仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ああ、五劫思惟!

2006-04-29 22:10:19 | 生きる犬韜
自坊住職、光明寺三兄弟の長兄平伯郎上人(専門は歴史学、西域史)は、一昨日まで奈良へ出張していました。同地は現在、東大寺の聖武天皇1250年遠忌法要(5/1~/3)でお祭り騒ぎ。長兄もその前段階の行事で、理事を務める全日本仏教青年会勤仕の「大般若経転読」に参加していたわけです。私たち浄土真宗では、『大般若経』など読みませんし(『般若心経』さえ使わない)、ましてや転読など一切やりません。長兄も初めての経験、多少は練習をしていったようですが、「ちゃんとできた?」との問いには「ちょっと失敗しちゃった」。『奈良新聞』には、写真入りで掲載されていました。

ところでその長兄が、こちらも遠忌800年記念に伴い奈良博で行われている「大勧進 重源」展の図録を買ってきてくれました。なかなかに重厚かつ完備されたものでしたが、何より嬉しかったのが、大好きな「五劫思惟阿弥陀如来像」が掲載されていたことです。学生の頃、講義助手をしていた「日本美術史」の授業で、今は亡き恩師佐藤昭夫先生が、「中世的思考の即物性、具象性」の一例としてとりあげていらっしゃったもの。「五劫などという遠大な時間考え続けた阿弥陀さんは、きっと羅髪もずいぶん伸びてしまっていたのではないか?」そういう発想から作られたこの像は、なんと髪型がアフロというか、ダースベイダーというか……。とにかくヘルメットを被ったようになってしまっているわけです。もう、いちどみたら忘れられません。「修行中は阿弥陀じゃなくて、法蔵菩薩なんだけど」などというイチャモンは、千里の彼方へ吹き飛ばすインパクトを持っています(このあたり、中世の思想史のひとはちゃんと解説してほしいです)。
久しぶりに再会したその雄姿!に、束の間、佐藤先生の笑顔を想い出しました。
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〈古代神社の成立〉ワークショップ

2006-04-28 14:21:19 | 議論の豹韜
22日(土)、佐倉の歴史民俗博物館で、〈古代日本における神社の成立〉をテーマにしたワークショップが開かれました。3年目最終年度に突入した同館の基幹研究、〈神仏信仰の通史的研究I〉の一環です(現在、特別展「日本の神々と祭り」開催中)。コーディネーターは、神社が専門とは口が裂けてもいえない私。単に共同研究の古代担当というだけで任されてしまい、悩んだ挙げ句、考古学で神社遺構の解明に取り組む錦田剛志さんと、文献史学で清新な神祇研究を発表している有富純也さんに白羽の矢を立て(文字どおりの生け贄、という意味で)、ご協力をお願いしたのでした。
お二人とはそれまでまったく面識がなかったのですが、当然ご研究は拝見していました。錦田さんは、個別の論文もさることながら、考古/建築/文献史学のあいだで物議を醸してきた〈古代神殿論争〉の長大な研究整理を上梓されており、考古学に立脚しつつも客観的な視点を持った方という印象がありました。ちょうど、錦田さんと同じ職場の森田喜久男さんには、方法論や環境/文化でお世話になっていたので橋渡しをお願いしたところ、新博物館の設立準備で大変なご多忙であったにもかかわらず、ご快諾をいただいたわけです(森田さん、ご助力ありがとうございました)。お会いしてみると大変気さくで物腰柔らかな方で、年齢が近いこともあって意気投合しました(同じ宗教者ですしね)。
有富さんとは、東大の史料編纂所で妻がお世話になっていた関係。学振研究員の部屋で、妻とNさんの漫才にいつも苦しめられて(?)いたとか。一昨年、上の基幹研究で古代神社史の通史をまとめていた折、刊行されたばかりの有富さんの神祇官論、神社の国司委託を律令のありようから論じてゆく見解に、大いに助けられたのでした。まだお若いのですが、宗教史研究者が激減している東大では貴重な存在。そこで妻を通してお願いしたところ、こちらもありがたくご快諾をいただけたのでした。
お二人とは、直接の打ち合わせ(有富さんのほか、歴博RAの山口えりさん、同機関研究員の山田岳志さんが参加してくださいました。感謝!)やメールを介して意見・情報を交換し、万全の態勢(?)で当日に臨みました。

