仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

場所の喪失/書物の起源

2014-04-29 19:13:29 | 議論の豹韜
相変わらずだが、またしばらく投稿できていなかった。やはり、年度始めはいろいろ慌ただしい(とくに今クールは、ドラマやアニメが豊作で…なんつって)。

このところ、幾つか考えていることがある。まず、次回ポッドキャストのテーマである場所論。トゥアンやレルフは『環境と心性の文化史』でも扱ったが、その頃は、空間認識の方法論として考えることしかしていなかった。しかし、2011年における東北学院での講演以降、定住社会論の相対化、遊動性の再評価を考え始めてから、自分のなかで少し方向性が変わってきたようだ。青原さとしさんによる『土徳流離』のラッシュフィルムや、山里勝己さんのゲーリー・スナイダー論を拝見・拝聴するうち、自らが生存してゆくための環境認識・生成=居場所作りと、その居場所へのアイデンティファイ=〈故郷〉化は分けて考えなければならない、と思うようになってきたのだ。故郷を持つことが、果たして人間にとって本当に幸福なのかどうか。災害史的パースペクティヴにおいては、災害の始まりは定住によって画期付けられる。宮城県松島周辺の縄文遺跡が東日本大震災の津波被害をほとんど受けなかったように、遊動生活や半定住生活は災害の直接的影響にさらされにくい。里山を共生的な美観とする感性が稲作中心史観によって構築されてきたように、故郷のあることを重視する(「根無し草」を否定的に捉える)心性も、農耕定住民によって(または個別人身支配のため定住を強制した権力によって)恣意的に構築されたものに過ぎないのではないか。ドゥルーズ/ガタリによるノマド論の再評価ではないが、場所論における場所のアプリオリ性には検討の余地があろう。ポッドキャストで意見交換し、より内容を深めてゆきたい。
もうひとつは、文字の起源の問題、書物の起源の問題である。ちょっと前から調査している、中国の南北朝時代に死霊の言葉を「胡語」と表現し、それを写し取った文章を「胡書」と記す感覚にも関わるのだが、中国には文字や書物を他界の側、自然の側に位置づけようとするベクトルがある。そもそも文字を発明した蒼頡の伝承自体、鳥や獣の足跡から文字を発明するというもので、文字は自然の表象である、自然から贈与されたものであるとの認識となっている。道教経典のなかには、天地の気が凝集して書物として出現したと伝えられるものもあり、洞天にはそれらが隠蔵されているともいう。日本も古くは中国に倣い、神意を記した文字が祥瑞に現れるなどといった発想があったが(空海『篆隷万象名義』なども同様の発想か)、やはり中国からもたらされたものとの認識が強かったためか、やがては自然と対置される文化の象徴になってゆく。「本当のこと」は文字によっては表せない、到達できないとの観念が生じる。日本には、書物が自然から涌出するなどといった発想はなかったのではなかろうか。『淮南子』本教訓にある「蒼頡書を作りて天粟を雨らし、鬼夜に哭く」との一文は、日本人には理解できなかったかも知れない。このあたり、今週・来週行う輪講「書物文化論」で話したいと思っているのだが、やはりもう少し詰めておこう。

さて、27日(日)は立教の野田研一さんのお宅に伺い、野田ゼミの恒例行事「飯能ハイク」に参加してきた(写真はそのときの入間川)。ふだん真っ平らな三鷹に住んでいるので、起伏のある飯能はなかなか素敵であった。異文化コミュニケーション研究科ゆえの、本当に多方面の研究テーマを持つ院生たちの話(留学生も多かった)、それを支える野田さんの度量の広さには、やはり感心をせざるをえなかった。まあ、自分の分際はわきまえてはいるけれど。ゆるゆるとかんばるかなあ。
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「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る(6)」への参加

