仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

国会大包囲

2012-07-31 13:10:32 | 生きる犬韜
29日(日)は、最近体調の悪いぼくには応える猛暑だったが、かねてから決めていたとおり、脱原発の集会・デモ・国会包囲行動へと足を運んだ。15:00過ぎに日比谷公園に到着すると、集会の行われる図書館前には、もはや多種多様な市民団体のノボリが立っている。全学連や革マル派など、一見して運動家と分かる御仁もいるが、70~80歳と思われるお年寄りから10歳前後の子供たちまで、まさにフツーの老若男女が、個人や2~3人の小集団で参加しているのを、非常に印象深く感じた。
山本太郎氏や落合恵子氏の熱のこもった演説のあと、大集団はデモ行進のため順々に車道へ。しかし、警察がその動きを規制しているので、なかなかスムーズに出てゆくことができない。16:00にデモがスタートしたのだが、ぼくは公園の門を出るまでに90分かかった。その間炎天下に立ちっぱなしだったので、脱落する人もちらほら。威勢のいい全共闘世代は警察に食ってかかっていたが、交通量も多い日比谷・新橋周辺だから、まあこれは仕方がないだろう。東電本社前や経済産業省(資源エネルギー庁)前を通りながらのシュプレヒコール。もともと人と同じことをするのが好きではないので、自分の納得できない呼びかけには応じず、口にするのはもっぱら「原発やめろ」「再稼働撤回」のみ(「フクシマは怒ってるぞ!」「被爆者(被曝者)は怒ってるぞ!」といった言葉には、代弁不可能性の問題から一切呼応せず)。しかし、イルコモンズの関係者なのかな、ぼくの紛れ込んでいた集団に11歳くらいの少年がいて、途中シュプレヒコールの音頭を取っていたのが、そのオリジナリティが微笑ましく可愛らしかった。「お魚食べたい」「お魚返せ」「野菜も食べたい」「野菜を返せ」「食べ物の恨みは恐ろしいぞ!」といった一連の流れや、「放射能がいっぱいになると、生き物は地球に住めなくなっちゃうんだぞ、知らないのかー!」「地球以外に、人間の住める場所を知っているなら、教えてみろー!」「国際宇宙ステーションは住めるかもしれないけど、小さすぎるんだぞー!」などなど、単発のシャウトもあった(最終的にはエスカレートして、「子供を殺すな」「人を殺すな」「植物殺すな」「動物殺すな」「いのちを殺すな」まで来たときは、うーん、君は何を食べて生きているのかな、と首を傾げてしまったのだけれど)。

さて、40分ほどかけて日比谷公園に戻ってきたあとは、三々五々に国会議事堂へ。国会包囲にはモモや次兄夫婦も参加することになっていたので、合流できるよう電話で連絡を取ったのだが、周辺にはすでに警察の規制が入っていて自由に動くことができない。モモたちは首相官邸前に足止めされているというのでそちらへ移動しようとしたが、結局、包囲の最前線である議事堂正門前へやって来てしまった(次兄は、道路の幅と参加者1人の占める面積などから、冷静に全参加者数を計算していたらしい)。横断歩道を含め車道はすべて封鎖されてしまっているので、群衆は狭い歩道に閉じ込められ、正門正面に「ふきだまって」身動きが取れない。暑苦しさや息苦しさのために周囲は騒然とし、シュプレヒコールを繰り返すうちに、車道を封鎖している警官との小競り合いも始まった。そして19:20~25頃、一部の若者が封鎖を破ったのを契機に、正門前の車道へ群衆が雪崩れ込み、まさに「大包囲」の様相を呈した。しかし、一様に明るい顔で脱原発を叫んでいるのは、ヘルメットにタオルで顔を隠した過激派の運動家ではない。ちょっと散歩に出てきたような身なりの一般市民だ。友達どうしの女子大生もいれば、カップル、親子連れや老夫婦もいる。これはなかなかに面白い。先頭の方には各市民団体ののぼりが挙がっていたが、なかには「津田塾大学学生自治会」というのもあり、けっこう勇ましかった。
デモ終了の予定時刻である20:00近くになって、後方から警官隊の介入が始まったので、そろそろ潮時かとお濠の方へ出てきたが、主催者の「終了」の声と同時に、比較的速やかに包囲は解かれたようだ。行儀のよいことである。反安保闘争や成田闘争を境に、行政による一般社会と「運動」との分断が進み、ここ数十年の間は、「デモをする人は特殊な人」といったイメージが政治的に構築されてしまっていた。何でも政府のいうとおり、唯々諾々と従う(あるいは無関心を貫く)市民の姿は、国際的にみても極めて歪といえる。今回の脱原発運動は、そうした情況を払拭するよい機会となるに違いない。気に入らないことには、はっきりと文句をいわなければならない。

