。あとは、中途半端になっている「修行」の論文を完成させねば。

ところで、今日17日(金)は、『熱海の捜査官』の最終回だった。前回、「おっと、これは向こう側へゆく話だったのか!」と身を乗り出したが、最近浅薄な印象で終わるドラマが多いなか、充実の結末をみることができた。星崎の常に話しかけているモトコさんが死者だとすれば、彼は「死に片足を突っ込んでいる男」ということになる。オダギリ・ジョーは『蟲師』でギンコを演じていたが、このキャラクター(もちろん実写版ではなく漫画、もしくはアニメ版)も「向こう側」に強烈な憧憬を抱きながら、生/死の境界で踏みとどまっている存在だった。ラストシーン、同じく「向こう側」に魅入られた少女 東雲麻衣と、黄泉津比良坂のようなトンネルをぬけてゆく彼を待っているのは、一体誰なのか。栗山千明演じる北島捜査官の、「私を置いていかないで…」という呟きは、遺されたジョバンニの孤独を吐露しているようでもあった。
枠組み自体は『ツイン・ピークス』だったけれども、テレビドラマとしては珍しく哲学的な深み=おかしみを漂わせる作品だった(もちろん、そのこと自体をパロディ化しているのは分かっているが…)。三木聡の常連俳優陣はもちろん、東雲を演じた三吉彩花の妖しい透明さ、いつの間にか濃密な芝居ができるようになった小島聖、芝居は決してうまくないが不思議な存在感のKIKIが印象に残った。萩原聖人も、岸田森、堀内正美を髣髴とさせるマッド・サイエンティストぶりだった。しかし、銀粉蝶演じる占い師の名前が、「卜部日美子(ウラベ・ヒミコ)」というのは凄いなあ。
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きのうきょうのテレビ

2009-09-23 14:34:35 | テレビの龍韜
今日、23日(水)は自坊の彼岸会法要で、いまちょうど勤行を終えたところである。陽気がいいせいもあってか、80名からの人出であった。ありがたいことである。

ところで、先ほどNHKで平城京遷都1300年の特番をやっていたが、話題の古代史ドラマ『大仏開眼』の主要キャストが決まったらしい。主人公は吉備真備で吉岡秀隆、準主役で阿倍内親王の石原さとみ、藤原仲麻呂の高橋克典が出演ということである。ジャニーズでなくなったのはありがたいし、ちょっと線が細い気はするが、同い年の吉岡秀隆にはナイーブな演技が期待できそうである。高橋克典も、最近の『官僚たちの夏』などを観る限り、単なる二枚目を脱皮して演技派として成長しているようだ。発表されているストーリーのダイジェストを読むと、何十年も前の「政争史的歴史観」なので少々げんなりするが、ちゃんと藤原四子や仲麻呂の文学的卓越さ、政治的手腕の凄さも描いてほしいなあ。
そうそう、この間しばらく帰国していた水口幹記君と、吉備真備の勉強会をやろうかという話になったのだった。院政期に大江Ⅷ房などが持ち上げるので、真備は兵法や陰陽道の祖に祭り上げられてゆく。成城の民俗学研究所でやっている『家伝』の共同研究の論集では、この兵法の問題について書くつもりなのだが、こちらも脱稿はいつになることか。

水口君といえば、彼にそっくりのメンバー(角田)がいる東京03が、昨日の「キング・オブ・コント」で優勝した。応援していたので思わず拍手してしまった。マジ歌のDVDほしいなあ…。

※ 写真は、4年生のSさんからいただいた「熊野サイダー」。紀州の名物、梅と蜜柑がほどよくブレンドされ、不思議な爽やかさがありました。ゼミ旅行の際、本宮前でも売っているのをみかけました。ネットでも入手できる!
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新番組の整理

2009-07-22 17:07:55 | テレビの龍韜
20日(月)、「日本史概説 I」が無事終了。それなりに「やりきった」感覚はあるが、予定の個所まではたどり着けず、最後はとても早口になってしまった。今年から、講義の本筋とは異なるコラムのようなものを「おまけ」として散りばめたので、やむなしというところか。リアクションをみると、とくに古代史専攻を考えていない学生たちは、この「おまけ」の方が楽しかったようだ。古墳壁画や六道絵、成巫譚や神殺しなど、むしろこちらの方がぼくの専門の領域なのだが…。まあいずれにしろ、今年の1年生は自主ゼミを担当したし、研究室へ遊びに来る学生も多かったので、例年より思い入れが深い。日本古代史ゼミへ入ろうという人間がほとんどいないのは少々へこむが、どこのゼミへ行っても頑張ってほしいものだ。