2014-04-06 19:57:19 | 劇場の虎韜
また遡り記事になるが、3月25日(火)は、左のイベント「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る(6):ECフィルムからのパフォーマンス創造 vol.1」に参加してきた。今回は、6度に及ぶ上映会のなかでも初めて「生物学」ジャンルの映像を使用し、また単にそれらを観るだけではなく、現代のダンス・パフォーマンスと組み合わせ新たな創造的可能性を探求しようという試み。解説者は民博の川瀬慈さんで、まずはECフィルムの概要から説明をいただいた。ECフィルム作成の経緯についてはすでに1回目の上映会で伺っていたし、その後目録も購入したのである程度の知識はあったが、今回、民族学のモダン/ポストモダン的潮流とどのように関わるのかが分かってよかった。ECフィルムが生まれた1950年代の民族学では、すでに客観主義的・科学主義的態度の批判が始まっており、記録映像自体にも、記録者と対象との双方向性や、主観性・芸術性を重視した試みもなされるようになっていた。そのようななかでECフィルムは、主体をとことん消し去ろうとするストイックな科学主義を維持し、記録した映像は定期的に開かれる編集委員会で審査され、その水準が保たれたという。確立された技法は世界中の人類学者へ伝授されたらしいが、個人的に興味を惹かれたのは、1998~2003年にかけての雲南省東アジア映像人類学研究所への指導。1992年に北京映像人類学会が設立されたことを契機としたようだが、ここから現在のドキュメンタリー映画を担う多くの人材が輩出されたという。確かに、雲南を舞台にしたドキュメンタリーには秀作が多い。昨年公開されて話題になった『三姉妹~雲南の子』のワン・ビンも、ひょっとするとECフィルムの影響を受けているのだろうか。
さて、この日に上映された映像は、1)ジャーマン・シェパードの走行、2)ヒグマの走行、3)キンカジュウの登攀、4)スローロリスの登攀、5)マリミズムシの分泌物による身繕い、6)オランウータンの走行、7)モモイロペリカンの協働漁撈、8)サケを捕るオオカミ、9)サケを捕るヒグマ、いずれも3~4分程度の作品。このうち4)~8)は、京都で活躍する前衛的ダンス・ユニット「双子の未亡人」のパフォーマンスと併せて「上演」された。「未亡人」2人の恐るべき身体能力と、画面のなかの動物たちの動きが、特定の律動を通じてシンクロしてゆく。先日の環境思想シンポの懇親会でも、野田研一さんと身体/リズムの関係の話になったのだが、個々の生命に固有のリズム、そして自然界を貫くリズムの存在は間違いなくあろう。それゆえに、人間の舞踏は動物を真似することから始まり、言語を超えてあらゆる観衆を巻き込む熱狂を生む。そんなことを考えながらみていると、最前列に座っていたからだろうか、とつぜん「未亡人」の2人に舞台へと引き出された。2人のパフォーマンスに一部参加させていただき、一緒に立位体前屈。若い頃と比べるとかなり硬くなったが、それでも掌くらいは床に着けられる。おかげで、ずいぶんと体を伸ばすことができた。この日は何人かが「生け贄」になっていたが、ぼくがその最初。学生の頃から、「指名されたくないときに指名される」情況は変わっていない…。
ECフィルムを創造的に活かそうとするこの試み、果たして成功していたのかどうかは分からないが、観る者の想像力をさまざまに刺激したことは確かなようだ。
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人文系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」スタート

2014-04-05 10:16:12 | ※ 四谷会談
以前、知人の研究者に呼びかけて行っていた情報公開の懇談会「四谷会談」のことは、ぼくひとりの多忙のために結局持続することができず、ずっと気になっていた。今回その復活の意味も込め、また新たに学術情報発信、教育の側面も加えて、ポッドキャスト番組として再スタートさせることになった。映像と違って音声のみのポッドキャストは、編集が容易で作り手側の負担も少ない。かつては、方法論懇話会やケガレ研究会などで雑誌・論集の編集を手がけたが、身心ともに大変な作業で、長続きさせることができなかった。環境/文化研究会でも機関誌をと考えたことがあり、引き受けてくださるという奇特な出版社もあったのだが、いろいろな理由で躊躇していた。その点ポッドキャストなら、収録に半日、編集に1日の労力で、90分の番組を何とか完成できる。また受け手側にしても、スマートフォンの普及によって、徒歩や満員電車での出勤・帰宅の最中や、とくに思考を必要としない作業をしながらでも簡単に聞くことができる。求められる形態の目まぐるしく変化する教育、授業にも利用できるはずだと考えたわけである。協力してくれたのは、アメリカ文学・環境文学が専門の山本洋平さん、大学院時代からの畏友・同志である日本中世史の工藤健一さん、同じく方法論懇話会時代をともに生き抜いた佐藤壮広さん、中国の調査をご一緒した中国語・日本文学の岩崎千夏さんら。今後は、かつての方法論懇話会や環境/文化研究会のメンバーにも声をかけてゆきたいし、テーマによってはいろいろなゲストをお迎えしたいと考えている。


