仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

落とし前をつける物語

2013-09-30 21:40:45 | テレビの龍韜
この上半期に話題を集めたドラマが、『あまちゃん』と『半沢直樹』であることは、衆目の一致するところだろう。ところで、まるで対極にあるかのようにみえるこの二つのドラマには、共通点がある。両者とも、過去の世代が生んださまざまな矛盾や軋轢に対し、新しい世代が「落とし前をつけてゆく」構造になっているということだ。半沢直樹は、銀行に融資を断られたために自殺した父親の無念をバネに、その銀行において自らの理想を実現すべく奔走する。天野アキは、海女からアイドルへと転身してゆくなかで、祖母と母の間に生じた確執を解きほぐし、また母が理不尽にも背負ってしまった挫折を解消してゆく。しかし両者が異なるのは、半沢が亡父、あるいは類似の境遇にある人々の怨みや哀しみを「背負って」ゆくのに対し、アキは祖母や母を大切に思いながらも、あえてその情念を「背負おう」とはしない(「果たせなかった夢を託す」といった言葉は出てくるが、実践はされない)、ただ自然体で自分の本当にやりたいこと、信じることに邁進しているだけで、それに突き動かされた周囲が自ずからわだかまりを解いてゆくに過ぎない、ということである。半沢が次から次へトラブルに巻き込まれてゆくように、その報復は何ら根本的な解決を導かず、かえって新たな困難を生じることになるが、アキはあくまで能天気に、夢と希望に溢れた未来へ突き進んでゆく。かつてポストモダンの思想家たちが指摘してきたように、背負うこと、代弁することは、それ自体が「生きる主体」に対する暴力になってしまう。世のサラリーマンが「倍返し」に感じるカタルシスは、正義の遂行によってもたらされる快感ではなく、哀しい自慰行為以外の何ものでもないのである。
9月以降、『あまちゃん』の震災に対する描き方(とくに原発事故の欠落)について、賛否両論の意見が飛び交った。しかし以上のような意味で、『あまちゃん』は明らかに震災後の未来を志向している。生き残った罪責感の渦巻くこの世界で、死者に対してどのような距離をとるのか。彼らを大切に思いつつも、「無念を晴らす」以外に採るべき道があるのではないか。なかなか言葉では分節しえないが、その答えのひとつを、アキの軽やかさが体現していたのだろう。
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