しかし、日本のデモ行動が、未だ充分熟成されていないのも確かだ。まずマナーが悪い。フラストレーションのはけ口を警官への罵詈雑言に求めたり、集団の力を笠に着て自分を大きくみせようとする人、声を挙げる自分に酔っているアジテーターなども散見されて、気持ちが萎える。国家対市民という二項対立ができあがってしまっていて、今まで原発による電気を湯水のように使ってきた自分たちへの反省は微塵も感じられず、そういう意味では、ぼくのような人間には極めて居心地の悪いところもあった。革命論的歴史観には否定的なので、「紫陽花革命」というスローガンも好きじゃない。内閣や東電を敵と定めている限りは、その目的が果たされなかったとき、「何をしても変わらない」という無気力状態に逆戻りしてしまう恐れもある。内閣は倒れなくても、変化はすでに、確実に起きているのだ。デモが日常化し、そこで様々な境遇の人々が出会い、交流することで、新しい何かが開けてゆく、そうした社会の形の到来を切に願うばかりである。
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臨床歴史学

2012-07-29 00:19:26 | 議論の豹韜
ようやく春学期の授業がすべて終わり、夏期休暇まで数日となった。…といっても、会議やら書類作成やらいろいろあって、8月も下旬になるまで校務に忙殺されそうだ。それから毎年恒例の宗教史懇話会サマーセミナー、ゼミ旅行などをこなしているうちに、気がつけば秋の校務が始まっている…というパターンに陥るのは目にみえている。なんとか計画的に時間を作って、滞っている研究方面の作業を進展させなくてはならないが、健康上の問題など、今年は障害が多そうである。

それはともかく、一応は春学期の授業を振り返っておこうか。まずは、日本史特講「歴史学のアクチュアリティ」である。歴史学がさまざまな現代的問題に衝突し、他学問との論争を経験しながら変質してゆく様子を、ポストモダン的立場から、自分自身の「パラダイム構築史」として話していった。歴史修正主義、戦争責任問題、言語論的転回、他者表象の倫理など、理論的な話題がぎっしりだったので、学生たちはさぞかし辟易しただろう。しかし全講義の終了後、「いろいろと考えさせられるというか、揺るがされた授業でした。日常生活で反省することが多くなって、居心地が悪く感じることが多いような気がします。自分の想像できないようなことがたくさんあるということ、それをどうやって考えていくかというのが大切なのだと思いました。これからも、先生の授業を受けていた時のような状態にいられるように、いろいろ考えていきたいと思います」「この講義を受講して、興味深いお話を沢山聞かせていただき、本当に視野が広がった気がします。やはり色々な問題を考えることは非常に面白いです。多元的な世界において、色々なものの根底にあるのは倫理性のように思います。存在論より前に…。あと少しで大学も終わりますが、その後も、このような問題について考えていきたいと思います。僕はバカですので、一生勉強を続けていきたいです。先生にいただいたレジュメやその中の参考文献表は宝物になると思います。本当にありがとうございました」といったリアクションももらえたので、まあそれほどまずい授業でもなかったのだろう(あなた方のような学生さんに聴いていただけて、こちらも幸せです)。学生への語りかけ、質問への回答を通じて、自分が何を理解できていないか、現行の方法では何に立ち向かうことができないか、熟考を重ねることができた。