《第1回収録関係データ》
【収録日】 2014年3月24日(月)
【収録場所】 上智大学四谷キャンパス北條研究室
【収録メンバー】 山本洋平(司会:英米文学・環境文学)/佐藤壮広(主題歌・トーク:宗教人類学・シ­ャーマニズム研究)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/新飼早樹子(アシスタント・トーク:歴史学・日本古代史)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
まずは第1回。ハードをうまく整えることができず、マイクも司会のヘッドセットの他は手持ちの回し語りにせざるをえずに、トーク全体も硬くなってしまったのが反省点。打ち合わせをやりすぎ、面白さがそこで全部出てしまったせいもある。しかし、山本さんの絶妙な整理力と、工藤さんの物語り構成力にとにかく助けられた。しかしとにかく圧巻は、佐藤壮広さんが作ってくださった主題歌。これを聴くだけでも価値があると思う。テーマは「ゲリラ研究会のススメ」に「『かぐや姫の物語』を読む(1)」。かぐや姫の方は、描画・動画の画期性をめぐる議論に終始し、今回は内容にまで入ってゆけなかった。


《第2回収録関係データ》
【収録日】 2014年4月2日(水)
【収録場所】 上智大学四谷キャンパス北條研究室
【収録メンバー】 山本洋平(司会:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世史)/中澤克昭(トーク:歴史学・日本中世史・狩猟文化史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
第2回目は、「『かぐや姫の物語』を読む(2)」。原作古典との比較を通じ、作品の内容に広く深く切り込むことを目指した。また、思い切って高性能のコンデンサー・マイクを導入し、設備・技術の改善も行った結果、音質も向上したうえ、トークも軽快に過ぎるくらい弾みに弾んだ。内輪受けとの譏りは免れないかもしれないが、これが「懇話会」の醍醐味だろう。1回目とともに不正確な情報も含まれるが、ご容赦いただきたい。また、今年度から思いもかけず同僚となった盟友、中世狩猟文化史研究の中澤克昭さんも飛び入り参加してくださった。

今後も、なるべく月に1回のペースで更新してゆきたいと考えている。ご意見、ご感想などお寄せいただければありがたい。なお、次回のテーマは、「場所論」を予定。自然環境・社会環境との関わり、沖縄や福島と場所の喪失の問題、アメリカと日本の比較、現代的心性としての居場所の欠如など、さまざまに議論するつもりである。
Comments (3)
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第4回 環境思想シンポジウムへの参加

