仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

『三宝絵』研究会第3回集会

2006-01-25 12:35:20 | 議論の豹韜
24日(火)、成城大学にて『三宝絵』研究会第3回集会が開かれました。
今回は難産の末に生み落とした私の報告、「礼拝威力、自然造仏―『三宝絵』下巻二十話にみる〈祟る木霊〉の解脱―」です。

下20「長谷菩薩戒」は、前半部分で長谷観音の造像縁起、後半部分で長谷寺における菩薩授戒の盛行を語るもの。研究史的には、前半部分の原資料とされる「徳道、道明等ガ天平五年ニシルセル、観音ノ縁起并ニ雑記等」が、「長谷寺縁起」の初発形態として重要視されてきました。近年は、藤巻和宏さんらの活躍によって、『長谷寺縁起文』『長谷寺験記』『長谷寺密奏記』などへの中世的展開が明らかにされていますが、実は原縁起についてはほとんど研究が進んでいません。下20の記述も、「観音縁起」をほぼ忠実に記録したものとされていますが、そのような保証はどこにもないわけです。そこで今回の報告は、下20前半が原「観音縁起」に基づく可能性、『三宝絵』の作者源為憲の製作にかかる可能性の、双方を見据えながら構成しました。

まず、下20前半「観音縁起」のさらに前半に当たる部分は、洪水によって近江国高嶋郡へ漂着した祟りなす巨木の物語で、イヅモノ大ミヅ(出雲大水)なる人物が大和国当麻里へ移動、さらにその子ミヤ丸(宮丸)が長谷河のなかへと引き捨てます。動かない樹木が特定の人物によってのみ軽々と運ばれる、というのは、木霊婚姻譚にみられる中核的なモチーフです。そこでは、樹木の怒りを鎮めることができるのは木霊の配偶者もしくは子供で、彼らが木に触れることにより、微動だにしなかった巨木が容易に動き出すのです。その伝承の源泉には、樹木伐採の際に行われる木鎮め(山口、木本、建築の諸祭儀を経て、木霊を建築物の守護神に転換する方法)の存在が想定されます。例えば森林資源の豊富な紀伊国では、『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』に木鎮めの執行者としてみえる忌部(とくに紀伊忌部)の活躍が確認でき、『書紀』一書に列島中に樹種を植える神として登場する伊太祁曽三神が鎮座(その父であるスサノヲは樹種別の用途を定め、林業の展開を暗示しています)、仏教の伽藍建築に際し木鎮めが行われていた痕跡も見出せます。下20で祟る巨木が移動する南近江・南山城から大和へのルートは、藤原京建設当時からの林業地帯であり、木材を筏に組んで流す水上交通路であったと考えられます。さらに、天平宝字年間の石山寺造営では、山口神祭などの木鎮めを行う様工集団の存在が確認できます。環境的に紀伊国との類似が想定され、巨木の移動は木霊婚姻譚の一類型、大ミヅやミヤ丸は木鎮め実践者の物語化された姿と考えられるのです(木鎮め祭儀やその伝承については、[k-hojoの書いたもの]IV-12・III-15を参照)。
ちなみに、日本における木霊婚姻譚とまったく共通する話型は確認できないものの、木霊が人間と恋に落ちる話や、漂流木が災害をもたらすモチーフは、『捜神記』『冥祥記』『集異記』などの漢籍・古小説類に散見します。核となる部分は在地との関連性を持つとしても、表現としては漢籍に基づいて筆録された可能性があるでしょう。「祟」が「卜」によって明らかになるという点も、中国的歴史叙述の形式をしっかりと踏襲するものです。

下20「観音縁起」の後半部分は、言説形式としては神身離脱譚に当たります。寺川真知夫さん、吉田一彦さん、そして私が指摘してきたように、この言説形式は中国から僧伝類を通して輸入され、それを模範とする山林修行者によって広汎に定着していったと考えられます。中国では成立当初、盛んな廟神信仰を解体するために用いられ、神が悪報としての現身を離脱し入滅する点が重要でしたが、日本の神は輪廻もしなければ入滅もしません。すなわち、日本的な神身離脱譚はあくまで〈離脱願望〉譚であり、祭祀の更新をはかる祟り神信仰の再編強化を意味するものと考えていいでしょう。「観音縁起」でも、祟る樹木が徳道のはたらきで観音へと転換、マイナスの存在がプラスの存在となって祭祀の更新が行われます。初期神仏習合譚と同時期、同様の環境で形成された、実践的色彩の濃い縁起譚といえるでしょう。
また、流木や神木が造寺・造像に用いられたり、祈請に応じた山神の良木喜捨、特定の僧でなければ動かせない仏像などのモチーフは、『冥報記』や『梁高僧伝』『唐高僧伝』などに確認できます。とくに道宣の『集神州三宝感通録』は、僧尼の至信に感通した山野河海からの仏像出現譚を多く収めており、注意を要します。内的文脈としては、阿育王の中国における痕跡を実証する意味合いが濃厚ですが、これらの書物は『書紀』段階より日本仏教史の構築作業に用いられており、原「観音縁起」に影響を与えている可能性は大きいでしょう。さらに、『三宝感通録』所載の霊験譚は、『三宝絵』の多用する『法苑珠林』にほとんど収録されており、為憲による筆録の段階で使用された可能性もあります。「観音縁起并雑記」という書き方からすると、為憲は複数の書物から下20前半を構成したと考えられ、表現形式・言説形式の問題も含め、整理というより創作に近い作業だったのではないかと推測されます。
ところで、師さんの発表のところでも触れましたが、私は道宣の好むような神仏出現の感通譚の源泉には、観仏行によって得られた神秘体験が存在すると考えています。とくに、下20は前半で観音の造像を語り、後半で菩薩授戒へ展開させて『梵網経』も引用している。まさに、山部氏の指摘したような『梵網経』菩薩受戒に伴う好相行が、古代の日本でも行われていた徴証ではないでしょうか。