シラバスの段階では、理論編と実践編を1:2程度の割合で話してゆく予定だったのだが、やはり理論編の解説に時間がかかり、本当の実践編は最終回の1回分のみとなってしまった。そこで仕方なく、3回分のレジュメを1回分で講義できるようにシェイプアップし、「臨床歴史学の試み」というタイトルを冠して総括することとした。「臨床」という言葉は、べつに誰かのベッドの横で聞き取り作業に勤しむということではなく、現在性・現場性を重視するといった程度の意味合いである。ヒントになったのは、ピエール・ブルデューの晩年の著作『世界の悲惨(La Misère du monde)』である。様々な〈場〉の下方・境界に位置づけられた人々に対し、その悲惨=境遇や憤懣・苦痛がいかなる社会的要因に由来するのか、何度も何度も話し合って気づかせ、そこから解放され自由になる方途をともに考える試み。しかし、人間の思考様式や行動様式が過去からの積み重ねによって規制されているのなら、歴史学的知を駆使してそれらを脱構築し、例えば〈創られた伝統〉のような捏造的歴史認識の束縛から現代人を解放して、豊かで多元的なポジションの構築に寄与することができるのではないか。歴史学のベクトルとは、近代以降、現在から過去へ向かうものでしかなかったが、〈臨床歴史学〉は、過去から現在を批判する視野を持つ。それは、前近代的な歴史認識であるpractical pastの自己同一性を、他者=死者からの視線によって彫琢したものであり、歴史学的成果を社会に開き(監視の目に供する)回路でもある。
ぼくは昨年7月、友人の加藤幸治さんに依頼され、震災後間もない東北で「震災を乗り越えてきた人々」という連続講演会に携わることとなった。ぼく以外の後援者はすべて東北在住の研究者であったから、東京でろくな被害にも遭っていない自分が一体何を話せばいいのか、何を語りうるのか、当事者性の壁を前に非常に悩んだ。その結果として出した答えが、被災した人々に浴びせられた様々な批判的言説を、歴史学的観点から相対化してゆくことだった。まず、「災害に関する教訓が活かされていない」という声には、古代から現代に至る列島社会が意外にも流動性の高いものであったことを示し、地域に密着した細かい知識が重要な災害情報は、もともと長期には伝承されにくいものであったと論じた。「なぜ高台に住まず海岸を選ぶのか」という疑問に対しては、列島の半定住状態が水辺から始まったこと、我々の心性には、氷河期終了後から水辺への親近感がやはり東アジア的な規模で構築されていることを、中国の古典から道教経典、少数民族の伝承、日本の和歌から昔話に至る種々の資料を提示しながら明らかにした。また天譴論に関しては、日本文学協会の大会シンポジウム「文学のリアリティ」において発表する機会を得、東アジアの長い歴史のなかで紀元前より存在し、大規模災害時に王権の正当化や社会不安の抑制のため、一時的に流行する「社会の防衛機制」であると述べた。これらの考察がどの程度有効に機能しえたかは、正直確認する手段がない。しかし、「歴史学のアクチュアリティ」を考えてゆくうえで、格好の検討材料にはなっているのではないかと思う。
授業では、最後に、「津波のあと潟になってしまった海岸部の地形をそのままに残そう」「これは人間が自然の懐深くに入り込みすぎた結果である」と発言している赤坂憲雄氏の見解にも触れた。私見では、三陸付近の海岸部からは泥炭層が検出されているので、海水の入り込んだ潟以外にも、多く低湿地林が広がっていたのではないかと考えている。それを切り払い、最終的に水田化していったのは、「自然の懐深くに入り込みすぎた」というより、海進と海退の繰り返しによる環境変化に適応して生活を営んできた結果なのだろう。そして古代国家以降の政府や地域首長が、長期にわたり米を税の主体に据えてきたことが影を落としている。もともとは南方系の植物であるイネが、なぜこれほどまでに東北で作り続けられ、現代に至るのか。そのことの意味を、もう一度しっかりと考えねばならないだろう。