ワークショップの目的は、当たり前ながら、(1) 古代神殿論争の整理を行い共通のプラットホームを形成すること、(2) 最新の成果を交えて展望を示すことの2つ。どこでもやっているようなことなんですが、そこにいかなるオリジナリティを盛り込むかが腕のみせどころ。
まず (1) については、歴史学者の無意識の拠りどころとなっている〈自然発生説〉の再検討を主張しました。同説は、福山敏男以来神社研究の基本的パラダイムとなってきた考え方で、神社は列島社会の自然信仰と豊穣祈願のなかから、a)自然物崇拝→b)祭場の固定化→c)仮設の神殿→d)神殿の常設化を経て形成されたという、一種の発展段階論。神殿論争はご存知のとおり、弥生時代の独立棟持柱付大型建築物の発見が引き金となり、考古/建築/歴史のあいだで巻き起こった神社の起源をめぐる論争です。中心となったのは、歴史時代の神社と弥生期、古墳期の宗教施設の連続性を主張する考古学の一派と、それに反対する歴史学の一派であったわけですが、彼らは〈自然発生説〉を受け継いでいる意味では認識枠組みを共有していました。とくに文献史学は、同説の使用についてあまりに無自覚、無批判であったと思います。これに対して建築史学の一派は、〈自然発生説〉のあり方を根底から批判し、神社は国家的・政治的要請から設定されたものだという方向性を打ち出しました。安易に祭祀へ結びつけられる遺構・遺物の評価は、実は考古学界はもちろん、発掘担当者の間でさえ一様ではありません。前後の時期との連続性を強引に見出すより、各時代の固有性や多様性について充分議論すべきであり、それを指示する史資料も多く発見されています。弥生や古墳固有の神、神殿や祭殿が存在しても不自然ではありませんが、それを「神社」に連結する〈起源創出願望〉には慎重でなければなりません。歴史時代には、ヤシロ・ホクラ・ミアラカ・ミムロ・ヒモロキ等々の聖所呼称が存在し、それぞれ異なる実体と対応していたと思われます。とりあえず歴史時代の神社に限っていえば、それが文字表記「社」、音声呼称「ヤシロ」に統一される契機が重要であり、そこに天武・持統朝の神祇政策、いわゆる官社制に注目する必然性が生じてきます。社会的な神観念の動態には注意が必要ですが、政府の指導によって建築物を備え、班幣を受けるために設定された「社」の姿は、〈自然発生説〉では充分説明することができません。
そこで (2) ですが、やはり官社制の全体像を、考古・建築・文献の各方面から解明する必要があります。錦田さんは8世紀以降に見出される「田」文字型の特殊建物遺構から、官社制成立とともに各地で一定の規格(もちろん全国統一的なものではありません)が生まれる可能性を、有富さんは10世紀の神社と国司の関係から、官社が国家的構築物/在来宗教スポットの二重性を持つこと、官社以外にも多様な形態の信仰施設が存在することなどを報告されました。私は、なぜ官社が社殿を伴うのかに注意し、律令国家が醸成してゆく清浄性イデオロギーのなかに、都城・寺院・官道などと同様に位置づけられてゆく「社」の景観創出を跡づけました。社殿建築と仏教との関係は印象論的に指摘されているのですが(伽藍に触発されて社殿が成立した、等々)、ちゃんと史料的に実証されてはいないんですよね。井上寛司さんは「第一次神仏習合」というタームを使用されますが、このあたり、ちゃんと考えてゆかなければいけません(近年、中世史の立場から神道の成立を問題視されている井上さんの研究は重要。最新の「中世日本の神社・『神道』と中世日本紀」〈『歴史評論』673, 2006-05〉では、とうとう古代にも言及。ぼくら古代史研究者がやらないから井上さんが業を煮やしたわけで、大変重要な問題提起、ご叱責と受けとめた次第です)。