最後に、下20全体の問題から。近年の横田隆志氏の指摘によって、『三宝絵』収録の各説話を、本来の読み手である尊子内親王の視点で解釈しなおす方向がみえてきました。それでは、下20の「長谷菩薩戒」という物語が、『三宝絵』に収録された意味とは何なのでしょうか。未だ夢想に過ぎませんが、出家以前の内親王が内裏に火災を呼ぶ「火宮」と誹謗されていたこと、同書執筆の時期と内親王の受戒の時期がほぼ重なっていること、菩薩受戒が「仏ノ位ニ入ハジメノ門」とされていることなどからすると、祟る樹木から観音へ、マイナスからプラスへの鮮やかな転換にこそ意味があったように思われます。壁画を導き手として仏の姿を観ようとした西域の僧のように、尊子内親王も、下20に付された絵を頼りに好相を得ようとしたのかも分かりません。

以上、史料の羅列のみに終わった発表でしたが、参加者にはおおむね好意的に受けとめていただき、受戒作法のさらなる分析、朝鮮の事例の探究など様々な課題をいただきました。ありがとうございました。また、この内容を練っている最中、仏教大博士課程の舩田淳さんの紹介で、「長谷寺縁起」の権威ともいうべき藤巻和宏さんとも知り合いになりました(ブックマークもしているhp「相承・密奏・顕現」を参照)。メールのやりとりのみでまだお会いしたことはないのですが、ぜひ直接ご教示を賜りたいものです。
なお、次回の『三宝絵』研究会では、聖徳太子信仰の研究で知られる藤井由紀子さんが、私と同じ下20を異なる角度から分析してくださるそうです。私は縁起の文脈から意図的に逸脱してしまったので、藤井さんがそのあたりを厳密に押さえてくださるとすればありがたいことです。今から次回の議論が楽しみです。
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仏教史学会1月例会

2006-01-20 10:33:24 | 議論の豹韜
すでに概要は述べたとおりですが、14日(土)、京都の龍谷大学にて仏教史学会の1月例会が行われました。報告者は、院生時代からの付き合いで、方法論懇話会の同志でもある師茂樹さん。人文学へのコンピュータ利用の分野でよく知られた師さんですが、今回は本当の専門、法相唯識学に関連する発表で、タイトルは「五姓各別説と観音の夢―『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み―」。まさに、下38の解釈としては、私の知る限りのなかで最も説得的な学説でした。報告の詳しい内容については、師さんがご自身のブログでも解説していますし、hp「もろ式」の方にもレジュメが公開されていますので、そちらを参照してください。ここでは、私の個人的な感想を述べるに止どめます。

