仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

いつものごとくに:師走を迎える

2007-11-30 03:18:36 | 生きる犬韜
いま22:52、さっきまで研究室で仕事をしていた。帰りの電車のなかでブログを書いているわけである。
木曜日は本来研究日で講義はなく、家にいていいわけだが、後期は千代田学が入っているのでだいたい出勤している。最近は土日に学会や入試が入ったりしていたので、休みの日がまったくないという週が続いた。いきおい徹夜も増え、昨日など睡眠不足がピークに達して、ホームで立ったまま寝そうになり、あやうく線路に落ちるところだった(そんな話を枕に1限の講義を始めたら、何人かの学生が、リアクションペーパーに「心配です」と書いてくれた。本当にありがたいものである)。そんなわけで、帰宅してからは仕事にならず、作ったばかりのコタツで冬眠してしまった。明け方ようやくPCに向かったが、集中力は途切れ途切れで、何ごとも完遂できないまま出勤。今日は先日新たに仰せつかった、オリエンテーションキャンプ運営委員の会議もあったので、千代田学の前にそれを片づけ、一緒に出ていたヘルパー長のKさんに、第1回の企画会議を招集するよう指示。3月までは卒論審査だ入試だ採点だと騒々しいが、ほかに12月には校正も含めて原稿3本、1月には書評1本、3月にはシンポの報告が1本、千代田学資料集の作成や上智史学会ホームページ構築作業の仕上げもあり、ここにオリキャンの準備が入るとすると何だか大変そうである。うー。

そんなストレスもあってか、月曜には、金曜の特講で筮竹がわりに使う竹ひごを調達しにハンズ新宿店へ行ったついでに、紀伊国屋でどかどかと小説を買い込んだ。読む暇があるのかどうかは怪しいところだが、本にはやはり、購入する快楽、所有する快楽というものがある。とくに、『ラナーク―四巻からなる伝記―』のような分厚い物語はその範疇に属するだろう。「ダンテ+カフカ+ジョイス+ブレイク+キャロル+α…奇才アラスター・グレイによる超弩級百科全書的ノヴェル」という帯の文句には、心揺さぶられるものがあるじゃないか。作者のグレイは、なんと装画も自分自身で描いているとか、才人なんだなあ。ちょうど火曜のプレゼミで絵巻の概説を行うべく、『伴大納言絵巻』を精査し常盤光長の闊達な描線にほれぼれしていたところだったので、久しぶりに絵が描きたくなったりもした。京極以上の厚さがあるので持ち歩くのには不便だが、なんとか読了したいものである。ほかに、皇なつきの『夢源氏剣祭文』第1集、雑誌『宮澤賢治』の最新号、『パンズ・ラビリンス』(まだ観られていない。来週こそは!)を特集した『cinefex』5号も購入した。

さて、明日は5限で学生に易を体験してもらった後、土居さん・佐藤さん・工藤さんらと「異界からのぞく歴史」の企画会議である。ぼくは、かつて紀尾井ホールの位置にあった某旧華族邸にまつわる怪異を扱いたいと思っているが、調べれば実名が分かってしまうのでちょっとやりにくいかも知れない。いくつか資料を持っていって、議論のなかでネタを練ってみよう。
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年末へ:あっという間に冬が来た

2007-11-24 01:03:19 | 生きる犬韜
しばらく更新が滞ってしまった。先週の土日で上智史学会の大会があったのと、それと並行して史学科編『歴史家の工房2』の最終〆切がやって来ていたからである。前者は無難に終わらせたが(ぼく独りでやっているわけではないし)、後者は相変わらずやっつけ仕事になってしまった。初校で何とかしよう……と、脱稿の際にはいつも思うのだけれど、初校が来るときにも恐らく時間はまるでないので、どうせほとんど直せないのである。悪循環にはまり込んでいる。それでもここ数日は、電車のなかで下の本などを斜め読みした。
浅野裕一・湯浅邦弘編『諸子百家〈再発見〉』の方は、『工房2』に投稿した拙文への、上海楚簡『周易』の基本的データの補足のため。やはり、戦国楚簡研究会の学的成果は凄まじい。浅野氏の「孔子は易を学んだか」にはちょっと感動。後藤昭雄『天台仏教と平安朝文人』は、浄土教成立と絡めて書き直さねばならない、樹木婚姻譚論文のための復習。勧学会に関しては、もう少しちゃんと勉強しておくべきだったな。