〈臨床歴史学〉というタームを得て、何とかこの講義も本にまとめられるかな、という気がしてきた。しかし、順々に仕事を片付けてゆくとして、こちらにたどり着けるのは一体いつになるだろう。それまで出版社が待ってくれるかどうかが問題である。
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愛の力

2012-07-20 03:58:12 | ※ モモ観察日記
夕食を食べ終わって一服していると、いまだ仕事の疲れがとれないのか、モモがふとつぶやいた。
モ「好きな人と10分間ハグすると、その日受けたストレスの3/4はなくなるらしいよ」
カ「へえ。しかし10分間というのは…暑いね」
モ「暑いねえ」
カ「でも、愛の力は偉大だ」
モ「偉大だよう」
カ「…しかし、好きだと思っている人が、気づかぬうちにそうではなくなっていて、10分間のハグがかえってストレスになることも…」
モ「難しいことは考えるな、がまんだ」
カ「いや、まだ我慢しなければならない状態ではない」
モ「そうか」
それなりの、愛の語らいの時間であった。
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夢ははばたく

2012-07-11 13:20:57 | ※ モモ観察日記
昨日寝床で、忙しさから夏休みへ向けての「希望」を呟いていると、モモがホームランをかっとばした。
か「『ダークナイト』行きたいな~」
も「どうぞ、行ってらっしゃい」
か「『グスコーブドリ』観たいな~」
も「どうぞ、って、なんだって?」
か「グスコーブドリ」
も「薬子 of dream?」
か「グスコーブドリだよ!」
も「ああ、宮澤賢治か。なんだか漢字が浮かんじゃったよ」
か「上皇サマと手に手を取って、平城還都ランデブーかよ!」
夏の夜は更けてゆく。
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死者をどう表象するか

2012-07-05 10:27:15 | 議論の豹韜
また、ずいぶん更新に間が空いてしまった。6月は、諸々の校務に振り回されているうちに過ぎ去っていったが、何といっても、印度学仏教学会大会のパネル報告「震災と仏教」が重荷となっていたように思う。いま、ようやくそれも終えたので、仕事は山積しているものの、かなり気分は楽になった。相変わらず肩凝りは酷いし、胃痛もあるのだが、「とりあえず粛々と目の前の作業をこなしてゆけばよい」ので、なんとなく心は軽い。