2014-04-05 10:07:16 | 議論の豹韜
これも遡り報告になるが、先月17~18日、小諸の安藤百福記念センターにて行われた「第4回環境思想シンポジウム」へ、講演者として参加してきた。かなり厳しいスケジュールのなか、開催1ヶ月前に無理矢理ねじ込んだ報告だったので、いつも苦労する準備もさらに難航、しかしなんとか本番前日の午前中には配布資料のpdfを事務局へ送信、パワーポイントの作成もギリギリ間に合った。とうぜん一睡もしないまま、まずは勤務校で会議を2時間、それから新幹線に飛び乗って小諸へ駆けつけた。シンポ自体は翌日だが、中心メンバーは前日夕方にセンターへ入り(自然体験教室なども開催しているので、きれいな宿泊施設も完備)、打ち合わせや意見交換を行う予定になっていたのだ。心身ともにクタクタであったが、野田研一さんや結城正美さん、山本洋平さん、堀郁夫さんら敬愛する知人・友人のほか、主催者側の岡島成行さん、加藤尚武さん、鬼頭秀一さん、ほかに福永真弓さんなど、かねてから学恩を蒙っている方々と実際に知り合うことができ、夜を徹してさまざまに議論することができた。しかし、そんなこんなで、この日もベッドに入ったのが朝4時頃。5時半には起き出して入浴、報告の準備も再開したので、まあよくテンションを保つことができたと思う。
朝食のあと、早速9時からシンポジウム開始。センター自体は駅からずいぶん離れたところにあるのだが、平日の早朝にもかかわらず、会場一杯の参加者が詰めかけてくださっていた。そのなかには、以前エコクリティシズムのシンポジウムでご一緒した中村優子さん、雲南の調査でご一緒した岩崎千夏さん、そして古くからの友人であり、4月から同僚にもなる中澤克昭さんの姿もあった。
まずは、沖縄からはるばるいらっしゃった環境文学研究の碩学のひとり、山里勝己さんによるゲーリー・スナイダーの文学、思想に関するご講演。恥ずかしながらほとんど関連の知識がなく、今回の依頼をいただいて急いで山里さんのご著作『場所を生きる』、『対訳亀の島』などを読んだ程度だったのだが、精神・身体と深く連結した場所の感覚・概念、アメリカの文化にみる移動性と場所の喪失/獲得の問題、そこから照射される沖縄や福島のディアスポラへの視線が、深く心に響いた。山里さんとは、その後もメールでやり取りをさせていただいたのだが、近年柄谷行人らによって柳田の遊動論が再評価されているように、定住による不幸、場所に束縛されるがゆえに発生する惨禍の問題もある。人間にとって場所とは何なのか、郷土とは、故郷とは何なのかを、ステレオタイプの日本=定住制社会論を相対化したところで捉えてゆかねばならない、との思いを強くした。
続いてぼくの講演は、「〈串刺し〉考」。動物の身体を串刺しにする行為が、本来は精霊を魂の原郷へ送り返す儀礼であったことを明らかにし、併せて我々のなかにある〈残酷さ〉の尺度が、仏教の殺生罪業思想の喧伝や狩猟漁労文化の抑圧=単一的価値付与などにより、歴史的に構築されてきたものであることを述べた。議論の発端は、カナダの人類学者ポール・ナダスディが、北方狩猟民の動物の主神話を文化的構築物ではなく存在論的現実とみるべきとした議論を、環境倫理においてどう扱うべきなのか問題提起することにあった。しかしこのあたり、理論的に急拵えのまま報告してしまったので、訳語や本論との連結などでさまざまな齟齬を生じており、ご参加の方々から多くのご指摘、アドバイスをいただいた。また、実際に農業における〈害獣〉駆除や実験動物殺害の問題に関わっている研究者の方にもご意見をいただき、大きく知見を広げることができた。けれども、徹夜続きの頭はうまい具合に働かず、しっかりした回答がお返しできたかどうかはかなり怪しい。今後の研究によって、何とかご恩返しできるようにしたい。
昼食を挟んで午後は、結城正美さん、福永真弓さんの近況報告を伺った。結城さんのご報告は、加藤幸子さん・石牟礼道子さん・田口ランディさんの文学に共通してみられる、「汚染されていると知っていながら、それを食べること」の意味について。個人的には、これまで批判的にしか扱ってこなかった諏訪神文その他の殺生功徳論、すなわち「賤しい畜生を成仏させてやるには、人間が食べて身体の一部とするのが最良」とする考えが、実は内的に理解することによって別の読み方を可能にするかもしれない、(ポアのようなきわどい領域ではあるが)という閃きを得たことがありがたかった。福永さんのご報告は、環境正義などをめぐる理論的整理に関するもの。最近環境思想に関する情報収集を怠っていたので、自分の議論、考え方をまとめなおすうえで大いに役立った。お2人に感謝申し上げる。
終了後は、山本さんの車に乗せていただき、堀さんや岩崎さんもご一緒して一路東京へ。途中渋滞に遭って2時間以上、山本さんにご迷惑をおかけしたが、プライベートなことを含めて全員でいろいろな話をすることができた。友情を深めてゆくためには、やはりこういう時間は大切。山本さんとは今後協働の仕事が多くなると思うので、非常にありがたかった。最初から最後まで疲労困憊のシンポジウムだったが、かけた労力以上のお土産をさまざまにいただくことができた。関係の皆さんに御礼申し上げる次第である。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(4) 大分別府