さて、まとまりはないけれども、あとはこの2週間のことをかいつまんで。
まず、告知もしておいた千代田学特別公開講座「現代に生きる江戸の芸能」。どのくらい集客があるか不安だったが、まずまずの入りだった。藤間先生の身体技法はやはりさすがで、階段教室の演台というおよそ日舞には似つかわしくない場所での演技であったが、気迫に圧倒されるようであった。いつもの受講生、今回限り参加の学生の評判も上々で、やはり来年度は複数回講義をしていただこうと改めて決意。問題は、専任教員が2割は講義を受け持たなければいけないこと。5回程度で、初回、ぼくが簡単に芸能史の流れを解説するか。もしくは、下手な声明を少しだけ披露してしまう、ということでもいいかも知れない(カトリック系大学で可能かどうかは分からないが)。

そうそう、方法論懇話会でずっと研鑽を積んできたメンバーに声をかけて、「異界からのぞく歴史―江戸の街角からアジアへ―」というミニ講座も開いてみることにした。過日「四谷会談」の街歩きを活かして、失われつつある江戸文化の怪異性にスポットを当て、宗教学・民俗学・歴史学の観点から考察してみようというもの。全5回で、最後は聴講生と一緒に四谷界隈を疑似フィールドワークしてみる予定である(疑似フィールドワークは、年末にゼミ生にもやってもらうことにした。こちらはレクリエーション的性格も加味している)。
方法論懇話会といえば、3年ごしに、とうとう『GYRATIVA』4号が完成した。一応の最終号なので、少々感慨深い。しかし最後までトラブル続きで、いつも印刷をお願いしている会社がここ数年のうちに下請けの印刷工場を変えてしまい、製版の精度が悪くなってしまっていた。早速注文をしなおし、性能のいいピンクマスターの可能な工場を探してもらって、再印刷。会費の返納処理もあるので、一般会員の皆さんのお手元に届くのは少々遅れます。特集は「記憶」、収録論文は、稲城正己「問題提起 構築/解体:記憶/忘却―構築主義と記憶論―」、土居浩「「記憶」の居場所」三浦宏文「記憶という知識―時間論からのアプローチ―」、内藤亮「造寺縁起研究の物語論的転回」、須田努「「人斬りの村から―19世紀、民衆運動における暴力の語りと集団記憶―」、師茂樹「記憶を書き出す―総括にかえて―」。まだ頒価は決まっていませんが、非会員でご希望の方は北條までご連絡を。

豊田地区センターの講義の方は、『蜻蛉日記』の夢記事の分析に入った。まずは同書の全体の構成を概説し、上巻の最後の方に載る貞観殿登子の〈夢違え〉について考えてみた。日記に収録された和歌の応答からだけでは、登子がみた不吉な夢とはどのようなものであったのか、また具体的にいかなる夢違えを行ったのかよく分からない。判明するのは物忌みを伴ったらしいことくらいだが、中村義雄氏の業績を再読しながら、陰陽道系の夢祭か仏教系の称名(水垢離をしつつ、「南無功徳須弥厳王如来」と21回称える)の可能性を指摘した。『口遊』や『拾芥抄』には他にも中国由来の呪文が幾つかみられ、鹿に関連するものなど、比較研究すれば面白そうな題材もあった。来年、講義でとりあげてみようか。
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〆切の応酬:「書いては出す」の辛さ

2007-11-11 03:13:26 | 生きる犬韜
書類や原稿の〆切が次々と襲ってくる。明後日月曜までに書かなければならない原稿があるのだが、いろいろ横槍が入ってきてどうも進まない。今週も1~2時間という睡眠時間が続いたので、土曜が集中力を欠く状態であったのも痛い。月曜の朝まで不眠不休でやったとして、何とか体裁が整えられれば(初校で直せばみられる状態になるくらいに)よいのだが。

〆切といえば、8~9月にかけて2週間で仕上げた原稿が、もう本になって刊行された。小嶋菜温子編『王朝物語と通過儀礼』(竹林舎)である。国文学者を中心に、隣接する建築史・美術史・歴史学などの研究者が集まり、王朝物語文学に現れる通過儀礼について網羅的に論じたもの。現在の研究水準を示し、それをさらに押し上げてゆく立派な本だ。しかし、2週間論文だけあって、ぼくの書いた部分はどうもいけない。斬新さとは遠くかけ離れているばかりか、とんでもない間違いがあるような気がして不安でならない。執筆者紹介の頁数で、専攻が「日本古代心性」と誤って表記されているのも嫌な予感をかきたてる(しかし、「心性史」というとフランスな感じなのに、「心性」と書くと神秘思想的にみえるのはどうしてだろう)。皆さん、粗探しをしてぼくに連絡をください。5日(月)には『上智史学』52号も校了、来週の火曜には納品の予定だし、方法論懇話会の『GYRATIVA』4号(最終号!)も、水曜か木曜には出来てくるだろう。これらにも誤りがないかどうか、胃が痛いところだ。