今回の報告のなかで、私の関心に直結してきた論点は二つ。

ひとつめは、景戒による『霊異記』編纂が、同時代の法相/三論二宗による〈空有論争〉にリンクする可能性が示されたことです。これは中国に淵源し、一切皆成/一分不成仏をめぐる論争の内実を持ちつつ、徳一/最澄の三一権実論争にまで繋がってゆく長大な議論。景戒が自宗の存在意義、そして自らの仏教者としての主体性に関わるようなこの問題に、まったく無関心であったはずはない。そこで師さんは、下38の夢解きにおける五姓各別説を、法相の原則に沿って厳密に解釈すべきことを指摘する。一見至極当然のようですが、実はこのパースペクティヴは、戦後仏教史を規定する〈大乗主義的近代性〉への鋭い批判ともなっているのです。いま思い浮かんだ造語で厳密なものではありませんが、近代人権思想とも結びついた、一切皆成こそ最良であり一分不成仏など差別思想とする価値観ですね。これが歴史学の世界にも蔓延していて、研究者の認識を大きく束縛してきた。聖徳太子―行基―親鸞を日本仏教の核とする龍谷の二葉史学など、その典型ではないでしょうか(神祇不拝、習俗排除をうたう真宗の近代教学なんかも当てはまるでしょうね)。もちろん、二葉憲香の業績それ自体は偉大ですが(門下の宮城洋一郎さんや中川修さんには本当にお世話になっています)、例えば行基研究などでは、「法相宗ではあるが、民衆救済に尽くした行基が五姓各別説にはまりこんでいたはずはない。彼はその枠を超越し、大乗菩薩道に目覚めたのだ」という路線を敷いてしまい(真宗の僧侶でもある私も、かつてはそのなかにどっぷりと浸かりきっていたものです)、法相宗僧侶の思考をそれ自体として考察する道を閉ざしてしまった。景戒も同様の位置づけをされてきたわけで、師さんはこの認識枠組み自体に再考を迫り、法相の考え方においてもとうぜん菩薩行が可能であること(種子のとおりに教導し、無種姓者は人・天に生まれさせる)、下38も五姓各別説で整合的に読みうることを示したのです。
この点に関連してひらめいたのが、『霊異記』の歴史叙述としてのスタイルの問題。周知のとおり『霊異記』三巻は、それぞれ、上巻:聖徳太子に象徴される仏教伝来期、中巻:行基に象徴される聖武朝、下巻:孝謙朝から景戒の現在に至る時期、に区分され、説話で綴る日本仏教史としての構成をとっています。上巻の聖徳太子記述は、『書紀』を参照しつつも微妙に異なったイメージを創出していますが、それはやはり太子を日本仏教の原点に位置づけようとする大安寺グループとの、〈表象をめぐる闘争〉だったのではないでしょうか。『書紀』の仏教記述が、道慈をはじめとする大安寺グループの操作を受けていることは明白で、法王としての太子像も光明皇后から孝謙女帝への流れのなかで成立してくる。法相宗の景戒はこれらの人々に批判的で、教学的にも対立しており、とすれば、『書紀』とは異なる日本仏教史を自覚的に構想したと考えてもおかしくありません。『霊異記』自体のスタイルを決定づける根本的問題とも思われるわけです。夢想でしょうかね。

ふたつめは、下38の第一の夢を、菩薩戒に伴う観音の好相行として解釈した点。梵網戒の自誓受戒に観想行が伴うことについては、すでに山部能宜さんの研究があります。師さんもこの見方を踏まえて、景戒の慚愧と観音の聖示に、『梵網経』第23軽戒に即した得戒の保証・肯定をみているわけです。
山部さんの研究については、以前、私が中国における神身離脱言説の成立を論じた際、師さんとの間で話題になったことがありました。私は、「ふの会」という文学者・人類学者・民俗学者・歴史学者によるシャーマニズムの研究会に参加、仏教的言説を修行=神秘体験の観点から分析する方法を模索していました。師さんとのやりとりは、2003年の方法論懇話会メーリング・リストでも蒸し返されましたが(No.17-18を参照)、その際すでに彼は、「初期唯識派、玄奘とその弟子、日本中世の法相宗などに見られる弥勒信仰≒観仏≒菩薩行 etc... などをきちんと掘り起こし、哲学的、近代的な議論ばかりして偉そうにしている唯識研究者 (^_^;; が無視し続けてきた宗教的な部分をきちんと結び付けたいな」と語っているんですね。師さんはその後も精進して今回の報告にたどりつき、私は放っておいたまま何もしなかった、ということでしょうか。猛反省です。
しかし、そんな私もようやく奮起、24日に行った『三宝絵』研究会の発表では、先の関心を再燃させたのでした(これについてはまた書きます)。

例会終了後の懇親会では、師さん、稲城正己さん、佐藤文子さんと刺激的な議論で盛り上がりました。佐藤さんは、同一の用語として疑いなく使用されている私度僧/自度僧が、実はまったく異なるものであるという驚くべき見解を発表されたばかり(早く論文化してください!)。得度、受戒、修行、戒律……これまで歴史学では制度的なアプローチしかできなかった問題について、真に宗教的に取り組める方向性がみえてくるようでワクワクしました。師さん、本当にありがとうございました。それから、恐らくは歴史学会から無視もしくは大批判されるだけだろうと思っていた拙稿、「説話の可能態」の〈可能性〉を、最大限に引き出してくださったことにも感謝します。学問は独りでやっているんじゃない、その感動を味わえたひとときでした。
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環境/文化研究会(仮)1月例会

2006-01-19 12:09:32 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
15日の日曜日、根城のひとつ、環境/文化研究会(仮称)の1月例会が早稲田大学で行われました。休日のため参加者は少なめで、報告者の亀谷弘明さん、土居浩さんのほか、工藤健一さん、久米舞子さん、榊佳子さん、武田比呂男さん、宮瀧交二さん、私の8名。