22日(水)、「歴史学をめぐる諸問題」終了。読書と注釈について3人の先生方にお話しいただき、最後はトンパの問題を取り上げて、読むことの一回性について強調して話した。この科目のコーディネーターは2年目だが、今年度の受講生のマナーの悪さには唖然とした。後ろ半分の席に陣取った全体の1/4程度の学生は、内職をしているか、漫画や小説を読んでいるか、机に突っ伏して寝ている。起きていてもだたぼーっとして、ノートも何も取っていないものもいた。また、遅刻が恐ろしく多く、ひっきりなしに扉が開閉する。何人か、あまりにもひどい学生には注意をしたが(出席カードを貰ってから教室を出て行き、終了後に入ってくるなど)、授業に妨げのない範囲では黙っていざるをえなかった。非常勤で来ていただいた先生方に、非常に恥ずかしく思った時間であった。自分自身を磨くことを放棄し、周囲も自分も軽んじていて平気なのだから仕方ない。気付いたときには遅かった、ということのないようにしてもらいたい。

ところで、テレビも番組改変が進み、新しいラインナップが出揃ってきた。最近、ちっともサブカル関係を書いていなかったので、少し雑感を述べておくことにしよう。
ドラマは相変わらず魅力に乏しい。日曜劇場の『官僚たちの夏』は観ているが、演出に重みが足らず、どこか再現VTRのような印象がある。官僚にも官僚の言い分があるだろうが、どうも善人にばかり描かれているのが鼻についたりもする。『オルトロスの犬』『華麗なるスパイ』は面白いのだろうか(『イケ麺そば屋探偵』は観てるけどね)。
そうしたなかで、韓国ドラマの『一枝梅』が地上波で放送開始になったのは歓迎したい。登場人物みんなが因縁の糸で繋がっている、「なんて狭い世界なんだ!」と叫びたくなる設定だが、「次はどうなる」と思わずにいられない物語作りは流石といえよう。ぐうたらで何をやってもだめな青年ヨン(顔だけはよい、そしてバクチはできる)は、実は幼い頃に無実の罪で父親を殺され家族を失った、両班のおぼっちゃんである(『王の男』のイ・ジュンギが演じている)。トラウマとして封印されていた記憶が甦ったとき、彼は義賊一枝梅(イルジメ)となって、家族の敵を探し求めてゆく。…それにしても、ヨンの体技は一気に上達しすぎだろう。チュモンでさえあんなに修行したというのに…。

アニメは、アキバ系が多くて食指が動かないが、新房昭之が『絶望先生』『化物語』でひとり気を吐いている。彼の演出は独特で(まあ、あえてカテゴライズすれば庵野系か。『化物語』のモノローグは『彼氏彼女の事情』のようだ)、1カットの情報量が尋常でなく多い。それは、宮崎駿や大地丙太郎のような動きの精密さ・豊かさではなく、押井守のような語りの氾濫でもない。背景の壁に貼られた貼り紙・黒板に書かれた書き込み、登場人物の心象を文字化したフラッシュなど、刹那的に出現するテキストの過剰性である(前者を、作品世界の心象を文字化したものとみることもできるだろう)。それはもう、視聴者に読まれることを前提とはしていない。しかし努力して?それに触れることで、視聴者は世界を相対化しより豊かなイメージを持ちうるし、逆により一層テキストの網の目のなかに絡め取られてしまうことにもなる。注釈自体を本質とする演出法とでもいおうか、なかなかに面白い感覚である。

まあ、そんなことはどうでもいいが、今季はドラマもアニメも不作なようだ。テレビばっかりみてないで仕事をしろ、ということかな。
春学期の講義も、木曜の豊田地区センターの生涯学習の講義、金曜の特講と院ゼミ、月曜の首都大OUの講義を残すばかり。あ、来週の金曜に1年生の自主ゼミ生を連れて四ッ谷史跡めぐりもやるのであった。…「ばかり」どころじゃない、まだけっこうあるな。