ところで、「震災と仏教」である。最初は果たして議論として噛み合うのか、生産的なシンポジウムになるのかどうか、非常に不安であった。師茂樹さんの肝煎りで4月末に打ち合わせをし、それからもメーリング・リストを通じて多少の意見交換をしたのだが、どこかで話のすれ違ってしまう印象が続いていたのである。しかし、シンポ当日になって、ようやくしっかりしたキャッチボールができるようになってきた。それは偏に、私が不勉強で他の報告者お2人(末木文美士さん、佐藤哲朗さん)の主張を理解できておらず、何とか当日に「間に合った」ということなのかも知れない。パネルの起ち上がった契機は、(私も前稿で批判をした)東日本大震災に対する末木さんの「天譴論」に、ネット上で師さんと佐藤さんが噛みつき、大論争を繰り広げたことにあった。よって全体の構成は、末木さんの持論に対し、佐藤さんが実践仏教の立場から、私が環境史・災害史の立場から批判を投げかけるという形となった(司会は師さん、コメンテーターが石井さん)。末木さんの報告は、「東日本大震災に対して仏教者として立ち向かう際、その理論的根拠はどこに置かれるのか(実践と信仰とは無関係なのか)?」という問いかけから始まり、「魔術性」を欠落した近代日本仏教への疑問から、親鸞や日蓮の著作を援用しつつ、政治性を伴わない天譴論もありうるのではないかと述べる内容だった。末木さんの大枠の論旨は理解できるものだが、やはり保苅実を引用した「脱魔術化」の理解、政治性と無関係の姿がありうるかのような天譴論の理解には問題がある気がした。佐藤さんの報告は、実践仏教の観点から「仏教的には天譴説は成り立たない」とし、大きく道を外れた日本仏教、その近代のあり方への極めてラディカルな批判。その力強い言葉に圧倒されつつ、自分の脆弱な信仰の態度を反省した(しかし同時に、自分がアイデンティファイしているのはやはり「日本仏教」なのだな、それが間違っているとしても…とあらためて確認した。例えば、あらゆる衆生が善行をなした結果人間に生まれてくるならば、生物多様性は成り立たない)。
私自身の報告は、末木さんの天譴論の基礎を構成している日本的自然観・天譴論認識・死者認識を、環境史・災害史の立場から問い直そうとしたもの。日本的自然観への批判では、イントロとして、桃太郎昔話の常套句「お爺さんは山へしば刈りに」が「薪取り」だと考えられている現実を採り上げた。前近代日本の一般的農村景観が刈敷(草肥)を得るための草原・柴草山だったことから、本来の「しば刈り」は刈敷用の柴草を刈る作業であったと推測されるものの、現代に至って里山が放棄され、今までになかった緑豊かな環境が出現するなかで次第に忘却、「薪取り」としてしか認識されえなくなった可能性を指摘した。また天譴論批判では、中国殷代にまで遡るメインストリームが常に王権の正当化を図る抑圧的なツールであった一方、人災論との折衷的様式、仏教や道教の唱える災害論などからその多様性を示し、逆に「あえて災害の背後に超越者を設定すること」の恣意性を指摘した。後者はこれまでの研究の要約だが、前者には新たな知見も加えてあるので、今度別の媒体に執筆しようと考えている。
しかし、今回の報告準備にあたり私にとって最も有益だったのは、末木さんの死者論と正面から向きあったことだった。末木さんは、渡辺哲夫や田辺元の著作を援用しながら、死者/生者のベクトルが重なり合った際に生じる「実存協同」について論じている。生前死者が示した行動、投げかけた言葉が、その死後も生者へ一種のベクトルとして作用し続ける。それを生者が、自らの実存に関わるより深い領域で受けとめたとき、これまでの自分は破壊され新たなステージへと再生されてゆく。この自己の破壊、解体、相対化があるかどうかが、死者の剽窃、自己同一化を生じさせない鍵となるのである。以前、鹿島徹さんの〈物語り論的歴史理解〉を踏まえて書いた「先達の物語を生きる」では、僧侶たちが、先達の修行内容を記した僧伝をテキストに自らの実践を構築してゆく様子を一般化しつつ、神秘体験を対象化することで解体/再生の可能性にも触れた。ただし、それをどう分節し表象するか、果たして言語化できのるかどうかが、今後の根本的課題となるだろう(古今東西、そのことに成功した事例は恐らくない)。物語り論的歴史理解を死者論の方向へ突き詰めてゆくと、自然に末木さんの死の哲学と重なってくるのである。
死者は究極のサバルタンであるが、だからといって、彼らの語る可能性を封殺してはならない。死者の声に耳を傾ける努力、死者を解放しうる可能性については、常に意を払っておかねばならないと思われる。末木さんの主張を勉強させていただくなかで、そのことにあらためて気づかされた。心より感謝申し上げる次第である。

なお最後になったが、師さん、佐藤さん、石井さんはじめ、今回のシンポに関わってくださったすべての皆さんに、あらためてお礼を申し上げる。ありがとうございました。
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