最初の報告は、亀谷さんの「渋沢敬三と漁業史研究」。古代村落研究者の亀谷さんが、ご自分の研究と渋沢の学問との関わりから始めて、渋沢の生涯と主要著作の解題、漁業史研究の詳細、学問の特色について平易に解説してくださいました。
アチック・ミューゼアムを設立し後進の指導とコンダクター/パトロンとしての役割を果たした、その功績と存在の大きさを、参加者一同があらためて実感。質疑応答では、生物学的素養からくる柳田系民俗学との方法論的相違(柳田が形式から心意へ漸進的に追究してゆくのに対して、渋沢は形式=心意とみる?)、「傍流に立って、見落とされたものにこそ含まれる大事なものを発見するのが重要」とのスタンスへの共感が語られました。また、網野史学への影響はもちろん、『絵巻による日本常民生活絵引』などの刊行を通じて戸田芳実や黒田日出男らに学恩を及ぼし、日本における社会史研究成立の母胎となったことも確認されました。
個人的には、カテゴライズ自体に心意をみる方法論が興味深く、「魚名は人と魚との交渉の結果成立した社会的所産」とする魚名研究など、デュルケームと比較すると面白いのではないかと思いました。柳田に『社会学年報』の影響があったらしいことは川田稔さんが指摘していますが、渋沢の場合はどうなんでしょうね。土居さんから、「事物に名を与える博物学とは王の行為だから、上流階層である渋沢の関心の方向は、その点からも興味深い」といった発言がありましたが、まさにそのとおりで、『風土記』や『延喜式』へ向かうというのは象徴的な気がします。
以上の報告と議論を通じて、渋沢から宮本常一へ、という関心が会全体に高まりました。宮瀧さんが近年の宮本研究の現状について紹介し、宮本家の見学なども提案してくださったので、いろいろ勉強することができそうです。亀谷さんも、今後宮本の紹介と研究も担ってゆきたい、といってくださいました。研究会の枠組みも次第に明確なり、参加者個々人の役割もはっきりしてきたようですね。

続いては土居さんの「環境・風土・景観―環境/文化研究のための地理学案内―」。平野仁啓や斎藤正二の自然観研究を扱うなかで、日本的景観研究の流れをしっかり押さえたいという参加者間の要望が高まり、地理学出身の土居さんにお願いをしたわけです。まさに期待どおりのご報告で、地理学の環境研究への言及のなかで「和辻風土論」が常に呼び出されながら、タームとしては定着していない情況、「景観」概念が「土地共同体」を意味するLandschaftの辻村太郎による和訳でありながら、形態学的な辻村の研究の影響もあって「風景」と同一視されてゆくことなどが示され、また、非特徴的な「環境」がキーワードとして機能しうるかという問題提起もなされました。
私個人のなかにある語彙からいうと、「景観」に含意されているものは、ヴィダル・ド・ラ=ブラーシュの〈地的統一(unité terrestre)〉に近いのかも知れませんね。この観点から、人間と自然環境との共同作業としての「生活様式」論が提出され、アナール学派へと結びついてゆくことになるわけです。辻村の景観形態学は三好学の植物学の語彙を踏襲しているとのことですが、ラ=ブラーシュの人文地理学も進化論・生態学に基礎づけられているので、20世紀初頭の地理学の展開の問題として比較すると面白いと思います。
なお、土居さんの「環境」語彙への問題提起によって、やはりこの会の名称「環境/文化研究会」は仮称としておいた方がいいだろうということになりました。ただ、「環境文化」というターム自体が近年定着し始めているので、語彙/概念の来歴と近年の動向、有効性とをあわせてよく吟味してゆくことが必要ですね。それから、以前仲間と作成した本『環境と心性の文化史』に、地理学的要素が少ないというご批判もいただきました。まったくそのとおりで、この作業はまだまだ終わっていない/終わらないのだな、という実感を持ちました。土居さんに感謝します(この報告の準備経過と補注については、土居さんご自身のブログを参照)。

終了後の飲み会では、正月のドラマや映画についてひとしきり文句をいった後、歴史学批判大会へ。青臭いガス抜きですが、これがなくなってゆくと「歳をとった」ということなのかと思います。
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ハード・ワークで負傷?

2006-01-17 15:25:25 | 生きる犬韜
おいおい詳しく書いてゆくつもりですが、先週の後半から少々ハードな日程が続き、そのせいかどうかは分かりませんが酷い目に合いました。

まずは水曜日、これがそもそもの発端です。突如として38度近くの熱が出て、酷い頭痛に襲われました。胃腸系もやられて食欲がまったくなく、何も手に付かずにダウン。それでもなんとか、翌日の講義の準備は整えました。

木曜日。ようやく熱は下がったので、S大学での最後の講義2コマ。〈創られた伝統〉をキーワードに、日本人の歴史観の浅薄さについて語り終えました。3年間お世話になり、いろいろなことがありましたが、一身上の都合で来年度の継続を辞退。いちばん苦しい時期を助けてくれた大学でもあるので、離れるにあたりちょっとした感慨もありました。どうもありがとうございました。