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ちょっと総括:今期のドラマ、アニメについて

2008-12-22 07:07:47 | テレビの龍韜
一気に年末。これから出勤して原典講読、コミカレを終えれば、大学も仕事納めである。しかし前にも書いたが、今週は研究会や生涯学習の講義、ゼミのフィールドワークなどが入っており落ち着かない。年賀状や大掃除は27日以降だろうが、そうすると冬期休暇は1週間程度しかなく、とても論文2本・エッセイ1本を書き上げる余裕などないように思える。しかし、1月には20日厳守の原稿があり、2月にもわざわざ〆切を延ばしてもらった原稿がある。卒論やレポートの採点も必須作業なので、かなり無理をしなければ乗り切れまい。こうなってくると、年賀状を書くのがいちばん億劫である(しかし、いつも最初に愚痴を書いてるな)。

ところで今期のドラマ。『チーム・バチスタの栄光』『七瀬ふたたび』『ブラッディ・マンデイ』などを楽しみに観てきたが、やはりいちばん印象に残ったのは『風のガーデン』だった。ぼく自身が倉本聰フリークであることにもよるが、やはり、放映直前に癌で逝った緒方拳の演技が澄み渡って重い。物語自体、中井貴一演じる主人公が癌に冒され、家族にみとられながら最期を迎えてゆくというものである。緒方拳はその父親役で、どのような気持ちで芝居をしていたのかと考えると胸が締め付けられるようだった。しかし、倉本聰の目線は年を追って優しく穏やかになってゆく感じがする。『昨日、悲別で』『ライスカレー』のような青春群像劇もまた観たい。
『ブラッディ』は、最近流行のアメリカ・ドラマ路線を狙ったのだろうが、その目論見はある程度成功したように思う。日本のテレビドラマはこの種の作品が本当に苦手で、映画でも名作といえるものはあまりない。今回は志の高さを示した。三浦春馬の知的な熱演もよかった。
3月まで続く『だんだん』はキャラクター設定がしっかりしており、そのためにかえって、特定の人物を「嫌なやつだな」と感じることが多くなってきた。観る側に葛藤が生じるのはドラマとしてよく出来ている証拠だが、音楽プロデューサーの石橋という青年、主人公のひとりで舞妓を捨てたのぞみの言動が妙に鼻につく。ストーリーも彼らの思惑どおりに展開してゆくので気に入らない。歌を歌うことはプロでなければ価値がないものなのか、充分に議論されないままに置き去りにされる問題も多く、このまま双子デュオという形でデビューしていくのがよいのか首を傾げてしまう。

アニメーションは原作のあるものがほとんどだったが、(意外なことに)技術的にも水準が高かったのは『屍姫 赫』『喰霊 零』。ともに設定自体は使い古されているうえに不自然なものの、幸運なアニメ化がなされたということだろう。前者は死に対するメンタル面を丁寧に描き、後者は初回の構成から視聴者の予測を裏切り続けた。マングローブの『ミチコとハッチン』は、放映時間が不定期なのでちゃんと観られていないのだが、独自の路線を疾走していて好感が持てる(この組み合わせ自体、アメリカ西部ということ以外に共通点はないのだが、『バグダッド・カフェ』と『キル・ビル』を合わせたような印象)。『カウボーイ・ビバップ』『サムライ・チャンプルー』で音楽センスの高さを見せつけた渡辺信一郎は、今回は演出を退き音楽プロデューサーに回っている。昨今のアニメ界で、梶浦由記と菅野よう子に頼らず屹立した音楽世界を構築できるのは、彼と小林治だけであろう。上半期の作品だが、その小林の『魔法遣いに大切なこと 夏のソラ』も秀逸だった。題材としてはまったく異質な印象があったが、小林の乾いたリアルな演出で、原作のわざとらしい(安っぽい?)センチメンタリズムが払拭されていた。あとはやはり『ガンダム00』か。さすが黒田洋介というべき強靱な出来で、戦争なるものの可否、そのなかで翻弄される人物群像、そして人類の革新といったガンダム的テーマが過不足なく盛り込まれている。シリーズ中最も完成された作品であり、どう結末が付けられるか楽しみだ。
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新朝ドラ:『だんだん』の神話世界

