仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

折り返し点を過ぎる:「エコクリ」シンポ終了

2010-01-15 14:25:12 | 議論の豹韜
すでにどゐさんからリクエストが来ているので、遅ればせながらエントリしておこう。9・10日(土・日)、立教大学・青山学院大学・コロンビア大学共催の国際シンポ「エコクリティシズムと日本文学研究」が開催された。1日半で40人に及ぶ報告者を捌こうという驚天動地のプログラムであったが、それぞれの発表時間は10~15分で、次から次へと番組が切り替わり、飽きさせない構成にはなっていた(いつもながら長く喋りたがるぼくには、あまりにも短い時間であったが…)。趣旨についてはあらためて述べないが、日本文学研究にエコクリティシズムを導入しようという試みである。この方法論については、以前、稲城正己さんから教えていただき勉強したことがあった。そのときの印象は、歴史の代替物(アイデンティティーの根源)を自然へ求めようとするアメリカならではの方法論、という印象だったので、正直参加の依頼が来たときは、日本文学であえてこの名前を冠さなくてもいいのではないかと首を傾げた。この疑問は、当日、主催者のひとりでいらっしゃるネイチャーライティング研究の第一人者、野田研一さんにぶつけてみたが、やはり注目度の向上を狙った試みのようだった。それについては、ぼくらも方法論懇話会でやってきたから納得できる。たとえ「日本文学が自然を対象に論じ始めたのはずっと以前からだ」といいうるとしても、新しい視点や方法論を導入することで、これまでの道のりを再検討し、従来とは異なる糸口を見出せることもある。しかしそうであれば、幾つか設けられた部会のうち最初の方に、理論的なことを整理し課題を提示するグループを設けた方がよかったかも知れない(議論の枠組みが規制されるのを避けるため、あえて設けなかったのだろうか)?

ところで、ぼくがパネリストとして参加したのは、ハルオ・シラネさんの基調講演を前提にしたシンポ1「二次的自然と野生の自然」であった。シラネさんの講演は、古代・中世の環境史研究を充分に踏まえ、自然の表象の変遷を追った興味深いものだった(もちろん、その前提になっている義江彰夫さんや飯沼賢司さんの議論には、賛同しかねる部分もあるけれども)。とくに冒頭、日本文学、日本的自然観に関する通説的イメージ(いわゆる「美しい日本の私」的な)を〈神話〉として喝破したあたりには、心のなかで拍手喝采を送った。シンポ1の各報告はそれぞれに興味深かったが、印象に残ったのは山里勝己さんによる宮澤賢治への論及である。「注文の多い料理店」で鍵穴から覗く山猫の目は、人間に、自らも生態系の食物連鎖のうちにいることを気づかせるものという。賢治論としてはもちろん、ちょうど「全学共通日本史」のために猫の勉強をしているところだったので、報告されている幾つかの民俗事例と結び合わせることができ刺激になった(キーワードは、「文化のなかの野生」である)。西行の和歌表現の革新性を述べたジャック・ストーンマンさんの発表、廃墟の美をめぐる心性を批判的に捉えた佐藤泉さんの発表も心に残った。
ぼく自身は、納西族における祭署の調査の折に老東巴から聞いた「負債」という言葉と、かかる観念を反映する前近代の文学表現を追いかける報告を行った。とくに今回は、動物の主をはじめとするいわゆる対称性の神話が、稲作中心主義のなかで解体されてゆく過程に注目した。失楽園的歴史叙述になるのは避けたかったし、いわゆる野生は現在も潰えているわけではないので、稲作中心主義によって対称性の言説は周縁に追いやられてゆくが、狩猟採集を主な生業とする地域では近代まで受け継がれてゆくと結んだ。どうやら動物の主を表すらしいもの、トーテミズムの痕跡らしきものは古代の文献に発見できた。実は、動物の子孫である人間を語る言説は近世にもあるのだが、漢籍の翻案か、あるいは憑きもの信仰による可能性が高そうだ。狩猟採集社会のはっきりした形は、かなり早い時代に支配的言説ではなくなってゆく。あとは、稲作中心主義に則して生まれた神話・伝承に、対称性と呼びうるものがないかどうか丹念に調べなければならないだろう。
それにしても、報告時間15分というのは初めての経験だった。案の定、かなり間を端折らざるをえず、こちらの意図を充分に伝えることはできなかった。しかし自分自身、後ろめたさ/負債の概念を整理することができたし、シラネさんや野田さん、結城正美さんが関心を持ってくださったのは幸いだった。議論のなかで気づいたことだが、後ろめたさは具体的な行動に繋がらないことも多いが、負債は応答のアクションを必ず要請される。負債を踏み倒す正当化の言説が吐き出されるのは、後ろめたさというより、重くなりすぎた負債の意識をリセットする意味があるのかも分からない。自然に対する負債の概念がどのようにして払拭、解消されてゆくのかは、日本列島の環境文化を考えるうえで重要なポイントになるだろう。なお、野田さんは『環境と心性の文化史』を持参してくださっていて、おお、あの本がとうとう受け容れられたか…!と嬉しくなった。異分野の研究者の卵の方にもアピールできたようで、何とか首の皮一枚で繋がった感じである。
翌日は所用があって午後からの参加となった。総括では、小嶋菜温子さんの、いつもながら文学の独自性を大切にするお話に心を打たれた。ミハエル・キンスキーさんのまとめも重要だが、漢籍がいかに日本文化の構築へ影響を与えているかは、それこそ古典文学に膨大な研究の蓄積があり、ぼく自身も関わっている問題だ。参加者のなかには、「我が意を得たり」と思った人と、「今さら何をいうか」と思った人が両方いただろう。「前近代の日本にNatureを示す語はないはず」という発言も同様で、現在の研究情況では、「山川草木」「森羅」などの用法の広がりを探った方が意味がある(ちなみに別稿でも触れたが、「一切衆生」が限定的な概念であり、植物を含意しないことは広く認識されるようになってきた)。

とにかく、大変だったが新しい出会いに溢れたいいシンポであった。これでシンポ・ラッシュも半ばを終えたので、しばらくは繁忙期の校務に集中しつつ、催促の加速する原稿を書き上げるとしよう。

※ 上の写真は、稲城さんに教えてもらって以前に読んでいた本と、今回初めて知った読んでいなかった本。勉強しなければいけませんな。
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