さて、集会自体への参加者は、いつもより多めの20人強。いずれも神社専門の猛者揃いです。議論の方向がどこへ進むか心配でしたが、蓋を開けてみれば皆さん大変喜んでくださいました。議論も百出して司会の三浦先生は大変そうでしたが、神社の神は常住するのかしないのか、なぜ「社=ヤシロ」へ収斂されるのか(すなわち支配的表象の誕生の問題)、仏教との関係は国家政策/一般社会の要請においてそれぞれどうか、神社に祀られる神とは何ものかなど、様々な問題が突っ込んで議論されました。当然着地点は見つかりませんでしたが、「何について問わなければならないか」はかなり明確になってきたように思います。参加者のなかには、「今まででいちばん面白かった」と評価してくださる方もいらっしゃいました。
研究会終了後の懇親会では、錦田さんから、「このまま終わるのは勿体ないから、いずれシンポか何かやりましょう」とのご提案。「官社制研究会」などというピンスポットな会の設立話まで持ち上がり、神社専門ではない私もちょっとした責任を感じた日でした。
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人が芸に化けている/芸が人と化している

2006-04-23 11:09:51 | 劇場の虎韜
ちょうど1週間前の16日(日)、妻と連れだって、国立能楽堂へ大蔵流狂言の春公演を観にいってきました。午前中は雨だったのですが、お昼過ぎに千駄ヶ谷駅に着いた頃には小降りになり、ユーハイムで美味しいケーキに陶然としているうち、空もきれいに晴れあがりました。

さて、大蔵流。いわずと知れた京都茂山家ですが、人間国宝の千作氏を頂点に、2家族3世代中心の一門がよくまとまり、賑やかに芸道を発展させています。東京の和泉流・野村家が源氏とすれば、茂山家は平家でしょうかね(なんとなく。分かる人には分かる?)。公演の様子からも、呼吸のピッタリ合った、そして厳しくも打ち解けた一族のありようがうかがえます。近年は、茂・宗彦・逸平・童司ら若手の人気(まさにアイドル並!)が凄まじく、なかなかチケットがとれないのですが、今回は先行予約の抽選で勝利。初めて生で笑わせていただきました。

演目は、「花争」「川上地蔵」「素袍落」の3本。どれも大笑いでしたが、とくに、千作・七五三・宗彦の親子3代が演じたラストは圧巻でした。伊勢参りのお誘いにと、主人の伯父の家へ使いに出される太郎冠者。はなむけに酒を振る舞われ、すっかり酩酊してしまう様子がみどころなのですが、いやもう、太郎冠者を演じた千作氏の芸が凄いのなんの。まず、彼が舞台上に登場してきただけで、自然と私たちの顔は綻び、もうその一挙手一投足に目が離せなくなってしまいます。堂内の空気も本当に春らしく緩やかになり、何か幸せな気分になるのです。まさに〈お豆腐狂言〉の至芸! 人が芸になっているのか芸が人になっているのか、いや、そんなことを考えること自体が無意味なのでしょう。とにかく感嘆、そして柔らかな爆笑。
七五三演じる主人の伯父が酒を振る舞う場面も、「ああこれはもう親子じゃなくちゃできないね」という間合いのとり方。和泉流の芝居からは「家族」を感じませんが、大蔵流は、家の絆がいい意味で浮かびあがってきますね。千作氏が杯を煽る所作に、思わず3月にみた萬斎の所作を重ねてしまいましたが、これはもう比べてはいけないところでしょうか。萬斎にはまだ、小賢しいところがみえますが(そうみえてしまう私自身が小賢しいわけですが)、千作氏には恣意というものがまったく感じられません。「念仏を称えている」と思う自分自身があるうちは……とは時宗の話でしたが、まさにその域に達している印象です。隣の席では、妻が「おじいちゃんかわいいぞ!」と大満足の様子でした。来月3日にはまた萬斎を観にゆく予定ですが、果たして、この日に勝る愉悦を得られるでしょうか……。