2008-10-04 16:43:20 | テレビの龍韜
NHKの朝ドラが新しくなった。マナカナ主演の『だんだん』である(写真は公式ホームページから。この構図は不思議なかっこよさがあるね)。傑作だった『ちりとてちん』の反動もあって前作は観る気も起こらなかったが、今回は出雲・松江と京都が舞台とあってとりあえず視聴。関東在住の身としては旅気分も味わえるので、なかなかによかった。

別れていた双子がふとしたことから再会し、決定的にひびが入ってしまっていた二つの家族を結びつけてゆくというストーリーは、『ふたりのロッテ』以来古典的なテーマである。NHKでも20年ほど前、ウチの近所にある山手学院を舞台に『夢家族』という翻案ドラマを作成、フィギュアスケートが特技のツインキーという双子アイドルが主演していた。今回の『だんだん』もほとんど翻案だが、かなり和風の味付けなのが面白い。第1週をみたかぎり、お互いのことをまったく知らず、まったく異なった環境で育った姉妹が、偶然の積み重ねによって出雲大社で出会う。いうまでもなく、同社が「縁結び」の神様だからだろう。これから京都の賀茂や松尾などが次々出てきて(祇園だから八坂か。でも牛頭天王の配剤というのはちょっと怖そうだ)、裏設定に関わると面白いのだが...そりゃないだろうね。

ところで、ナレーションも担当している(情趣に溢れていて美しい)竹内まりやの主題歌「縁の糸」。よいと思うが、「袖すり合うも多生の縁」と「天の描いたシナリオ」がイコールになっている発想が気になる。前者は仏教思想で、輪廻を繰り返す命が他のたくさんの命と交わりあってゆく世界を意味する。「多生」とは生まれ変わり死に変わりしているそれぞれの生のことだ。「天」という単一な存在がヒトの生を決めてゆくという、運命論的な後者にはそぐわない。さらに細かいつっこみを入れれば、出雲のオオクニヌシだって天神ではない。ま、まったく違う発想が交わっているのが日本的といえば面白いし、ドラマの設定にも合っているといえばそのとおりなのだが。
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やまとは国のまほろば:『鹿男あをによし』

2008-01-20 12:20:35 | テレビの龍韜
今週は、とにかく授業の終了へ向けて一気に駆け抜けた感がある。特講は最終章の「鎌足の鎌」に入り、全学共通日本史は「樹霊婚姻」の核心に入ってきた。ともに、あと1回でなんとか結びにしなければならない。水曜は教授会に学生生活委員会、金曜は留学生の奨学金面接があった。学究の情熱に燃えて日本に渡ってきた彼らが、物価の高さに翻弄され、生活費と学費を稼ぐだけで消耗してゆく姿に心が痛む。

19日(土)は、世間的にはセンター入試だが、わが史学科では卒業論文の発表会があった。いつもはさして盛況ではない会だが、今年は下級生の意識が高かったのか、教室いっぱいに座りきれないくらいの学生が詰めかけ、なかなか結構なことであった。古代史ゼミからはTさんが代表で参加、トップバッターで緊張していた様子だったが、立派に報告を終えた。
ところで、出勤途中のバスのなかで面白いことがあった。ぼくの座っていた席の後ろに、父母子3人が腰かけていたのだが、小学校低学年くらいの男の子が、しきりに父親に質問している声が耳に入ってくる。どうやら元号について訊いているらしい。「昭和は何年まであったの?」「64年。64年の1月の初めに、平成に変わったんだよ」「明治は何年まで?」「大正は何年まで?」……質問は繰り返されたが、じゃあそもそも元号とは何なのか、という話になってきたとき、父親が(いい意味で)びっくりするような答えを口にした。「元号っていうのは、そもそも中国の制度を日本が輸入したんだけど、王様が時間を支配していることを表すものなんだ」。う~ん、立派だ! 話の内容からすると40そこそこの人だったけど、これは堅気の答えじゃないですよ。学校の先生かなんかですかね、同業者だったりして(……とここまで書いて思いついたことがあったので確認したら、本当に同業者である可能性が高くなってきた。恐ろしい)。