法蔵館からは、某論集の原稿の初校が届いている。こちらは原稿の回収状態があまりよくないらしく、刊行が来年3月から多少先へ延びたようだ。おかげで手直しの余裕ができ、編集者の方と交渉して、年内いっぱいという寛大なお約束をいただいた。しかし、樹霊婚姻譚の日本における初見について書いた論文を、日本古代における浄土教の成立と絡めて再構成しなくてはいけないので大変だ。他に2点、年内〆切の原稿があるが、どうも自転車操業で、一本一本深く考え尽くす余裕がない。これは研究者として極めて不健康な状態だが、それでも質の高い研究を発表し続けられるような精神的タフさを身に付けなければならないのだろう。

さて、左の写真は、野家啓一編『ヒトと人のあいだ』(岩波書店、2006年)。ずっと放っておいたのだが、最近行き帰りの電車のなかで読んだ。機械と動物の間で動揺するヒトのありようを、人文学と自然(還元)主義との相克のなかで追究し、ヒトを新たに〈ホモ・ナランス(物語るヒト)〉と定義する内容。ここ何年かの野家さんの物語り論の展開を、〈人間とはいかなる存在か〉という問いのもとに再構成したものだろう。話は分かるのだが、このあいだ『表象』を読んだときにも感じた、〈人文学の危機〉を背負い込んでしまう感覚に溢れていて違和感があった。大学に籍のある人文学者として無責任だ、と批判されるかも知れないが、「これはナショナリズムと同じなんじゃないか」という気がしてならない。

最後に、サブカル的な話題を。秋に始まったドラマとしては、CX『ガリレオ』『SP』、TBS『歌姫』、NHK『風の果て』を観ている。『ガリレオ』は、ドラマ的な新鮮さ・面白みには欠けるが、カリカチュアライズされた理系大学人のイメージが興味深い(量子力学以降の先進的物理学者という設定なのに因果律に縛られていたり、突っ込みどころ満載である)。『SP』『歌姫』はエンターテイメントとして成功しているが、後者が「旬を過ぎたと考えられている」女優や無名だが実力ある俳優を絶妙に配しているのに対し、前者は役者の力量を未だ活かしきれていない印象がある(これからに期待)。NHKの木曜時代劇は、一回ごとに秀作と駄作が繰り返されるイメージがあるが、夏から秋にかけては丁寧ないい作品が続いた。前作の『陽炎の辻』も、登場人物の細やかな心情をしっとりと描いていて心地が良かったが(主人公は涙が出るくらいに、いやちょっと嫌味なくらいにいい人なのだが、それを山本耕史が説得力ある演技でナイーヴに表現していた。彼はこのドラマでものすごく力量が上がったと思う。『新撰組!』のときに比べ数段の進化を遂げている)、『風の果て』にはそれに骨太さが加わっている。取り返しのつかない過去の積み重ねを振り返る、ある種の自負と寂寞とした心情が混じり合い、懐かしさだけではない郷愁をかきたてられる。主題歌も作品の雰囲気に合っていて良い。
アニメーションでは、この間書いたもののほか、MX『ジャイアント・ロボ』が良い。いわずと知れた横山光輝の古典的ロボット漫画が原作で、ぼくら以上の世代なら往年の特撮ドラマを、ぼくら以降の世代なら今川泰宏のOVAを思い浮かべるだろう。いずれも名作だったが、今度のテレビアニメもいい出来である。構図は実相寺昭雄、あるいは平成ガメラ以降といった印象の、重量感あるあおりが多い(ロボの足下に折れた電信柱のあるカットなど、非常に樋口真嗣的)。
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上智大学コミュニティ・カレッジ「千代田学入門」特別公開講義について

2007-11-05 05:15:31 | ※ 告知/参加予定
コーディネーターを務めている上智大学コミュニティ・カレッジ「千代田学入門」において、下記のとおり特別公開講義が行われる。当日は、上智の学生・教職員は無料で自由に聴講できることになっているので、ここでも告知をしておきたい。なお、他学の方も、ぼくの責任の範囲内でなら参加可能である。ご希望の方は北條までご連絡を。

【日時】 11月15日(木)18:45?20:15
【会場】 四谷キャンパス3号館5階 3-521教室
【講演】 藤間紋先生(日舞藤間流師範)
     「現代に生きる江戸の芸能―踊りと三味線の実演をまじえて―」