さて、心を満腹にして能楽堂を出て、次は国立博物館の最澄展へ。稲本さんのブログで警告されていたので、お目当ての「六道絵」がなくならないうちに拝見。しかし、地獄の責め苦に苦しむ亡者たちをみても、肉体の崩壊を克明に追った描写もみても、千作氏の満面の笑顔が浮かんでしまう一日でした。
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最初の講義

2006-04-18 10:32:22 | 生きる犬韜
14日(金)は、J大学での講義の初日でした。タイトルは、日本史特講I「祟りと卜占の古代文化論」。果たして、カトリック系大学に来るような学生さんたちがこのようなテーマを求めているか不安もありましたが、蓋を開けてみると意外にも盛況。他学科の履修生も含めて50名ほどの受講者数で、教室変更の手続きをとらねばならないほどでした。

軽く自己紹介をして、早速〈祟り〉のガイダンス(というのも妙な言い回しですが……)。村の貧困の状態を、136年前に殺害して肉を食べた英国人宣教師の呪いと考え、謝罪の儀式を行ったというフィジー・ナブタウタウ村の出来事(『朝日新聞』2003年11月14日、大野拓司氏筆)から説き起こし、小松和彦さんの名著『異人論』を経由して〈祟りのシステム〉を概説。すなわち〈祟り〉とは、共同体内に生じた理解不能な異常事態を説明し、対処の方法を示して社会不安を鎮静化する一種の防衛規制であるということ。重視したいのは、宗教者が共同体構成員との交渉のうちに構築する〈物語り〉で、現在の停滞を打開するために過去を生成し、「過去○○であったために、現在××となっている」という言説形式を紡ぎだしてゆく行為。すなわち、〈祟り〉とは一種の歴史叙述なのである……云々。
講義終了後も、興奮した数名の学生さんが教壇に集まり、それぞれ感想を語ってくれて、15分ほど楽しく会話。講義がうまくいったときの醍醐味ですね。どうも、生成論的な心性史という方法が新鮮だったようです。また、いままでJ大学に、周縁的な話をする先生がいらっしゃらなかったのかもしれません。なかには、お父さんが病気になったときに招かれた霊能者が、風呂場の地下で苦しむ亀の存在をいいあて、以来その亀を家の神として祀り、毎年祭礼も催しているという体験を披露してくれた学生さんもいました(亀ですよ亀!調査にゆきたいなあ)。

どうにか好評であったようで、今後の展開に責任を感じつつも一安心。研究室に帰ってリアクション・ペーパーを整理していると、なかなかこちらも鋭い質問が多い。いちいち答えていると講義が進まないので、専用hpの開設を検討中です。
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対称性と本源的関係態

2006-04-11 01:14:28 | 書物の文韜
熊から王へ―カイエ・ソバージュ〈2〉

講談社

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赴任して最初の1週間が過ぎました。
まだ授業は始まらず、これといって煩瑣な仕事はないものの、何かと慌ただしく遅れている原稿も進みません。2時間かけて毎日のように出勤する生活も久しぶりでしたし、土・日も学会やら研究会やらで休みなし。新入生学科集会の教員紹介では〈分かりやすさ拒否宣言〉を行い、他の先生方も苦笑い(でも皆さん、けっこう若者へ難問を投げかけていらっしゃいました)。疲れも溜まっているみたいです。しかし、今週の金曜が最初の講義なので、そろそろ準備を本格化させねばなりません。

前期は、J大で日本史演習(いわゆるゼミ。叙述という作業に注目して『書紀』を読み直します)、史学教養演習(プレゼミ。古代史研究の道具立てを学びます)、日本史概説I(縄文~古墳期における自然環境と心性との関係)、日本史特講(祟りと卜占の古代文化論)、W大で歴史・民俗系演習I(正史を相対化する視線として『藤氏家伝』を読みます)を担当します。恐らくこれらの幾つかで触れることになる、中沢新一〈カイエ・ソバージュ〉シリーズを、気合いを入れて再読し始めました。