それはともかく、今週は古代史・神話をモチーフにしたテレビ・ドラマが始まった。いわずと知れた、『鹿男あをによし』である。ちょうど1年前にこのブログでも紹介したことのある、万城目学の小説の映像化だ。さして長くはない物語を引き延ばすため、脇役に過ぎなかった日本史の先生「藤原君」を綾瀬はるか演じる女性に変え、主人公・マドンナ・堀田イト(しかし最近は、何かっていうと多部未華子だね)に絡めて複雑な関係を作り出そうとしているようだが、原作の味はよく保ったまま(まあ異論はあるだろうが)スケールを大きくすることにも成功している。学校や下宿のセットなどは凝ったもので、とくに町屋風の後者は「住みたくなる」くらいの出来。ロケによる初冬の奈良の風景も素晴らしく、とくに若草山からの遠望は「国のまほろば」を髣髴とさせる。一部で話題になっている(されている)鹿のロポットも、まあテレビサイズではいい出来だろう(CGはちょっとお粗末だが、許容範囲である)。ベテラン鈴木雅之の演出もテンポよく、映像も美しい。今季、NHKの『鞍馬天狗』(野村萬斎主演!)とともに、楽しみにしておきたいドラマである。……しかし、奈良の鹿と人間との関係を研究しているよしのぼり君は、どんな気持ちでこのドラマを観ているかなあ。
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あの頃:『トキワ荘の青春』を観て想い出す

2007-08-30 05:37:52 | テレビの龍韜
夏休み2本目の原稿にとりかかっている。12000~16000字だから大したことはないのだが、これまでちゃんと取り組んだことのなかった史料に関する内容なので(どちらかというと、ぼくよりも妻に来るべき仕事なのだ。依頼を貰ったとき、編者に確認のメールをしてしまった)、助走に時間がかかる。基本的な下調べが終わり、ようやく執筆を始めたところである。来週の月曜には投稿できるようにしておきたい。

ところで今日未明、ケーブルの日本映画専門チャンネルで、市川準監督『トキワ荘の青春』(1996年)を放映していたので録画をしておいた。昔、レンタルビデオで借りてダビングしたビデオもあったはずだが、DVDで残しておきたかったのだ。確か単館ロードショーだった公開当時、テアトル新宿まで、独りで観にいったのを覚えている。あれは幸せな時間だった。
タイトルからも分かるように、この作品は、日本漫画界においては聖地ともいえる伝説の安アパート、トキワ荘を舞台にした青春群像劇である。住人であった手塚治虫の手によって様々な名作が生み出され、彼を追うようにして、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫らの巨大な才能が集まった。しかし、創作にかける情熱と真摯さでは誰にもひけをとらないのに、その舞台を降りてゆかざるをえなかった若者たちもいた。藤子らの兄貴分であり、トキワ荘を描いた作品には必ず登場する新漫画党党首・寺田ヒロオもそのひとりだろう。映画はこの寺田を主人公に、日本漫画の青春時代、その情熱と希望、不安、狂気、挫折を淡々と、青春モノにあるまじき静謐さで描いてゆく。文学でも漫画でも映画でも音楽でも、いちど創作という仕事を志した人間には分かる何かが、そのフィルムにははっきりと刻印されている。ぼくのなかでは間違いなく、市川準の最高傑作に位置づけられている作品である。
主人公の寺田ヒロオを演じるのは本木雅弘。いつもはケレン味のある役柄が多い彼だが、この作品では、自らの目指す創作のありようと時代の求める娯楽との間で苦悩する若者を、極めて誠実に演じている。冒頭のシーンで、礼儀正しく画用紙に向かい、写経でもするかのように漫画を描き出すその仕草、形を表し始めたキャラクターに思わずもらす笑みなど、本当に漫画が好きで好きでたまらないという気持ちが自然に伝わってくる。10年前のぼくは、このシーンですでに泣いていた。藤本弘を演じた阿部サダヲは、これが映画デビューだったはずだ。自主映画時代(というより「そとばこまち」時代か)から目にしていた生瀬勝久の演技も光っていたし、手塚治虫役の北村想も非常に「それらしかった」(NHKの「まんが道」で手塚を演じた江守徹よりは数段に)。思えば、本木以外の主要キャストはみな新興劇団の若手たちで、ちょっと前までの自分たちの境遇を、将来の不安を夢だけで乗りこえようとしていた当時の漫画家たちに、重ね合わせながら演じていたに違いない。それゆえに、市川準の作り出す作為を排したリアリズム世界にも、まぶしいくらいの輝きが生まれていたのだろう。