2014-04-01 20:22:25 | 議論の豹韜
8日(土)は、朝から大分湾周辺を散策。現在校正中の、環東シナ海地域における都邑水没譚の言説史に関し、最後に触れた列島の事例のなかでも著名なもののひとつ、瓜生島の痕跡を踏査するためだ。これは、豊府の外港として国際交易の拠点であった「沖の浜」が、慶長元年(1596)閏7月の文禄(慶長)大地震と、それに伴い発生した津波により実際に水没した(液状化により水底へ滑落した?)史実をもとに、架空の島の物語へと造り替えられていった伝説らしい。今回は、実際に沖の浜にあったという縁起を持つ瓜生山威徳寺(どうもこの寺院が伝承の発生源と思われる。寺院や僧侶が物語りの担い手であることは、日本近世に限らない普遍性を持つ)、恵比須神社などを回り、現在の別府湾の景観を写真に収めていった。しかし実は、今回の主目的は「踏査」ではない。この瓜生島関連の最古の記事は、元禄2年(1689)の『豊府聞書』という書物にあるのだが、同書は原本はもちろん写本も一切なく、後にその内容を引き継いで再構成した『豊府紀聞』によるしかない、というのが学界の常識だった。だが、すでに1955年に久多羅木儀一郎氏が写本の存在を報告しており、以降の研究は完全にこれを見落としたまま、某代表的研究者の見解を無批判に踏襲してきてしまったのである。それが最近、郷土史家のH氏が写本の存在を突き止めて翻刻、私家版文献として大分県立図書館に寄贈したとの情報を得たので、とにかくそれを確認しに行ったわけだ。そして、なんとまあ今回の出張は神仏の加護を受けているのか、思いもかけない僥倖を得ることになったのである。
図書館で地域資料室の担当者とやりとりをし、必要な文献を得て複写や借り出しの申請書類を書いていると、誰か話しかけてくる方がいる。先ほどの担当者との会話を聞いていたとのことだったが、何とそれが、『豊府聞書』の写本をみつけだしたH氏だったのである。狂喜して種々ご教示を仰いだところ、氏が確認されている写本は現在2種、1つは大分藩家老増澤家蔵(先の久多羅木論文にも言及)でマイクロフィルムが大分市歴史資料館に存在、もう1つはもともと由学館所蔵であったが、いまはなんと灯台もと暗しで東京にあるという。また同図書館で調査するうち、H氏も知らなかった『豊府聞書』の写本情報も発見できた。H氏と今後の情報交換を約束して、即座に大分市歴史資料館へ移動。学芸員のN氏にご協力いただき、増澤近統家文書に含まれる『聞書』の紙焼きを閲覧でき、瓜生島関連の記事や、『紀聞』にない跋文などの複写データを、メールで送っていただけることになった。この間、移動も含めてわずか3時間ほど。最小限の努力で最大限の成果を得ることがかない、狂喜乱舞である。H氏には心より御礼申し上げる。それにしても、よりによってぼくが図書館を訪れたその時間に、H氏も同じ地域資料室に詰めているとは…氏が同室の〈主〉のようになっているのかも分からないが、とにかくありがたいことである。いずれ、写本をすべて比較し、H氏の翻刻を校訂しなければならないが、とりあえずはこのことをしっかり学界へ喧伝する必要がある(H氏と約束もしたことだし)。今回の論文では日本の事例を中心に扱ってはおらず、いつものように字数削減に苦しむありさまだったが、一応脚注で補足しておいた。
この日はその後、16:00頃の新幹線で京都へ移動。20:00過ぎから、斎藤英喜さんはじめ仏教大学斎藤ゼミの皆さん、盟友のひとり師茂樹さん、fbで知り合った人類学者の原尻英樹さん、若い友人のMY君らが忙しいなか集まってくださり、うちのゼミ生やOBも数人駆け付けて、2:30頃までの大宴会となった。ずいぶん久しぶりに会ったMR君ら(すげえ論客になっていた!)、若手研究者の話もいろいろ聞き、大いに刺激を受けたのだった。

翌9日(日)は、4時間かけて、じっくり民博の展示を鑑賞。さすがにクタクタになり、予定を切り上げて早めに帰途についた。多くの方に支えられたサバティカル最後の出張も、どうやらこれにて終了。この日は11回目の結婚記念日だったこともあり、武蔵境駅で妻と落ち合って外食、日曜のため家族連れが多く目的の店に行けなかったので、また後日あらためてということにして簡単に済ませた。しかし、旅の間ほとんど固形物を口にしていなかったので、久しぶりの普通の食事に胃と腸はフル回転したものの、すぐに満腹となってしまった。次の日、体重を測ってみると、この5日間で4キロ近くの減量に成功?、体脂肪率は1桁に突入。まあしばらく、これを維持してゆこうか。

※ 写真は、別府湾周辺で撮影した六地蔵塔婆。列島のなかでもほぼ九州に集中しており、半島から伝わったものかもしれない。
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3月上旬 鳥取~大分横断調査:(3) 岡山和気