金曜日。この日があったお陰で少し休めたのですが、そうでなければもっと大変なことになっていたでしょう。月曜の演習での配布物をまとめ、翌日の会議で使う書類を作成。完徹して、京都ゆきの準備を整えました。

土曜日。龍谷大学で行われた仏教史学会の例会、委員会に出席するため早朝に京都へ出発。駅ビルのホテル・グランヴィアのロビーで、委員の佐藤文子さん、委員長の岡村喜史さんと待ち合わせ。中華料理に舌鼓を打ちつつ、今年度の大会で開催するシンポジウムについて、報告者の人選などを事前に打ち合わせしました。それから佐藤さんと本山、西本願寺の報恩講にお詣りしました。といっても例会の開始まで時間がなかったため、仏教賛歌の練習に参加しただけ。本当は曹洞宗の佐藤さん(ご出身が、妻と同じ秋田だそうです)と、「たびゆくしんらん」を歌いました。
その後、師茂樹さんの素晴らしい報告を聞き(ちゃんと感想書きます)、委員会、懇親会(師さん、稲城さん、佐藤さんと中身の濃い歓談。この様子も後日)に出て、日帰りで横浜へ。新幹線のお供に、駅ビルの本屋で山田正紀『マヂック・オペラ』を購入。車内では愛機iPod nanoで中島美嘉を聞きつつ、月明かりの雪景色に心癒されました。そうそう、SANYOの超巨大太陽発電施設、SOLAR ARKも初めて視認しました。
横浜線の車内で大学帰りの妻と落ち合い、午前様で帰宅。それからもいろいろ雑務をして、睡眠は2時間のみ。

日曜日。午前中に月参りに歩き、午後から環境/文化研究会1月例会に参加するため早稲田大学へ(これについても後ほど詳しくレポートします)。亀谷弘明さんと土居浩さんの報告を聞き、懇親会でひとしきり歴史学批判を行って帰宅。翌日の準備でやはり2時間睡眠。朝は5時に起き、妻におむすびを作って送り出しました。

そして問題の月曜日。午前中にご葬儀1件を前住職と勤め、午後からW大学へ。図書館で三宝絵関係の資料をコピー、いつもどおり「ごんべえ」で夕食を採ったあと、悲劇は起こったのでした。考えてみたら、ここ数日間ほとんど寝ていないわけです。確かに、電車のなかなどで仮眠はとっていますけど、身体に疲労が蓄積していたんでしょうね。文学部キャンパスの駐輪場付近で、ロープをくぐろうとしてなぜか転倒、顔面をアスファルトに強打、眼鏡で顔を切ってしまったのでした。
とりあえず起き上がり、スロープ脇の椅子で身繕いをしていると、「あの~すみません」と近寄ってくる学生が。みると、「『教行信証』を読む会」のチラシが差し出されている。即座に「ぼくは真宗の僧侶だからいいです」と受け答え。よく考えてみると理由になっていませんが、こっちはいまそれどころじゃない。君も親鸞の教えを奉じる同朋だったら、相手の情況をみて勧誘しなさい。
眼鏡のフレームは歪んでレンズには深い傷がつき、スーツの膝も破けてしまっている。ハンカチで顔を押さえると、大量の血が流れ出ていて、すぐさま赤く染まってしまう。とりあえず顔を洗おうと近くのトイレに入ると、鼻の付け根と額に大きな傷が……。それから、第2文学部の助手で友人の榊佳子さんに救護室へ連れていってもらい、応急処置を受けたのでした。情けない。榊さんいわく、「モモちゃん(妻の愛称)、この顔みたらなんていうかなあ。驚く前に笑うな」。お世話になりました。
酷い顔で最後の演習を終え、学生さんにも心配をかけたのでした。でも、最後の最後にこれとは、W大学もぼくを敬遠しているらしい……などと萎縮しつつ帰宅。連絡してあったので、妻はバス停まで走って迎えに来てくれました。その前に茶の間で「かわいい顔に傷が残ったら大変です!」と真剣に訴え、母の失笑を買っていたようですが……。ばんそうこうだらけのダンナをみて笑ったかどうかは、皆さんのご想像にお任せします。
そのあとちゃんと手当をしてもらいましたが、鼻の傷は実はかなり深く、まだちゃんと塞がっていなかったりします。「ハード・ワークで負傷」と書くと同情を誘いますが、実は単なるドジなのでした。
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正月ドラマ雑感(2)