公開当時、この映画を観ていた自分(確か博士課程の2年だった)が、学界における将来をどう思い描いていたのか、今となっては思い出せない。でも、不安と希望、楽観と諦めとが、交互に押し寄せてきていたことは確かだろう(研究者として大成してゆく先輩たち、逆に研究を諦めてしまう先輩たち、次々と入学してきて頭角を現してくる新しい才能…。院生室は、ちょっとトキワ荘のイメージに近いかも知れない)。就職という枠組みを除けば、それは今だって続いているのだ(どちらかというと、年々、マイナス要素の方が強くなってきているが)。卒業を控えた学生たちなど、そのあたりの葛藤はもっと深いに違いない(そうあってほしい)。自分の将来、夢、現実…、そうしたものと真摯に向き合っている若者には、ぜひ観ておいてほしい作品である。
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ぜいたくな時間:〈Le Vant〉と椎名林檎

2007-03-10 04:28:51 | テレビの龍韜
『国文学』の原稿が追い込みに入り、机の周囲に本とノートの山が築かれています。週明けにはできるかな、という見通しもついてきました。よかったよかった。しかし、なんとか〆切をさほど過ぎずに書けた(いや、書けそう)なのはhTcZのおかげ。9日(金)は、通勤・帰宅のホームの上、電車のなかで、すべて原稿を打ち込んでいました(ちなみに帰りは横浜まで立ちっぱなし)。大船を経由して港南台で妻と合流、タクシーに飛び乗って、小山台のフランス料理店〈Le Vent〉へ。実は今日は、4年目の結婚記念日なのです。デザートを含めて7品目のコース料理、近所にこんな美味しいフレンチのお店があったのか…!と驚きました。お酒も肉もだめなぼくも大満足、妻はワインが進んで、帰るなりひっくりかえっていましたが…。それにしても、食事を堪能していた1時間半ほどのあいだ、客がぼくらだけしかいなかったのは残念な話です。皆さんどうぞ、一度お試しください。

10日(土)は、とにかく原稿の執筆。歴研中世史部会の合宿に参加している妻が、作りおきしていってくれたシーフード・カレーを食べつつ、深夜にはテレビで『椎名林檎お宝ショウ@NHK』を堪能。いやあ、中島みゆきの次の歌姫は中村中だと思っていましたが(ちょっと前までは橘いずみだと思っていた)、あらためてじっくり聞いてみると、やっぱり椎名林檎はいいですねえ。今回の番組では、斎藤ネコとのコンピ・アルバム『平成風俗』の関連で、カルテットやオーケストラをバックにしての熱唱。「劇場への招待」をパロディ化した洒落た演出、大正ロマン?溢れる舞台設計で、今までの彼女の、どのPVよりもよかったんじゃないでしょうか。乱歩を思わせる文字使いの歌詞も一層艶を放って色めき立ち、退廃と耽美のなかに芯の強さと奥深さを感じさせました。化粧と照明の加減でクルクル変わる、まさに猫の目のような表情も魅力。兄上純平とのデュエット『この世の限り』など、心中と輪廻転生をあっけらかんと歌い上げているようで、ドキリとさせられましたね。このテーマを、「この世に限りはあるの? もしも果てが見えたなら 如何やって笑おうか愉しもうか もうやり尽くしたね じゃあ何度だって忘れよう そしてまた新しく出会えれば素晴らしい 然様なら初めまして」 と語れる人は希有でしょう。曲の合間には茂木健一郎との対談が挿入されるのですが、年上の茂木さんの方が手玉にとられている感じ。じっと見つめて話す林檎に対し、ほとんど目を合わせようとしない茂木さんの緊張ぶり。小林賢太郎(ラーメンズ)出演の短編キネマじゃないけれど、書生とパトロンという〈イメエジ〉でしたね(しかし、何かと理論や類型に当てはめて安心しようとする、茂木さんの科学者的言説はつまらんなあ)。いやいや、贅沢な時間を過ごさせていただきました。