2014-04-01 05:17:08 | 議論の豹韜
前回からの続き。7日(金)、米子のホテルで目を覚ますと、外は大雪。山奥にある金屋子神社をみたいという希望を抱いていたのだが、これはとても無理だと断念(そもそも、併設する資料館は冬期は休業中)。悪天候で山越えの特急が遅れ、夕方から大分へ行く新幹線などとの接続がうまくゆかないと困るので、予定を変更し午前中に岡山へ出てしまうことにした。ネットを検索して急遽代替地に選んだのは、(突然皇国主義者になったわけではないが)あの和気清麻呂の拠点であった和気郡和気町藤野周辺である。2012年度まで院生だったI君が清麻呂の治水事業で卒論を書いたので、何となく気になっていたのだ。
本当は岡山駅で荷物を預けたかったのだが、向かいのホームに和気行きの電車が来ていたのですぐさま乗車。30分ほどの乗車時間、和気が近づくに連れて、周囲に流紋岩の岩山が多くなってゆく。侵蝕に強いこの岩質の特徴とかで、こんもりした小峰が幾つも連なる特徴的な景観をなしている。木もまばらだが、鞍馬山のように山肌を根が這うような状態になっているのだろうか。和気の一駅岡山側にある熊山では、大規模な採石場があるという(そういえば、大阪の土塔・奈良の頭塔と並ぶ熊山遺跡って、ここだったよな。いま書いていて気づいた!みておくべきだった!)。こりゃ正解だな、と何となくうきうきしてきた。しかし、和気駅に到着、まずは荷物を預けようとコインロッカーを探したところ、利用率が悪いため近年取り外してしまった!とかで、観光協会を含め、駅周辺に一時預かり所はないという。和気神社までは4~5キロほど、歩いて行ってしまおうかと思っていたが、重い荷物を引きずっていてはとさすがに諦め、タクシーを利用することにした。
車窓から眺める、吉井川・日笠川の豊かな流れ。もともとは藤野も「藤原郡」だったわけだが、こりゃフヂ=フチ(淵)とする折口説は正しいかと妄想しつつ、まずは神社前の和気町歴史民俗資料館へ。小さな資料館だったが、収穫だったのは、江戸前期に岡山池田家に仕えた津田永忠のこと。多くの善政を担い、なかでも著名なのは、吉井川上流に設けた巨大な田原井堰の築造。周囲の岩山の流紋岩を用いて中之島=離碓を作り、水の流れを分けて治水・灌漑の双方を実現したものという。まさに四川省の都江堰、松尾の葛野大堰などと同じ構造である。亡くなった森浩一さんが「秦氏が中国から将来した技術」と推定したものだが、そういえば、岡山も秦氏の集住地だった。もちろん、これらを直結させてしまう妄想は持っていないけれども、永忠がかかる技術をどのように習得したのか。そのあたりは史料もなく、あまりよく分かっていないらしい。彼が清麻呂の治水などを想起・顕彰したなどの痕跡があれば、面白いのだが。日本中で禹王が顕彰され禹王廟などが建設される時期よりちょっと早いが、熊沢蕃山が関わっているというから、荻生徂徠らの先駆に位置づけられるかもしれない。なお口頭伝承としては、捲石を用いた離碓建設の担い手として、石工頭金光甚兵衛(異伝に市兵衛)なる人物の活躍が伝わっている。『ふるさと和気』民話編を繙くと、井堰建設が「大木の秘密型」の形式に沿って語られる伝承もあり、非常に食欲をそそる。石材産出が生業となっている風土なればこそで、「伐採抵抗伝承」の言説形式を、樹木から切断して考察する必要もあらためて感じた。資料館の担当の方にいろいろ伺い、保存用でしか残っていないという同井堰の解体工事に伴う調査報告書も、複写して送っていただけることになった(後日、さらにご高配を賜りました)。ありがたいことである。
さて、資料館に一時荷物を預かっていただき、ついでに和気神社を散策。朝倉文夫の精悍な清麻呂像に迎えられて鳥居までゆくと、狛犬の代わりにイノシシが左右を守っている。清麻呂を守護した伝承があるためで、ごたいそうに剥製まで飾ってある。なんとなく、狩猟神事の匂いがしたりするのだが、どうなのだろうか。重要文化財の本殿もなかなかに立派であった。駅までの道沿いに「伝和気氏政庁跡」、『源平盛衰記』に描かれる倉光三郎の墓などもあるというので、まあ途中でタクシーを拾ってもいいかと、重い荷物を抱えて歩き出したが、周囲の景観、史跡に目を奪われて歩いているうち、けっきょく駅まで辿り着いてしまった。いやいや、腕の運動にもなったことよ。
このあとは、岡山を経て、小倉、大分と順調に接続。車内では、学生の予備卒論を添削したり、本のノートをとったり。実は、初めて!九州に足を踏み入れたのだが、もうすでに周囲は真っ暗であり、気づくともう関門海峡を渡ってしまっていて、感慨も何もあったものではなかった。しかし確かに、電車の車内装飾の文化は、明らかに関東と違うかなあ。
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