 相手が動物であれ、人間であれ、その相手のことを「野蛮」であるときめつけたり、それに比べて自分たちはなんて「文明的」なんだろうとうっとりしたりする。こういう考えは、世界を構成しているものの間に、容易に崩れたりしない非対称的な関係がある、そしてその非対称関係を維持することは、人類の文明にとって「正義」である、という先入観がないと生まれてきません。
 こういう先入観は人間が国家を持たないかぎり発生しなかったように思われます。神話的思考はこういう先入観が発生しないための「哲学」として、大切な働きをしていました。
(中沢『熊から王へ』、12頁)

シリーズ名が指し示すとおり、この中沢氏の講義は、レヴィ=ストロースの名著『野生の思考』を下敷きにしています。氏はこの人類学者を敬愛しているようで、狂牛病や口蹄疫に罹った牛羊を大量処理する情景に〈野蛮〉を見出すくだりなど、明らかに「狂牛病の教訓―人類が抱える肉食という病理―」(『中央公論』116-4、2001年4月)を踏まえて書かれているもよう。かくいう私もレヴィ=ストロース大好き人間であり、同論文の「肉食とは究極的には共食いである」という提言を受けて、半ばベジタリアンになったほどでした(魚介はいただきます)。そして、やはり『野生の思考』をひとつのよりどころとしながら、「自然と人間のあいだで―〈実践〉概念による自然/文化対立図式の克服―」(『環境と心性の文化史』下/環境と心性の葛藤、2003年11月)を執筆、カオスを二項対立的に分節してゆく認識のあり方を批判し、両者を両者として成り立たせる本源的関係態の重要性を主張しました。これは中沢氏の論理と似ていて、前者が非対称的関係、後者が対称的関係に対応しそうです。しかし大きく異なるのは、中沢氏が対称的世界、神話的思考の息づく民族社会(あるいは古代社会)を理想化しているのに対し、私はそのなかにも破綻の種を認めているというところでしょうか。二項対立化は始原のカテゴライズであって、それを通じて両項は実体視され、ア・プリオリな価値を持つものと幻想されてゆく。中沢氏のいう「国家の成立以前」……縄文にも弥生にも、厳然とした環境破壊が行われていたように(この言葉・概念は、多分に近代的ですけどね)。
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自然/文化をめぐる雑感

2006-04-04 06:05:57 | 議論の豹韜
昨日の大風で、桜もずいぶん散ってきてしまいました。研究室からみえる真田堀の桜並木も、いつまで保つか分かりません。土曜には高校時代の生徒会の仲間と花見(於:根岸森林公園)を計画しているのですが、〈枝見〉にならないことを祈るばかりです(ま、それはそれで風情があるかも……)。
さて、下記は環境/文化研究会(仮)のメーリング・リストにも投稿した内容です。少々手直しして、こちらにも掲載しておくことにします。

2日(日)のテレビ朝日系『素敵な宇宙船地球号』で、イギリスの田園に生きるハリネズミの生活が紹介されていました。森林が後退し、国土のほとんどが耕地や牧草地になっているイギリスですが、そこは自然/文化の境界が交錯する領域で、野生動物の活動の場でもあります。例えば、農耕にとって害虫となるカタツムリなどを食べるハリネズミは、農家に重宝され、人間の作った生け垣などに巣を営み共存してきました。ところが近年の「絨毯爆撃」的な農薬散布、機械を使った生け垣の処理などで住処を追われ、市街地に逃げ込まざるをえなくなってしまったとのこと。一般家庭の庭園は、牧場の生け垣と類似の環境を提供してハリネズミを迎える一方、人間の生活との軋轢によって、些細な事故で命を奪われるものも増えてきている……といった内容でした。よく聞く話ではあるのですが、ちょうど棚田の問題をめぐり、高木さんと自然/文化の関係について意見交換をしているときだったので、ここからは自然、向こうは文化といった境界や、両者の二項対立的構図など、やはり概念的操作でしかないことにあらためて気づかされました。逆にいうと、野生動物の暮らす庭園をすべて〈自然〉と括ることもできるし、田園地帯全体を〈文化〉と把握することもできる。ちょっと話が逸れますが、ここには、歴史研究における物語り/実体の関係と類似の問題群が横たわっている気がしますね。
ちなみに日本では、1978年に行われた野生動物の分布調査と、最近の2003年に実施された同様の調査の結果を比較してみると、確認できる野生動物の数は大幅に回復しているとか。とくに、雪の多い中部~東北地方では、かなりの増加を示しているようです。このところ問題化している鹿、熊、猿などによる生活・農耕被害も、その関係で把握されています。「……その理由としては、暖冬で雪が少なくなったこと、過疎が究極の段階に到達し中山間と呼ばれる地域で人の活力が急速に後退したこと、そのことで農林業の放棄が広がり、かわりに生えてきた雑木林が野生動物の利用空間に変わりつつあること、さらには猟師の高齢化と減少が加速していることなどがあげられよう。これらはまさに、高度経済成長の推進とともに生み出された、日本の社会における構造的歪みがもたらしたものである」(羽澄俊裕「日本人と野生動物―予期される混乱について―」『東北学』5、2005-10、63頁)という分析それ自体は、自然/文化の関係を考えるうえで興味深いものです。しかし同時に、その分布調査なるものへの疑問も湧き起こります。鹿の個体数の把握など、夜間に森林をライトで照らし、反射する目の数を数えて確認するとか。それで正確な実態認識ができるのか、素人目には首を傾げざるをえません。統計データに盲目的に依存することなく、その方法論も踏まえて考える必要があるのではないかと思います。