そうそう、夕方には拙稿「樹霊に揺れる心の行方」の載った『古代文学』46号も届きました。〆切をずいぶん遅らせてしまったので心配だったのですが、ちゃんと刊行されたようで何よりです。編集委員の皆さん、申し訳ありませんでした。それにしても、人間による自然の圧伏に絶望するように筆を進めておきながら、最後に「しかし同時に、その注意こそが人間の浅慮、傲慢であるともいえる。〈楽園〉を嘲笑とともに破壊する自然の力は、常に我々の傍らに息づいているのである」と付け加えたのは唐突でしたかね。
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はるか、ノスタルジィ:『地球へ…』がテレビアニメ化!

2007-03-03 19:07:40 | テレビの龍韜
久しぶりに、サブ・カルチャーの話題ということで(最近、いろいろな方がみてくださっているので、あまり変なこと書けないのです)。

大学の仕事が一段落したので、今、いろいろな原稿を急ピッチで進めているところです。『佛教史学研究』の聖徳太子シンポの校正に目を通し、この土・日では、中途になっていた歴博の「古代神社通史」を仕上げるべく作業中。しかし、間の悪いことに「ここぞ」というところで風邪をひいてしまい、投薬(タミフルではないですが)による眠気、集中力散漫と戦っています。
さっき、気分転換にTBSの『天保異聞 妖奇士』を観ていたのですが、このアニメ、今クールで終わっちゃうみたいですね。白川静の漢字学を基礎にするというコアな内容で、文字の蒐集のため主人公のひとりが薬問屋で卜甲を仕入れたり(ちゃんと「竜骨」といっていました。日本のアニメ史上、卜甲が初めて描かれた記念すべき作品なのです)、成田亨デザインのような〈堕ちた神〉妖夷を主人公らが最上のご馳走として食べていたり、妖怪画師として有名な河鍋暁斎が出て来たり、漂泊民と国つ神とが平田霊学を使って結びつけられたり…。名場面の続出で気に入っていたのですが、残念です。
しかし、その後番組を聞いて驚きました。なんと、竹宮恵子の名作『地球へ…』が、30年ぶりにテレビアニメとして復活するそうです。思えば小学生のとき、初めて読んだ少女まんががこれでした。夏休みに家族旅行でいった浜松からの帰り道、新幹線を待つ間、駅の近くの書店で親に全巻買ってもらったのです(このとき、現在は武蔵野大学で社会学を教えている兄は、『STAR TREK』のフィルムコミックを買ってもらっていました。TATSUMI MOOK の「危険な過去への旅」「光る目玉」の2巻、かなりのレアものですよね。我が兄弟のマニアぶりが分かろうというものです)。早速、列車のなかで兄弟回し読み。環境破壊の進んだ地球を再生するため、人間を地球から隔離し、その誕生から死までの全生涯をコンピュータ管理するSD(superior dominant)体制。その徹底した支配からこぼれ落ちる、自然力の発現としてのミュウ。SD体制の申し子として、遺伝子レベルからコンピュータによって生み出されたキースの葛藤。ソルジャー・ブルーの遺志を受け継ぎ、五感を失いながら、ミュウの悲願である地球への帰還を果たそうとするジョミィ。地球から宇宙へ飛び出してゆくSFの流れが一段落した時期で、宇宙から地球へという逆方向の視点を打ち出したところも新鮮でした(『マンガ少年』での連載開始は77年、『STAR WARS』公開の年ですね)。間もなくアニメ映画化されましたが(80年だったかな)、声優や(井上純一や沖雅也、秋吉久美子、志垣太郎らの一般俳優が挑戦)デザインなどにはいろいろ批判があったものの、原作の味はよく活かされた作品だったと記憶しています。ダ・カーポの歌う主題歌も秀逸でした(歌詞を思い浮かべると、いまでも涙が滲みます。写真はそのEPレコードのジャケット=私物)。

『地球へ…』の描く世界は、確かに、環境破壊の進む今でこそ、より現実味を帯びて受け取られることになるかも知れません。ホームページをみてみますと、今度はキャラクター・デザインも原作に近いですね。主題歌はダ・カーポの復活、もしくはリメイクを期待(無理かな)。
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