2006-01-09 23:55:20 | テレビの龍韜
大河ドラマ『功名が辻』が始まりました。戦国ものには本当に飽きているのですが、私は竹中半兵衛が割合に好きなのと、興味を持って観られそうなキャストだったので楽しみにしていました。
結果はどうでしょう。確かに主役の2人は頑張っていましたね(といっても、仲間由紀恵は本格的には出てきていません)。上川隆也は『大地の子』以来のファンですが、いつも同じ演技ながら、役になりきっていて安心して観ていられます。武田鉄也の脇役もいい味が出ています。しかし、織田信長の舘ひろし、松平信康の西田敏行、木下藤吉郎の柄本明、お市の大地真央、ねねの浅野ゆう子は年とりすぎです。おまけに舘ひろしは声に伸びがなく、大音声があげられない。面白いと思った配役でしたが、蓋を開けてみれば花がない。
物語は、司馬遼太郎の原作があるせいで仕方ないのでしょうが、桶狭間の描き方が古すぎました。藤本正行氏の研究以来、桶狭間が今川義元上洛途上の尾張攻略でも、信長による起死回生の奇襲戦でもなく、平凡な隣国武将どうしの国境線拡大争いに過ぎなかったことは明らかであるのに……。脚本にも演出にも斬新な切り口はなく、今後の展開に期待するしかありません。大石静さん、がんばってください。

新番組期待度ナンバーワンというフジテレビの『西遊記』も、やはり満足のいく出来ではありませんでした。
孫悟空に、「キレやすいが孤独でさびしがりやな現代の若者像」を重ね、「仲間との絆を自覚してゆくなかで成長させる」物語にしてしまってもいいのですが、原作ファンとしては不満が募ります。神仙になる修行を積んで雲に乗る技を会得し、冥界を訪問して不老不死を手に入れ、竜宮から最強の武器如意棒を奪い、天上界で大暴れして天帝の大軍にひとりで立ち向かう「斉天大聖」の英雄ぶりは、中国民衆の希望や憧憬、豊かな想像力が構築したもの。日本で作る『西遊記』は、どうもそれを矮小化し、等身大の人間として描いてしまう傾向があります。「斉天大聖」の意味が分かっているのでしょうか。
今作はその典型で、ちっぽけな石牢に閉じ込められて500年も身動きとれず(原作では封印された巨大な岩山の下敷きになっている)、姑息な人間の企みを見破る智慧も洞察力もなく(原作では悟空が最も洞察力に富み、そのギャップのために玄奘や他の弟子たちとの間に誤解が生じる)、牛魔王との戦いでは檻に入って出られない始末。だいたい牛魔王も、かつて悟空に負けて義兄弟の契りを結んだはずなんですよね。ついには、公明正大な〈こころ〉論を語って見栄をきるに至る。思わず硬直してしまいました。人倫、道徳を超越するのが英雄でしょ。
こうした孫悟空の描き方には、前述した『里見八犬伝』と同じ問題があるように思われます。つまり、究極的な異文化を理解しようとするモチーフの欠如、ひいては他者について深く考える想像力の枯渇ですね。完全無欠の孫悟空が、足手まといの人間玄奘に師事して天竺へ向かうのはなぜなのか。それ自体が菩薩としての修行であり実践でもあるわけですが、それは苦しみと迷いに沈む人間の愚かさ、哀しさ、そして愛おしさについて〈了解〉してゆく旅でもあるのです。その結果、悟空は、真に人間を救済しうる存在へと昇華してゆく。今回の『西遊記』は、悟空の学ぶ人間を「素晴らしいもの」と正当化している時点で、まず仏教的ベクトルから遠ざかってしまっている。さらに日本テレビ版からの伝統か、玄奘と悟空の疑似恋愛、八戒や悟浄との仲間意識に押し込めて矮小化してしまっているのです。残念でなりません。この傾向は、現代日本の心性のあり方とも結びついていると思いますね。

これまでドラマ化された『西遊記』のなかで、原作の味わいがあったのはやはり中国版だけでしたね。もういちど観たい。DVD買おうかなあ。悟空と『封神演義』の神々が戦いを繰り広げるという壮大な『東遊記』も映像化してほしいですね。
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正月ドラマ雑感(1)

2006-01-06 04:15:34 | テレビの龍韜
昨日はうたた寝してしまった『古畑ファイナル』、今日はちゃんと観ました。
しかし、文字どおり完結編であるこの3部作、完成度はどうだったんでしょうか。
第2話についてはなんともいえませんが、1・3話を観る限り、『水戸黄門』の安心感はあっても、あっと驚くような感動や新鮮な切り口、深い人物造型とは無縁(とはいいすぎか)の物語だったように思えてなりません。とくに今日の第3話は、ほとんど枠組みごと『刑事コロンボ 構想の死角』のパロディ、もしくはリメイクだったのではないでしょうか。ま、『古畑』についてはとかくそのような噂が絶えませんでしたが、かつてはそれを補って余りある魅力があった。完結もやむなしか、というのが正直な感想です(面白く観たことは確かなんですけどね)。キャラクターものとしての定着に、どこかで抵抗するようなベクトルがあってもよかったんじゃないでしょうか。安全パイな終わり方で、少々気が抜けてしまいました。
ちなみに、誤解を避けるためにいいますと、私は三谷幸喜のファンです。テレビ作品はほとんど観ていますし、劇場にも足を運ぶよう努力します(なかなかチケットとれないんですけど)。『有頂天ホテル』は楽しみにしています。