上の写真は、研究室の窓からみえる四ッ谷の風景。中央が四ッ谷駅で、桜並木の一部がみえます。その向こうにそびえ立つのは防衛庁……。
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〈分かりやすさ〉至上主義との戦いは続く

2006-04-01 12:55:35 | 議論の豹韜
4月より、母校のJ大学で日本古代史を担当することになりました。いろいろ事情がありまして、未だやや不安定な立場なのですが、力を尽くして後輩の指導に当たりたいと考えております。関係の皆さま、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

ところで、知り合いの方々は先刻ご承知のことと思いますが、私の研究は難解で分かりにくいといわれております。「もう少しわかりやすく」……よく聞く言葉ですが、私はこうした言説と戦い続けて(傲慢にも無視して?)きました。確かに、意味や論理の通らない文章は論外です。恰好をつけて漢字ばかり多いのもげんなりします。しかし、難解であることの何が悪いというのでしょう。学問というのは、難解であるがゆえに、問い続け考え続ける価値があるのではないでしょうか。難しければ難しいほど、自分なりの解答を発見できたときの喜びは、何にも増して大きいのではないでしょうか。分かりやすさを求めるのであれば、学問などやめてしまった方がいいと思います。「『話を簡単にしたがる人間』は総じて複雑な問題を長時間考察するだけの忍耐力を欠いた方であり、私はそんな人間を相手にしているほど暇ではない。現実が入り組んでいる以上、それを記述する言葉がそれに準じて入り組むことは避けがたいのである」とは、内田樹さんの至言(「憲法がこのままで何か問題でも?」内田他『9条どうでしょう』毎日新聞社、2006年、22頁)。また、高等教育において学生に簡単な道のみ指し示すのは、彼らから考える喜びを奪い、現実世界を埋め尽くす困難な課題へ立ち向かう力を弱体化させてしまうことに繋がります。ただでさえ、学生の想像力や思考力が低下しているというのに、それにこれ以上拍車をかけてどうするというのでしょうか。追求すべきは、いかに分かりやすく伝えるかではなく、いかに学生に考えさせるかです。講義や文章の工夫も、すべてそのためにあるべきと考えます。

……などと立派なことを書きましたが、これはあくまで決意表明で、すべてが完璧に実践できるわけではありません。ただ、理想としては常に掲げておきたいものです。
学生の皆さん、難問から目を背けず、一緒にいろいろ考えてゆきましょう。楽しいですよ。
上の写真は、ようやく改修工事の終わった私の研究室。まだ何も入っていなくて殺風景ですが、自宅に置いていた研究環境を別の場所に移動するというのは、なかなかに大変。しばらくはこの状態が続きそうです。ま、ゼミなどを行ううえで最低限の書籍は、持ってきておかないといけないですね。
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