講師の藤間先生は、本学史学科の卒業生である。今年の春先、川村先生の紹介でお会いして、今回の講座を開催できることとなった。前もっていただいたレジュメ草稿によると(あくまでも予定であり、当日予告なく変更される場合もあります。ご注意ください)、当日は、「三味線音楽」と「日本舞踊」の二部構成で行われるようである。前者では、楽器としての三味線、芸能長唄の平易な解説から、江戸の名所を歌った「吾妻八景」の実演がある。後者では、千代田区に関わりの深い常磐津「将門」・清元「神田祭」・義太夫「櫓のお七」など、舞踊のある芸能をビデオにより解説、実演は長唄「娘道成寺」という。「将門」「神田祭」のラインナップは、ぼくが春学期の「千代田学入門」で将門と神田明神を扱ったため、わざわざ選んでくださった題材である。近世芸能に関心のある人間はもちろんだが、古代~中世の歴史群像が近世的物語世界のなかでどのように変容してゆくかなど、それ以前の時代を専攻する人間にとっても興味深い内容となっている。とくに、今期の特講では鎌足イメージの通史的変質を扱っているので、特講を受講している学生にはぜひ参加してもらいたい。
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PS3解禁:異世界に遊ぶ

2007-11-02 17:49:23 | ディスクの武韜
10/31(水)~11/3(土)は、上智大学でソフィア祭が開催される。とうぜん授業は休講なわけで、10月の8コマ講義で疲弊した精神を和らげ、かつ溜まった原稿(いつも溜まっているのだが)を処理する絶好の機会なのである。しかし、今年は出足から躓き気味。10/31は大妻の講義へ出講しなけらばならず、11/1も『上智史学』の校了作業のために出勤しなくてはならない。大学と自宅が近ければまったく苦にならないが、バス・電車を乗り継ぎ2時間弱かけて来る人間にとって、これは大きな時間のロスである。そこで、どうせ東京に出るのならと、ずっと期待していた映画『パンズ・ラビリンス』を観るべく、有楽町駅前の再開発でオープンしたシネカノン有楽町二丁目へ足を運んだ。ところが、上映開始4週目ながらやはり評判が良いせいか、入れ替え制のチケットが早々に売り切れてしまっておりやむなく断念。翌日も同じようなことが続いたので、もう今週は縁がなかったとさすがに諦め、何か自宅で気晴らしでもしようと帰途に就いた。

さて、家に着くとamazonからDD60CSSが届いていた。わずか1万円だが、しっかりした5.1chのスピーカーシステムである。8月に購入したままずっと封印していた、PlayStation3に繋ぐべく注文しておいたのだ。ここ数日の鬱憤を晴らすべく、さっそく箱を空けてセッティング。机の周辺に即席ホームシアターを構築した。さて何を動かしてみようかな、とは一切考えず、コーエーの『ブレイド・ストーム』をセット。イギリスとフランスの百年戦争を描いたタクティカル・アクションで、実はこれと『真・三国無双5』が出ると聞きPS3の購入を決心したのである。ぼくはゲーマーではないので、いわゆるゲームのゲームらしいところに惹かれるわけではない。PS2以降のゲーム機がみせてくれるような異世界、その空間のなかで自由に遊ぶことのできる感覚を楽しみたいのである。また、歴史学者の端くれではあるので、洋の東西を問わず、歴史を題材にした作品にはついつい食指が動いてしまう。もう10年ほど前になるが、初めて『真・三国無双』を観たときには驚愕したものだ。『三国志』の英雄になりきって兵士のひしめく戦場を駆けめぐる臨場感に、ゲームというものの新たな可能性を垣間見た。その数年前に、小松和彦監修の『コスモロジー・オブ・京都』というPCソフトがあった。平安京を逍遥して数々の歴史的事件(というより物語的事件)を経験できる優れモノだったのだが、今こそあれを3Dで作ってほしい!と真剣に考えた。その後、王朝的空気にホラー性を加味した『九怨』というソフトが発売されたが、教育的観点からするといまひとつだった。PS3が商業的に苦戦を強いられ、DSやGAMEBOY、携帯電話の提供する単純なゲーム(DSの場合は教育ソフト等の力が大きいが)に再び人気が集まっているのは、上記のような世界観のゲーム的需要、ヴァーチャル・リアリティ的なゲームの進化に限界がみえてきたということかも知れない。しかしぼくとしては、PS3の性能をフルに使って、もっとリアルな異世界や過去の歴史的世界を再現し、仮想体験できるようなソフトを作っていってほしいと思う。

ちなみに、『ブレイド・ストーム』や『無双』シリーズは、戦争を扱っている関係上、極めてジェノサイドな作品である。僧侶としてこんなものやってていいのかな、とふと考えることもある(かつて仏教は、夢のなかの殺人は業としては微弱で、悪報を生じるのは足らないと考えた。ならばゲームのなかでの殺人はどうなのか。現代仏教が真剣に考えなくてはいけない問題かも知れない)。『ICO』や『ワンダと巨像』、『大神』のような、戦争をモチーフとしないゲームも考案してほしい。
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