『里見八犬伝』はどうでしょう。
長大な物語を3時間ほどにまとめてあるので、かなり端折って無理が出ていますが(大塚の浜路と里見の浜路姫=甲斐の浜路を同一人物としたことなど。これでは、荘助も浜路も助け育てた亀篠が〈かなりいい人〉ということになってしまう。亀篠がいなかったら、里見家の未来はなかったですよ)、現代的群像劇に再構成した点はひとつの見せ方でしょうね。角川『里見八犬伝』は、親兵衛以外すべて引き立て役でしたから。八犬士それぞれが異なる目的を持って生きながら、最終的にひとつにまとまってゆく流れは原作に忠実だったと思います。玉梓も稀代の悪女、怨霊としてではなく、時代に翻弄され死に追いやられた女性の象徴として描かれていて、その意味で八犬士と同じ〈群像〉のひとつということでしょう(菅野美穂を当てたのもそのためでしょう。原作なら船虫こそが似合いそうで、玉梓は岩下志麻とかですよ)。
しかし、全体としては残念な出来で、削り落とした部分にこそ大事なものがあったのでは……という印象は否めません。とくに根本的な設定である伏姫の夫、犬の八房が登場しなかったのはどうしたわけなんでしょう。現代には通じない内容と思われたのか、でも、それではなぜ〈犬士〉なのかが分からなくなってしまいます(慳貪の象徴としての畜生=犬、という仏教的位置づけなんでしょうが、あまり必然性は感じません)。私は、異類婚姻譚こそ他者了解の究極的形だと思っているので、この物語世界の単一化には馴染めないものがあります。
俳優では、悪役を演じた武田鉄矢がよかったですね。これからはもう、善人を演じるのはやめましょう。あとは、仲間由紀恵に貫禄がついてきたこと。とくに玉梓を癒すラストは、聖母的神々しさ、強さがよく出ていました。ほかには、相変わらずの佐野史郎、菅野美穂の狂気。それ以外に特筆すべきものはなかったですね。
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買い物に歩く

2006-01-05 07:23:51 | 生きる犬韜
4日早朝、完徹してようやく部屋の大掃除を終えました。
AVまわりがまだちゃんとしていませんが、一応、昨年の研究によって生じた物理的混乱は回避され、新たな環境へ向けてリセットされた状態。今日からまた頑張りますか、ということで、午後から妻と横浜へ買い物。

港南台の竹庵(ここのお蕎麦は絶品!)で食事したあと、京浜東北線で横浜へ。徹夜のせいで歩いていても寝てしまいそう。車内では隣の人に寄りかかりそうになるのを、妻が必死に(無造作に?)押さえる。ご迷惑をおかけしました。
横浜駅の西口へ出て、妻が高島屋でブーツなどを物色しているあいだ、私は新しくできたヨドバシカメラ・マルチメディア横浜へ。昨年話題になった秋葉原型の店舗が、横浜三越の跡地にオープンしたので行ってみたわけです。いやあ、ヨドバシはあんまり好きじゃないんですけど、とてつもなく広いスペースに品揃えも豊富。ホビーのフロアなんかは恐ろしいことになっている。早速フィギュアを……ではなくて、ローランドのオーディオ・キャプチャー(写真)を半ば衝動買い。アナログ音声をPCにデジタル録音できる機械ですね。昨年の『オーディオ・ドラマ古事記』のコピーをたくさんの人から頼まれていたのですが、これでMP3ファイルでCDに焼くことができます。
妻と合流後、伊勢佐木町でチョコクロを食べ、港南台で買い物して帰宅。妻は、新しい手帳を探して高島屋や有隣堂をうろうろしたものの、なかなかしっくりくるものがなく、ようやくお気に入りを買えたのは港南台の浜書房ででした。灯台もと暗し、というやつですかね。

シーフードカレーに白身魚のフライ、スモークサーモンのマリネと、珍しく盛り沢山の夕食をいただいたあと、『古畑任三郎ファイナル』でイチローの名演を観ようと思ったのが、やはり徹夜が響き、七割は寝てしまっていました。ところどころ記憶があるものの、物語りの要所が不鮮明で残念。明日の松嶋菜々子はちゃんと観ましょう。
ところで、押井守の新作『立喰師列伝』いよいよ公開ですね。主役は、『紅い眼鏡』では天本英世が演じていた月見の銀二(吉祥寺怪人)。川井憲次や河森正治、樋口真嗣、鈴木敏夫、寺田克也ら、押井映画ではお馴染みのスタッフが立喰師たちを演じるのもみどころ。やっぱり兵藤まこも出てます。個人的には、ぜひ「天玉の紅一」役を千葉繁にも演じてほしかったのですが……ゲストでもいいから出ないでしょうかね。
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初めての初詣?

2006-01-02 06:35:55 | 生きる犬韜
大晦日は、例年どおり除夜会の準備。
朝から寺中で大忙しですが、私は自室(会館管理人住居スペース)の整理整頓も終わっていないので、並行して作業。妻も台所の片づけをしたり、階段部分の掃除をしたりと、あっちへゆきこっちへゆき。寒空のもと、会館エントランスの清掃、窓ふきなどをしていると、自動ドアのうえから巨大な蝿取りクモの死体がボトリ。思わず、「フェイス・ハガーかよ!」とサマーズ的な突っ込みを入れてしまいました。

いつの間にやら、夜はとっぷりと暮れてゆきます。空は低くはありませんが、雲が出て星はみえず。そのお陰で、あまり冷えてはいないようですが、やはり寒い。
お寿司をつまんで、家族で一年の苦労をねぎらった後、10:00より除夜会。参拝者の皆さんと十二礼を読経して、鐘撞き開始。私はあっちをうろうろこっちをうろうろ、妻は甘酒のお振る舞いで大わらわです。零時ちょうどには住職が百八つめの鐘を撞き、元旦会で正信偈を読経。本堂内は乾燥して、大声を張りあげると喉が枯れてしまいます。
今年はちょっと早くに参拝の方の足が途絶え、2:30頃、400発ちょっとで打ち止め。片づけをして年越し蕎麦を食べ、おのおの就寝。妻は疲れ切って、30日にようやく買ったどでかいこたつ(ほかほかカーペットにパイプテーブルで簡易こたつを作っていたのが、カーペットの故障で暖が取れなくなったため、急遽購入したもの。やっぱりほんものは暖かい)でダウン。私は少し整頓を継続、その後やはりこたつでダウン。

元旦はお昼前からの活動。家族みんな(次兄夫婦も来ていた。義姉は学位論文を提出したもよう。ウェーバーとブルデューの比較研究とのこと。お疲れさま!)でおせちをつまみ、母・長兄・姪・次兄夫婦・私たち夫婦で、母の実家・四ッ谷の林光寺へお年始へ(ものごころついたときから行われていた年中行事。同寺山田一族が結集する。お年玉交換が主な行事だったりする)。
出かける直前、私にとっては方法論懇話会の同志であり、次兄にとっては東洋大の科研費の共同研究者である佐藤壮広さん、塩月亮子さん夫妻が来訪。実は、塩月さんのご実家が寺の檀家さんの関係で、初詣にみえたわけです。佐藤さんとは2年ぶりくらい? お子さんは、お二人の血を引いたのかフィールド・ワークが好きで、外に出るとリラックスして寝てしまうとか。ぐっすりお休みでした。日韓フォーラムで、方法論懇話会の福島栄寿さんや幡鎌一弘さんとご一緒されているとのこと。やはり世間は……というより学界は狭い!
さて、「ブルデューの名前を聞かなくなったねー」「ブルデューをだしに使って自説を展開する奴らがのさばっている」などと世間話?をしながら、長兄の車で一路四ッ谷へ。しかし、私たち夫婦は途中下車、なんと大手町にある平将門の首塚に降り立ったのでした!
実は、今年5月に神田明神に関する講演をするにもかかわらず、首塚にも神田明神にも行ったことがない。それではいかんということで、足を運んだわけです。5時になり、ビルの谷間で薄暗く不気味な首塚にも、けっこう参拝の人々が訪れます(写真は1970年再建、私と同い年〈戌年!〉の「蓮阿弥陀仏」供養塔婆)。どうやら神田明神からの初詣のルートになっているもよう。首塚に手を合わせる人々は、いかなる気持ちなのかけっこう不思議です。私たちは資料にするために写真をとり、敬意を表して一揖(真宗者は神祇不拝。ゆえに私も、生まれてこのかた初詣などしたことがありません)。案内板などを読むと、「将門公は、民のために官の不正を糺すべく戦った。江戸っ子の気風に繋がる郷土の英雄」などといった顕彰の文が並ぶ。
次は丸の内線で移動、本当の初詣で賑わう神田明神へ。
妻は10年東京で暮らしていながら、こうした場所は初めての経験とか。やはり参拝はせず、長蛇の列を後目に境内をうろうろ。資料館で「平将門公特別展開催」との貼り紙が目に入り、おっ!と喜び勇んで駆けつけたものの、開館は4時までとか。そりゃそうでしょうね。また訪れねばなるまい。社務所で「神田祭」のDVDを購入、一応の収穫を確保。あとは屋台でお好み焼きをほくほく食べ、冷え切った身体を暖めて、「揚げまんじゅう」をお土産に林光寺へ。連日のお寿司に舌鼓を打ったのでした。妻はワインでヘロヘロです。

というわけで、年末年始2日間の顛末を記しました。
皆さん、本年もよろしくお願い申し上げます。
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